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    <title>春の夜の夢</title>
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    <description>遠い昔、多くの英雄たちがこの地上を駆け抜け、そして消えていった。まるで春の夜の夢のように。</description>
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    <itunes:keywords>城,城郭,歴史,中世,太平記,戦国,南北朝</itunes:keywords>
    
    <itunes:author>アテンザ23Z</itunes:author>
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      <title>広島城（広島県広島市）</title>
      <pubDate>Thu, 28 May 2026 02:00:00 +0900</pubDate>
            <description>←実質的な馬出しである二ノ丸　広島城は、豊臣大名毛利輝元が新造した近世城郭である。西国の雄毛利氏は安芸郡山城を居城としていたが、豊臣秀吉の聚楽第や大坂城を見物した輝元は、城下町と一体化して政治・経済の中心として機能する城の必要性を痛感し、瀬戸内海に面する太田川河口の三角州に新城を建設した。叔父の穂田元清・側近の二宮就辰を普請奉行として1589年4月15日に鍬入れ式を行い、翌90年末には一応の完成を見て91年に輝元は入城を果たした。しかしその後も城の整備は続けられた。また秀吉の..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7998.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCN7998.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7998-thumbnail2.JPG" width="320" height="240"></a>←実質的な馬出しである二ノ丸
　広島城は、豊臣大名毛利輝元が新造した近世城郭である。西国の雄毛利氏は安芸郡山城を居城としていたが、豊臣秀吉の聚楽第や大坂城を見物した輝元は、城下町と一体化して政治・経済の中心として機能する城の必要性を痛感し、瀬戸内海に面する太田川河口の三角州に新城を建設した。叔父の穂田元清・側近の二宮就辰を普請奉行として1589年4月15日に鍬入れ式を行い、翌90年末には一応の完成を見て91年に輝元は入城を果たした。しかしその後も城の整備は続けられた。また秀吉の朝鮮戦役においては、広島城下は兵員・物資の中継地として重要な役割を果たした。1600年、関ヶ原合戦で徳川家康率いる東軍に敗北した西軍主将の輝元は、大減封されて萩に追われ、代わって福島正則が芸備2ヶ国40万石の領主として広島城に入った。正則は外堀や外郭を整備して広島城を完成させ、更に城下町の拡充を図った。1516年、豊臣恩顧の外様の雄藩であった正則は、1619年に城の石垣の無断修理を理由に改易され、代わって紀州藩主浅野長晟が42万国に加増されて芸備の大名として入城した。以後、幕末まで浅野家の歴代の居城として続いた。

　広島城は、前述の通り河口のデルタ地帯の中洲に築かれた平城である。今年の3月をもって老朽化と耐震性の問題で天守が閉鎖されるというので、その前に訪城した。中心に長方形の本丸を置き、その南に実質的な馬出しである二ノ丸、そして本丸の北以外の三方を囲むように三ノ丸が置かれ、更に南に大手郭が、東・北・西に外郭が配置された広大な城であった。しかし現在残っているのは本丸・二ノ丸だけで、それ以外は市街化で遺構は残っていない。三重の水堀も、内堀以外は姿を消している。また広島に原爆が投下された際、残っていた天守などの建築物は吹き飛んだか、消失して灰燼に帰しており、現在の天守や二ノ丸の櫓などは全て復元されたものである。ただ、本丸と二ノ丸の石垣は往時のまま残っていて、中心部は総石垣の城であった。本丸内は2段の平場に分かれていて、上段平場の周囲にも石垣が築かれている。この内、上段平場の北側の石垣は途中で石垣が途切れているが、これは福島正則が幕府から無断修築を咎められてその部分の石垣の取り壊しを命じられた際に、指示されたのとは別の場所の石垣を壊した跡なのだとされる。本丸・二ノ丸以外については、街中の各所に標柱や解説板が立っているが、すべての門跡が明示されているわけではなく、一部に留まっている。以上が広島城の遺構で、他の近世城郭のように中堀・外堀が水路として部分的にでも残っていれば、より城の壮大さがわかりやすかったのにと惜しまれる。
正則が石垣を壊した跡→<a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN8082.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCN8082.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN8082-thumbnail2.JPG" width="320" height="240"></a>
　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆
　場所：https://maps.gsi.go.jp/#16/34.401620/132.459603/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4873028523?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51ewYevj6lL._SL160_.jpg" alt="&#x8429;&#x85E9;&#x95A5;&#x95B2;&#x9332;&#x306E;&#x4E16;&#x754C;-&#x6226;&#x56FD;&#x671F;&#x6BDB;&#x5229;&#x6C0F;&#x306E;&#x5B9F;&#x50CF;- - &#x5E03;&#x5F15; &#x654F;&#x96C4;"></a><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4873028523?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">萩藩閥閲録の世界-戦国期毛利氏の実像- - 布引 敏雄</a><a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7998.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCN7998.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7998-thumbnail2.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7998-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a>←実質的な馬出しである二ノ丸<br />　広島城は、豊臣大名毛利輝元が新造した近世城郭である。西国の雄毛利氏は安芸郡山城を居城としていたが、豊臣秀吉の聚楽第や大坂城を見物した輝元は、城下町と一体化して政治・経済の中心として機能する城の必要性を痛感し、瀬戸内海に面する太田川河口の三角州に新城を建設した。叔父の穂田元清・側近の二宮就辰を普請奉行として1589年4月15日に鍬入れ式を行い、翌90年末には一応の完成を見て91年に輝元は入城を果たした。しかしその後も城の整備は続けられた。また秀吉の朝鮮戦役においては、広島城下は兵員・物資の中継地として重要な役割を果たした。1600年、関ヶ原合戦で徳川家康率いる東軍に敗北した西軍主将の輝元は、大減封されて萩に追われ、代わって福島正則が芸備2ヶ国40万石の領主として広島城に入った。正則は外堀や外郭を整備して広島城を完成させ、更に城下町の拡充を図った。1516年、豊臣恩顧の外様の雄藩であった正則は、1619年に城の石垣の無断修理を理由に改易され、代わって紀州藩主浅野長晟が42万国に加増されて芸備の大名として入城した。以後、幕末まで浅野家の歴代の居城として続いた。<br /><br />　広島城は、前述の通り河口のデルタ地帯の中洲に築かれた平城である。今年の3月をもって老朽化と耐震性の問題で天守が閉鎖されるというので、その前に訪城した。中心に長方形の本丸を置き、その南に実質的な馬出しである二ノ丸、そして本丸の北以外の三方を囲むように三ノ丸が置かれ、更に南に大手郭が、東・北・西に外郭が配置された広大な城であった。しかし現在残っているのは本丸・二ノ丸だけで、それ以外は市街化で遺構は残っていない。三重の水堀も、内堀以外は姿を消している。また広島に原爆が投下された際、残っていた天守などの建築物は吹き飛んだか、消失して灰燼に帰しており、現在の天守や二ノ丸の櫓などは全て復元されたものである。ただ、本丸と二ノ丸の石垣は往時のまま残っていて、中心部は総石垣の城であった。本丸内は2段の平場に分かれていて、上段平場の周囲にも石垣が築かれている。この内、上段平場の北側の石垣は途中で石垣が途切れているが、これは福島正則が幕府から無断修築を咎められてその部分の石垣の取り壊しを命じられた際に、指示されたのとは別の場所の石垣を壊した跡なのだとされる。本丸・二ノ丸以外については、街中の各所に標柱や解説板が立っているが、すべての門跡が明示されているわけではなく、一部に留まっている。以上が広島城の遺構で、他の近世城郭のように中堀・外堀が水路として部分的にでも残っていれば、より城の壮大さがわかりやすかったのにと惜しまれる。<br /><div style="text-align:right;">正則が石垣を壊した跡→<a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN8082.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCN8082.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN8082-thumbnail2.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN8082-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><br />　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆<br />　場所：<a href="https://maps.gsi.go.jp/#16/34.401620/132.459603/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1" target="_blank">https://maps.gsi.go.jp/#16/34.401620/132.459603/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1</a><br /><br /><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4873028523?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51ewYevj6lL._SL160_.jpg" alt="萩藩閥閲録の世界-戦国期毛利氏の実像- - 布引 敏雄"></a><br><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4873028523?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">萩藩閥閲録の世界-戦国期毛利氏の実像- - 布引 敏雄</a><a name="more"></a>

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            <category>古城めぐり（広島）</category>
      <author>アテンザ23Z</author>
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      <link>https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-26.html</link>
      <title>窪寺城（長野県長野市）</title>
      <pubDate>Tue, 26 May 2026 02:00:00 +0900</pubDate>
            <description>←城域を2分する堀切　窪寺城は、この地を支配した土豪窪寺氏の詰城である。1400年に新守護小笠原長秀に信濃国人衆が反抗して生起した大塔合戦の時、大文字一揆が集まって相談したのがこの城であったと伝えられる。後に小田切氏に属したが、甲越両軍が川中島の領有を巡って争った際に、武田軍に攻められて落城したと言う。 　窪寺城は、富士ノ塔山の南東に伸びた尾根先端部の高台を利用して築かれている。背後に当たる北西の丘陵とは自然地形に手を加えた大空堀で分断されており、先端の高台に南西から北東に向..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN7907.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7907.JPG" width="320" height="240">←城域を2分する堀切
　窪寺城は、この地を支配した土豪窪寺氏の詰城である。1400年に新守護小笠原長秀に信濃国人衆が反抗して生起した大塔合戦の時、大文字一揆が集まって相談したのがこの城であったと伝えられる。後に小田切氏に属したが、甲越両軍が川中島の領有を巡って争った際に、武田軍に攻められて落城したと言う。 

　窪寺城は、富士ノ塔山の南東に伸びた尾根先端部の高台を利用して築かれている。背後に当たる北西の丘陵とは自然地形に手を加えた大空堀で分断されており、先端の高台に南西から北東に向かって曲輪群を展開した縄張りとなっている。主郭は南西の最高所にあり、長方形に近い形状の曲輪で、前後に前郭・後郭を伴っている。主郭とこれら前後の曲輪は、一応切岸と思しき斜面で区画されているが、緩い斜面になっていて、あまりしっかりした構築ではない。前郭の前面には堀切が穿たれ、城域を大きく2つに分断している。堀切の北にあるのが二ノ郭で、上下の平場に分かれているが、平場自体も傾斜しているし、間を区画する斜面も緩やかで明確な段差にはなっておらず、普請が不徹底な印象である。この他、二ノ郭の前面に3段、主郭後郭の後方に2段の腰曲輪が築かれている。窪寺城は、遺構はよく残っているが、全体的に普請が荒く、戦国期にはあまり積極的な活用はされていなかったように見受けられる。
背後の丘陵と分断する空堀→<img border="0" alt="DSCN7918.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7918.JPG" width="320" height="240">↓MPI赤色立体図で見た窪寺城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕） 
<a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1920203929.png.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x30B9;&#x30AF;&#x30EA;&#x30FC;&#x30F3;&#x30B7;&#x30E7;&#x30C3;&#x30C8; 2026-05-19 203929.png.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1920203929.png-thumbnail2.jpg" width="640" height="427"></a>

　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆
　場所：https://maps.gsi.go.jp/#16/36.637346/138.164826/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4642059881?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/517eCRjLh8L._SL160_.jpg" alt="&#x691C;&#x8A3C; &#x5DDD;&#x4E2D;&#x5CF6;&#x306E;&#x6226;&#x3044; (588) (&#x6B74;&#x53F2;&#x6587;&#x5316;&#x30E9;&#x30A4;&#x30D6;&#x30E9;&#x30EA;&#x30FC; 588) - &#x6751;&#x77F3; &#x6B63;&#x884C;"></a><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4642059881?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">検証 川中島の戦い (588) (歴史文化ライブラリー 588) - 村石 正行</a><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN7907.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7907.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7907.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />←城域を2分する堀切<br />　窪寺城は、この地を支配した土豪窪寺氏の詰城である。1400年に新守護小笠原長秀に信濃国人衆が反抗して生起した大塔合戦の時、大文字一揆が集まって相談したのがこの城であったと伝えられる。後に小田切氏に属したが、甲越両軍が川中島の領有を巡って争った際に、武田軍に攻められて落城したと言う。 <br /><br />　窪寺城は、富士ノ塔山の南東に伸びた尾根先端部の高台を利用して築かれている。背後に当たる北西の丘陵とは自然地形に手を加えた大空堀で分断されており、先端の高台に南西から北東に向かって曲輪群を展開した縄張りとなっている。主郭は南西の最高所にあり、長方形に近い形状の曲輪で、前後に前郭・後郭を伴っている。主郭とこれら前後の曲輪は、一応切岸と思しき斜面で区画されているが、緩い斜面になっていて、あまりしっかりした構築ではない。前郭の前面には堀切が穿たれ、城域を大きく2つに分断している。堀切の北にあるのが二ノ郭で、上下の平場に分かれているが、平場自体も傾斜しているし、間を区画する斜面も緩やかで明確な段差にはなっておらず、普請が不徹底な印象である。この他、二ノ郭の前面に3段、主郭後郭の後方に2段の腰曲輪が築かれている。窪寺城は、遺構はよく残っているが、全体的に普請が荒く、戦国期にはあまり積極的な活用はされていなかったように見受けられる。<br /><div style="text-align:right;">背後の丘陵と分断する空堀→<img border="0" alt="DSCN7918.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7918.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7918.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></div>↓MPI赤色立体図で見た窪寺城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕） <br /><a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1920203929.png.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="スクリーンショット 2026-05-19 203929.png.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1920203929.png-thumbnail2.jpg" width="640" height="427" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1920203929.png-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br />　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆<br />　場所：<a href="https://maps.gsi.go.jp/#16/36.637346/138.164826/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1" target="_blank">https://maps.gsi.go.jp/#16/36.637346/138.164826/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1</a><br /><br /><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4642059881?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/517eCRjLh8L._SL160_.jpg" alt="検証 川中島の戦い (588) (歴史文化ライブラリー 588) - 村石 正行"></a><br><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4642059881?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">検証 川中島の戦い (588) (歴史文化ライブラリー 588) - 村石 正行</a><a name="more"></a>

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            <category>古城めぐり（長野）</category>
      <author>アテンザ23Z</author>
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      <link>https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-24.html</link>
      <title>吉窪城（長野県長野市）</title>
      <pubDate>Sun, 24 May 2026 02:00:00 +0900</pubDate>
            <description>←主郭～二ノ郭間の仕切り土塁　吉窪城は、この地の豪族小田切氏の城と推測されている。現地解説板によれば、小田切氏は元々佐久郡臼田小田切郷を本拠としていたが、鎌倉時代に小市の地頭となって移住し、小市今里等に居館を構え、背後に詰城の小市城を築いたと伝えられる。小市城とは、この吉窪城のこととする説がある。戦国時代には、小田切駿河守幸長は当初東信の雄村上義清に属し、甲斐武田氏の侵攻を受けると、村上氏と共に越後上杉方に加わった。1557年3月15日、武田信玄が葛山城を攻撃した際、幸長は春..</description>
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<img border="0" alt="DSCN7755.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7755.JPG" width="320" height="240">←主郭～二ノ郭間の仕切り土塁
　吉窪城は、この地の豪族小田切氏の城と推測されている。現地解説板によれば、小田切氏は元々佐久郡臼田小田切郷を本拠としていたが、鎌倉時代に小市の地頭となって移住し、小市今里等に居館を構え、背後に詰城の小市城を築いたと伝えられる。小市城とは、この吉窪城のこととする説がある。戦国時代には、小田切駿河守幸長は当初東信の雄村上義清に属し、甲斐武田氏の侵攻を受けると、村上氏と共に越後上杉方に加わった。1557年3月15日、武田信玄が葛山城を攻撃した際、幸長は春日・朝日・長嶺・久保寺・平林・布施・横山等組下七騎衆を率いて城を守ったが、武田方の火攻めによって上杉軍の援軍到着寸前に落城し、幸長は討死した。数度の川中島合戦の結果、川中島地域は武田氏の制圧するところとなり、幸長の子民部少輔は一時武田氏に仕えて400貫の知行を受けた。しかし後に衰微し流転を重ね、末裔は高井郡に移ったと言う。

　吉窪城は、犀川北岸にそびえる標高620mの山上に築かれている。犀川が川中島平へ抜ける喉元を扼する要衝で、しかも川中島平を一望できる場所にある。山頂に紡錘形をした曲輪があり、郭内西寄りに曲輪を東西に仕切る一直線の長い土塁が築かれている。土塁の東が主郭と思われるが、郭内にいくつかの段差があり、しかも傾斜している平場もあって遺構なのか後世の改変なのか、よくわからない。また土塁西側の平場が二ノ郭と思われるが、石積みを伴った窪地が散在し、これもどういう構造であったのか判断が難しい。虎口を形成していたと思われる石積みも見られるが、そこから郭内に入った窪地の形状が虎口のようには見えないので、これも後世の改変の可能性がある。『信濃の山城と館』ではこれらを「竪穴式の小屋の遺構」としているが、採石場跡とか炭焼きの跡とか、城郭関連でない感じがする。二ノ郭の北西部は大きな段差で一段低くなっているが、ここにも郭内に段があり、北辺に空堀らしい地形も見られる。主郭・二ノ郭の外周には土塁が数ヶ所築かれ、特に主郭の北側から東面にかけては土塁が明瞭である。この他、主郭の南北に腰曲輪が築かれているが、北側の腰曲輪に対しては、主郭塁線が数ヶ所折れて横矢を掛けており、その内の1ヶ所は虎口を形成している。北の腰曲輪の北東部から2本の竪堀が落ちており、城に接近しやすいこの方面に防御構造が集中している。一方、南の腰曲輪の南端部にはL字型の土塁が築かれ、この部分だけ腰曲輪が空堀状を呈している。城の東西にも小型の段曲輪が築かれている。以上が吉窪城の遺構で、城の縄張りがはっきりしている所と不明瞭な所が混在している感じで、掴みどころのない城という印象を受けた。
南腰曲輪のL字型土塁→<img border="0" alt="DSCN7821.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7821.JPG" width="320" height="240">↓MPI赤色立体図で見た吉窪城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕） 
<a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1820214546.png.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x30B9;&#x30AF;&#x30EA;&#x30FC;&#x30F3;&#x30B7;&#x30E7;&#x30C3;&#x30C8; 2026-05-18 214546.png.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1820214546.png-thumbnail2.jpg" width="640" height="427"></a>

　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆
　場所：https://maps.gsi.go.jp/#16/36.625327/138.122791/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864032149?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/613f67O1ZEL._SL160_.jpg" alt="&#x5BAE;&#x5742;&#x6B66;&#x7537;&#x3068;&#x6B69;&#x304F; &#x6226;&#x56FD;&#x4FE1;&#x6FC3;&#x306E;&#x57CE;&#x90ED; (&#x56F3;&#x8AAC; &#x65E5;&#x672C;&#x306E;&#x57CE;&#x90ED;&#x30B7;&#x30EA;&#x30FC;&#x30BA;3) - &#x5BAE;&#x5742;&#x6B66;&#x7537;"></a><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864032149?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3) - 宮坂武男</a><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN7755.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7755.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7755.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />←主郭～二ノ郭間の仕切り土塁<br />　吉窪城は、この地の豪族小田切氏の城と推測されている。現地解説板によれば、小田切氏は元々佐久郡臼田小田切郷を本拠としていたが、鎌倉時代に小市の地頭となって移住し、小市今里等に居館を構え、背後に詰城の小市城を築いたと伝えられる。小市城とは、この吉窪城のこととする説がある。戦国時代には、小田切駿河守幸長は当初東信の雄村上義清に属し、甲斐武田氏の侵攻を受けると、村上氏と共に越後上杉方に加わった。1557年3月15日、武田信玄が葛山城を攻撃した際、幸長は春日・朝日・長嶺・久保寺・平林・布施・横山等組下七騎衆を率いて城を守ったが、武田方の火攻めによって上杉軍の援軍到着寸前に落城し、幸長は討死した。数度の川中島合戦の結果、川中島地域は武田氏の制圧するところとなり、幸長の子民部少輔は一時武田氏に仕えて400貫の知行を受けた。しかし後に衰微し流転を重ね、末裔は高井郡に移ったと言う。<br /><br />　吉窪城は、犀川北岸にそびえる標高620mの山上に築かれている。犀川が川中島平へ抜ける喉元を扼する要衝で、しかも川中島平を一望できる場所にある。山頂に紡錘形をした曲輪があり、郭内西寄りに曲輪を東西に仕切る一直線の長い土塁が築かれている。土塁の東が主郭と思われるが、郭内にいくつかの段差があり、しかも傾斜している平場もあって遺構なのか後世の改変なのか、よくわからない。また土塁西側の平場が二ノ郭と思われるが、石積みを伴った窪地が散在し、これもどういう構造であったのか判断が難しい。虎口を形成していたと思われる石積みも見られるが、そこから郭内に入った窪地の形状が虎口のようには見えないので、これも後世の改変の可能性がある。『信濃の山城と館』ではこれらを「竪穴式の小屋の遺構」としているが、採石場跡とか炭焼きの跡とか、城郭関連でない感じがする。二ノ郭の北西部は大きな段差で一段低くなっているが、ここにも郭内に段があり、北辺に空堀らしい地形も見られる。主郭・二ノ郭の外周には土塁が数ヶ所築かれ、特に主郭の北側から東面にかけては土塁が明瞭である。この他、主郭の南北に腰曲輪が築かれているが、北側の腰曲輪に対しては、主郭塁線が数ヶ所折れて横矢を掛けており、その内の1ヶ所は虎口を形成している。北の腰曲輪の北東部から2本の竪堀が落ちており、城に接近しやすいこの方面に防御構造が集中している。一方、南の腰曲輪の南端部にはL字型の土塁が築かれ、この部分だけ腰曲輪が空堀状を呈している。城の東西にも小型の段曲輪が築かれている。以上が吉窪城の遺構で、城の縄張りがはっきりしている所と不明瞭な所が混在している感じで、掴みどころのない城という印象を受けた。<br /><div style="text-align:right;">南腰曲輪のL字型土塁→<img border="0" alt="DSCN7821.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7821.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7821.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></div>↓MPI赤色立体図で見た吉窪城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕） <br /><a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1820214546.png.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="スクリーンショット 2026-05-18 214546.png.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1820214546.png-thumbnail2.jpg" width="640" height="427" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1820214546.png-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br />　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆<br />　場所：<a href="https://maps.gsi.go.jp/#16/36.625327/138.122791/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1" target="_blank">https://maps.gsi.go.jp/#16/36.625327/138.122791/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1</a><br /><br /><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864032149?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/613f67O1ZEL._SL160_.jpg" alt="宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3) - 宮坂武男"></a><br><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864032149?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3) - 宮坂武男</a><a name="more"></a>

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            <category>古城めぐり（長野）</category>
      <author>アテンザ23Z</author>
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                </item>
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      <link>https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-22.html</link>
      <title>上尾城（長野県長野市）</title>
      <pubDate>Fri, 22 May 2026 02:00:00 +0900</pubDate>
            <description>←主郭背後の堀切　上尾城は、滋野系望月氏の子孫布施氏の一族平林氏の歴代の居城である。布施庄地頭職を相伝した布施氏は、応仁年間（1467～69年）に入ると更級郡西山地方に勢力を伸ばし、左衛門尉正直は山平林の上尾山上に居住して平林氏を称した。父の布施冠者直頼は、山布施城に居住したが、若くして隠遁生活に入り、長子正直が若年のため、弟直長に家督を譲り、正直が成人した暁には家督を譲るよう決めた。しかし、正直および弟正頼（平林蔵人佑）が成人しても家督は譲られなかったため、内訌が生じ、結局..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN7620.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7620.JPG" width="320" height="240">←主郭背後の堀切
　上尾城は、滋野系望月氏の子孫布施氏の一族平林氏の歴代の居城である。布施庄地頭職を相伝した布施氏は、応仁年間（1467～69年）に入ると更級郡西山地方に勢力を伸ばし、左衛門尉正直は山平林の上尾山上に居住して平林氏を称した。父の布施冠者直頼は、山布施城に居住したが、若くして隠遁生活に入り、長子正直が若年のため、弟直長に家督を譲り、正直が成人した暁には家督を譲るよう決めた。しかし、正直および弟正頼（平林蔵人佑）が成人しても家督は譲られなかったため、内訌が生じ、結局直長は敗れて出奔した。その頃、正直は上尾城、弟は有旅城にいたが、正直に子がないため、弟の正頼が上尾城に入って家を継いだ。その後平林氏は東信の雄村上氏に属し、村上氏が甲斐武田氏に逐われると、その後は武田氏に属して活躍した。政頼の孫正家は武田信玄の命で要衝<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-20.html" target="_blank">牧之島城</a>の副将となり、1569年の北条氏との戦いでは先鋒となって討死した。その子正恒は、当初上尾城に居住していたが、武田勝頼の命令で牧之島城に移り住んだ。1582年3月、織田信長の武田征伐で織田勢が進撃してくると、正恒は一旦上尾城に退いた。しかし同年6月、本能寺の変で信長が横死すると、武田遺領を制圧していた織田勢は瓦解し、森長可は本領の美濃金山城に逃れた。北信4郡には越後の上杉景勝が入って制圧し、平林氏は上杉勢の援助で牧之島城を奪還し、その後は上杉氏に仕えた。1598年に上杉氏が会津に移封となると、平林氏は2000石を給され、<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2007-06-24.html" target="_blank">白河小峰城</a>に移った。

　上尾城は、犀川東岸の段丘の上の高台に築かれている。犀川沿いの道路から見ると、まるで隠れ里のような集落の奥にある。その集落背後の高台の北端に城がある。台形状の主郭と、その北のやや丸みを帯びた形状の二ノ郭、先端に物見台らしき小郭を配置した縄張りとなっている。それぞれの曲輪は堀切で分断され、主郭の南辺と西辺、二ノ郭の南辺には土塁が築かれている。また主郭の南側中央には虎口がある。主郭背後には殿屋敷・蔵屋敷などの地名が残る平場があるが、廃屋があるだけで薮に埋もれている。ただ北東端に堀切の名残と思われる堀城地形が残っている。以上が主城部であるが、南東の丘陵部を登った先にも、遠堀と思われる空堀が2本確認できる。以上が上尾城の遺構で、一部耕作で改変されている部分もあるが、ほとんどの遺構は良く残っている。しかし現在はほとんどが耕作放棄地らしく、全体的に薮に覆われてしまっていて遺構の確認がしづらくなっているのは惜しい。
先端の堀切と物見台→<img border="0" alt="DSCN7657.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7657.JPG" width="320" height="240"><img border="0" alt="DSCN7694.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7694.JPG" width="320" height="240">←南東の丘陵部にある遠堀
↓MPI赤色立体図で見た上尾城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕） 
<a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/zE4B88AE5B0BEE59F8EMPIE8B5A4E889B2E7AB8BE4BD93E59BB3.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="z&#x4E0A;&#x5C3E;&#x57CE;MPI&#x8D64;&#x8272;&#x7ACB;&#x4F53;&#x56F3;.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/zE4B88AE5B0BEE59F8EMPIE8B5A4E889B2E7AB8BE4BD93E59BB3-thumbnail2.jpg" width="640" height="396"></a>

　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆
　場所：https://maps.gsi.go.jp/#16/36.582500/138.059014/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864030359?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/517rpA0fIRL._SL160_.jpg" alt="&#x6B66;&#x7530;&#x907A;&#x9818;&#x3092;&#x3081;&#x3050;&#x308B;&#x52D5;&#x4E71;&#x3068;&#x79C0;&#x5409;&#x306E;&#x91CE;&#x671B;: &#x5929;&#x6B63;&#x58EC;&#x5348;&#x306E;&#x4E71;&#x304B;&#x3089;&#x5C0F;&#x7530;&#x539F;&#x5408;&#x6226;&#x307E;&#x3067; - &#x5E73;&#x5C71; &#x512A;"></a><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864030359?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優</a><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN7620.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7620.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7620.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />←主郭背後の堀切<br />　上尾城は、滋野系望月氏の子孫布施氏の一族平林氏の歴代の居城である。布施庄地頭職を相伝した布施氏は、応仁年間（1467～69年）に入ると更級郡西山地方に勢力を伸ばし、左衛門尉正直は山平林の上尾山上に居住して平林氏を称した。父の布施冠者直頼は、山布施城に居住したが、若くして隠遁生活に入り、長子正直が若年のため、弟直長に家督を譲り、正直が成人した暁には家督を譲るよう決めた。しかし、正直および弟正頼（平林蔵人佑）が成人しても家督は譲られなかったため、内訌が生じ、結局直長は敗れて出奔した。その頃、正直は上尾城、弟は有旅城にいたが、正直に子がないため、弟の正頼が上尾城に入って家を継いだ。その後平林氏は東信の雄村上氏に属し、村上氏が甲斐武田氏に逐われると、その後は武田氏に属して活躍した。政頼の孫正家は武田信玄の命で要衝<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-20.html" target="_blank">牧之島城</a>の副将となり、1569年の北条氏との戦いでは先鋒となって討死した。その子正恒は、当初上尾城に居住していたが、武田勝頼の命令で牧之島城に移り住んだ。1582年3月、織田信長の武田征伐で織田勢が進撃してくると、正恒は一旦上尾城に退いた。しかし同年6月、本能寺の変で信長が横死すると、武田遺領を制圧していた織田勢は瓦解し、森長可は本領の美濃金山城に逃れた。北信4郡には越後の上杉景勝が入って制圧し、平林氏は上杉勢の援助で牧之島城を奪還し、その後は上杉氏に仕えた。1598年に上杉氏が会津に移封となると、平林氏は2000石を給され、<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2007-06-24.html" target="_blank">白河小峰城</a>に移った。<br /><br />　上尾城は、犀川東岸の段丘の上の高台に築かれている。犀川沿いの道路から見ると、まるで隠れ里のような集落の奥にある。その集落背後の高台の北端に城がある。台形状の主郭と、その北のやや丸みを帯びた形状の二ノ郭、先端に物見台らしき小郭を配置した縄張りとなっている。それぞれの曲輪は堀切で分断され、主郭の南辺と西辺、二ノ郭の南辺には土塁が築かれている。また主郭の南側中央には虎口がある。主郭背後には殿屋敷・蔵屋敷などの地名が残る平場があるが、廃屋があるだけで薮に埋もれている。ただ北東端に堀切の名残と思われる堀城地形が残っている。以上が主城部であるが、南東の丘陵部を登った先にも、遠堀と思われる空堀が2本確認できる。以上が上尾城の遺構で、一部耕作で改変されている部分もあるが、ほとんどの遺構は良く残っている。しかし現在はほとんどが耕作放棄地らしく、全体的に薮に覆われてしまっていて遺構の確認がしづらくなっているのは惜しい。<br /><div style="text-align:right;">先端の堀切と物見台→<img border="0" alt="DSCN7657.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7657.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7657.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></div><img border="0" alt="DSCN7694.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7694.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7694.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />←南東の丘陵部にある遠堀<br />↓MPI赤色立体図で見た上尾城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕） <br /><a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/zE4B88AE5B0BEE59F8EMPIE8B5A4E889B2E7AB8BE4BD93E59BB3.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="z上尾城MPI赤色立体図.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/zE4B88AE5B0BEE59F8EMPIE8B5A4E889B2E7AB8BE4BD93E59BB3-thumbnail2.jpg" width="640" height="396" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/zE4B88AE5B0BEE59F8EMPIE8B5A4E889B2E7AB8BE4BD93E59BB3-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br />　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆<br />　場所：<a href="https://maps.gsi.go.jp/#16/36.582500/138.059014/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1" target="_blank">https://maps.gsi.go.jp/#16/36.582500/138.059014/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1</a><br /><br /><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864030359?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/517rpA0fIRL._SL160_.jpg" alt="武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優"></a><br><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864030359?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優</a><a name="more"></a>

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            <category>古城めぐり（長野）</category>
      <author>アテンザ23Z</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-20.html</link>
      <title>牧之島城（長野県長野市）</title>
      <pubDate>Wed, 20 May 2026 02:00:00 +0900</pubDate>
            <description>←丸馬出しと三日月堀　牧之島城は、甲斐武田氏が築いた更級郡の拠点城郭である。元々この地には香坂氏が勢力を張り、牧之島城の前身となる居城・牧城があった。1561年、武田信玄によって香坂氏は誅殺され、その名跡は同氏の娘婿春日弾正虎綱が継いだ。牧之島城の築城には諸説あり、1562年8月28日、信玄が馬場美濃守信房に命じて築かせたとも、1566年10月に信房が城代になったとも言われる。いずれにしても、1566年8月27日に牧之島城のある御供平にいた人々の屋敷を、新しい縄張りで築城する..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN7494.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7494.JPG" width="320" height="240">←丸馬出しと三日月堀
　牧之島城は、甲斐武田氏が築いた更級郡の拠点城郭である。元々この地には香坂氏が勢力を張り、牧之島城の前身となる居城・牧城があった。1561年、武田信玄によって香坂氏は誅殺され、その名跡は同氏の娘婿春日弾正虎綱が継いだ。牧之島城の築城には諸説あり、1562年8月28日、信玄が馬場美濃守信房に命じて築かせたとも、1566年10月に信房が城代になったとも言われる。いずれにしても、1566年8月27日に牧之島城のある御供平にいた人々の屋敷を、新しい縄張りで築城するにあたり屋敷替えを命じた文書があるので、この頃まで継続して築城されていたと推測される。牧之島城は、<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2008-02-17.html" target="_blank">深志城</a>から川中島に進出する交通の要地であり、拠点として重視された。1575年、長篠合戦で馬場信房が討死すると、翌年、信房の子昌房が牧之島城の城将となり、地侍平林正恒も武田勝頼の命令で在城した。1582年3月、織田信長の武田征伐により深志城を守っていた昌房は殺され、平林正恒らは<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-22.html" target="_blank">上尾城</a>にいったん退き、更級郡を含む北信4郡は森長可が統治することとなった。しかし同年6月、本能寺の変で信長が横死すると、武田遺領を制圧していた織田勢は瓦解し、森長可は本領の美濃金山城に逃れた。北信4郡には越後の上杉景勝が入って制圧し、平林氏は上杉勢の援助で牧之島城を奪還した。北条・徳川・上杉3氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」とその後の信濃の抗争の中で、深志城を本拠として信濃北部への侵攻を図る小笠原貞慶に対抗するため、境目の城である牧之島城には芋川親正を置き、<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2008-06-08.html" target="_blank">荒砥城</a>と共に北信濃衆を集中配備して守らせた。1598年に豊臣秀吉の命で上杉氏が会津に移封となると、牧野島の地侍たちも会津に移転した。その後は、松代の領主が牧之島城を預かって城番を置いたらしい。1603年、徳川家康の6男松平忠輝が松代に入ると、牧之島城に家老を置いて統治した。1616年、忠輝が不行跡によって改易されると、元和の一国一城令によって牧之島城もまもなく廃城になったものと思われる。

　牧之島城は、犀川曲流部に東から突き出たスプーンのような形状の台地の括れて細くなった部分に築かれている。一部が道路建設や民家となって損壊しているが、概ねの遺構は良く残っている。大きな空堀を穿ち、枡形虎口と丸馬出しを設けた武田流築城法がよくわかる城である。近世初頭まで存続しているが、ほとんど武田氏時代のままの縄張りが維持されたようである。本丸は長方形に近い形状であるが、北西部に入隅があり、北中央と東中央に枡形虎口を築いている。枡形の形状は、<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2020-02-09.html" target="_blank">躑躅ヶ崎館</a>や<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2021-06-29.html" target="_blank">新府城</a>のものと同形状のものである。本丸は断崖に面した南以外の三方に高土塁を築いて防御している。本丸北側に水堀を挟んで二ノ丸が置かれている。二ノ丸は道路が貫通しているので改変を受けているが、東側に本丸土塁と繋がる高土塁があり、稲荷社が建っている。この高土塁は本丸塁線より東に張り出していて、東側虎口に対する横矢掛りを意図している。本丸・二ノ丸の東西には深い空堀が穿たれている。西には帯曲輪を挟んでもう1本空堀がある。東側は、空堀の外にきれいな丸馬出しと三日月堀が残っている。古絵図を見ると、往時は2連の丸馬出しがあり、さらにその東側に大手枡形があったらしいが、北側の丸馬出しと大手枡形は湮滅している。以上が牧之島城の遺構で、集落のすぐそばによくこれだけの遺構が残ったものだと感心する。
本丸北側の枡形→<img border="0" alt="DSCN7539.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7539.JPG" width="320" height="240"><img border="0" alt="DSCN7584.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7584.JPG" width="320" height="240">←本丸・二ノ丸西の空堀
↓MPI赤色立体図で見た牧之島城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕） 
<a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1120235822.png.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x30B9;&#x30AF;&#x30EA;&#x30FC;&#x30F3;&#x30B7;&#x30E7;&#x30C3;&#x30C8; 2026-05-11 235822.png.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1120235822.png-thumbnail2.jpg" width="640" height="427"></a>

　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆☆
　場所：https://maps.gsi.go.jp/#16/36.561756/137.998748/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864031703?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51M27R3QlTL._SL160_.jpg" alt="&#x5929;&#x6B63;&#x58EC;&#x5348;&#x306E;&#x4E71;&#x3000;&#x5897;&#x88DC;&#x6539;&#x8A02;&#x7248; - &#x5E73;&#x5C71;&#x3000;&#x512A;"></a><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864031703?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">天正壬午の乱　増補改訂版 - 平山　優</a><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN7494.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7494.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7494.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />←丸馬出しと三日月堀<br />　牧之島城は、甲斐武田氏が築いた更級郡の拠点城郭である。元々この地には香坂氏が勢力を張り、牧之島城の前身となる居城・牧城があった。1561年、武田信玄によって香坂氏は誅殺され、その名跡は同氏の娘婿春日弾正虎綱が継いだ。牧之島城の築城には諸説あり、1562年8月28日、信玄が馬場美濃守信房に命じて築かせたとも、1566年10月に信房が城代になったとも言われる。いずれにしても、1566年8月27日に牧之島城のある御供平にいた人々の屋敷を、新しい縄張りで築城するにあたり屋敷替えを命じた文書があるので、この頃まで継続して築城されていたと推測される。牧之島城は、<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2008-02-17.html" target="_blank">深志城</a>から川中島に進出する交通の要地であり、拠点として重視された。1575年、長篠合戦で馬場信房が討死すると、翌年、信房の子昌房が牧之島城の城将となり、地侍平林正恒も武田勝頼の命令で在城した。1582年3月、織田信長の武田征伐により深志城を守っていた昌房は殺され、平林正恒らは<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-22.html" target="_blank">上尾城</a>にいったん退き、更級郡を含む北信4郡は森長可が統治することとなった。しかし同年6月、本能寺の変で信長が横死すると、武田遺領を制圧していた織田勢は瓦解し、森長可は本領の美濃金山城に逃れた。北信4郡には越後の上杉景勝が入って制圧し、平林氏は上杉勢の援助で牧之島城を奪還した。北条・徳川・上杉3氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」とその後の信濃の抗争の中で、深志城を本拠として信濃北部への侵攻を図る小笠原貞慶に対抗するため、境目の城である牧之島城には芋川親正を置き、<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2008-06-08.html" target="_blank">荒砥城</a>と共に北信濃衆を集中配備して守らせた。1598年に豊臣秀吉の命で上杉氏が会津に移封となると、牧野島の地侍たちも会津に移転した。その後は、松代の領主が牧之島城を預かって城番を置いたらしい。1603年、徳川家康の6男松平忠輝が松代に入ると、牧之島城に家老を置いて統治した。1616年、忠輝が不行跡によって改易されると、元和の一国一城令によって牧之島城もまもなく廃城になったものと思われる。<br /><br />　牧之島城は、犀川曲流部に東から突き出たスプーンのような形状の台地の括れて細くなった部分に築かれている。一部が道路建設や民家となって損壊しているが、概ねの遺構は良く残っている。大きな空堀を穿ち、枡形虎口と丸馬出しを設けた武田流築城法がよくわかる城である。近世初頭まで存続しているが、ほとんど武田氏時代のままの縄張りが維持されたようである。本丸は長方形に近い形状であるが、北西部に入隅があり、北中央と東中央に枡形虎口を築いている。枡形の形状は、<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2020-02-09.html" target="_blank">躑躅ヶ崎館</a>や<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2021-06-29.html" target="_blank">新府城</a>のものと同形状のものである。本丸は断崖に面した南以外の三方に高土塁を築いて防御している。本丸北側に水堀を挟んで二ノ丸が置かれている。二ノ丸は道路が貫通しているので改変を受けているが、東側に本丸土塁と繋がる高土塁があり、稲荷社が建っている。この高土塁は本丸塁線より東に張り出していて、東側虎口に対する横矢掛りを意図している。本丸・二ノ丸の東西には深い空堀が穿たれている。西には帯曲輪を挟んでもう1本空堀がある。東側は、空堀の外にきれいな丸馬出しと三日月堀が残っている。古絵図を見ると、往時は2連の丸馬出しがあり、さらにその東側に大手枡形があったらしいが、北側の丸馬出しと大手枡形は湮滅している。以上が牧之島城の遺構で、集落のすぐそばによくこれだけの遺構が残ったものだと感心する。<br /><div style="text-align:right;">本丸北側の枡形→<img border="0" alt="DSCN7539.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7539.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7539.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></div><img border="0" alt="DSCN7584.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7584.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7584.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />←本丸・二ノ丸西の空堀<br />↓MPI赤色立体図で見た牧之島城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕） <br /><a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1120235822.png.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="スクリーンショット 2026-05-11 235822.png.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1120235822.png-thumbnail2.jpg" width="640" height="427" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1120235822.png-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br />　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆☆<br />　場所：<a href="https://maps.gsi.go.jp/#16/36.561756/137.998748/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1" target="_blank">https://maps.gsi.go.jp/#16/36.561756/137.998748/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1</a><br /><br /><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864031703?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51M27R3QlTL._SL160_.jpg" alt="天正壬午の乱　増補改訂版 - 平山　優"></a><br><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864031703?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">天正壬午の乱　増補改訂版 - 平山　優</a><a name="more"></a>

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            <category>古城めぐり（長野）</category>
      <author>アテンザ23Z</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-18.html</link>
      <title>蟻ヶ城（長野県長野市）</title>
      <pubDate>Mon, 18 May 2026 02:00:00 +0900</pubDate>
            <description>↑南斜面の畝状竪堀　蟻ヶ城は、歴史不詳の城である。『日本城郭大系』では拠点城郭・牧之島城に属する物見砦と推測している。　蟻ヶ城は、標高1028mの山上に築かれている。南麓の四阿山社の奥宮の石祠が城内にあるので、参道がついている。 ただこの参道、斜面直登のストレートの一本道でなかなかきつい。逃げ場のない一本道の登城路は女神岳城を思い出す。山頂に堀切で区画された主郭と二ノ郭を並べている。主郭は土塁のない小規模な曲輪で、南側半周に帯曲輪を廻らしている。二ノ郭は細長い曲輪で、東側に帯..</description>
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<a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7420.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCN7420.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7420-thumbnail2.JPG" width="640" height="153"></a>
↑南斜面の畝状竪堀

　蟻ヶ城は、歴史不詳の城である。『日本城郭大系』では拠点城郭・<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-20.html" target="_blank">牧之島城</a>に属する物見砦と推測している。

　蟻ヶ城は、標高1028mの山上に築かれている。南麓の四阿山社の奥宮の石祠が城内にあるので、参道がついている。 ただこの参道、斜面直登のストレートの一本道でなかなかきつい。逃げ場のない一本道の登城路は<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2009-08-15.html" target="_blank">女神岳城</a>を思い出す。山頂に堀切で区画された主郭と二ノ郭を並べている。主郭は土塁のない小規模な曲輪で、南側半周に帯曲輪を廻らしている。二ノ郭は細長い曲輪で、東側に帯曲輪を伴い、北端に土壇を築いている。その北側は二重堀切で尾根筋を分断している。この城の最大の特徴は、主郭帯曲輪の下方に穿たれた畝状竪堀である。かなり浅いものだが、形状は割とはっきりわかった。主郭と二ノ郭を区画する堀切は、南東側に長い竪堀となって落ち、この畝状竪堀の東端を画している。また主郭の西尾根側方にも竪堀数本が確認できる。これらの他、二ノ郭の東尾根にも2本の堀切とその間に連なる段曲輪群がある。

　以上が蟻ヶ城の縄張りで、単なる物見砦にしてはかなりしっかりした普請がされている。この城を築いた勢力を推定する有力な手がかりが畝状竪堀である。実は武田系城郭では畝状竪堀の例は意外に少なく、武田の城で多いのは放射状竪堀群なのである。従って、蟻ヶ城を築いたのは上杉勢力ではないか、というのが私の見立ててである。<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-12.html" target="_blank">稲荷山城</a>の項でも記載したが、天正壬午の乱終結後の北信をめぐる抗争の中で、北信濃4郡を押さえた上杉景勝が、深志城を押さえて安曇・更級方面への侵攻を図る徳川方の小笠原貞慶に備えて各所の守りを固めている。更級郡の要衝牧之島城には芋川親正を城将として配置しており、この地方の防備の一環でこの蟻ヶ城を築いたのではないかと思われる。ただ、街道から少し奥まった山に築かれているのは、高所を利用した狼煙伝達を主任務としつつ、侵攻を受けた時には少数の兵で小笠原勢を足止めすることを企図した城だったのではないだろうか。
北尾根の二重堀切の内堀→<img border="0" alt="DSCN7451.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7451.JPG" width="320" height="240">
↓MPI赤色立体図で見た蟻ヶ城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕） 
<a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1120235604.png.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x30B9;&#x30AF;&#x30EA;&#x30FC;&#x30F3;&#x30B7;&#x30E7;&#x30C3;&#x30C8; 2026-05-11 235604.png.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1120235604.png-thumbnail2.jpg" width="640" height="427"></a>

　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆
　場所：https://maps.gsi.go.jp/#16/36.523701/138.015992/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864030359?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/517rpA0fIRL._SL160_.jpg" alt="&#x6B66;&#x7530;&#x907A;&#x9818;&#x3092;&#x3081;&#x3050;&#x308B;&#x52D5;&#x4E71;&#x3068;&#x79C0;&#x5409;&#x306E;&#x91CE;&#x671B;: &#x5929;&#x6B63;&#x58EC;&#x5348;&#x306E;&#x4E71;&#x304B;&#x3089;&#x5C0F;&#x7530;&#x539F;&#x5408;&#x6226;&#x307E;&#x3067; - &#x5E73;&#x5C71; &#x512A;"></a><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864030359?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優</a><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7420.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCN7420.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7420-thumbnail2.JPG" width="640" height="153" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7420-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />↑南斜面の畝状竪堀<br /><br />　蟻ヶ城は、歴史不詳の城である。『日本城郭大系』では拠点城郭・<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-20.html" target="_blank">牧之島城</a>に属する物見砦と推測している。<br /><br />　蟻ヶ城は、標高1028mの山上に築かれている。南麓の四阿山社の奥宮の石祠が城内にあるので、参道がついている。 ただこの参道、斜面直登のストレートの一本道でなかなかきつい。逃げ場のない一本道の登城路は<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2009-08-15.html" target="_blank">女神岳城</a>を思い出す。山頂に堀切で区画された主郭と二ノ郭を並べている。主郭は土塁のない小規模な曲輪で、南側半周に帯曲輪を廻らしている。二ノ郭は細長い曲輪で、東側に帯曲輪を伴い、北端に土壇を築いている。その北側は二重堀切で尾根筋を分断している。この城の最大の特徴は、主郭帯曲輪の下方に穿たれた畝状竪堀である。かなり浅いものだが、形状は割とはっきりわかった。主郭と二ノ郭を区画する堀切は、南東側に長い竪堀となって落ち、この畝状竪堀の東端を画している。また主郭の西尾根側方にも竪堀数本が確認できる。これらの他、二ノ郭の東尾根にも2本の堀切とその間に連なる段曲輪群がある。<br /><br />　以上が蟻ヶ城の縄張りで、単なる物見砦にしてはかなりしっかりした普請がされている。この城を築いた勢力を推定する有力な手がかりが畝状竪堀である。実は武田系城郭では畝状竪堀の例は意外に少なく、武田の城で多いのは放射状竪堀群なのである。従って、蟻ヶ城を築いたのは上杉勢力ではないか、というのが私の見立ててである。<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-12.html" target="_blank">稲荷山城</a>の項でも記載したが、天正壬午の乱終結後の北信をめぐる抗争の中で、北信濃4郡を押さえた上杉景勝が、深志城を押さえて安曇・更級方面への侵攻を図る徳川方の小笠原貞慶に備えて各所の守りを固めている。更級郡の要衝牧之島城には芋川親正を城将として配置しており、この地方の防備の一環でこの蟻ヶ城を築いたのではないかと思われる。ただ、街道から少し奥まった山に築かれているのは、高所を利用した狼煙伝達を主任務としつつ、侵攻を受けた時には少数の兵で小笠原勢を足止めすることを企図した城だったのではないだろうか。<br /><div style="text-align:right;">北尾根の二重堀切の内堀→<img border="0" alt="DSCN7451.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7451.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7451.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></div><br />↓MPI赤色立体図で見た蟻ヶ城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕） <br /><a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1120235604.png.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="スクリーンショット 2026-05-11 235604.png.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1120235604.png-thumbnail2.jpg" width="640" height="427" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1120235604.png-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br />　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆<br />　場所：<a href="https://maps.gsi.go.jp/#16/36.523701/138.015992/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1" target="_blank">https://maps.gsi.go.jp/#16/36.523701/138.015992/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1</a><br /><br /><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864030359?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/517rpA0fIRL._SL160_.jpg" alt="武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優"></a><br><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864030359?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優</a><a name="more"></a>

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            <category>古城めぐり（長野）</category>
      <author>アテンザ23Z</author>
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                </item>
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      <link>https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-16.html</link>
      <title>砦山城（長野県長野市）</title>
      <pubDate>Sat, 16 May 2026 02:00:00 +0900</pubDate>
            <description>←北東の丸馬出しの土橋と堀　砦山城は、古文書に現れる大岡城のことと考えられている。1558年、武田信玄が上杉謙信の川中島への進攻に備えて北信諸城の番手を決めた際、大岡籠城衆の中に市川梅隠斎・青柳近江守清長らを置いた。また天正壬午の乱終結後の北信をめぐる抗争の中で、1584年8月に小笠原貞慶は家臣の日岐盛武・細萱河内守に大岡城の仕置きを堅固にして上杉勢に備えることを命じている。　砦山城は、天宗寺の南西の丘陵上に築かれている。1辺約40mの正方形の曲輪を空堀で囲繞した単郭の小城砦..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN7312.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7312.JPG" width="320" height="240">←北東の丸馬出しの土橋と堀
　砦山城は、古文書に現れる大岡城のことと考えられている。1558年、武田信玄が上杉謙信の川中島への進攻に備えて北信諸城の番手を決めた際、大岡籠城衆の中に市川梅隠斎・青柳近江守清長らを置いた。また天正壬午の乱終結後の北信をめぐる抗争の中で、1584年8月に小笠原貞慶は家臣の日岐盛武・細萱河内守に大岡城の仕置きを堅固にして上杉勢に備えることを命じている。

　砦山城は、天宗寺の南西の丘陵上に築かれている。1辺約40mの正方形の曲輪を空堀で囲繞した単郭の小城砦であるが、特徴的なのは三方に築かれた虎口で、北東と南西に丸馬出しを設け、南東には出枡形を築いている。特に南西の丸馬出しは斜面に向かって突き出た、城内最大の馬出しで外周の三日月堀と両側の土橋など、武田流築城術の特徴的な形態がはっきりと見て取れる。主郭とは空堀で分断され、木橋で連結していたと思われる。それに対して北東の丸馬出しは、主郭後部の土塁の外側に出枡形のように突き出ており、前面に三日月堀を穿ち、両側に土橋を架けて外部と連絡している。主郭後部に当たる北東辺には土塁が築かれ、北西辺と南東角付近にも土塁が築かれている。郭内は南西に向かって傾斜している。以上が砦山城の遺構で、武田氏系城郭の特徴的な構造がよく分かる好例である。
南西の丸馬出しに架かる土橋→<img border="0" alt="DSCN7368.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7368.JPG" width="320" height="240">↓MPI赤色立体図で見た砦山城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕）
<a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1120235345.png.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x30B9;&#x30AF;&#x30EA;&#x30FC;&#x30F3;&#x30B7;&#x30E7;&#x30C3;&#x30C8; 2026-05-11 235345.png.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1120235345.png-thumbnail2.jpg" width="640" height="428"></a>
 
　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆☆
　場所：https://maps.gsi.go.jp/#16/36.501923/137.985951/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4903680819?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51bswfG4MtL._SL160_.jpg" alt="&#x6B66;&#x7530;&#x4E09;&#x4EE3;&#x306E;&#x57CE; - &#x5CA9;&#x672C; &#x8AA0;&#x57CE;"></a><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4903680819?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">武田三代の城 - 岩本 誠城</a><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN7312.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7312.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7312.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />←北東の丸馬出しの土橋と堀<br />　砦山城は、古文書に現れる大岡城のことと考えられている。1558年、武田信玄が上杉謙信の川中島への進攻に備えて北信諸城の番手を決めた際、大岡籠城衆の中に市川梅隠斎・青柳近江守清長らを置いた。また天正壬午の乱終結後の北信をめぐる抗争の中で、1584年8月に小笠原貞慶は家臣の日岐盛武・細萱河内守に大岡城の仕置きを堅固にして上杉勢に備えることを命じている。<br /><br />　砦山城は、天宗寺の南西の丘陵上に築かれている。1辺約40mの正方形の曲輪を空堀で囲繞した単郭の小城砦であるが、特徴的なのは三方に築かれた虎口で、北東と南西に丸馬出しを設け、南東には出枡形を築いている。特に南西の丸馬出しは斜面に向かって突き出た、城内最大の馬出しで外周の三日月堀と両側の土橋など、武田流築城術の特徴的な形態がはっきりと見て取れる。主郭とは空堀で分断され、木橋で連結していたと思われる。それに対して北東の丸馬出しは、主郭後部の土塁の外側に出枡形のように突き出ており、前面に三日月堀を穿ち、両側に土橋を架けて外部と連絡している。主郭後部に当たる北東辺には土塁が築かれ、北西辺と南東角付近にも土塁が築かれている。郭内は南西に向かって傾斜している。以上が砦山城の遺構で、武田氏系城郭の特徴的な構造がよく分かる好例である。<br /><div style="text-align:right;">南西の丸馬出しに架かる土橋→<img border="0" alt="DSCN7368.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7368.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7368.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></div>↓MPI赤色立体図で見た砦山城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕）<br /><a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1120235345.png.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="スクリーンショット 2026-05-11 235345.png.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1120235345.png-thumbnail2.jpg" width="640" height="428" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-1120235345.png-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /> <br />　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆☆<br />　場所：<a href="https://maps.gsi.go.jp/#16/36.501923/137.985951/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1" target="_blank">https://maps.gsi.go.jp/#16/36.501923/137.985951/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1</a><br /><br /><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4903680819?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51bswfG4MtL._SL160_.jpg" alt="武田三代の城 - 岩本 誠城"></a><br><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4903680819?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">武田三代の城 - 岩本 誠城</a><a name="more"></a>

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            <category>古城めぐり（長野）</category>
      <author>アテンザ23Z</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-14.html</link>
      <title>船山守護所（長野県千曲市）</title>
      <pubDate>Thu, 14 May 2026 02:00:00 +0900</pubDate>
            <description>←南側の堀跡と思われる道　船山守護所は、建武の新政期に信濃守護職に補せられた小笠原貞宗が、埴科郡船山郷内に置いた守護所（守護館）である。後に守護所は平芝に移転した。尚、鎌倉後期に執権北条氏の一族北条基時（後に13代執権を務めた）が信濃守護に補せられた折り、船山郷の中心地に館（守護所）を置いていた可能性があり、小笠原氏の船山守護所はその跡地に置かれた可能性も指摘されている。　船山守護所は、その正確な所在地も不明であるが、現在の小船山地区にあったと考えられている。現在は完全に住宅..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN7305.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7305.JPG" width="320" height="240">←南側の堀跡と思われる道
　船山守護所は、建武の新政期に信濃守護職に補せられた小笠原貞宗が、埴科郡船山郷内に置いた守護所（守護館）である。後に守護所は平芝に移転した。尚、鎌倉後期に執権北条氏の一族北条基時（後に13代執権を務めた）が信濃守護に補せられた折り、船山郷の中心地に館（守護所）を置いていた可能性があり、小笠原氏の船山守護所はその跡地に置かれた可能性も指摘されている。

　船山守護所は、その正確な所在地も不明であるが、現在の小船山地区にあったと考えられている。現在は完全に住宅地化していて遺構は完全に湮滅している。しかし『信濃の山城と館』では、堀跡が道路跡として残っている可能性を指摘している。

　お城評価（満点=五つ星）：☆
　場所：https://maps.gsi.go.jp/#16/36.513546/138.122638/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864033811?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51GTiTa7niL._SL160_.jpg" alt="&#x5357;&#x5317;&#x671D;&#x6B66;&#x5C06;&#x5217;&#x4F1D; &#x5317;&#x671D;&#x7DE8; - &#x4E80;&#x7530;&#x4FCA;&#x548C;, &#x6749;&#x5C71;&#x4E00;&#x5F25;"></a><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864033811?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">南北朝武将列伝 北朝編 - 亀田俊和, 杉山一弥</a><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN7305.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7305.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7305.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />←南側の堀跡と思われる道<br />　船山守護所は、建武の新政期に信濃守護職に補せられた小笠原貞宗が、埴科郡船山郷内に置いた守護所（守護館）である。後に守護所は平芝に移転した。尚、鎌倉後期に執権北条氏の一族北条基時（後に13代執権を務めた）が信濃守護に補せられた折り、船山郷の中心地に館（守護所）を置いていた可能性があり、小笠原氏の船山守護所はその跡地に置かれた可能性も指摘されている。<br /><br />　船山守護所は、その正確な所在地も不明であるが、現在の小船山地区にあったと考えられている。現在は完全に住宅地化していて遺構は完全に湮滅している。しかし『信濃の山城と館』では、堀跡が道路跡として残っている可能性を指摘している。<br /><br />　お城評価（満点=五つ星）：☆<br />　場所：<a href="https://maps.gsi.go.jp/#16/36.513546/138.122638/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1" target="_blank">https://maps.gsi.go.jp/#16/36.513546/138.122638/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1</a><br /><br /><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864033811?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51GTiTa7niL._SL160_.jpg" alt="南北朝武将列伝 北朝編 - 亀田俊和, 杉山一弥"></a><br><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864033811?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">南北朝武将列伝 北朝編 - 亀田俊和, 杉山一弥</a><a name="more"></a>

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            <category>古城めぐり（長野）</category>
      <author>アテンザ23Z</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,atenzasports23z/520659493</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-12.html</link>
      <title>稲荷山城（長野県千曲市）</title>
      <pubDate>Tue, 12 May 2026 02:00:00 +0900</pubDate>
            <description>←鉦山に残る城址碑　稲荷山城は、上杉景勝が小笠原貞慶に備えて築いた城である。1582年3月に甲斐武田氏を滅ぼした織田信長であったが、わずか3ヶ月後に本能寺の変で横死し、織田領に併合されたばかりの旧武田領の甲斐・信濃両国は、権力の巨大な空白地帯となった。この機に乗じて北条・徳川・上杉が三方から甲斐・信濃に進撃し、周辺大名の草刈り場と化した（天正壬午の乱）。この直前、越後の上杉景勝は織田勢に三方から侵攻され、滅亡寸前の状況であったが、信長横死の報とともに織田勢が潮が引くように上杉..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN7269.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7269.JPG" width="320" height="240">←鉦山に残る城址碑
　稲荷山城は、上杉景勝が小笠原貞慶に備えて築いた城である。1582年3月に甲斐武田氏を滅ぼした織田信長であったが、わずか3ヶ月後に本能寺の変で横死し、織田領に併合されたばかりの旧武田領の甲斐・信濃両国は、権力の巨大な空白地帯となった。この機に乗じて北条・徳川・上杉が三方から甲斐・信濃に進撃し、周辺大名の草刈り場と化した（天正壬午の乱）。この直前、越後の上杉景勝は織田勢に三方から侵攻され、滅亡寸前の状況であったが、信長横死の報とともに織田勢が潮が引くように上杉領国から退いていったため息を吹き返し、北信濃4郡の経略に取り掛かった。景勝は、要衝の<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2012-09-30.html" target="_blank">海津城</a>に村上景国を配し、副将として屋代秀正を置いた。その翌年、<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2008-02-17.html" target="_blank">深志城</a>を押さえて徳川家康に与した小笠原貞慶が上杉方に付いた<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2016-11-11.html" target="_blank">青柳城</a>・<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2016-10-28.html" target="_blank">麻績城</a>を攻撃していたため、景勝は松田民部助盛直（日岐盛直）・保科（綿内）豊後守に小笠原勢の川中島侵攻を阻む前線基地として、千曲川西岸に稲荷山城の築城を命じた。天正壬午の乱終結後も上杉氏は稲荷山城に城将を置いたらしく、1594年の上杉氏の目録には、稲荷山留守役衆として保科佐左衛門・小田切備前守・同金千代丸・須崎彦兵衛・同権助らの名が見える。1598年に上杉氏が会津に移封となると廃城になったとも、1615年の元和の一国一城令で廃城になったとも言われる。

　稲荷山城は、江戸時代には宿場町となり、現在は市街地となっている。移行はほとんど湮滅しているが、天正年間（1573～92年）の櫓台の跡と伝えられる鉦（どら）山がわずかに残っている。また城小路の井戸も車道脇に残っている。明確なのはこれぐらいで、その他は水路と道の配置とで城の痕跡を想像するしかない。

　お城評価（満点=五つ星）：☆
　場所：https://maps.gsi.go.jp/#16/36.535442/138.105369/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864030359?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/517rpA0fIRL._SL160_.jpg" alt="&#x6B66;&#x7530;&#x907A;&#x9818;&#x3092;&#x3081;&#x3050;&#x308B;&#x52D5;&#x4E71;&#x3068;&#x79C0;&#x5409;&#x306E;&#x91CE;&#x671B;: &#x5929;&#x6B63;&#x58EC;&#x5348;&#x306E;&#x4E71;&#x304B;&#x3089;&#x5C0F;&#x7530;&#x539F;&#x5408;&#x6226;&#x307E;&#x3067; - &#x5E73;&#x5C71; &#x512A;"></a><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864030359?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優</a><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN7269.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7269.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7269.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />←鉦山に残る城址碑<br />　稲荷山城は、上杉景勝が小笠原貞慶に備えて築いた城である。1582年3月に甲斐武田氏を滅ぼした織田信長であったが、わずか3ヶ月後に本能寺の変で横死し、織田領に併合されたばかりの旧武田領の甲斐・信濃両国は、権力の巨大な空白地帯となった。この機に乗じて北条・徳川・上杉が三方から甲斐・信濃に進撃し、周辺大名の草刈り場と化した（天正壬午の乱）。この直前、越後の上杉景勝は織田勢に三方から侵攻され、滅亡寸前の状況であったが、信長横死の報とともに織田勢が潮が引くように上杉領国から退いていったため息を吹き返し、北信濃4郡の経略に取り掛かった。景勝は、要衝の<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2012-09-30.html" target="_blank">海津城</a>に村上景国を配し、副将として屋代秀正を置いた。その翌年、<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2008-02-17.html" target="_blank">深志城</a>を押さえて徳川家康に与した小笠原貞慶が上杉方に付いた<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2016-11-11.html" target="_blank">青柳城</a>・<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2016-10-28.html" target="_blank">麻績城</a>を攻撃していたため、景勝は松田民部助盛直（日岐盛直）・保科（綿内）豊後守に小笠原勢の川中島侵攻を阻む前線基地として、千曲川西岸に稲荷山城の築城を命じた。天正壬午の乱終結後も上杉氏は稲荷山城に城将を置いたらしく、1594年の上杉氏の目録には、稲荷山留守役衆として保科佐左衛門・小田切備前守・同金千代丸・須崎彦兵衛・同権助らの名が見える。1598年に上杉氏が会津に移封となると廃城になったとも、1615年の元和の一国一城令で廃城になったとも言われる。<br /><br />　稲荷山城は、江戸時代には宿場町となり、現在は市街地となっている。移行はほとんど湮滅しているが、天正年間（1573～92年）の櫓台の跡と伝えられる鉦（どら）山がわずかに残っている。また城小路の井戸も車道脇に残っている。明確なのはこれぐらいで、その他は水路と道の配置とで城の痕跡を想像するしかない。<br /><br />　お城評価（満点=五つ星）：☆<br />　場所：<a href="https://maps.gsi.go.jp/#16/36.535442/138.105369/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1" target="_blank">https://maps.gsi.go.jp/#16/36.535442/138.105369/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1</a><br /><br /><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864030359?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/517rpA0fIRL._SL160_.jpg" alt="武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優"></a><br><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864030359?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優</a><a name="more"></a>

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            <category>古城めぐり（長野）</category>
      <author>アテンザ23Z</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-10.html</link>
      <title>和田城（長野県長野市）</title>
      <pubDate>Sun, 10 May 2026 22:15:58 +0900</pubDate>
            <description>←二ノ郭西側の二重空堀　和田城は、地侍田野口氏の要害と伝えられている。戦国期には、田野口氏は上尾城主平林氏に属していたらしい。それ以外の詳細は不明である。　和田城は、密蔵寺背後の丘陵南端部に築かれている。南端に菱形をした主郭を置き、その北から西にかけて二ノ郭をめぐらし、二ノ郭の北に三ノ郭を配置した縄張りとなっている。主郭の後部2辺には土類が築かれ、背後には幅のあるL字型の空堀が穿たれている。二ノ郭は北半の3辺に土塁が築かれている。二ノ郭の幅は一定ではなく、主郭北西角部が曲輪の..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN7208.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7208.JPG" width="320" height="240">←二ノ郭西側の二重空堀
　和田城は、地侍田野口氏の要害と伝えられている。戦国期には、田野口氏は<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-22.html" target="_blank">上尾城</a>主平林氏に属していたらしい。それ以外の詳細は不明である。

　和田城は、密蔵寺背後の丘陵南端部に築かれている。南端に菱形をした主郭を置き、その北から西にかけて二ノ郭をめぐらし、二ノ郭の北に三ノ郭を配置した縄張りとなっている。主郭の後部2辺には土類が築かれ、背後には幅のあるL字型の空堀が穿たれている。二ノ郭は北半の3辺に土塁が築かれている。二ノ郭の幅は一定ではなく、主郭北西角部が曲輪の奥まで入り込み、曲輪の幅が狭くなっている。これはおそらく当初は主郭から二ノ郭までのひろい範囲を旧主郭としていたものを、後から内部に堀を穿って2つの曲輪に分けて、防御性を増す改修をしたことによるのだろう。二ノ郭の北側には空堀が穿たれて三ノ郭と分断されている。見事なのは二ノ郭の西側の堀で、美しい二重空堀が穿たれている。途中で三ノ郭との間の空堀と直交しながら北側まで掘り切っている。この二重空堀は、三ノ郭の北側で東に向かって湾曲している。また三ノ郭の西側部分だけ、外堀の外にも土塁が築かれている。三ノ郭は、ほとんど地山のままで明確な普請の跡は見られない。この他、主郭の南斜面に2段の腰曲輪が築かれ、主郭先端から伸びる東尾根には小堀切と小郭がある。以上が和田城の遺構で、美しい二重空堀が特徴の城である。
主郭の空堀と切岸→<img border="0" alt="DSCN7226.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7226.JPG" width="320" height="240">↓MPI赤色立体図で見た和田城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕） 
<a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-0820003631.png.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x30B9;&#x30AF;&#x30EA;&#x30FC;&#x30F3;&#x30B7;&#x30E7;&#x30C3;&#x30C8; 2026-05-08 003631.png.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-0820003631.png-thumbnail2.jpg" width="640" height="427"></a>

　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆
　場所：https://maps.gsi.go.jp/#16/36.566843/138.078335/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864032149?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/613f67O1ZEL._SL160_.jpg" alt="&#x5BAE;&#x5742;&#x6B66;&#x7537;&#x3068;&#x6B69;&#x304F; &#x6226;&#x56FD;&#x4FE1;&#x6FC3;&#x306E;&#x57CE;&#x90ED; (&#x56F3;&#x8AAC; &#x65E5;&#x672C;&#x306E;&#x57CE;&#x90ED;&#x30B7;&#x30EA;&#x30FC;&#x30BA;3) - &#x5BAE;&#x5742;&#x6B66;&#x7537;"></a><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864032149?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3) - 宮坂武男</a><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN7208.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7208.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7208.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />←二ノ郭西側の二重空堀<br />　和田城は、地侍田野口氏の要害と伝えられている。戦国期には、田野口氏は<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-22.html" target="_blank">上尾城</a>主平林氏に属していたらしい。それ以外の詳細は不明である。<br /><br />　和田城は、密蔵寺背後の丘陵南端部に築かれている。南端に菱形をした主郭を置き、その北から西にかけて二ノ郭をめぐらし、二ノ郭の北に三ノ郭を配置した縄張りとなっている。主郭の後部2辺には土類が築かれ、背後には幅のあるL字型の空堀が穿たれている。二ノ郭は北半の3辺に土塁が築かれている。二ノ郭の幅は一定ではなく、主郭北西角部が曲輪の奥まで入り込み、曲輪の幅が狭くなっている。これはおそらく当初は主郭から二ノ郭までのひろい範囲を旧主郭としていたものを、後から内部に堀を穿って2つの曲輪に分けて、防御性を増す改修をしたことによるのだろう。二ノ郭の北側には空堀が穿たれて三ノ郭と分断されている。見事なのは二ノ郭の西側の堀で、美しい二重空堀が穿たれている。途中で三ノ郭との間の空堀と直交しながら北側まで掘り切っている。この二重空堀は、三ノ郭の北側で東に向かって湾曲している。また三ノ郭の西側部分だけ、外堀の外にも土塁が築かれている。三ノ郭は、ほとんど地山のままで明確な普請の跡は見られない。この他、主郭の南斜面に2段の腰曲輪が築かれ、主郭先端から伸びる東尾根には小堀切と小郭がある。以上が和田城の遺構で、美しい二重空堀が特徴の城である。<br /><div style="text-align:right;">主郭の空堀と切岸→<img border="0" alt="DSCN7226.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7226.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7226.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></div>↓MPI赤色立体図で見た和田城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕） <br /><a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-0820003631.png.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="スクリーンショット 2026-05-08 003631.png.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-0820003631.png-thumbnail2.jpg" width="640" height="427" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-0820003631.png-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br />　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆<br />　場所：<a href="https://maps.gsi.go.jp/#16/36.566843/138.078335/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1" target="_blank">https://maps.gsi.go.jp/#16/36.566843/138.078335/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1</a><br /><br /><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864032149?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/613f67O1ZEL._SL160_.jpg" alt="宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3) - 宮坂武男"></a><br><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864032149?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3) - 宮坂武男</a><a name="more"></a>

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            <category>古城めぐり（長野）</category>
      <author>アテンザ23Z</author>
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      <link>https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-08.html</link>
      <title>塩崎城（長野県長野市）</title>
      <pubDate>Fri, 08 May 2026 00:20:48 +0900</pubDate>
            <description>←二ノ郭後部の石積みの壇　塩崎城は、歴史に残る2つの合戦でその名を刻む城である。築城時期は不明だが、小笠原氏の一族赤沢氏が築いた要害であったと言われている。赤沢氏は、小笠原長清の孫清経が伊豆国赤沢に住んで赤沢氏を称したことに始まる一族で、建武年間（1334～38年）に北条時行に与した四野宮氏が幕府方の信濃守護小笠原貞宗に滅ぼされ、その所領を手中にした貞宗が一族の赤沢伊豆守経興にこの地を与え、塩崎赤沢氏となった。　最初にこの城が歴史の表舞台に現れるのは、1400年の大塔合戦の時..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN7053.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7053.JPG" width="320" height="240">←二ノ郭後部の石積みの壇
　塩崎城は、歴史に残る2つの合戦でその名を刻む城である。築城時期は不明だが、小笠原氏の一族赤沢氏が築いた要害であったと言われている。赤沢氏は、小笠原長清の孫清経が伊豆国赤沢に住んで赤沢氏を称したことに始まる一族で、建武年間（1334～38年）に北条時行に与した四野宮氏が幕府方の信濃守護小笠原貞宗に滅ぼされ、その所領を手中にした貞宗が一族の赤沢伊豆守経興にこの地を与え、塩崎赤沢氏となった。
　最初にこの城が歴史の表舞台に現れるのは、1400年の大塔合戦の時である。1399年に室町幕府より信濃守護に補任された小笠原長秀は、信濃入国後、守護権力を背景に有力国人衆に対して強権的な支配を推し進めた結果、1400年、信濃の有力国人衆（大文字一揆）が北信の雄村上満信を中心に反小笠原に立ち上がり、長秀と合戦となった。これが大塔合戦である。最初小笠原勢は<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article//2013-02-18.html" target="_blank">横田城</a>に入ったが、圧倒的な劣勢で、長秀は150騎の将士と共に塩崎城に逃げ込んだ。しかし寡兵により国人衆に抗しきれず、結局長秀は佐久の大井氏の仲介で京都に逃げ帰り、守護を罷免された。
　次に塩崎城が現れるのは、1564年の第5次川中島合戦の時である。7月29日に川中島に着陣した上杉謙信に対して、武田信玄は8月下旬に塩崎城に在陣し、両軍は川中島地域で対陣したことが知られる。しかし信玄は謙信と一戦する気は無かったらしく、すぐに転進して9月1日には<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2008-02-13.html" target="_blank">小諸城</a>に在陣した。そのまま両軍はしばらく在陣を続けたが、結局10月に両軍とも帰国した。

　塩崎城は、長谷寺の背後にそびえる標高560mの山上に築かれている。比較的コンパクトに纏められた、求心性の高い縄張りで、竪堀を多用し、更に曲輪群の各所に石積みが広範囲に散在した城である。主郭は方形の曲輪で、後部に櫓台を設けている。この櫓台と主郭北辺には崩れた石積みが残っている。主郭櫓台の後部には舌状曲輪があるが、面白いことに位置的に主郭より高い位置にある。主郭背後を防衛する防御陣地的な曲輪だったと推測される。この舌状曲輪の付け根には南北に長い竪堀が落ちている。舌状曲輪の先には大堀切が穿たれ、更に小郭を挟んで二重堀切が穿たれて背後の尾根筋を遮断している。これらの堀切から、両翼に竪堀が長く伸びている。一方、主郭前面には二ノ郭・三ノ郭がひな壇状に築かれ、更にその前面には10段の腰曲輪群が、また主郭の南北斜面にも腰曲輪が築かれている。二ノ郭の後部南寄りには見事な石積みが残る壇があるが、物見櫓か何かが建っていたものと思われる。また二ノ郭・三ノ郭・腰曲輪群には各所に石積み跡が残り、また腰曲輪群から北斜面に向かって合計5本の竪堀が落ちている。この内、西側2本の竪堀を連結するように、横堀も走っている。
　以上が主城部であるが、最後の堀切から西に100m程離れた円形の峰の背後に、土塁を伴った長い堀切が穿たれている。峰自体は自然地形であるが、後部の外郭もしくは出砦として機能していたと思われ、もしかしたら信玄在陣時に兵の駐屯地であったのかもしれない。
　城内は整備されていて以降の確認がし易く、非常に綺麗に遺構が残る城である。
主郭北側の竪堀→<img border="0" alt="DSCN7077.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7077.JPG" width="320" height="240"><img border="0" alt="DSCN6987.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN6987.JPG" width="320" height="240">←西の峰背後の長い堀切
↓MPI赤色立体図で見た塩崎城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕）
<a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-0720211751.png.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x30B9;&#x30AF;&#x30EA;&#x30FC;&#x30F3;&#x30B7;&#x30E7;&#x30C3;&#x30C8; 2026-05-07 211751.png.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-0720211751.png-thumbnail2.jpg" width="640" height="428"></a>

　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆☆
　場所：https://maps.gsi.go.jp/#16/36.549780/138.095441/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4040825268?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51DUy7pXeeL._SL160_.jpg" alt="&#x99FF;&#x7532;&#x76F8;&#x4E09;&#x56FD;&#x540C;&#x76DF; &#x4ECA;&#x5DDD;&#x3001;&#x6B66;&#x7530;&#x3001;&#x5317;&#x6761;&#x3001;&#x8987;&#x6A29;&#x306E;&#x653B;&#x9632; (&#x89D2;&#x5DDD;&#x65B0;&#x66F8;) - &#x9ED2;&#x7530; &#x57FA;&#x6A39;"></a><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4040825268?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">駿甲相三国同盟 今川、武田、北条、覇権の攻防 (角川新書) - 黒田 基樹</a><a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN7053.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7053.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7053.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />←二ノ郭後部の石積みの壇<br />　塩崎城は、歴史に残る2つの合戦でその名を刻む城である。築城時期は不明だが、小笠原氏の一族赤沢氏が築いた要害であったと言われている。赤沢氏は、小笠原長清の孫清経が伊豆国赤沢に住んで赤沢氏を称したことに始まる一族で、建武年間（1334～38年）に北条時行に与した四野宮氏が幕府方の信濃守護小笠原貞宗に滅ぼされ、その所領を手中にした貞宗が一族の赤沢伊豆守経興にこの地を与え、塩崎赤沢氏となった。<br />　最初にこの城が歴史の表舞台に現れるのは、1400年の大塔合戦の時である。1399年に室町幕府より信濃守護に補任された小笠原長秀は、信濃入国後、守護権力を背景に有力国人衆に対して強権的な支配を推し進めた結果、1400年、信濃の有力国人衆（大文字一揆）が北信の雄村上満信を中心に反小笠原に立ち上がり、長秀と合戦となった。これが大塔合戦である。最初小笠原勢は<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article//2013-02-18.html" target="_blank">横田城</a>に入ったが、圧倒的な劣勢で、長秀は150騎の将士と共に塩崎城に逃げ込んだ。しかし寡兵により国人衆に抗しきれず、結局長秀は佐久の大井氏の仲介で京都に逃げ帰り、守護を罷免された。<br />　次に塩崎城が現れるのは、1564年の第5次川中島合戦の時である。7月29日に川中島に着陣した上杉謙信に対して、武田信玄は8月下旬に塩崎城に在陣し、両軍は川中島地域で対陣したことが知られる。しかし信玄は謙信と一戦する気は無かったらしく、すぐに転進して9月1日には<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2008-02-13.html" target="_blank">小諸城</a>に在陣した。そのまま両軍はしばらく在陣を続けたが、結局10月に両軍とも帰国した。<br /><br />　塩崎城は、長谷寺の背後にそびえる標高560mの山上に築かれている。比較的コンパクトに纏められた、求心性の高い縄張りで、竪堀を多用し、更に曲輪群の各所に石積みが広範囲に散在した城である。主郭は方形の曲輪で、後部に櫓台を設けている。この櫓台と主郭北辺には崩れた石積みが残っている。主郭櫓台の後部には舌状曲輪があるが、面白いことに位置的に主郭より高い位置にある。主郭背後を防衛する防御陣地的な曲輪だったと推測される。この舌状曲輪の付け根には南北に長い竪堀が落ちている。舌状曲輪の先には大堀切が穿たれ、更に小郭を挟んで二重堀切が穿たれて背後の尾根筋を遮断している。これらの堀切から、両翼に竪堀が長く伸びている。一方、主郭前面には二ノ郭・三ノ郭がひな壇状に築かれ、更にその前面には10段の腰曲輪群が、また主郭の南北斜面にも腰曲輪が築かれている。二ノ郭の後部南寄りには見事な石積みが残る壇があるが、物見櫓か何かが建っていたものと思われる。また二ノ郭・三ノ郭・腰曲輪群には各所に石積み跡が残り、また腰曲輪群から北斜面に向かって合計5本の竪堀が落ちている。この内、西側2本の竪堀を連結するように、横堀も走っている。<br />　以上が主城部であるが、最後の堀切から西に100m程離れた円形の峰の背後に、土塁を伴った長い堀切が穿たれている。峰自体は自然地形であるが、後部の外郭もしくは出砦として機能していたと思われ、もしかしたら信玄在陣時に兵の駐屯地であったのかもしれない。<br />　城内は整備されていて以降の確認がし易く、非常に綺麗に遺構が残る城である。<br /><div style="text-align:right;">主郭北側の竪堀→<img border="0" alt="DSCN7077.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN7077.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN7077.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></div><img border="0" alt="DSCN6987.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN6987.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN6987.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />←西の峰背後の長い堀切<br />↓MPI赤色立体図で見た塩崎城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕）<br /><a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-0720211751.png.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="スクリーンショット 2026-05-07 211751.png.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-0720211751.png-thumbnail2.jpg" width="640" height="428" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-0720211751.png-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br />　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆☆<br />　場所：<a href="https://maps.gsi.go.jp/#16/36.549780/138.095441/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1" target="_blank">https://maps.gsi.go.jp/#16/36.549780/138.095441/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1</a><br /><br /><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4040825268?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51DUy7pXeeL._SL160_.jpg" alt="駿甲相三国同盟 今川、武田、北条、覇権の攻防 (角川新書) - 黒田 基樹"></a><br><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4040825268?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">駿甲相三国同盟 今川、武田、北条、覇権の攻防 (角川新書) - 黒田 基樹</a><a name="more"></a>

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            <category>古城めぐり（長野）</category>
      <author>アテンザ23Z</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://atenzasports23z.seesaa.net/article/520618198.html</link>
      <title>赤色立体図の疑似土塁問題</title>
      <pubDate>Wed, 06 May 2026 18:55:41 +0900</pubDate>
            <description>連休を使って、岩手県内の城を巡ってきました。例によって、山の中の城がほとんどです。岩手の中世城館では、信頼に足る縄張図情報が少なく、以前は岩手県の遺跡マップで位置を特定する他は、ぶっつけ本番の現地踏査で遺構を確認する必要がありました。その結果は、例えば『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の縄張図だと堀の数が間違っているとか、かなり過去資料に問題があることがわかっていました。しかし最近になって、恐るべき新兵器、というか新資料が公開されました。それが1mメッシュの赤色立体図です。「..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
連休を使って、岩手県内の城を巡ってきました。
例によって、山の中の城がほとんどです。

岩手の中世城館では、信頼に足る縄張図情報が少なく、
以前は岩手県の遺跡マップで位置を特定する他は、
ぶっつけ本番の現地踏査で遺構を確認する必要がありました。
その結果は、例えば『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の縄張図だと
堀の数が間違っているとか、
かなり過去資料に問題があることがわかっていました。

しかし最近になって、恐るべき新兵器、というか新資料が公開されました。
それが1mメッシュの赤色立体図です。
「<a href="https://qchizu.jp/" target="_blank">全国Q地図</a>」という個人で運営されているサイトなどで、
全日本のかなりの広範囲でこの詳細地形図が一般公開されています。
これまでにも一部地域で1mメッシュのCS立体図による詳細地形図が一般公開されていましたが、
微地形の表現力ではやはり赤色立体図に分があります。
特に全国Q地図では、全域ではないものの県域を特定することなく
全国規模で1mメッシュの赤色立体図が見れるようになっています。
これは赤色立体図を開発したアジア航測㈱の特許が切れた事による恩恵なのだと思います。

1mメッシュの赤色立体図が無料公開されたおかげで、
実地踏査する前から城の詳細構造が把握できるようになっています。

しかし今回、この赤色立体図を元にして岩手の山城を踏査した結果、
問題点が一部明らかになりました。
それが今回のテーマである「疑似土塁」問題です。
疑似土塁とは私が勝手に名付けたものです。
土塁がないのに、あたかもそこに土塁があるように赤色立体図に表現されてしまっている事象を
指します。

赤色立体図の原理は、
航空レーザー測量で地表面から反射してきたレーザーを捉えて
標高データモデル（DEM）を構築し、
そこから傾斜量などを赤色の彩度・明暗などに変換して微地形を可視化するものですが、
弱点もあって、それは地表面が見えないほどの劇薮、
例えば大きな葉が表面を覆い尽くしてしまう酷い笹薮では、
レーザーが地表まで届かないため、薮の表層を標高データとして誤って捉えてしまうことです。

以前に参加した栃木市の西方城のシンポジウムでも、
その問題があって城の南斜面の地形データが正確に捉えられず、
薮払いするしか手がない、ということで、
わざわざ薮を伐採してから再度航空レーザー測量をやり直した事例が紹介されていました。

今回の「疑似土塁」問題も基本的には同質のもので、
例えば曲輪が畑などになっている場合に、
畑の外周に当たる曲輪の塁線沿いに未整備の劇薮が残っていると、
それがレーザー測量の障壁になって、誤った標高データが捉えられてしまい、
あたかもそこに土塁があるように表現されてしまうというものです。

そこに実際に土塁があるのかないのかは、実際に現地で確認してみないとわかりません。

赤色立体図は城巡りをするための非常に強力なツールですが、
こうした問題点があることを認識したうえで利用していく必要があります。

<img border="0" alt="&#x30B9;&#x30AF;&#x30EA;&#x30FC;&#x30F3;&#x30B7;&#x30E7;&#x30C3;&#x30C8; 2026-05-007.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-007.jpg" width="320" height="214">←赤色立体図の疑似土塁の例
現地の実際の状況、薮だけで土塁なし↓<img border="0" alt="DSCN0380.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN0380.JPG" width="320" height="240"><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
連休を使って、岩手県内の城を巡ってきました。<br />例によって、山の中の城がほとんどです。<br /><br />岩手の中世城館では、信頼に足る縄張図情報が少なく、<br />以前は岩手県の遺跡マップで位置を特定する他は、<br />ぶっつけ本番の現地踏査で遺構を確認する必要がありました。<br />その結果は、例えば『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の縄張図だと<br />堀の数が間違っているとか、<br />かなり過去資料に問題があることがわかっていました。<br /><br />しかし最近になって、恐るべき新兵器、というか新資料が公開されました。<br />それが1mメッシュの赤色立体図です。<br />「<a href="https://qchizu.jp/" target="_blank">全国Q地図</a>」という個人で運営されているサイトなどで、<br />全日本のかなりの広範囲でこの詳細地形図が一般公開されています。<br />これまでにも一部地域で1mメッシュのCS立体図による詳細地形図が一般公開されていましたが、<br />微地形の表現力ではやはり赤色立体図に分があります。<br />特に全国Q地図では、全域ではないものの県域を特定することなく<br />全国規模で1mメッシュの赤色立体図が見れるようになっています。<br />これは赤色立体図を開発したアジア航測㈱の特許が切れた事による恩恵なのだと思います。<br /><br />1mメッシュの赤色立体図が無料公開されたおかげで、<br />実地踏査する前から城の詳細構造が把握できるようになっています。<br /><br />しかし今回、この赤色立体図を元にして岩手の山城を踏査した結果、<br />問題点が一部明らかになりました。<br />それが今回のテーマである「疑似土塁」問題です。<br />疑似土塁とは私が勝手に名付けたものです。<br />土塁がないのに、あたかもそこに土塁があるように赤色立体図に表現されてしまっている事象を<br />指します。<br /><br />赤色立体図の原理は、<br />航空レーザー測量で地表面から反射してきたレーザーを捉えて<br />標高データモデル（DEM）を構築し、<br />そこから傾斜量などを赤色の彩度・明暗などに変換して微地形を可視化するものですが、<br />弱点もあって、それは地表面が見えないほどの劇薮、<br />例えば大きな葉が表面を覆い尽くしてしまう酷い笹薮では、<br />レーザーが地表まで届かないため、薮の表層を標高データとして誤って捉えてしまうことです。<br /><br />以前に参加した栃木市の西方城のシンポジウムでも、<br />その問題があって城の南斜面の地形データが正確に捉えられず、<br />薮払いするしか手がない、ということで、<br />わざわざ薮を伐採してから再度航空レーザー測量をやり直した事例が紹介されていました。<br /><br />今回の「疑似土塁」問題も基本的には同質のもので、<br />例えば曲輪が畑などになっている場合に、<br />畑の外周に当たる曲輪の塁線沿いに未整備の劇薮が残っていると、<br />それがレーザー測量の障壁になって、誤った標高データが捉えられてしまい、<br />あたかもそこに土塁があるように表現されてしまうというものです。<br /><br />そこに実際に土塁があるのかないのかは、実際に現地で確認してみないとわかりません。<br /><br />赤色立体図は城巡りをするための非常に強力なツールですが、<br />こうした問題点があることを認識したうえで利用していく必要があります。<br /><br /><img border="0" alt="スクリーンショット 2026-05-007.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-007.jpg" width="320" height="214" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-05-007.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />←赤色立体図の疑似土塁の例<br /><div style="text-align:right;">現地の実際の状況、薮だけで土塁なし↓<img border="0" alt="DSCN0380.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN0380.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN0380.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></div><a name="more"></a>

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            <category>城郭よもやま話</category>
      <author>アテンザ23Z</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,atenzasports23z/520618198</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-04-30.html</link>
      <title>赤沢城（長野県長野市）</title>
      <pubDate>Thu, 30 Apr 2026 02:00:00 +0900</pubDate>
            <description>←西側の畝状竪堀　赤沢城は、同時代の軍忠状では塩崎新城と記載される城で、1400年の大塔合戦から3年後の再度の動乱の際に村上満信らの信濃国人一揆によって築かれた。大塔合戦で幕府が任命した信濃守護小笠原長秀が国人衆から拒絶されて京都に逃げ帰ると、幕府は長秀を罷免し、信濃国を幕府直轄領とした。幕府は細川慈忠を代官として派遣したが、1403年7月24日、村上満信・大井光矩・友野（伴野）・井上光頼・須田らの国人衆はこれに従わず、再び大乱となった。満信は、小笠原長秀が立て籠もった塩崎城..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN6918.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN6918.JPG" width="320" height="240">←西側の畝状竪堀
　赤沢城は、同時代の軍忠状では塩崎新城と記載される城で、1400年の大塔合戦から3年後の再度の動乱の際に村上満信らの信濃国人一揆によって築かれた。大塔合戦で幕府が任命した信濃守護小笠原長秀が国人衆から拒絶されて京都に逃げ帰ると、幕府は長秀を罷免し、信濃国を幕府直轄領とした。幕府は細川慈忠を代官として派遣したが、1403年7月24日、村上満信・大井光矩・友野（伴野）・井上光頼・須田らの国人衆はこれに従わず、再び大乱となった。満信は、小笠原長秀が立て籠もった<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-08.html" target="_blank">塩崎城</a>とは別に塩崎新城（赤沢城）を築いて抵抗したが、慈忠率いる幕府軍は檀原合戦・<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2012-09-21.html" target="_blank">生仁城</a>攻撃に次いで、塩崎新城を攻撃して10月3日に攻め落としたことが、『市河氏貞軍忠状』（市河文書）に見える。その後の歴史は不明であるが、現在残る竪堀群は戦国期のものと推測され、川中島に進出した甲斐武田氏による改修があった可能性がある。

　赤沢城は、長野自動車道　城山トンネルの東にあり、北に向かって突き出た山稜上に築かれている。北から順に二ノ郭、繋ぎ郭・主郭・三ノ郭・外郭と並んでいる。二ノ郭～主郭の西側は採石で削られてしまっているが、ほとんどの遺構は残っているようである。二ノ郭は、北斜面に数段の腰曲輪を置いた縦長の曲輪で、後部に土塁を築いている。土塁の背後は浅い堀切を介して繋ぎ郭がある。繋ぎ郭の南東部には鉄塔が建っている。そこから帯曲輪のある斜面を登ると、小さな半円形の主郭がある。主郭後部には土塁が築かれているが、外側には石積みの痕跡が残っている。主郭背後には二重堀切があり、両側方に竪堀が長く伸びている。この竪堀は、東斜面では少し下方で1本加わって三重竪堀となり、西斜面では2本の竪堀が並走して4条の畝状竪堀となっている。非常にはっきりわかる規模の竪堀群なのだが、残念なことに、未整備の薮で覆われていてわかりにくい部分が多い。二重堀切の南に長方形の三ノ郭がある。三ノ郭の南には堀切が穿たれ、そこから両側方に竪堀が落ちている。西の竪堀は、前述の畝状竪堀が合流している。東の竪堀の先には、両側に腰曲輪を築いた虎口があり、外郭に通じる斜めの登道が付いている。外郭は薮だらけのため踏査できていない。大手道は、前述の虎口から東尾根に伸びており、その側方にも東曲輪群がある。東尾根の先端には、物見台と思われる小郭があり、基部を浅い堀切で穿っている。以上が赤沢城の遺構で、竪堀群を効果的に配置しているのが特徴である。しかし全体的に未整備の薮が多く、踏査できない曲輪が多いのは残念である。
主郭背後の堀切→<img border="0" alt="DSCN6932.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN6932.JPG" width="320" height="240"><img border="0" alt="DSCN6940.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN6940.JPG" width="320" height="240">←主郭後部の石積み
↓MPI赤色立体図で見た赤沢城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕）
<a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/zE8B5A4E6B2A2E59F8EEFBC88E5A1A9E5B48EE696B0E59F8EEFBC89MPIE8B5A4E889B2E7AB8BE4BD93E59BB3.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="z&#x8D64;&#x6CA2;&#x57CE;&#xFF08;&#x5869;&#x5D0E;&#x65B0;&#x57CE;&#xFF09;MPI&#x8D64;&#x8272;&#x7ACB;&#x4F53;&#x56F3;.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/zE8B5A4E6B2A2E59F8EEFBC88E5A1A9E5B48EE696B0E59F8EEFBC89MPIE8B5A4E889B2E7AB8BE4BD93E59BB3-thumbnail2.jpg" width="425" height="640"></a>

　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆
　場所：https://maps.gsi.go.jp/#16/36.540733/138.098608/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864031835?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51mjVgUcwOL._SL160_.jpg" alt="&#x4FE1;&#x6FC3;&#x5C0F;&#x7B20;&#x539F;&#x6C0F; (&#x30B7;&#x30EA;&#x30FC;&#x30BA;&#x30FB;&#x4E2D;&#x4E16;&#x95A2;&#x6771;&#x6B66;&#x58EB;&#x306E;&#x7814;&#x7A76; &#x7B2C;18&#x5DFB;) - &#x82B1;&#x5CA1;&#x5EB7;&#x9686;"></a><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864031835?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻) - 花岡康隆</a><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN6918.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN6918.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN6918.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />←西側の畝状竪堀<br />　赤沢城は、同時代の軍忠状では塩崎新城と記載される城で、1400年の大塔合戦から3年後の再度の動乱の際に村上満信らの信濃国人一揆によって築かれた。大塔合戦で幕府が任命した信濃守護小笠原長秀が国人衆から拒絶されて京都に逃げ帰ると、幕府は長秀を罷免し、信濃国を幕府直轄領とした。幕府は細川慈忠を代官として派遣したが、1403年7月24日、村上満信・大井光矩・友野（伴野）・井上光頼・須田らの国人衆はこれに従わず、再び大乱となった。満信は、小笠原長秀が立て籠もった<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-08.html" target="_blank">塩崎城</a>とは別に塩崎新城（赤沢城）を築いて抵抗したが、慈忠率いる幕府軍は檀原合戦・<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2012-09-21.html" target="_blank">生仁城</a>攻撃に次いで、塩崎新城を攻撃して10月3日に攻め落としたことが、『市河氏貞軍忠状』（市河文書）に見える。その後の歴史は不明であるが、現在残る竪堀群は戦国期のものと推測され、川中島に進出した甲斐武田氏による改修があった可能性がある。<br /><br />　赤沢城は、長野自動車道　城山トンネルの東にあり、北に向かって突き出た山稜上に築かれている。北から順に二ノ郭、繋ぎ郭・主郭・三ノ郭・外郭と並んでいる。二ノ郭～主郭の西側は採石で削られてしまっているが、ほとんどの遺構は残っているようである。二ノ郭は、北斜面に数段の腰曲輪を置いた縦長の曲輪で、後部に土塁を築いている。土塁の背後は浅い堀切を介して繋ぎ郭がある。繋ぎ郭の南東部には鉄塔が建っている。そこから帯曲輪のある斜面を登ると、小さな半円形の主郭がある。主郭後部には土塁が築かれているが、外側には石積みの痕跡が残っている。主郭背後には二重堀切があり、両側方に竪堀が長く伸びている。この竪堀は、東斜面では少し下方で1本加わって三重竪堀となり、西斜面では2本の竪堀が並走して4条の畝状竪堀となっている。非常にはっきりわかる規模の竪堀群なのだが、残念なことに、未整備の薮で覆われていてわかりにくい部分が多い。二重堀切の南に長方形の三ノ郭がある。三ノ郭の南には堀切が穿たれ、そこから両側方に竪堀が落ちている。西の竪堀は、前述の畝状竪堀が合流している。東の竪堀の先には、両側に腰曲輪を築いた虎口があり、外郭に通じる斜めの登道が付いている。外郭は薮だらけのため踏査できていない。大手道は、前述の虎口から東尾根に伸びており、その側方にも東曲輪群がある。東尾根の先端には、物見台と思われる小郭があり、基部を浅い堀切で穿っている。以上が赤沢城の遺構で、竪堀群を効果的に配置しているのが特徴である。しかし全体的に未整備の薮が多く、踏査できない曲輪が多いのは残念である。<br /><div style="text-align:right;">主郭背後の堀切→<img border="0" alt="DSCN6932.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN6932.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN6932.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></div><img border="0" alt="DSCN6940.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN6940.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN6940.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />←主郭後部の石積み<br />↓MPI赤色立体図で見た赤沢城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕）<br /><a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/zE8B5A4E6B2A2E59F8EEFBC88E5A1A9E5B48EE696B0E59F8EEFBC89MPIE8B5A4E889B2E7AB8BE4BD93E59BB3.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="z赤沢城（塩崎新城）MPI赤色立体図.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/zE8B5A4E6B2A2E59F8EEFBC88E5A1A9E5B48EE696B0E59F8EEFBC89MPIE8B5A4E889B2E7AB8BE4BD93E59BB3-thumbnail2.jpg" width="425" height="640" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/zE8B5A4E6B2A2E59F8EEFBC88E5A1A9E5B48EE696B0E59F8EEFBC89MPIE8B5A4E889B2E7AB8BE4BD93E59BB3-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br />　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆<br />　場所：<a href="https://maps.gsi.go.jp/#16/36.540733/138.098608/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1" target="_blank">https://maps.gsi.go.jp/#16/36.540733/138.098608/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1</a><br /><br /><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864031835?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51mjVgUcwOL._SL160_.jpg" alt="信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻) - 花岡康隆"></a><br><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864031835?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻) - 花岡康隆</a><a name="more"></a>

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            <category>古城めぐり（長野）</category>
      <author>アテンザ23Z</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-04-28.html</link>
      <title>小坂城（長野県千曲市）</title>
      <pubDate>Tue, 28 Apr 2026 02:00:00 +0900</pubDate>
            <description>←背後尾根遺構群の大堀切　小坂城は、この地の土豪桑原氏が築いたとの伝承があるが、確証はない。現地解説板によれば、塩崎城の赤沢氏は村上氏に対抗するため、小坂城を築いて家老の桑原氏に守らせた。1553年、武田信玄は葛尾城主村上義清を追い出してこの地域を支配下に収めると、保科弾正義昌を小坂城に置いて守らせた。戦国末期の1583年、武田氏滅亡後に北信四郡を制圧した上杉景勝は、稲荷山に平城の稲荷山城を築き、保科備後守を置き、深志城を本拠とした小笠原貞慶の侵攻に備えるため、多数の猿ケ馬場..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN6824.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN6824.JPG" width="320" height="240">←背後尾根遺構群の大堀切
　小坂城は、この地の土豪桑原氏が築いたとの伝承があるが、確証はない。現地解説板によれば、<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-08.html" target="_blank">塩崎城</a>の赤沢氏は村上氏に対抗するため、小坂城を築いて家老の桑原氏に守らせた。1553年、武田信玄は<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2008-06-01-6.html" target="_blank">葛尾城</a>主村上義清を追い出してこの地域を支配下に収めると、保科弾正義昌を小坂城に置いて守らせた。戦国末期の1583年、武田氏滅亡後に北信四郡を制圧した上杉景勝は、稲荷山に平城の<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-12.html" target="_blank">稲荷山城</a>を築き、保科備後守を置き、<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2008-02-17.html" target="_blank">深志城</a>を本拠とした小笠原貞慶の侵攻に備えるため、多数の猿ケ馬場衆を配置したと言う。猿ケ馬場衆は、小坂城・<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-04-26.html" target="_blank">佐野山城</a>・<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2019-01-30.html" target="_blank">龍王城</a>に配置された兵卒と推測されている。この頃には、小坂城は稲荷山城の支城として機能していたと考えられる。いずれにしても当初は在地勢力が要害として築いたものが、戦国後期の戦乱の中で武田・上杉両勢力によって改修されたのであろう。

　小坂城は、龍洞院背後の山上に築かれている。城域は大きく2つに分かれており、標高574m地点の主郭を中心とした主城部と、標高610～20mにかけて南北に伸びる背後尾根の遺構群とがある。まず主城部は、ややひしゃげた長方形に近い形の広い主郭を中心に、南斜面に10段程の腰曲輪群、西と南東にも腰曲輪群を築いて前面の防御を固めている。主郭切岸や、腰曲輪群の切岸には多くの石積みが散在している。主郭の背後には堀切を挟んで小さな二ノ郭がある。二ノ郭は東から北面にかけて低土塁が築かれ、後部に浅い二重堀切が穿たれている。その北に小郭があり、更に堀切を穿って背後尾根を遮断している。ここから尾根筋を登った先に背後尾根の遺構群がある。ここには南端に水滴形の物見郭があり、更に南斜面に2段の小郭が置かれている。物見郭の後ろには合計6本の堀切群が穿たれている。最初は浅い二重堀切で、間の土塁には尾根の両側に岩があって門を形成していたと思われる。この二重堀切の先に土壇を挟んで規模の大きな二重堀切が穿たれ、小さな曲輪を挟んで大堀切、更に細尾根の曲輪が続いて、最後の堀切が穿たれて城域が終わっている。背後尾根の多重堀切は見応え十分で、多重堀切としての規模は山家城以来のものである。背後の備えを殊更重視しており、武田氏か上杉氏によって大きく改修された痕跡を示していると思われる。
腰曲輪の石積み→<img border="0" alt="DSCN6856.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN6856.JPG" width="320" height="240"><img border="0" alt="DSCN6836.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN6836.JPG" width="320" height="240">←主郭背後の堀切
↓MPI赤色立体図で見た小坂城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕）
<a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/zE5B08FE59D82E59F8EMPIE8B5A4E889B2E7AB8BE4BD93E59BB3.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="z&#x5C0F;&#x5742;&#x57CE;MPI&#x8D64;&#x8272;&#x7ACB;&#x4F53;&#x56F3;.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/zE5B08FE59D82E59F8EMPIE8B5A4E889B2E7AB8BE4BD93E59BB3-thumbnail2.jpg" width="556" height="640"></a>

　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆☆
　場所：https://maps.gsi.go.jp/#16/36.535978/138.089145/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4642059881?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/517eCRjLh8L._SL160_.jpg" alt="&#x691C;&#x8A3C; &#x5DDD;&#x4E2D;&#x5CF6;&#x306E;&#x6226;&#x3044; (588) (&#x6B74;&#x53F2;&#x6587;&#x5316;&#x30E9;&#x30A4;&#x30D6;&#x30E9;&#x30EA;&#x30FC; 588) - &#x6751;&#x77F3; &#x6B63;&#x884C;"></a><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4642059881?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">検証 川中島の戦い (588) (歴史文化ライブラリー 588) - 村石 正行</a><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN6824.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN6824.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN6824.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />←背後尾根遺構群の大堀切<br />　小坂城は、この地の土豪桑原氏が築いたとの伝承があるが、確証はない。現地解説板によれば、<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-08.html" target="_blank">塩崎城</a>の赤沢氏は村上氏に対抗するため、小坂城を築いて家老の桑原氏に守らせた。1553年、武田信玄は<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2008-06-01-6.html" target="_blank">葛尾城</a>主村上義清を追い出してこの地域を支配下に収めると、保科弾正義昌を小坂城に置いて守らせた。戦国末期の1583年、武田氏滅亡後に北信四郡を制圧した上杉景勝は、稲荷山に平城の<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-05-12.html" target="_blank">稲荷山城</a>を築き、保科備後守を置き、<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2008-02-17.html" target="_blank">深志城</a>を本拠とした小笠原貞慶の侵攻に備えるため、多数の猿ケ馬場衆を配置したと言う。猿ケ馬場衆は、小坂城・<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-04-26.html" target="_blank">佐野山城</a>・<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2019-01-30.html" target="_blank">龍王城</a>に配置された兵卒と推測されている。この頃には、小坂城は稲荷山城の支城として機能していたと考えられる。いずれにしても当初は在地勢力が要害として築いたものが、戦国後期の戦乱の中で武田・上杉両勢力によって改修されたのであろう。<br /><br />　小坂城は、龍洞院背後の山上に築かれている。城域は大きく2つに分かれており、標高574m地点の主郭を中心とした主城部と、標高610～20mにかけて南北に伸びる背後尾根の遺構群とがある。まず主城部は、ややひしゃげた長方形に近い形の広い主郭を中心に、南斜面に10段程の腰曲輪群、西と南東にも腰曲輪群を築いて前面の防御を固めている。主郭切岸や、腰曲輪群の切岸には多くの石積みが散在している。主郭の背後には堀切を挟んで小さな二ノ郭がある。二ノ郭は東から北面にかけて低土塁が築かれ、後部に浅い二重堀切が穿たれている。その北に小郭があり、更に堀切を穿って背後尾根を遮断している。ここから尾根筋を登った先に背後尾根の遺構群がある。ここには南端に水滴形の物見郭があり、更に南斜面に2段の小郭が置かれている。物見郭の後ろには合計6本の堀切群が穿たれている。最初は浅い二重堀切で、間の土塁には尾根の両側に岩があって門を形成していたと思われる。この二重堀切の先に土壇を挟んで規模の大きな二重堀切が穿たれ、小さな曲輪を挟んで大堀切、更に細尾根の曲輪が続いて、最後の堀切が穿たれて城域が終わっている。背後尾根の多重堀切は見応え十分で、多重堀切としての規模は山家城以来のものである。背後の備えを殊更重視しており、武田氏か上杉氏によって大きく改修された痕跡を示していると思われる。<br /><div style="text-align:right;">腰曲輪の石積み→<img border="0" alt="DSCN6856.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN6856.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN6856.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></div><img border="0" alt="DSCN6836.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN6836.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN6836.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />←主郭背後の堀切<br />↓MPI赤色立体図で見た小坂城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕）<br /><a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/zE5B08FE59D82E59F8EMPIE8B5A4E889B2E7AB8BE4BD93E59BB3.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="z小坂城MPI赤色立体図.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/zE5B08FE59D82E59F8EMPIE8B5A4E889B2E7AB8BE4BD93E59BB3-thumbnail2.jpg" width="556" height="640" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/zE5B08FE59D82E59F8EMPIE8B5A4E889B2E7AB8BE4BD93E59BB3-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br />　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆☆<br />　場所：<a href="https://maps.gsi.go.jp/#16/36.535978/138.089145/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1" target="_blank">https://maps.gsi.go.jp/#16/36.535978/138.089145/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1</a><br /><br /><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4642059881?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/517eCRjLh8L._SL160_.jpg" alt="検証 川中島の戦い (588) (歴史文化ライブラリー 588) - 村石 正行"></a><br><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4642059881?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">検証 川中島の戦い (588) (歴史文化ライブラリー 588) - 村石 正行</a><a name="more"></a>

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            <category>古城めぐり（長野）</category>
      <author>アテンザ23Z</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2026-04-26.html</link>
      <title>佐野山城（長野県千曲市）</title>
      <pubDate>Sun, 26 Apr 2026 13:13:00 +0900</pubDate>
            <description>←詰丸背後の堀切　佐野山城は、この地の土豪桑原氏の居城と伝えられている。『諏訪御符礼之古書』などの史料によれば、桑原氏の活動は1459年から1479年にかけて確認できる。文明年間（1469～87年）の四宮庄の頭役桑原六郎次郎貞光が、1485年に塩崎貞光を名乗っており、以後桑原氏の名は史料から消える。これ以降は塩崎氏を称して活動したものと思われる。戦国時代に入ると、佐野山城は北信濃の戦略的要衝として歴史の表舞台に登場する。1553年、武田信玄が葛尾城主村上義清を攻めた際、葛尾城..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img border="0" alt="DSCN6605.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN6605.JPG" width="320" height="240">←詰丸背後の堀切
　佐野山城は、この地の土豪桑原氏の居城と伝えられている。『諏訪御符礼之古書』などの史料によれば、桑原氏の活動は1459年から1479年にかけて確認できる。文明年間（1469～87年）の四宮庄の頭役桑原六郎次郎貞光が、1485年に塩崎貞光を名乗っており、以後桑原氏の名は史料から消える。これ以降は塩崎氏を称して活動したものと思われる。戦国時代に入ると、佐野山城は北信濃の戦略的要衝として歴史の表舞台に登場する。1553年、武田信玄が<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2008-06-01-6.html" target="_blank">葛尾城</a>主村上義清を攻めた際、葛尾城の背後に位置するこの城の動向が重視された。同年4月、屋代政国と塩崎氏が村上氏に叛して武田方に付いた際、桑原で大岡方面の敵を押さえるために拠ったのが、この佐野山城と考えられている。1557年の第3次川中島合戦では、善光寺平に進出した上杉謙信が<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2019-02-14.html" target="_blank">飯山城</a>に後退し、武田方の北信濃の国衆市川氏の攻略を進めたため、これに対抗して武田信玄は本陣を<a href="http://atenzasports23z.seesaa.net/article/2008-02-28.html" target="_blank">塩田城</a>から佐野山に進めており、この時信玄の本陣が佐野山城に置かれた可能性が高い。結局この時甲越両軍の直接の合戦はなかったが、10月まで信玄は佐野山に在陣していたと推測される。その後時代は下って武田氏滅亡後の1584年4月1日、上杉景勝の部将屋代秀正が上杉氏から離反し徳川方に転じて<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2008-06-08.html" target="_blank">荒砥城</a>に籠城した時、屋代氏と共に離反した塩崎六郎次郎が拠った城として、直江兼続の書状に「逆徒居城」として佐野山城の名が記されている。これは同年３月に生起した小牧・長久手合戦に連動して、徳川家康が羽柴方の上杉氏を動揺させるために仕掛けたものと推測されている。しかし屋代氏・塩崎氏らは北信諸将の内応もなく、徳川方からの援軍も得られなかったため、上杉方の攻撃を受けて4月8日夜に城を捨てて逃亡し、<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2009-06-15.html" target="_blank">虚空蔵山城</a>を占拠した。上杉方は虚空蔵山城を攻撃したが、激戦の末に撃退され、荒砥城・佐野山城等を境目の城として警固を厳重にして撤退したと見られる。その後、豊臣政権下で国分協定が行われ、この地方が上杉氏の支配下として確定すると廃城となったと思われる。

　佐野山城は、佐野川に向かって突き出た山間の尾根上に築かれている。山上に長方形の主郭を置き、その前面に一段低くL字型の腰曲輪を築き、背後尾根の高台に細長い詰丸を配置している。主郭と詰丸との間は斜面だけで区画されているが、詰丸の背後には堀切が穿たれ、その後部に長円形の土壇がある。土壇の役割はよくわからない。また主郭の東下方には南北に長く伸びた腰曲輪があり、その北端の西上に根本をU字型の小堀切で区画された小郭がある。これらが城の中心部で、そこから東側に扇形に広がる斜面上にはおびただしい数の帯曲輪群が築かれている。この帯曲輪群の中を抜ける道があるが、後世の改変の可能性があり、城道とは俄には判断しがたい。ただ帯曲輪群の中段の北端部に舌状曲輪があり、そこに登ってくる道は曲輪に入ったところで枡形状に屈曲しているので、これは往時の城道であったと思われる。また下方の道の一部は横堀状を呈しており、これも遺構と思われる。以上の他に、主郭の北斜面・舌状曲輪の付け根の北斜面に竪堀が見られる。以上が佐野山城の遺構で、戦国末期まで使われた城にしては、縄張り面の技巧性はあまり感じられず、後部尾根の防御も小堀切1本だけと貧弱で、少々物足りなく感じる。
　尚、『日本城郭大系』には石垣があると書かれているが、現地では確認できなかった。掲載されている縄張図も実態とは少々異なっているので、誤認であろうか。また現地解説板の縄張図も実態とかけ離れており、何を誤認したものか、不思議に思う。
東斜面の帯曲輪群→<img border="0" alt="DSCN6542.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN6542.JPG" width="320" height="240">↓MPI赤色立体図で見た佐野山城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕）
<a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-04-2720175554.png.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x30B9;&#x30AF;&#x30EA;&#x30FC;&#x30F3;&#x30B7;&#x30E7;&#x30C3;&#x30C8; 2026-04-27 175554.png.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-04-2720175554.png-thumbnail2.jpg" width="640" height="427"></a>

　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆
　場所：https://maps.gsi.go.jp/#16/36.518059/138.062711/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864030359?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/517rpA0fIRL._SL160_.jpg" alt="&#x6B66;&#x7530;&#x907A;&#x9818;&#x3092;&#x3081;&#x3050;&#x308B;&#x52D5;&#x4E71;&#x3068;&#x79C0;&#x5409;&#x306E;&#x91CE;&#x671B;: &#x5929;&#x6B63;&#x58EC;&#x5348;&#x306E;&#x4E71;&#x304B;&#x3089;&#x5C0F;&#x7530;&#x539F;&#x5408;&#x6226;&#x307E;&#x3067; - &#x5E73;&#x5C71; &#x512A;"></a><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864030359?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優</a><a></a>

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<img border="0" alt="DSCN6605.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN6605.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN6605.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />←詰丸背後の堀切<br />　佐野山城は、この地の土豪桑原氏の居城と伝えられている。『諏訪御符礼之古書』などの史料によれば、桑原氏の活動は1459年から1479年にかけて確認できる。文明年間（1469～87年）の四宮庄の頭役桑原六郎次郎貞光が、1485年に塩崎貞光を名乗っており、以後桑原氏の名は史料から消える。これ以降は塩崎氏を称して活動したものと思われる。戦国時代に入ると、佐野山城は北信濃の戦略的要衝として歴史の表舞台に登場する。1553年、武田信玄が<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2008-06-01-6.html" target="_blank">葛尾城</a>主村上義清を攻めた際、葛尾城の背後に位置するこの城の動向が重視された。同年4月、屋代政国と塩崎氏が村上氏に叛して武田方に付いた際、桑原で大岡方面の敵を押さえるために拠ったのが、この佐野山城と考えられている。1557年の第3次川中島合戦では、善光寺平に進出した上杉謙信が<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2019-02-14.html" target="_blank">飯山城</a>に後退し、武田方の北信濃の国衆市川氏の攻略を進めたため、これに対抗して武田信玄は本陣を<a href="http://atenzasports23z.seesaa.net/article/2008-02-28.html" target="_blank">塩田城</a>から佐野山に進めており、この時信玄の本陣が佐野山城に置かれた可能性が高い。結局この時甲越両軍の直接の合戦はなかったが、10月まで信玄は佐野山に在陣していたと推測される。その後時代は下って武田氏滅亡後の1584年4月1日、上杉景勝の部将屋代秀正が上杉氏から離反し徳川方に転じて<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2008-06-08.html" target="_blank">荒砥城</a>に籠城した時、屋代氏と共に離反した塩崎六郎次郎が拠った城として、直江兼続の書状に「逆徒居城」として佐野山城の名が記されている。これは同年３月に生起した小牧・長久手合戦に連動して、徳川家康が羽柴方の上杉氏を動揺させるために仕掛けたものと推測されている。しかし屋代氏・塩崎氏らは北信諸将の内応もなく、徳川方からの援軍も得られなかったため、上杉方の攻撃を受けて4月8日夜に城を捨てて逃亡し、<a href="https://atenzasports23z.seesaa.net/article/2009-06-15.html" target="_blank">虚空蔵山城</a>を占拠した。上杉方は虚空蔵山城を攻撃したが、激戦の末に撃退され、荒砥城・佐野山城等を境目の城として警固を厳重にして撤退したと見られる。その後、豊臣政権下で国分協定が行われ、この地方が上杉氏の支配下として確定すると廃城となったと思われる。<br /><br />　佐野山城は、佐野川に向かって突き出た山間の尾根上に築かれている。山上に長方形の主郭を置き、その前面に一段低くL字型の腰曲輪を築き、背後尾根の高台に細長い詰丸を配置している。主郭と詰丸との間は斜面だけで区画されているが、詰丸の背後には堀切が穿たれ、その後部に長円形の土壇がある。土壇の役割はよくわからない。また主郭の東下方には南北に長く伸びた腰曲輪があり、その北端の西上に根本をU字型の小堀切で区画された小郭がある。これらが城の中心部で、そこから東側に扇形に広がる斜面上にはおびただしい数の帯曲輪群が築かれている。この帯曲輪群の中を抜ける道があるが、後世の改変の可能性があり、城道とは俄には判断しがたい。ただ帯曲輪群の中段の北端部に舌状曲輪があり、そこに登ってくる道は曲輪に入ったところで枡形状に屈曲しているので、これは往時の城道であったと思われる。また下方の道の一部は横堀状を呈しており、これも遺構と思われる。以上の他に、主郭の北斜面・舌状曲輪の付け根の北斜面に竪堀が見られる。以上が佐野山城の遺構で、戦国末期まで使われた城にしては、縄張り面の技巧性はあまり感じられず、後部尾根の防御も小堀切1本だけと貧弱で、少々物足りなく感じる。<br />　尚、『日本城郭大系』には石垣があると書かれているが、現地では確認できなかった。掲載されている縄張図も実態とは少々異なっているので、誤認であろうか。また現地解説板の縄張図も実態とかけ離れており、何を誤認したものか、不思議に思う。<br /><div style="text-align:right;">東斜面の帯曲輪群→<img border="0" alt="DSCN6542.JPG" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/DSCN6542.JPG" width="320" height="240" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/DSCN6542.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></div>↓MPI赤色立体図で見た佐野山城（出典：全国Q地図〔国土地理院測量成果〕）<br /><a href="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-04-2720175554.png.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="スクリーンショット 2026-04-27 175554.png.jpg" src="https://atenzasports23z.up.seesaa.net/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-04-2720175554.png-thumbnail2.jpg" width="640" height="427" onclick="location.href = 'https://atenzasports23z.seesaa.net/upload/detail/image/E382B9E382AFE383AAE383BCE383B3E382B7E383A7E38383E38388202026-04-2720175554.png-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br />　お城評価（満点=五つ星）：☆☆☆<br />　場所：<a href="https://maps.gsi.go.jp/#16/36.518059/138.062711/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1" target="_blank">https://maps.gsi.go.jp/#16/36.518059/138.062711/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1</a><br /><br /><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864030359?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/517rpA0fIRL._SL160_.jpg" alt="武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優"></a><br><a target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4864030359?tag=atenzasports2-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優</a><a name="more"></a>

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            <category>古城めぐり（長野）</category>
      <author>アテンザ23Z</author>
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