
←桜に彩られた本丸天守
弘前城は、現存天守を有する、津軽藩歴代の居城である。津軽氏の勃興の歴史は
種里城の項に、また大浦城主であった津軽為信による津軽統一と津軽立藩の経緯は、
大浦城の項に記載する。早くから豊臣秀吉に通じて、秀吉のお墨付きを得て
三戸南部氏からの独立を名実共に勝ち取った為信であったが、その後の歴史は決して平坦ではなかった。秀吉没後の関ヶ原合戦では、徳川方に付いて出陣し、藩の存続を勝ち取った為信ではあったが、留守中の国元では尾崎・多田・板垣の3武将が謀反を起こし、居城としていた
堀越城が一時占拠される事件が発生していた。また1602年、
黒石城に隠居中の為信が、預かっていた嫡孫熊千代の顔に誤って火傷を負わせてしまうと、堀越城にいた嫡男で熊千代の父信建は熊千代を引き取る為、家臣の天童衛門四郎らを為信の元に送ったが、為信は二度に渡りこれを拒否した。怒った信建は、使者の不手際として天童一族を誅殺してしまい、激怒した衛門四郎ら天童氏4名は堀越城に斬り込んで、襲われた信建が女装して逃がれると言う「天童事件」が発生した。弘前城の築城はこの翌年に始まったが、これは2度に及ぶ不祥事で本城としていた堀越城の弱体を感じた為とも言われている。為信が築城を始めた弘前城は、壮大な規模であった為その生前には完成せず、その事業は為信の3男で津軽藩2代藩主信枚に受け継がれた。そして1611年に至って、弘前城はようやく完成された。築城中にも津軽藩では事件が起き、1607年に為信が死ぬと、既に没していた嫡男信建に代わって家督を継いだ3男信枚と、嫡孫熊千代を擁立しようとする
大光寺城主津軽建広らがその後継を巡って争うなど(津軽騒動)、騒動が絶えなかった。完成した弘前城は、当初は高岡城と呼ばれたが、1628年に弘前城に改称された。以後、城には大きな変更がなく、幕末まで存続した。
弘前城は、現存12天守の一つで、岩木川東岸の河岸段丘を利用して築かれた城である。段丘にある城という意味では、実は平城ではなく崖端城と言う方が正しい。三ノ丸・四ノ丸まで完存する広大な城域で、外郭外堀まで綺麗に残っている貴重な城でもある。典型的な梯郭式の縄張りで、縄張り的には
上田城と酷似している。本丸・二ノ丸・三ノ丸をそれぞれコの字状の水堀で囲み、城門は全て近世城郭らしい枡形虎口となっている。基本的には内枡形であるが、外郭の追手門と東門だけは出枡形となっている。弘前城と言うと、石垣の城というイメージが強いが、実際に石垣となっているのは本丸と虎口部のみで、その他は土塁が多用されている。本丸西側は、比高10m程の崖となっており、蓮池・西堀という二重の堀と西ノ郭で防御している。本丸・二ノ丸は、大手側が枡形を多用した厳重な虎口となっているのに対して、搦手側は枡形もなく、比較的大味な感じの作りである。
松本城は堂々たる五層の国宝天守といえども、現存建築物は連立式天守のみで他は全て失われているが、弘前城は3つの三層櫓に5つの櫓門と多くの建築物が残っており、希少性は遥かに高い。これらは現存12天守の城の中でも
姫路城・
彦根城に匹敵する現存遺構で、見応えも十分、遠く青森まで足を伸ばして見に来る価値は十分にある。遅れていた開花を考えて組んだ日程の結果、時しも満開宣言当日の訪城となり、最高の城巡りとなった。
本丸東側の石垣と内堀→


←本丸西側の崖と蓮池
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
場所:
http://maps.gsi.go.jp/#16/40.608162/140.463649/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
posted by アテンザ23Z at 02:00|
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古城めぐり(青森)
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