2026年07月08日

千光寺山城(広島県尾道市)

DSCN9201.JPG←八畳岩
 千光寺山城は、この地の豪族木梨杉原氏が尾道港の取り締まりのため築いた城である。築城には2説あり、永禄年間(1558~70年)に杉原元清によって築かれたとも、或いは元清の子元恒が1584年に築いたとも言われる。いずれにしても木梨杉原氏は、尾道水道と経済都市尾道をはじめ瀬戸内を一望できる千光寺山城を築き、鷲尾山城から居城を移した。1591年に豊臣秀吉の山城禁止令によって廃城となり、杉原氏は鷲尾山城の山麓に居館を築いて移ったと言う。

 千光寺山城は、尾道市街地西方の千光寺山に築かれていた。しかし現在は、全域が観光名所である千光寺公園に変貌しており、改変も多数あってどの様な縄張りだったのか、想像することも難しくなっている。ロープウェイ駅の北側の展望台が設置された最高所の平場が主郭と思われ、往時は千畳敷と呼ばれていたらしい。主郭は東西に長く、北側には腰曲輪らしき地形も見られるが、改変されているので遺構がどうかわからない。主郭の北西に坂を下ると、一段低くY字型の平場がある。二ノ郭であったと思われる。このY字に分岐した2つの尾根の内、北尾根の北端に大岩があるが、八畳岩と呼ばれていたらしく、ここに天守があったとの伝承があるらしい。その他、周囲には公園化された平場がいくつもあるが、どこまで曲輪として使われた跡なのかは全くわからない。結局、明確なのは眺望に優れた地勢だけである。現地には解説板はおろか標柱もないので、ここに眺望を見に来た観光客は、ここに城があったとは想像すらしないだろう。
主郭北側の腰曲輪状地形→DSCN9208.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.410730/133.197247/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

尾道ねこ町さんぽ道 - 柏木 きなこ
尾道ねこ町さんぽ道 - 柏木 きなこ
ラベル:中世山城
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2026年07月06日

馬神城(広島県尾道市)

DSCN9116.JPG←二ノ郭
 馬神城は、因島村上氏の支城である。創築は不明だが、『日本城郭大系』では因島村上氏が因島を掌握したと思われる15世紀なかばに、北方の敵に対する見張所及び拠点として築かれたと推測している。1561年、青木城を築城した村上新蔵人吉充の命により、側用人頭で第5家老末長有馬介景光(矢冶馬介景親)が城将となり、用人4家、小柱2家、使番5家、大目付2家と18(横目付)連中を率いて居城したと伝えられる。

 馬神城は、因島の北西に突き出た標高95.6mの馬神山に築かれている。馬神山は現在は陸続きになっているが、往時は重井湾に浮く離島であったとらしい。南麓の車道脇から登道が付いている。城は、山頂に「く」の字に折れた長円形の主郭を置き、その西に1段腰曲輪があり、更に南西に二ノ郭(木ノ丸というらしい)を配置している。二ノ郭の前面下方には、岩場の間に小さな平場が2つあり、これらも段曲輪だったと思われる。以上が馬神城の遺構で、小規模な城砦であるが、因島村上氏の支城群の中では遺構がはっきりしている。
主郭→DSCN9124.JPG
↓MPI赤色立体図で見た馬神城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-07-02 232516.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.345661/133.139332/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

海賊と海城: 瀬戸内の戦国史 (平凡社選書 168) - 山内 譲
海賊と海城: 瀬戸内の戦国史 (平凡社選書 168) - 山内 譲
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2026年07月03日

青陰城(広島県尾道市)

DSCN9011.JPG←主郭の虎口
 青陰城は、因島村上氏の戦国期の居城と考えられている。伝承では、南北朝期に村上義弘が青陰城を築いたと言われる。安芸の北朝方の主力は小早川氏で、南朝勢力との抗争の中で芸予諸島にその勢力を拡大していったが、これに対する南朝軍は伊予衆が主力で、村上義弘も南朝方として活躍し、因島を東西に走る山稜に青陰城や堂崎山城を築いて南下する北朝勢力の阻止を図っていたと推測されている。特に1343年には堂崎山城で南北両軍の激しい戦いが繰り広げられており、この戦いに関連して青陰城が築かれた可能性もある。一方、因島村上氏の居城は、最初は長崎城であったと考えられており、その後向島の余崎城、青木城、そして青陰城へと移したと考えられている。

 青陰城は、標高275mの青影山に築かれている。長崎城と同様、県の史跡、及び日本遺産「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島」の構成文化財となっている。登山道が整備され、城跡も綺麗に整備されている。最高の眺望を持った城で、特に南方には瀬戸内に浮かぶ島々が広く見渡せる。城の縄張りは、東西に長く伸びた尾根の両端に長円形の主郭・二ノ郭を配置し、その間を鞍部の細尾根の曲輪で連結した構造となっている。登山道を登っていくと、最初に到達するのは二ノ郭の腰曲輪で、その上に二ノ郭がある。またこの腰曲輪の北東下方にももう1段腰曲輪が築かれている。二ノ郭から西に下ると前述の鞍部の曲輪があるが、その付け根にはわずかに堀切っぽい地形が見られるがあまり明瞭ではない。主郭は、東側に虎口を構築し、その脇に櫓台の様な張り出しがある。主郭の西側に腰曲輪が1段ある。いずれの曲輪も土塁はない。曲輪の規模も大したことはなく、あまり居住性はないので、物見と周辺諸城との連絡を主とした詰城であったと思われる。尚、南麓からの登山道の途中に、石積みのある2段ほどの平場が見られる。普通に考えれば後世の耕地の跡であろうが、往時の番所の跡の可能性も捨てきれない。
主郭→DSCN9014.JPG

↓MPI赤色立体図で見た青陰城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-06-30 214702.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.311759/133.166498/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

瀬戸内の海賊 (新潮選書) - 山内 譲
瀬戸内の海賊 (新潮選書) - 山内 譲
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2026年06月29日

長崎城(広島県尾道市)

DSCN8975.JPG←先端の曲輪跡
 長崎城は、芸予諸島を中心に活動した海賊(水軍)の一、因島村上氏の初期の本拠地と推測されている。1557年に因島村上吉充は厳島合戦で得た尾道水道の南にある向島に新たに築いた余崎城へ居城を移すまで、約180年間の本拠地であったと伝えられる。余崎城へ移ってからは、一族の村上吉之が長崎城に入って守将となったと言う。

 長崎城は、因島の南部、土生港南端にある比高15m程の独立丘陵に築かれている。現在はナティーク城山と言うホテルが建っているが、これは『日本城郭大系』によると、以前は日立造船因島工場の城山クラブという施設であったらしい。元は3段の曲輪があり、海岸には岩礁ピットもあったとされる。周辺は埋め立てされて大きく改変されているが、往時は海に向かって半島のように突き出ており、周りには船隠しがあったと推測されている。一応、県の史跡、及び日本遺産「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島」の構成文化財となっている城であるが、前述の通り丘陵全体が改変し尽くされており、地勢以外に城跡の痕跡はほとんど残っていない。わずかに城山西端に1段低く三角形の小さな平場があり、曲輪の痕跡を留めているだけである。岩礁ピットも、フェリーが発着する桟橋から見たが、わからなかった。
城山の現況→DSCN8964.JPG
↓MPI赤色立体図で見た長崎城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-06-30 215018.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.281163/133.180861/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<村上水軍と毛利>村上水軍 系譜と毛利氏との関係 (歴史群像デジタルアーカイブス) - 森本繁
<村上水軍と毛利>村上水軍 系譜と毛利氏との関係 (歴史群像デジタルアーカイブス) - 森本繁
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2026年06月27日

三原城(広島県三原市)

DSCN8920.JPG←高架下に残る本丸石垣
 三原城は、毛利両川の一人で智将として知られた小早川隆景が築いた近世城郭である。隆景は1552年6月に本拠地を新高山城に移したが、因島村上氏らの瀬戸内海上勢力の統御や、情報収集の必要性から、三原浦に浮かぶ大島・小島を利用し、前進中継基地として三原要害を築いた。これが三原城の前身である。その後、織田信長との抗争の進展に伴い、三原要害は一段と重要性を増し、三原城として発展・整備された。1568年9月、足利義昭を奉じて入京した織田信長が、天下統一に向かって動きを活発化させると、毛利方では小早川隆景・安国寺恵瓊らの外交担当者の動きが活発となり、特に隆景は、本拠地新高山城よりも内海交通の要衝である三原城にあって、より迅速な情報分析を行った。1576年2月、信長に京都から追放されていた将軍足利義昭が、毛利氏を頼って備後国鞆に動座し、毛利氏に対して自分を奉じて信長に抵抗するよう求めた。同年5月、毛利輝元は信長との対立の意志を固め、以後、織田氏との本格的な抗争が開始された。その中で三原城は、毛利水軍の重要拠点として機能し、海から直接船で出入りできる構造としたことで、水軍の船を格納するドックの役割も果たした。信長の部将羽柴秀吉を主将とする織田軍が毛利攻めを開始すると、初めは毛利方に有利に展開した戦局も、備前の宇喜多直家をはじめ織田方に通ずるものが出始めると徐々に不利となり、毛利方は後退を余儀なくされ、ついに備前の支配権を失った。更に1581年10月には鳥取城が陥落し、翌82年4月、隆景の直轄支配地にある備中高松城の包囲攻撃が開始された。これより先、隆景は三原城在番に対して書状を送り、城の修築を命じている。同年6月に本能寺の変が起きると、一足早く本能寺の変の報に接した秀吉は戦局優位のうちに毛利氏との講和を成立させ、直ちに明智光秀討伐に向かって引き返した(中国大返し)。一方、軍勢をまとめて三原に帰城した隆景は、めまぐるしい中央の情勢の変転と、戦闘における火器の使用に対処するため、三原城の修築に着手し、海城兼軍港として強化した。その後、秀吉が天下の権を握ると、隆景は秀吉麾下の大名として四国・九州に転戦し、伊予を統治後、1587年に筑前に転封を命じられた。九州在勤中には三原城は重臣が留守を預かっていたが、あらゆる機会をとらえて三原に立ち寄ったとされる。秀吉は隆景を高く評価し、徳川家康・毛利輝元らと共に豊臣五大老の一人として中央政治に参画した。秀吉の外甥秀秋を養子に迎えると、1595年11月、隆景は秀秋に筑前を引き渡し、一族譜代の臣を伴って本貫地三原に隠居した。三原城に戻ると早速城の本格的な修築を開始し、多数の人員を動員して石垣の大石をすべて三原に運び、これを使って三原城の石垣を積み直した。三原城とその城下町はほぼその原型を整えたが、三原隠居後わずか1年半余の1597年6月12日、隆景は三原城内で没した。その後、三原は毛利氏の直轄地となるが、1600年の関ヶ原合戦で西軍の毛利氏が敗北すると、安芸に福島正則が入り三原もその支配下となり、重臣5人を三原城の警備に当たらせた。1619年、福島氏が広島城の無断修築の咎で改易されると、安芸には浅野氏が入り、その筆頭家老浅野忠吉が三原城に入った。以後、明治維新を迎えるまでその子孫が代々城主を勤めた。

 三原城は、高山城・新高山城と合わせて小早川氏城跡として国の史跡となっているが、市街地の平城の宿命で、市街化によって遺構はかなり断片的になっている。本丸の中心部をJR山陽本線と山陽新幹線が東西に貫通し、駅の南側は遺構がかなり失われている。しかし駅の北側の天守台と周囲の堀はよく残っており、往時の威容の断片を垣間見ることができる。天守台に駅構内から登ることができる珍しい城でもある。この他、本丸南東隅の船入櫓跡と、本丸南西端の臨海一番櫓跡とその北の中門の石垣がそれぞれ残存している。本丸でさえこの有様なので、二ノ丸・三ノ丸や外郭に至っては見る影もない。国史跡とは名ばかりの、変わり果てた姿である。
船入櫓の石垣→DSCN8940.JPG
DSCN8958.JPG←本丸中門の石垣・堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.401191/133.082641/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

戎光祥郷土史叢書10 備後国衆と戦国毛利氏――一族の系譜・合戦・城郭 - 田口義之
戎光祥郷土史叢書10 備後国衆と戦国毛利氏――一族の系譜・合戦・城郭 - 田口義之
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2026年06月23日

新高山城(広島県三原市)

DSCN8628.JPG←礎石の残る本丸
 新高山城は、毛利両川の一人で智将として知られた小早川隆景が築いた山城である。小早川氏は元々沼田川を挟んで対岸にある高山城を居城としていたが、1552年、隆景は対岸の砦に過ぎなかったこの城を大改修して居城を移した。それは、小早川氏の有力庶家であった竹原小早川氏を継いでいた隆景が、本家の沼田小早川家を継いで間もなくのことであった。以後隆景の居城となり、1561年には父元就や兄隆元もこの城を訪れて、山上の居館で茶会や能舞を楽しんだと伝えられる。隆景は1567年から前進基地として三原城を築いたが、引き続き新高山城を居城とした。1582年の本能寺の変後、賤ケ岳の戦いを経て豊臣秀吉が天下の権を握ると、隆景は毛利本家を支えて秀吉に服属した。豊臣政権下で秀吉から暑い信任を得ていた隆景は、伊予や筑前に移封され、伊予湯築城・筑前名島城へと居城を移したが、この間も新高山城は小早川氏の本拠の城として確保された。1595年、養子の秀秋に家督を譲り、三原城を隠居城とした。1596年、本格的な三原城の築城を開始し、新高山城を壊し、その石垣の大石を残らず三原城へ移したと言われる。

 新高山城は、沼田川西岸にそびえる標高197mの山上に築かれている。国の史跡に指定されており、登山道が整備されている。山上にある東西に伸びる尾根を主城部とし、南中央と南西尾根に出曲輪群を配置した縄張りとなっている。本丸は山上尾根の東端部にあり、南西部に、西にある中の丸から通じる枡形虎口を築き、中央下段の平場には建物の礎石群がはっきりと残っている。本丸東端部は高くなった岩山で、詰の丸となっている。詰の丸からは対岸の高山城や南の沼田川流域が一望でき、物見として絶好の位置にある。本丸の西側から北側にかけての斜面に石垣の跡が残っている。三原城に石を運び出したという伝承の通り、石垣はかなり崩れている。本丸の北側にはU字型に張り出した曲輪群があり、その中央の窪地状の所には釣井の段と呼ばれる井戸曲輪があり、内部には複数の石組み井戸が残り、その内の一つは今でも水を湛えている。そして周囲の切岸や曲輪群には石垣が多数散在している。中の丸は西端が高台となった曲輪で、本丸との間の鞍部の平場の中央南には虎口がある。その下には虎口郭が置かれている。中の丸の西尾根には西の丸があり、その北西に北の丸、南西に紫竹丸という曲輪がある。北の丸下方から紫竹丸に通じる武者走りの脇には畝状竪堀が穿たれている。紫竹丸の下にはシンゾウス郭という曲輪群があるが、戦国時代に「御新造」とは主君嫡男の正室のことを指すので、隆景かその養子となっていた秀包の正室が住んでいた曲輪であろうか?一方、中の丸の南斜面には大手道が伸びているが、谷間の大手道の東側には番所跡とされる3段の曲輪、谷間の大手道を登りきった所には隆景が建立した匡真寺があった曲輪がある。匡真寺の南にはY字型の尾根が突き出ており、鐘の段という出丸が築かれている。以上が新高山城の遺構であるが、腰曲輪まで含めて広大な城のほぼ全域が整備されて歩きやすくなっている。遺構の維持のために、すごい努力をしていることがよく分かる。また城跡には井戸や礎石が数多く残り、生活感が強く残る山城である。中世城郭から近世城郭への過渡期の姿が色濃く残っており、貴重である。
釣井の段付近の石垣→DSCN8694.JPG
DSCN8782.JPG←畝状竪堀
↓MPI赤色立体図で見た新高山城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-05-24 223704.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.419903/132.975662/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

小早川隆景: 史料で読みとく生涯 - 本多 博之
小早川隆景: 史料で読みとく生涯 - 本多 博之
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2026年06月11日

頭崎城(広島県東広島市 )

DSCN8372.JPG←横堀の先の畝状竪堀
 頭崎城は、この地の国人領主平賀氏の居城である。平賀氏の出自には諸説あるが、源平合戦における軍功によって、出羽国平鹿郡・安芸国高屋保等を拝領し、鎌倉初期に平鹿郡に下向して平鹿氏を称した。鎌倉後期の文永の役の際、惟長は安芸国高屋保に下向したままその地に留まり、平鹿を平賀に改めて安芸平賀氏の祖となった。平賀氏の当初の居城は御薗宇城であったが、戦国時代に入って戦乱が激化すると1503年に平賀弘保は要害性の高い白山城を築いて居城を移し、更に1523年に高屋保全域を掌握できる峻険な山城として頭崎城を築き、子の興貞に守らせた。その後、大内・尼子の両勢力に挟まれ、白山城の弘保は大内方に、頭崎城の興貞は尼子方に付き、親子で対峙することもあった。1540年、頭崎城は大内義隆の命を受けた毛利元就に攻められて落城し、義隆に押されて弘保の養子となった隆保が城主となった。1551年、陶晴賢の謀反によって大内義隆が討たれると、晴賢の命を受けた元就の攻撃を受け、隆保は城を開いて自害した。その後、元就の周旋で興貞の子広相が平賀氏の家督を継いだ。以後平賀氏は毛利氏の重臣として活躍し、1567年に広相が没すると子の元相が継いだ。元相の時に織田信長の毛利攻め・本能寺の変・豊臣秀吉の全国統一があり、豊臣政権下で毛利氏に属して軍功を重ね、元相は従五位下に叙位され豊臣姓を下賜されたほか、1万8千余石を領する毛利氏家中における大身の一人となった。 1600年の関ヶ原合戦で西軍が敗れ、毛利氏が防長二国に減封されると平賀氏も萩に移ってこの地を去った。

 頭崎城は、標高504mの頭崎山に築かれている。広島県内の中世城郭では毛利氏の本城郡山城に次ぐ広大な城域を持つとされる。実際にスーパー地形の詳細地形図で見ると、主城部の北東と北西の尾根のかなり離れた所まで多数の段が見える。ただあまりに広域過ぎるのと、各段が小さく、位置的にも拡散しているので、どこまでが城郭遺構でどこからが近世以降の耕地化による段なのか、判断がつかない。また限られた時間ではとても全域を踏査することはできないので、主城部だけを見て回った。
 山頂に本丸(甲の丸)を置き、その南から西にかけて腰曲輪を廻らしている。主郭の虎口脇には石垣の一部が残存している。腰曲輪の南には舌状の二ノ丸があり、その東下方に腰曲輪状の三ノ丸があって頭崎神社が建っている。三ノ丸の南には一段高くなった曲輪があり、太鼓の段と呼ばれている。一方、二ノ丸の南西には舌状の煙硝の段という曲輪があり、ここの中央部には巨石があり明治神宮が祀られている。また本丸の北側下方には北郭があり、その東側に4段程の曲輪群が続き、堀切を挟んで東尾根の2段の曲輪がある。北郭の北東部には横堀が穿たれ、その東端部から東に連なる斜面には畝状竪堀が穿たれている。畝状竪堀は、本丸南東尾根ある3段の段曲輪群の下方にも穿たれている。この他、北郭横堀の外側の土塁上には堀状地形が数カ所見られる。土塁の北の方にも平場群や堀状地形が見られるが、山道の開削などで改変されている可能性があり、遺構かどうか判断が難しい。以上が頭崎城の中心部の遺構で、主要な曲輪は整備されているが、それ以外は薮に埋もれている部分も多く、畝状竪堀なども確認がしづらい。鏡山城もそうだったが、頭崎城も県史跡なのだからもう少し整備に力を入れてくれたらと惜しまれる。
本丸虎口の石垣→DSCN8445.JPG
DSCN8336.JPG←北郭北東の横堀
↓スーパー地形で見た頭崎城
z頭崎城_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.479615/132.823179/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

毛利元就 知将の戦略・戦術―――忍従の果て、ついに元就は決起した! (知的生きかた文庫) - 小和田 哲男
毛利元就 知将の戦略・戦術―――忍従の果て、ついに元就は決起した! (知的生きかた文庫) - 小和田 哲男
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2026年06月09日

鏡山城(広島県東広島市)

DSCN8234.JPG←南斜面の畝状竪堀
 鏡山城は、山口の守護大名大内氏が安芸国支配の拠点、および瀬戸内海中央部の掌握を目的として築いた城郭である。築城時期は出土遺物から南北朝時代後半から室町時代にかけてと推定され、古文書での初見は1465年頃の小早川煕平宛細川勝元感状写(小早川家証文)とされる。城の所在する西条盆地は、室町時代には東西条と呼ばれ、南北朝期の1360年代以降大内氏の領地となった。大内氏は鏡山城に「東西条代官」または「東西条郡代」と呼ばれる代官を置き、重臣を任じて統治した。鏡山城は瀬戸内西部に勢力を持つ大内氏と瀬戸内東部地域に勢力を持つ細川管領家との境目に位置したことから、数多くの戦乱に巻き込まれた。応仁の乱では、主要な舞台の一つとして激しい戦いが行われた。 戦国時代に入ると出雲尼子氏が勢力を伸ばし、1523年に尼子経久が多くの安芸国人を味方につけて鏡山城を攻め落とし、一躍大内氏に対抗できる勢力として台頭した。その後1525年頃に大内氏が東西条を奪還するが、拠点をより峻険な盆地西方の杣城(曽場ヶ城)・槌山城へと移したため、鏡山城は廃城となりその役割を終えた。

 鏡山城は、標高135mの鏡山に築かれている。北麓の鏡山公園から登山道が整備されている。山頂に段差で区画された主郭・二ノ郭を並べ、南に三ノ郭・四ノ郭、東に五ノ郭を配置している。主郭はやや細長い三角形の曲輪で、東にある二ノ郭との間の段差には削り残した岩塊がそびえている。二ノ郭は城内でもっとも広い曲輪で、井戸跡が残っている。三ノ郭は腰曲輪的な位置付けで、南の大手道から二ノ郭に登る途中の障壁のような曲輪である。四ノ郭は、実質的に大手の虎口郭で、小さな曲輪で虎口脇に石積みがあるがほとんど薮に埋もれていてわかりにくい。五ノ郭は二ノ郭に次ぐ広さがあり、ここにも井戸跡が残っている。この城の特徴な外周斜面に穿たれた畝状竪堀で、北・北西・南と、五ノ郭の東から南にかけて存在しているのだが、南斜面のもの以外は薮に埋もれていてよくわからない。この他、主郭の西尾根には二重堀切が、また五ノ郭の東尾根にも堀切が穿たれ、それぞれ畝状竪堀と連携しているらしいが、これらもかなり薮に埋もれてしまっている。以上が鏡山城の遺構で、国指定史跡なので城内は整備されていると思っていたのだが、登道や主要な曲輪は整備されているものの、二重堀切や畝状竪堀といった外周遺構はほとんど薮だらけで確認が困難だった。一旦皆伐して整備したものの、その後の維持に失敗した、よくある例の一つであろう。継続的な整備を望みたい。
西尾根の二重堀切→DSCN8257.JPG
↓MPI赤色立体図で見た鏡山城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z鏡山城MPI赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.403659/132.727060/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

山陰・山陽の戦国史 (地域から見た戦国150年 7) - 渡邊大門
山陰・山陽の戦国史 (地域から見た戦国150年 7) - 渡邊大門
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2026年05月28日

広島城(広島県広島市)

DSCN7998.JPG←実質的な馬出しである二ノ丸
 広島城は、豊臣大名毛利輝元が新造した近世城郭である。西国の雄毛利氏は安芸郡山城を居城としていたが、豊臣秀吉の聚楽第や大坂城を見物した輝元は、城下町と一体化して政治・経済の中心として機能する城の必要性を痛感し、瀬戸内海に面する太田川河口の三角州に新城を建設した。叔父の穂田元清・側近の二宮就辰を普請奉行として1589年4月15日に鍬入れ式を行い、翌90年末には一応の完成を見て91年に輝元は入城を果たした。しかしその後も城の整備は続けられた。また秀吉の朝鮮戦役においては、広島城下は兵員・物資の中継地として重要な役割を果たした。1600年、関ヶ原合戦で徳川家康率いる東軍に敗北した西軍主将の輝元は、大減封されて萩に追われ、代わって福島正則が芸備2ヶ国40万石の領主として広島城に入った。正則は外堀や外郭を整備して広島城を完成させ、更に城下町の拡充を図った。1516年、豊臣恩顧の外様の雄藩であった正則は、1619年に城の石垣の無断修理を理由に改易され、代わって紀州藩主浅野長晟が42万国に加増されて芸備の大名として入城した。以後、幕末まで浅野家の歴代の居城として続いた。

 広島城は、前述の通り河口のデルタ地帯の中洲に築かれた平城である。今年の3月をもって老朽化と耐震性の問題で天守が閉鎖されるというので、その前に訪城した。中心に長方形の本丸を置き、その南に実質的な馬出しである二ノ丸、そして本丸の北以外の三方を囲むように三ノ丸が置かれ、更に南に大手郭が、東・北・西に外郭が配置された広大な城であった。しかし現在残っているのは本丸・二ノ丸だけで、それ以外は市街化で遺構は残っていない。三重の水堀も、内堀以外は姿を消している。また広島に原爆が投下された際、残っていた天守などの建築物は吹き飛んだか、消失して灰燼に帰しており、現在の天守や二ノ丸の櫓などは全て復元されたものである。ただ、本丸と二ノ丸の石垣は往時のまま残っていて、中心部は総石垣の城であった。本丸内は2段の平場に分かれていて、上段平場の周囲にも石垣が築かれている。この内、上段平場の北側の石垣は途中で石垣が途切れているが、これは福島正則が幕府から無断修築を咎められてその部分の石垣の取り壊しを命じられた際に、指示されたのとは別の場所の石垣を壊した跡なのだとされる。本丸・二ノ丸以外については、街中の各所に標柱や解説板が立っているが、すべての門跡が明示されているわけではなく、一部に留まっている。以上が広島城の遺構で、他の近世城郭のように中堀・外堀が水路として部分的にでも残っていれば、より城の壮大さがわかりやすかったのにと惜しまれる。
正則が石垣を壊した跡→DSCN8082.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.401620/132.459603/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

萩藩閥閲録の世界-戦国期毛利氏の実像- - 布引 敏雄
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ラベル:近世平城
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2019年03月10日

福山城(広島県福山市)

IMG_1473.JPG←御湯殿と伏見櫓
 福山城は、江戸時代前期に新規築城された近世城郭である。元和の一国一城令後の1619年から築城が開始され1622年に完成した、近世初頭の大規模新造城郭では最後の城である。1619年に広島城主福島正則が武家諸法度違反で改易となると、徳川譜代の大名で家康の従兄弟であった水野勝成が、西国の有力外様大名に対する「西国の鎮衛」の任を受けてこの地に入部した。入封時の本城は神辺城であったが、内陸に偏し落城の歴史もあったことから、福山城が新造されたと言う。以後、水野家が5代続いた後に無嗣断絶となり、松平家1代の後、阿部家10代の居城となった。幕末には老中首座となって幕政改革を推し進めた阿部正弘を輩出した。明治維新後の廃城令で城は廃された。

 福山城は、総石垣の城で、本丸の周囲に環郭式に二ノ丸を廻らし、更にその周囲に三ノ丸を廻らした縄張りとなっている。しかしJR福山駅の目の前にある為、市街化で全ての堀跡は失われ、残っているのは中心となる本丸・二ノ丸部分だけである。石垣がよく残る他、伏見城から移築された伏見櫓と筋鉄御門が現存している。また天守・御湯殿・月見櫓・鐘櫓が復元されている。それら以外の櫓台や門跡には残念ながら解説板・標柱はほとんど設置されていない。2009年頃でも駅前整備の発掘調査で地下から見つかった舟入遺構を破壊して、整備計画が強行されており(申し訳程度の復元石垣が作られたが)、市の文化財としての扱いは相当にぞんざいである感じがする。結局、本丸・二ノ丸の石垣と櫓群だけが異彩を放っているものの、城の外郭の全体像は完全に埋没してしまっている。100名城に選ばれているにしては、かなり残念な状況と言わざるを得ない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.490464/133.361106/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


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