孕石館は、今川氏の家臣孕石氏の居館である。源頼朝から遠江国原谷郷を与えられた原氏の一族である孕石忠高が、1438年の永享の乱での軍功により孕石荘を与えられたことに始まり、嘉吉年間(1441~44年)頃に館を築いたと推測されている。応仁の乱の只中の1468年、原頼景が今川氏から離反して西軍の斯波義廉に属したため、1497年に孕石氏は今川氏の先鋒として宗家原氏の本拠本郷館を攻撃し、以来今川氏の家臣となった。主水元泰の時には駿府に屋敷を賜り在勤したが、1568年に武田信玄が今川領を攻撃し、今川氏真が駿府を退去すると、元泰は武田氏に仕えた。1579年、元泰は武田勝頼の命により高天神城に武者奉行として入城したが、1581年の落城時に負傷して捕らえられ、徳川家康の命で切腹した。一説には、家康の駿府での人質時代、隣屋敷に住んでいた元泰が、家康に対してしばしば侮辱的な言辞を放ったことへの恨みがあったと伝えられている。武田氏の滅亡後、元泰の嫡子備前守は井伊家に千石で召し抱えられた。1603年の彦根城築城の際、縄張り奉行として孕石源右衛門泰時の名が記されているが、備前守との関係は不明。1615年、大坂夏の陣で備前守は討死した。
孕石館は、原野谷川の蛇行部に南から北に向かって突き出た段丘上に築かれている。現在館跡はほとんど畑に変貌している。訪城時には丁度畑作業が行われている最中で立入りできなかったので、内部踏査はできず遠目に眺めただけだが、地形図を見ても明確な遺構はなさそうである。
尚、館跡から南にやや離れた丘上に元泰の首塚と伝わる数基の墓石が安置されていると言うが、場所がわからなかった。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.855017/138.012953/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

徳川家康 弱者の戦略 (文春新書) - 磯田 道史
ラベル:居館
















