
←高架下に残る本丸石垣
三原城は、毛利両川の一人で智将として知られた小早川隆景が築いた近世城郭である。隆景は1552年6月に本拠地を
新高山城に移したが、因島村上氏らの瀬戸内海上勢力の統御や、情報収集の必要性から、三原浦に浮かぶ大島・小島を利用し、前進中継基地として三原要害を築いた。これが三原城の前身である。その後、織田信長との抗争の進展に伴い、三原要害は一段と重要性を増し、三原城として発展・整備された。1568年9月、足利義昭を奉じて入京した織田信長が、天下統一に向かって動きを活発化させると、毛利方では小早川隆景・安国寺恵瓊らの外交担当者の動きが活発となり、特に隆景は、本拠地新高山城よりも内海交通の要衝である三原城にあって、より迅速な情報分析を行った。1576年2月、信長に京都から追放されていた将軍足利義昭が、毛利氏を頼って備後国鞆に動座し、毛利氏に対して自分を奉じて信長に抵抗するよう求めた。同年5月、毛利輝元は信長との対立の意志を固め、以後、織田氏との本格的な抗争が開始された。その中で三原城は、毛利水軍の重要拠点として機能し、海から直接船で出入りできる構造としたことで、水軍の船を格納するドックの役割も果たした。信長の部将羽柴秀吉を主将とする織田軍が毛利攻めを開始すると、初めは毛利方に有利に展開した戦局も、備前の宇喜多直家をはじめ織田方に通ずるものが出始めると徐々に不利となり、毛利方は後退を余儀なくされ、ついに備前の支配権を失った。更に1581年10月には
鳥取城が陥落し、翌82年4月、隆景の直轄支配地にある
備中高松城の包囲攻撃が開始された。これより先、隆景は三原城在番に対して書状を送り、城の修築を命じている。同年6月に本能寺の変が起きると、一足早く本能寺の変の報に接した秀吉は戦局優位のうちに毛利氏との講和を成立させ、直ちに明智光秀討伐に向かって引き返した(中国大返し)。一方、軍勢をまとめて三原に帰城した隆景は、めまぐるしい中央の情勢の変転と、戦闘における火器の使用に対処するため、三原城の修築に着手し、海城兼軍港として強化した。その後、秀吉が天下の権を握ると、隆景は秀吉麾下の大名として四国・九州に転戦し、伊予を統治後、1587年に筑前に転封を命じられた。九州在勤中には三原城は重臣が留守を預かっていたが、あらゆる機会をとらえて三原に立ち寄ったとされる。秀吉は隆景を高く評価し、徳川家康・毛利輝元らと共に豊臣五大老の一人として中央政治に参画した。秀吉の外甥秀秋を養子に迎えると、1595年11月、隆景は秀秋に筑前を引き渡し、一族譜代の臣を伴って本貫地三原に隠居した。三原城に戻ると早速城の本格的な修築を開始し、多数の人員を動員して石垣の大石をすべて三原に運び、これを使って三原城の石垣を積み直した。三原城とその城下町はほぼその原型を整えたが、三原隠居後わずか1年半余の1597年6月12日、隆景は三原城内で没した。その後、三原は毛利氏の直轄地となるが、1600年の関ヶ原合戦で西軍の毛利氏が敗北すると、安芸に福島正則が入り三原もその支配下となり、重臣5人を三原城の警備に当たらせた。1619年、福島氏が
広島城の無断修築の咎で改易されると、安芸には浅野氏が入り、その筆頭家老浅野忠吉が三原城に入った。以後、明治維新を迎えるまでその子孫が代々城主を勤めた。
三原城は、高山城・新高山城と合わせて小早川氏城跡として国の史跡となっているが、市街地の平城の宿命で、市街化によって遺構はかなり断片的になっている。本丸の中心部をJR山陽本線と山陽新幹線が東西に貫通し、駅の南側は遺構がかなり失われている。しかし駅の北側の天守台と周囲の堀はよく残っており、往時の威容の断片を垣間見ることができる。天守台に駅構内から登ることができる珍しい城でもある。この他、本丸南東隅の船入櫓跡と、本丸南西端の臨海一番櫓跡とその北の中門の石垣がそれぞれ残存している。本丸でさえこの有様なので、二ノ丸・三ノ丸や外郭に至っては見る影もない。国史跡とは名ばかりの、変わり果てた姿である。
船入櫓の石垣→


←本丸中門の石垣・堀
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:
https://maps.gsi.go.jp/#16/34.401191/133.082641/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
戎光祥郷土史叢書10 備後国衆と戦国毛利氏――一族の系譜・合戦・城郭 - 田口義之
posted by アテンザ23Z at 23:15|
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古城めぐり(広島)
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