2026年03月21日

目吹城(千葉県野田市)

DSCN5601.JPG←城跡の現況
 目吹城は、永禄~天正年間(1558~92年)頃の城と伝えられている。伝承では、古くは後三年の役の頃に鎌倉権五郎景政の知行地で、後三年の役で清原武衡の家臣鳥海弥三郎に眼を射られた景政が、豪勇にも自らその矢を抜いて戦い、合戦の後にこの地で傷を治したと言われ、それが「目吹」の地名の元となったとも言うが、伝説の域を出ない。時代は下って永禄年間(1558~70年)には近江から佐々木義信が来住して城を築き直し、また義信の出家後の1582年には小田原北条氏の家臣丸山将監が城主になったとも言う。しかしこれらの伝承も確証はないらしい。

 目吹城は、利根川南方の比高10m程の段丘上に築かれていたらしい。以前は段丘の縁に建つ民家の脇に城址標柱があったらしいが、現在は無住となっていて、民家の周りはトラック展示場や砕石を敷いた空き地に変貌し、標柱も撤去されていた。尚、付近には城宿、門城などの地名が残っているらしい。また城跡推定地の西方約1kmのところには、「鎌倉権五郎目洗いの池」がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.969073/139.892849/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

エミシはなぜ天皇に差別されたか: 前九年の役と後三年の役 - 林 順治
エミシはなぜ天皇に差別されたか: 前九年の役と後三年の役 - 林 順治
ラベル:中世崖端城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(千葉) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年03月20日

温井館(石川県七尾市)

DSCN5285.JPG←館跡の石碑
 温井館は、能登守護畠山氏の重臣温井氏の館があったと伝えられている。温井氏の事績は天堂城の項に記載する。応永年間(1394~1428年)の畠山氏入国以前から温井氏の館がこの地にあったとされる。しかし温井氏の本領大屋荘からは離れており、また能登畠山氏入国後にその居城として整備された七尾城からも少し離れており、なぜこの地に居館を築いたのかはよくわからない。分領がこの地にあって、一族を代官として置いたものだろうか?

 温井館は、舘山と呼ばれる独立丘陵上にある。現在は丘陵北西端に墓地があり、そこに温井舘址と刻まれた立派な石碑が建っている。最近公開された1mメッシュの赤色立体図を見ると、墓地のある場所は方形の高台となっており、周囲に帯曲輪らしい平場もある。以前は北中腹に駐車場もあり、整備されていたようだが、能登半島地震の影響もあるのだろう、現在は薮に覆われていて、駐車場も利用することができない。登道の脇には舘山と刻まれた石板もあるが、薮の中に埋もれていて最初はその存在に全く気付かなかった。残念な状況である。

↓MPI赤色立体図で見た温井館(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z温井館MPI赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.035595/136.900487/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城 - 香川元太郎
ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城 - 香川元太郎
ラベル:居館
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(石川) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年03月19日

豊田城(富山県富山市)

DSCN5568.JPG←城跡に建つ火宮社
 豊田城は、1570年代に神通川東方の段丘上にあった城である。1578年、越中に侵攻した上杉謙信が、豊田城を攻撃するために一夜にして稲荷砦を築いたと言われている。城主としては、江上重左衛門・竹島五郎左衛門・丹波権平の名が伝わっている。

 豊田城は、前述の通り段丘辺縁部に築かれており、現在も南の国道8号線から坂道を登った上にある。ここは西と南が高さ3m程の崖になっていて、往時城の下には泥田が多い要害地形であったらしい。現在館跡は火宮社が建っており、周囲は住宅地となっていて、市街化により遺構は完全に湮滅している。周囲に残るわずかな切岸地形が城の名残を留めている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.726444/137.231542/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

北陸の名城を歩く 富山編 - 佐伯 哲也
北陸の名城を歩く 富山編 - 佐伯 哲也
ラベル:中世崖端城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(富山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年03月17日

新庄城(富山県富山市)

DSCN5566.JPG←湾曲している小学校東側の道路
 新庄城は、越中に侵攻した越後上杉氏の前進基地となった城である。文献上の初見は1520年で、越後の長尾為景が神保慶嗣らを討つため越中に進攻して新庄に布陣し、慶嗣を自刃に追い込んだ「新庄の合戦」が記録されている。しかし発掘調査の結果では、それ以前にも室町時代の館跡が確認されている。その後、天文年間(1532~55年)には神保氏配下の三輪飛騨守が築城し、代々居住した。1572年、上杉謙信の部将鰺坂長実が在城し、同年5月に一向一揆勢が富山城を攻略すると、新庄城は上杉氏の富山城攻撃の前線基地となった。1580年、織田方の神保長住が新庄城を攻撃し、その後織田氏の部将佐々成政が越中を平定すると、新庄城は佐々氏の支城となった。1583年、上杉方の土肥政繁の部将杵屋平左衛門に攻略され、一時新庄城が奪われた。佐々成政が越中から退去すると、前田氏の城となり、1615年の一国一城令によって廃城となった。その後、加賀藩3代藩主前田利常によって城跡に御陣屋が作られたと言う。

 新庄城は、富山城の東方約3.8kmの位置にある。この地は東に常願寺川、西に荒川を望む要害であり、北陸道に面する交通の要衝でもあったため、早くから軍事上の重要拠点であった。本丸と推定される高台は、かつて御屋敷山と呼ばれていたが、現在は新庄小学校の校地に変貌している。推定復元では、主郭・副郭・出丸の3郭を東西に連ねた連郭式で、周囲を堀で囲んでいたと考えられている。現在は市街化で遺構は完全に湮滅しているが、堀跡らしい水路が見られる他、小学校周囲の道路が弓なりに湾曲している部分があり、かつての堀跡を想起させる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.701650/137.252176/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

上杉謙信とその一族 (戦国大名の新研究) - 黒田基樹, 前嶋 敏
上杉謙信とその一族 (戦国大名の新研究) - 黒田基樹, 前嶋 敏
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(富山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年03月15日

今泉城(富山県富山市)

DSCN5552.JPG←城址碑と解説板
 今泉城は、上杉氏勢力によって普請されたことが伝わる城である。1574年に上杉謙信の部将河田長親から越後の吉江資堅に宛てた書状によると、3月に今泉城の「普請」等を命じており、この頃までには築城されたと思われる。一説にはそれ以前から存在し、1571年に越中に進撃して栂尾城猿倉城の2城を築いた飛騨の武将塩屋筑前守秋貞が今泉城を攻略したとも言われるが明証はない。謙信の没後の1578年10月4日、越中中央部に進出した織田氏勢力が上杉勢を撃破した月岡野の戦いで、今泉城にいた上杉勢は没落し、以後織田方の斎藤氏が城主となった。しかしまもなく廃城となったと推測されている。

 今泉城は、富山城の南方約2.6kmの位置にある。周囲に沼や低湿地が広がる微高地に築かれており、当時は越中と飛騨を結ぶ飛騨街道がこの付近を通っていて、今泉城は越飛間の交通を押さえる役割を果たしていた。現在は市街地の只中にある。日枝社に案内板と石碑が建っているが、主郭はそこから南西約80mのところにあったらしい。市街化で遺構はおろか痕跡すら残っておらず、戦後まもなくの航空写真を見ても既に一面の水田地帯に変貌していて、どの様な縄張りであったかも皆目わからない。失われた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【日枝社の位置】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.669851/137.213852/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

図説 上杉謙信 - 今福 匡
図説 上杉謙信 - 今福 匡
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(富山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年03月13日

城ヶ山城(富山県富山市)

DSCN5505.JPG←推定主郭の堀切らしい地形
 城ヶ山城は、今から700年程前にに諏訪左近と言う武将が構えた城と伝えられるが、詳細は不明。700年程前というと鎌倉時代末期頃であろうか。現在は全域が城ヶ山公園となって公園化されており、改変が進んでいて、どこからどこまでが城域であったのかも明確にできない。かなり広い丘陵地で、仮に山頂の標高200mの平場を主郭と考えると、主郭の背後には堀切状の地形があり、また主郭の北東下方には円形の二ノ郭らしい平場がある。この平場の後部は一段高い櫓台のようになっている。二ノ郭らしい平場の東下方には芝生公園があるが、その東に一段高い大きな高台があり、これも曲輪跡であった可能性がある。更に丘陵の北東先端部にも、先端に円形の高台を伴った広い平場があり、これも曲輪であった可能性がある。もしこれらが本当に曲輪だったとすると、相当に広大な城だったということになり、そんなものが鎌倉末期に地頭などの土豪によって作られたとは到底考えられない。或いは、最後に書いた丘陵の北東先端部の平場だけが、城域だったのかもしれない。地形的には戦国時代にも山城が構えられても不思議ではないのだが、戦国期の伝承がないのも不思議である。ここでは推測だけ記載して、後究に待ちたい。
推定二ノ郭後部の櫓台らしい地形→DSCN5470.JPG
↓赤色立体図で見た城ヶ山城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z城ヶ山城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.572644/137.131217/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

北陸の名城を歩く 富山編 - 佐伯 哲也
北陸の名城を歩く 富山編 - 佐伯 哲也
ラベル:中世山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(富山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年03月11日

平式部館(石川県志賀町)

DSCN5245.JPG←土塁らしき土盛り
 平式部館は、能登守護畠山氏の家臣平式部太夫の居館と伝えられる。平式部の事績は伝わっていないが、畠山氏の重臣として天文年間(1532~55年)に平総知、天正年間(1573~92年)に平堯知がおり、その居館であった可能性もあると言う。

 平式部館は、現在浄真寺の境内となっている。南東から南西にかけて急崖で囲まれた高台で、境内南西角に土塁らしい土盛りがある。それ以外に明確な遺構は見られない。尚、館跡の南東には江戸時代の大庄屋、平家の屋敷と庭園があるが、平式部太夫の子孫と言われている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.008273/136.758197/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

能登中世城郭図面集 - 佐伯 哲也
能登中世城郭図面集 - 佐伯 哲也
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(石川) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年03月09日

越中御所(富山県射水市)

DSCN5137.JPG←荒屋神社
 越中御所は、流れ公方と呼ばれた室町幕府10代将軍足利義材(後の義稙)が越中在国中に拠点を置いた場所である。1493年、管領細川政元によって明応の政変が起き、義材の将軍職を廃して清晃を新将軍に擁立した(11代将軍義澄)。幽閉された義材は、嵐の夜、近臣数人を連れて脱出し、自身の有力与党である畠山氏の領国の一つ、越中国に下向した。そして、畠山氏の重臣で越中守護代の放生津城主神保長誠に迎えられ、放生津に落ち着いた。長誠は義材のために将軍御所を造営した。これを越中御所と呼び、越中在国中の義材のことを越中公方と呼んでいる。

 越中御所の正確な場所は不明であるが、荒屋神社付近にあったらしい。神社境内の脇に「荒屋神社 周辺のご案内」という解説板があり、その中に「室町幕府将軍 足利義材ゆかりの地」と言う項目があり、越中御所のことが書かれている。放生津八幡宮と放生津城の中間に当たるこの付近には、往時神保氏や将軍家関係者が多数住んでいたらしい。現在では一面の市街地である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.778747/137.093069/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

室町幕府将軍列伝 新装版 - 榎原雅治, 清水克行
室町幕府将軍列伝 新装版 - 榎原雅治, 清水克行
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(富山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年03月07日

太閤山陣所(富山県射水市)

DSCN5100.JPG←太閤山陣所の現況
 太閤山陣所は、1585年の豊臣秀吉による富山の役(佐々成政征伐)の際、陣を張った場所と伝えられる。開発前は比高100m程の丘があり、土塁が残り、開発前の発掘調査では二重の溝跡が見つかったらしい。その後丘は削り取られて遺構は消滅し、パチンコ店の駐車場となったが、現在はパチンコ店さえもなくなって住宅地に変貌している。東には平地を挟んで白鳥城のある呉羽丘陵が見える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.703804/137.103474/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

図説 豊臣秀吉 【オールカラー】 - 柴裕之
図説 豊臣秀吉 【オールカラー】 - 柴裕之
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(富山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年03月05日

小白山砦(富山県南砺市)

DSCN5078.JPG←解説板
 小白山砦は、広瀬城の出城である。元々は鎌倉時代の関東下知状に記される柿谷寺比定地の裏山の寺地であったとされ、一時期、出城である小白山砦が置かれ、後に若宮社が建てられた。この若宮社は明治時代に場所を移されたため、旧若宮社跡は「元若宮」と呼ばれている。

 現在の若宮社の南西にある車道脇に解説板が立っている。小白山砦の場所は、解説板から70~80m程南西にある傾斜面の上部だと思って夏の草むらを探索したら、南斜面に竪堀状の地形が見られたので、これが遺構かもと考えた。しかし後で調べたら、そこより南東200mの位置にある丘の上が旧若宮社=小白山砦であったらしい。ただ1mメッシュの赤色立体図で確認すると、山頂に平坦地があり、背面半周ほどにわたって土塁が残っているようである。いずれにしても大した遺構ではなさそうである。

 お城評価(満点=五つ星):ー(遺構未確認のため評価なし)
 場所:【当初砦跡と考えた場所】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.548728/136.840034/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【実際の砦の位置】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.547597/136.838204/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

北陸の名城を歩く 富山編 - 佐伯 哲也
北陸の名城を歩く 富山編 - 佐伯 哲也
ラベル:中世平山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(富山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする