2026年02月23日

岩木砦(富山県富山市)

DSCN5021.JPG←わずかに残る土塁
 岩木砦は、飛騨国の武将塩屋筑前守秋貞が斎藤次郎右衛門が拠る城生城を攻撃するために築いた付城と伝えられる。ただそれ以前から、城生城の東の出城として斎藤氏による砦が置かれていた可能性がある。『三州志』では、秋貞は嫡男監物・次男三平と共に越中に出陣し、栂尾城猿倉城の2城を築いてこれに拠り、城生城対岸に向城として岩木砦を築いて家臣の杉政三郎右衛門を置いて、城生城の斎藤氏を攻撃したとある。この時、斎藤氏は上杉謙信に救援を求め、上杉方は栂尾城を攻めて秋貞を飛騨へ追ったと伝えられる。

 岩木砦は、城生城から神通川を挟んだ北東約900mの位置に築かれている。現在は墓地や水田に変貌しており、遺構はかなり失われているが、わずかに墓地の北側に土塁の跡が小さな土盛りとなって残っていて、そこに標柱が立っている。古い史料には、北に虎口や馬出の遺構があり、本郭とは別に東西六間・南北八間の一郭や、堀・土塁の跡も残っていたとある。現状からではどのような縄張りの城だったのかは全くわからなくなっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.579337/137.186955/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5) - 佐伯哲也
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ラベル:中世崖端城
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2026年02月21日

猿倉城(富山県富山市)

DSCN4950.JPG←腰曲輪群に見られる横堀
 猿倉城は、飛騨国の武将塩屋筑前守秋貞が1571年に越中へ勢力を伸ばす過程で築いたとされる。上杉謙信の家臣長尾景直の書状によれば、1571年に秋貞は、飛騨から越中へ出軍して上杉軍に従軍していたが、4月22日夜、突如退却して猿倉山に城を普請した。『三州志』では、秋貞は嫡男監物・次男三平と共に越中に出陣し、栂尾城・猿倉城の2城を築いてこれに拠り、城生城対岸に向城として岩木砦を築いて家臣の杉政三郎右衛門を置いて、城生城の斎藤氏を攻撃したとある。この時、斎藤次郎右衛門は上杉謙信に救援を求め、上杉方は栂尾城を攻めて秋貞を飛騨へ追ったと伝えられる。その後、織田信長の部将佐々成政が越中を平定すると、猿倉城は佐々氏の支城となったらしいが、1585年の豊臣秀吉による富山の役の際、金森長近の攻撃によって落城したと伝えられる。
 尚、城主については寺島三八郎・三木秀綱など別説もあるが、史実かどうかは不明。

 猿倉城は、神通川の東岸にそびえる標高344.4mの猿倉山に築かれている。この地は越中の飛騨口に当たり、富山から南下した飛騨街道が北西麓の笹津で東道と西道に分かれる交通の要衝であった。城跡は現在公園化されており、遺構の改変が見られるが、概ねの遺構は残っているようである。西中腹にある駐車場から登山道が整備されているで、迷うことなく登ることができる。山頂に東西に長い主郭があるが、郭内の西と東では高さが異なっているので、公園化される以前は東西2郭で構成されていたのかもしれない。現在はゆるやかなスロープで繋がっていて、高い東側には展望台が建っている。主郭の東斜面には4~5段程の腰曲輪群が築かれ、その一部は土塁を築いた横堀となっている。不思議なのは、地形から推測すると大手は北西にあったと思われるが、こちらには曲輪が築かれた形跡がない。登山道敷設で破壊された可能性もあるが、登城路がどのように設定されていたのか、現状からではよくわからない。いずれにしても、縄張りは比較的単純であるが、富山平野を眼下に一望できる要地である。
主郭の現況→DSCN4936.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.555109/137.228437/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

佐々成政(シリーズ・織豊大名の研究11) - 萩原大輔
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ラベル:中世山城
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2026年02月19日

新城古城(愛知県新城市)

DSCN4927.JPG←城跡に立つ標柱
 新城古城は、1532年に菅沼定継が築いて大谷城から居城を移したとされる。大谷城に対して新城と呼ばれたが、後の1576年に奥平信昌が築いた新城城と区別するため、後年に新城古城と呼称された。定継は田峯菅沼氏の嫡流であったため、数年後に田峯城に移って家督を継ぎ、代わって弟定氏が新城古城に入った。1556年、亀山城主奥平貞勝が今川氏から離反した際、定継は奥平氏に与して蜂起した。しかし実弟たちや主要な支族の多くは今川方に留まったため、一族相克の状況となり、同年8月に今川義元の軍勢に攻撃されて定継は討死した。1562年、野田城を押さえていた今川勢は、元城主の菅沼定盈に城を奪還され、今川勢は撤退の帰路、新城古城を攻撃した(石田合戦)。定氏は今川勢を撃退したが、損傷が著しかったためか新たに杉山端城を築いて居城を移し、新城古城は廃城となったと言う。

 新城古城は、豊川北岸の幽玄川との合流点西側に築かれていた。往時は60m×60mの規模の方形単郭の城であったとされ、南以外の三方に土塁を廻らしていたらしい。現在は住宅地と畑に変貌しており、遺構はほとんど残っていない。車道脇の植込みに城址標柱が立っているが、ここはおそらく城跡の北西角に当たると思われる。後で調べたら、東側の幽玄川に面した所に高さ30cm程の土塁状の高まりが30m程に渡って残っているらしいが見逃した。いずれにしても、ほとんど失われた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.893489/137.494534/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

駿河今川氏十代 (中世武士選書25) - 小和田哲男
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ラベル:中世崖端城
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2026年02月17日

新城城(愛知県新城市)

DSCN4901.JPG←南東角の土塁跡
 新城城は、1575年の長篠合戦の際に長篠城を死守して織田・徳川連合軍の大勝の要因を作る大功を挙げた奥平信昌が、戦いの翌年の1576年に新たに築いた城である。信昌は、元の名は貞昌と言ったが、長篠合戦の大勝の後、織田信長は貞昌の軍功を称賛して偏諱を与え、以後奥平信昌と改名した。そして徳川家康の長女亀姫を娶り、家康の女婿として厚遇された。1590年に徳川氏が関東に移封となると、信昌は上野宮崎城に移った。その後、新城城は吉田城主池田輝政の所領となり、片桐半右衛門が城代となった。その後何人かの城主の交代を経て、1645年に一旦廃城となったが、1648年に旗本の菅沼定実が7千石で新城に入部し、城跡に陣屋を築いた。以後、幕末まで旗本菅沼氏の本領として存続した。

 新城城は、豊川に臨む台地南縁部に築かれている。現在は新城小学校の校地に変貌しているので、遺構はかなり湮滅している。しかしグラウンドの南東端と南西端に土塁跡が残り、その裏手には深い堀跡がわずかに残っている。最近は不審者侵入防止などのため休日に閉門されている学校が多いが、ここは市の指定史跡でもあり、遺構が見れる様になっていたのはありがたかった。
南西部の堀跡→DSCN4906.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.896917/137.498085/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

図説・江戸三百藩「城と陣屋」総覧: 決定版 (東国編) (歴史群像シリーズ) - 溝口彰啓, 三浦正幸
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ラベル:中世崖端城 陣屋
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2026年02月15日

武田勝頼才ノ神本陣(愛知県新城市)

DSCN4751.JPG←空堀状地形
 才ノ神本陣は、長篠合戦の主戦場、連吾川沿いの平地を眼前に望む丘陵地に置かれた、武田勝頼の本陣である。長篠城を包囲していた勝頼は、織田・徳川連合軍の進軍を受けて軍議を開いた後、長篠城包囲戦の本陣医王寺山から清井田へ進出し、更に才ノ神へ本陣を進めて決戦に挑んでいった。ここで全軍を指揮していたが、戦況の推移に伴い更に内藤昌豊が陣を置く天王山へ陣所を移して昌豊と共に指揮を執ったとも言われる。

 才ノ神本陣は、武田軍の武田信廉・内藤昌豊・原昌胤らが激戦を繰り広げた柳田前激戦地の後方の、比高35m程の丘陵上にある。山林となっているが、散策路が整備されていて、丘陵頂部に祠と石碑・解説板が立っている。明確な遺構は少ないが、丘陵の北西などに空堀状の地形や、堀切状の切通し道が見られる。尚、現地解説板の呼称は「武田勝頼才ノ神観戦地」であるが、「観戦」とはあまりにも勝頼をバカにした様な呼称なので、ここでは他の案内板に書かれていた「武田勝頼才ノ神本陣」の呼称を採用した。
本陣地の頂部付近→DSCN4740.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.923459/137.529872/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

長篠合戦と武田勝頼 (敗者の日本史 9) - 平山 優
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ラベル:陣所
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2026年02月13日

小川路城(愛知県新城市)

DSCN4659.JPG←西端の湾曲した土塁
 小川路城は、小川路右衛門が築城したと伝えられる。後に川路城主設楽氏の支城となり、設楽甚三郎や設楽兵庫の居城となったと言う。

 小川路城は、連吾川と大宮川に挟まれた台地先端部に築かれている。先端の山林の中に、東西に伸びる土塁が残っており、西端部は郭外に向かって湾曲した1/4円弧状の土塁があり、東端には虎口が築かれた土塁がある。土塁内側の曲輪も断崖線に沿って東西に長く伸びているが、郭内はわずかな段差で2段に分かれている。市の史跡となり、標柱はあるが、解説板はない。
東端の虎口→DSCN4682.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.907972/137.520371/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

東海の名城を歩く 愛知・三重編 - 中井 均, 鈴木 正貴, 竹田 憲治
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ラベル:中世崖端城
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2026年02月11日

岩広城(愛知県新城市)

DSCN4641.JPG←主郭の現況
 岩広城は、鎌倉末期の1312年に設楽重清によって築かれたと伝えられる。設楽氏は元々増瑞寺屋敷を本拠としていたが、重清は豊川と半場川が合流点に突き出た断崖先端部に城を構えて本拠とした。以後設楽氏は岩広城を本拠とし、一族の城として来迎松城川路城を築いて勢力を拡大した。

 岩広城は、前述の通り断崖先端部の半島状台地に築かれている。城跡はほとんど水田や畑となっていて、明確な遺構は北東端にあるL字型の土塁だけである。またこの半島状台地の基部には一段低くなった畑地があり、堀跡のようであるが、堀形はかなり失われている。結局、改変が進んでいて往時はどのような縄張りの城だったのかはよくわからず、残念な状況である。尚、城から北東約350mの場所には、築城主である設楽重清夫妻の墓とされる「全光塚」がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.904312/137.516556/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める) - 松岡 進
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ラベル:中世崖端城
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2026年02月09日

来迎松城(愛知県新城市)

DSCN4616.JPG←わずかに残る土塁跡
 来迎松城は、中世に東三河の設楽郷一帯を領した土豪設楽氏の城館群(増端寺屋敷岩広城など)の一つである。戦国時代には川路城主設楽越中守貞通の属城で、弓の名手として知られる家老の夏目久四郎がこの城を守っていたとされる。主君貞通は、まだ松平元康と名乗っていた徳川家康が今川義元討死後に今川氏から離反して自立した時、早い段階から家康に従ったが、夏目氏も貞通と行動を共にし、1573年の野田城攻防戦や1575年の長篠合戦でも貞通に従って活躍したと言う。

 来迎松城は、大宮川西岸の台地上に築かれている。現在は、JR飯田線が城域中央部を貫通し、大きく破壊を受けている。そのため遺構はほとんど残っていないが、1箇所だけ北東部に土塁の一部が塚状に残っており、現在はその上に稲荷大明神と宝篋印塔2基が祀られている。遺構はわずかであるが、市の史跡に指定され、解説板も立てられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.911544/137.517418/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書 増補改訂版 - 小和田哲男, 加藤理文
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ラベル:中世平城
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2026年02月07日

増瑞寺屋敷(愛知県新城市)

DSCN4612.JPG←北側の空堀
 増瑞寺屋敷は、この地の土豪設楽氏が鎌倉時代に最初の本拠とした居館と言われている。設楽氏は、平安末期の武士伴助高の子孫で、助高は八名・設楽郡の領主となり、その子助兼は設楽大夫を称した。設楽氏は代々源氏とのつながりが深く、鎌倉時代に三河守護となった足利氏の被官となり、元弘の乱に始まる倒幕戦では足利尊氏に従う武将の中に設楽五郎左衛門尉の名が『太平記』に記されている。また鎌倉末期には、設楽氏は豊川沿いの岩広城に居城を移したらしい。戦国後期には徳川家康に従った結果、江戸時代には徳川家の旗本として家名を残した。

 増瑞寺屋敷は、現在はその名の通り増瑞寺の境内となっている。増瑞寺は、1574年に野田城主菅沼定盈が創建し、長篠合戦後に新城城を築いた奥平信昌が再建した寺だと言う。遺構はかなり湮滅しているが、北から西にかけてL字型の空堀が残っている。ただ夏場に行ったので、堀が草木に覆われてしまっていて、規模が把握しにくかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.913642/137.517320/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

太平記 全6巻: 美装ケースセット (岩波文庫) - 兵藤 裕己
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ラベル:居館
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2026年02月05日

羽柴秀吉陣地(愛知県新城市)

DSCN4556.JPG←陣跡の現況
 羽柴秀吉陣地は、1575年の長篠合戦の際、織田信長の家臣羽柴秀吉が陣を置いた場所である。陣地は織田信長の茶臼山本陣の隣の宗国台地にあり、織田・徳川連合軍の最左翼に位置していた。秀吉はここから連吾川最前線に陣を移したと言う。現在陣跡は丘陵地の水田地帯となり、その最上段の小さな平場に石碑と設楽原古戦場いろはかるたの看板が立っている。水田に変貌しているので、改変を受けていると思われるが、現状見る限りでは明確な遺構はなさそうである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.929525/137.512457/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

長篠合戦と武田勝頼 (敗者の日本史 9) - 平山 優
長篠合戦と武田勝頼 (敗者の日本史 9) - 平山 優
ラベル:陣所
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