2026年04月24日

孕石館(静岡県掛川市)

DSCN6410.JPG←孕石館の遠望
 孕石館は、今川氏の家臣孕石氏の居館である。源頼朝から遠江国原谷郷を与えられた原氏の一族である孕石忠高が、1438年の永享の乱での軍功により孕石荘を与えられたことに始まり、嘉吉年間(1441~44年)頃に館を築いたと推測されている。応仁の乱の只中の1468年、原頼景が今川氏から離反して西軍の斯波義廉に属したため、1497年に孕石氏は今川氏の先鋒として宗家原氏の本拠本郷館を攻撃し、以来今川氏の家臣となった。主水元泰の時には駿府に屋敷を賜り在勤したが、1568年に武田信玄が今川領を攻撃し、今川氏真が駿府を退去すると、元泰は武田氏に仕えた。1579年、元泰は武田勝頼の命により高天神城に武者奉行として入城したが、1581年の落城時に負傷して捕らえられ、徳川家康の命で切腹した。一説には、家康の駿府での人質時代、隣屋敷に住んでいた元泰が、家康に対してしばしば侮辱的な言辞を放ったことへの恨みがあったと伝えられている。武田氏の滅亡後、元泰の嫡子備前守は井伊家に千石で召し抱えられた。1603年の彦根城築城の際、縄張り奉行として孕石源右衛門泰時の名が記されているが、備前守との関係は不明。1615年、大坂夏の陣で備前守は討死した。

 孕石館は、原野谷川の蛇行部に南から北に向かって突き出た段丘上に築かれている。現在館跡はほとんど畑に変貌している。訪城時には丁度畑作業が行われている最中で立入りできなかったので、内部踏査はできず遠目に眺めただけだが、地形図を見ても明確な遺構はなさそうである。
 尚、館跡から南にやや離れた丘上に元泰の首塚と伝わる数基の墓石が安置されていると言うが、場所がわからなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.855017/138.012953/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

徳川家康 弱者の戦略 (文春新書) - 磯田 道史
徳川家康 弱者の戦略 (文春新書) - 磯田 道史
ラベル:居館
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2026年04月22日

大城戸館(静岡県森町)

DSCN6405.JPG←北東部の土塁
 大城戸館は、小国一宮(小国神社)の社家北島孫左衛門家の屋敷である。北島孫左衛門家は出雲国造(千家・北島)家の分脈と言われ、小国神社が出雲大社の御祭神を祀ったことから、小国神社の社家となったらしく、小国一宮に参向する勅使の御座所ともなった。

 大城戸館は、長方形の居館であったらしいが、現在は一部が神社、大半が果樹園に変貌している。遺構は改変が進んでいるが、北東部に土塁が残っている。また南東部にある白鬚神社の境内には勅使井戸が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.818563/137.907390/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:居館
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2026年04月20日

土屋氏地代官屋敷 北嶋仲右衛門家屋敷(静岡県森町)

DSCN6371.JPG←石垣と長屋門
 北嶋仲右衛門家は、現地解説板によれば、一宮小国神社神士藤原重泰(文明年間(1469~87年))の後裔で、宝暦年間(1751〜64年)に栗倉村(円田)松ヶ谷医家北嶋(日下部氏)三省の次男北嶋仲右衛門吉道(元繁)がこの地に分家したのに始まる。代々酒造業を営み栗倉村の庄屋を勤めた。4代目仲右衛門吉泰は、旗本土屋氏(1679年より幕末まで森町村外七ヶ村の知行)の地代官となり、西脇御役所(森御役所)へ勤出し、幕末財政の御用立をも担ったと言う。
 尚、旗本土屋家は、甲斐武田氏の家臣で武田勝頼に殉じて「片手千人斬り」と讃えられた土屋昌恒の後裔である。昌恒の子惣蔵平三郎忠直は清見寺で家康に取立てられ、家康の側室阿茶局の養子となり、以来徳川家に仕え上総久留里藩主となった。3代直樹の時に狂気を理由に改易されたが、直樹の子逵直は父祖の功績により遠江周智郡で3千石が与えられ旗本となった。

 地代官北嶋仲右衛門家屋敷は、現在もご子孫の居宅となっており、車道に面して石垣と長屋門が残っている。長屋門の脇には石垣造りの枡形通路があり、これも遺構なのであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.819508/137.906188/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

旗本・御家人の就職事情 (歴史文化ライブラリー 410) - 山本 英貴
旗本・御家人の就職事情 (歴史文化ライブラリー 410) - 山本 英貴
ラベル:居館
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2026年04月16日

井平氏殿村居館(静岡県浜松市)

DSCN6275.JPG←館跡
 井平氏殿村居館は、1573年に井伊直平の末子直種が井平氏の家督を継いだ時に築いた居館と言われている。井平氏が元居た居館から南東に300m程の位置にあり、畑脇の山林内に平場が見られるが、改変が進んでいると見られ、どこからどこまでが遺構かよくわからない。しかし山林内に解説板が立てられており、殿村館の歴史を伝えている。
 尚、北北西80mのところに井平直種夫妻と弥三郎の墓が残っている。
井平直種夫妻と弥三郎の墓→DSCN6284.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.863627/137.663794/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

しずおかの文化新書16 湖の雄 井伊氏~浜名湖北から近江へ、井伊一族の実像~ - 辰巳和弘, 小和田哲男, 八木洋行
しずおかの文化新書16 湖の雄 井伊氏~浜名湖北から近江へ、井伊一族の実像~ - 辰巳和弘, 小和田哲男, 八木洋行
ラベル:居館
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2026年04月14日

井平城(静岡県浜松市)

DSCN6238.JPG←コの字形の横堀・竪堀・土塁
 井平城は、井伊氏の庶流井平氏が築いた詰城である。井平氏の事績については、井平氏居館の項に記載する。1544年に連歌師宗牧が井伊谷城主井伊次郎に招かれてこの地を通過した際、この地に城があったことがその道中記に記されている。井平城は鳳来寺街道上の要所にあったため、1573年の甲斐武田氏の部将山県昌景率いる別働隊がこの地に侵攻した際、攻撃を受けて落城した。

 井平城は、伊平集落の北方にある城山という丘陵上に築かれている。城内東端部に鳳来寺街道を取り込んでおり、街道を押さえる城であったことがよく分かる。最上部には主郭があるが、現在は民家が建っているので、主郭の内部踏査はできない。この主郭から南斜面に3段の畑があるが、腰曲輪群の名残であろうか?また主郭から南方の3方向に伸びる尾根に曲輪群を展開している。この内、最も遺構が明確なのは右翼(西側)の尾根で、主郭直下から南西に向かって2段の曲輪が伸びている。2段の内、上段曲輪は木が密生していて踏査できないが、2段の曲輪の西側と下段曲輪の先端に帯曲輪が築かれている。この南下方にはコの字形の土塁と横堀・竪堀があり、その下に谷に面して築かれた曲輪がある。中央尾根には上方にへの字形の土塁と横堀があり、その下方から左翼(東側)の尾根まで跨るように腰曲輪群らしい平場が見られる。現地解説板ではこの曲輪群は鳳来寺街道を押さえるためのものであったと推測しており、竹矢が見つかっていると言う。以上が井平城の遺構であるが、不思議なのは主郭背後に堀切などの防御施設が全く無いことである。少なくとも30年間は存在した城であるはずだが、詰城と考えても防御構造が弱く、その役割には少々疑問が残る。尚、城内には散策路が整備されており、9月でも問題なく歩くことができた。
主郭に建つ民家→DSCN6212.JPG
↓赤色立体図で見た井平城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z井平城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.868099/137.660936/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

井伊一族 - 直虎・直政・直弼 (中公文庫 あ 75-5) - 相川 司
井伊一族 - 直虎・直政・直弼 (中公文庫 あ 75-5) - 相川 司
ラベル:中世平山城
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2026年04月12日

井平氏居館(静岡県浜松市)

DSCN6156.JPG←居館跡の現況と解説板
 井平氏は、井伊氏の庶流である。鎌倉期の1245年、井伊直時がこの地に分封されて居館を構え、井平城を築いて井平氏の祖となった。その後、井平安直の娘が井伊直平へ、井平直郷の娘が直宗へ嫁いだ。この二人は女城主として名高い直虎の曽祖母と祖母に当たる人物とされ、この地で生まれている(直虎が実際に女当主であったかどうかは異説もある)。1572年10月、武田信玄は遠江へ侵攻し、別働隊の山県昌景らは長篠方面から山吉田(新城市)へ侵入したために、柿本城の鈴木重俊は井平に向けて敗走したが、三信街道(鳳来寺街道)の仏坂あたりで武田軍に追いつかれ戦いとなり、重俊と井平直成らは激戦のすえ88人が討死したと伝えられる。その峠近くに直成の宝篋印塔と戦死者の多くの石塔が祀られ、「ふろんぼ様」と呼ばれている。この合戦の中で、峠の東方にある井平城・屋敷・集落は焼き討ちに遭い、それにより井平氏は一時途絶えたと言う。1573年、井伊直平の末子直種が井平氏の家督を継ぎ、殿村に居館を築いた。1590年、直種の嫡男弥三郎は、井伊直政の家臣として小田原攻めに参戦し、18歳の若さで討死し、井平氏は断絶した。

 井平氏居館は、井平城南麓の傾斜地に築かれていたらしい。現在は数件の民家が建っており、その手前の車道脇に解説板が立っている。民家に変貌しているので、内部確認はできず、明確な遺構も残っていないと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.865563/137.660987/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

井伊氏サバイバル五〇〇年 (星海社新書 97) - 大石 泰史
井伊氏サバイバル五〇〇年 (星海社新書 97) - 大石 泰史
ラベル:居館
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2026年04月10日

奥山氏居館(静岡県浜松市)

DSCN6152.JPG←居館のあった丘の北斜面
 奥山氏は、井伊氏の庶流で嫡流家に匹敵する勢力を持つ一族であった。南北朝期の当主奥山六郎次郎朝藤は後醍醐天皇の皇子無文元選を招いて方広寺を開いた。1560年の桶狭間合戦では、奥山氏一族は今川義元に従って多くの戦死者を出したと言われる。後に徳川四天王となった井伊直政の実母は、奥山因幡守朝利の娘であったと言う。

 奥山氏居館は、県道303号線のすぐ南にある小高い独立小丘に築かれていた。現在丘の上は果樹園や空き地となっていて、明確な遺構は見られない。帯曲輪状の段もあるが、遺構かどうかは不明である。周囲三方に堀があったとも伝えられるが、現在は湮滅している。この丘の北側斜面に解説板が立っているだけである。
↓赤色立体図で見た奥山氏居館(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-04-07 191836.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.839812/137.634599/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

井伊直政 (中世武士選書39) - 野田浩子
井伊直政 (中世武士選書39) - 野田浩子
ラベル:居館
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2026年04月08日

市野砦(静岡県浜松市)

DSCN6126.JPG←砦跡の現況
 市野砦は、浜名湖北回りの東海道(のちの姫街道)が通る要衝で、今川氏が使用した砦である。遠江は、1400年代は三管領家の一、斯波氏の支配下にあったが、1497年に今川氏親が伯父で重臣であった伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)に遠江を制圧させ、今川家の領国化に成功した。しかしその後も今川氏と遠江を奪還しようとする斯波氏の抗争が続いた。1513年、斯波方に味方していた井伊領を攻めるため、今川軍は市野砦に布陣した。今川方の古文書では、この地の楞厳寺(りょうごんじ)に布陣したと記されていると言う。楞厳寺はかつて宗安寺の南側にあった寺院で、廃寺となり現在は工場と住宅に変貌している。また1564年には、桶狭間以後衰えた今川方に反攻した勢力を今川氏真が攻め、市野砦で攻防が繰り広げられた。

 市野砦は、前述の通り宗安寺の南側に築かれていたが、現在は住宅地となっている。昭和30年代の航空写真を見ても、一部が住宅地、大半が水田となっていて、既に遺構らしいものは確認できない。寺があったということなので、寺を城砦化した寺院城郭だったのだろう。宗安寺の南の空き地に解説板が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.752135/137.775091/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

今川氏親と伊勢宗瑞 (中世から近世へ) - 黒田 基樹
今川氏親と伊勢宗瑞 (中世から近世へ) - 黒田 基樹
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2026年04月06日

十二所居館(静岡県袋井市)

DSCN6092.JPG←心宗院周囲に残る土塁
 十二所居館は、諸井十二所居館(伊達氏館跡)とも言い、土豪の館跡と推測されている。一説には今川氏の家臣駿河伊達氏の館であったとも言われるが確証はない。発掘調査の結果では、13世紀後半から数度の改修を経て、戦国期の16世紀の後半まで断続的に利用されていることが判明している。即ち、鎌倉時代(13世紀後半~14世紀前半)に第1期居館を整備、室町時代(15世紀後半~16世紀前半)に第2期居館が成立、戦国時代(16世紀後半頃)に第3期居館を築造とされている。また南中央には外枡形虎口が築かれていたこともわかっている。

 十二所居館は、心宗院と南の公園一帯に築かれていた。ほぼ縦長長方形の単郭の居館で、北西隅が北側にやや突出した櫓台状になっている。現在は心宗院の北から西にかけて幅広の土塁が残っている。南半の公園部分は遺構が湮滅しており、外枡形も宅地に変貌して湮滅している。しかし公園には解説板がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.720081/137.916068/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

駿河今川氏十代 (中世武士選書25) - 小和田哲男
駿河今川氏十代 (中世武士選書25) - 小和田哲男
ラベル:居館
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2026年04月04日

小島陣屋(静岡県静岡市)

DSCN5862.JPG←南側の石垣群
 小島陣屋は、滝脇松平家が立藩した小島藩1万石の陣屋である。滝脇松平家は三河の十八松平の一つで、松平正勝は徳川家康に仕え、1200石の旗本となり書院番頭を務めた。正勝は大坂夏の陣に討死したため、摂津国高槻城主松平(形原)紀伊守家信の次男重信を養子として家督を継がせた。重信は、書院番頭・大番番頭を歴任し、2000石の加増を受け、1656年には駿府城代に就任し、5000石を与えられた。重信の跡は丹波篠山藩主松平(形原)駿河守典信の子信孝が継ぎ、1688年に5代将軍徳川綱吉の側衆となり、1万石に加増されて江戸城内菊間広縁詰め大名となった。信孝の跡は寄合戸田和泉守重恒の二男信治が継ぎ、1698年に武蔵・上野両国の領地を駿河国有渡・庵原・安倍郡に移され、1704年に駿河国庵原郡小島村に陣屋を構築して、小島藩を称した。以後、歴代藩主の政庁・居所として続いたが、1万石の小大名では財政は終始極めて厳しい状態であった。10代藩主信敏の時、明治維新を迎えた。1868年5月、徳川宗家の家達が静岡藩として駿河・遠江に入封すると、その地にあった7藩は上総・安房へ移封された。その中で、小島藩の信敏は上総国望陀郡桜井に転封となり、小島陣屋は廃された。尚、5代信義の時、年寄を務めた倉橋格は恋川春町の名で戯作者・黄表紙作家として名を馳せ、黄表紙の祖と称されたことは、昨年のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」でも描かれた。

 小島陣屋は、興津川西方の丘陵上に築かれている。西と南を沢で隔絶された要害地で、近世に築かれた陣屋としては異例の城郭形式の構造である。単郭ではなく、本丸に相当する曲輪の外周に段状に平場を設け、それらの塁線には石垣を築いている。表門には石垣で枡形も設けられている。東側の石垣は一部が崩れてしまっていて、ブルーシートが掛けられている。本丸に相当する曲輪にはつい最近になって、御殿書院が移築復原された。結局のところ、遺構は石垣と平場群だけであるが、城郭造りの近世陣屋がこれ程良好に残っている例は稀有であり、国指定史跡となっている。
西側の平場群と石垣→DSCN5844.JPG
DSCN5859.JPG←表門枡形

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.084289/138.510964/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

完本 【決定版】 図説 江戸三百藩「城と陣屋」総覧 - 三浦正幸
完本 【決定版】 図説 江戸三百藩「城と陣屋」総覧 - 三浦正幸
ラベル:陣屋
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2023年01月02日

武藤氏屋敷(静岡県森町)

DSCN0560.JPG←宅地裏に残る土塁
 武藤氏屋敷は、一宮荘の代官職を務めた武藤氏の居館である。遠江武藤氏は、遠江国初代守護安田義定(甲斐源氏・源清光の子で武田信義の弟)に仕えた目代武藤五郎が史料上の初見である。武藤氏では、九州に下向して大宰少弐職を代々世襲して職名を姓とした少弐氏が有名であるが、南北朝の動乱が始まった1336年に太田郷一藤名が少弐氏に伝領されている。室町中期の文安年間(1444~49年)から明応年間(1492~1501年)にかけての時期の室町幕府奉公衆の中には、武藤遠江守や武藤弥次郎等の名が見える。これに先立つ1432年に、武藤与次郎用定が一宮荘代官職に任ぜられた。武藤刑部丞氏定は用定の末裔と考えられ、戦国期に駿河遠江を制圧した甲斐武田氏に属して真田城を築いたが、1581年の徳川家康による高天神城攻撃の際に討死した。その子孫武藤孫左衛門は掛川亀ノ甲村に土着したと言う。その後、武藤氏屋敷がどうなっていたのか不明であるが、江戸中期の1679~1722年には旗本土屋主税の陣屋敷として使用された。土屋主税は、赤穂浪士の吉良上野介邸討入りの際、吉良邸の隣に江戸屋敷があったので、忠臣蔵では討入りの場面でよく出てくる武士である。

 武藤氏屋敷は、香勝寺南の住宅地の中にある。太田川西岸の段丘上の斜面に位置している。遺構は湮滅が進んでいるが、北側の道路脇に東西に走る土塁が残っている。また敷地東側には段差があり、屋敷地としての地勢はうかがうことができる。尚、香勝寺には武藤氏一族の墓が残っているが、香勝寺はききょう寺として有名で、墓所に行くには入園料を支払う必要がある。
武藤氏一族の墓→DSCN0552.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.825703/137.913684/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


静岡県の歴史散歩

静岡県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/08/01
  • メディア: 単行本
ラベル:居館
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2022年09月18日

潮城(静岡県藤枝市)

DSCN0906.JPG←わずかに残った主郭の土塁跡
 潮城は、歴史不詳の城である。一説には、今川氏の重臣岡部氏の居城朝日山城の支城ではないかと言われている。また長篠合戦以降、駿河に侵攻した徳川氏が、田中城攻撃のために築いたとの説も提示されている。

 潮城は、潮山の東の山裾にある段丘上に築かれていたが、現在は国道1号藤枝バイパスの建設により城の中心部は大きく破壊されている。しかし、主郭北西側の土塁・塁線と、西の二ノ郭との間に穿たれた堀切跡が残っている。二ノ郭は畑となっているが、方形の土壇を置いた形状は残っている。しかし現在でも国道の拡幅工事が行われているようで、わずかに残った主郭の遺構も近々破壊してしまうかもしれない。
堀切跡→DSCN0910.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.896606/138.275814/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城館の実像 (城館研究叢書)

中世城館の実像 (城館研究叢書)

  • 作者: 均, 中井
  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2020/12/10
  • メディア: 単行本
ラベル:中世平山城
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2022年09月17日

朝比奈城(静岡県御前崎市)

DSCN0847.JPG←3郭~4郭間の堀切
 朝比奈城は、高天神衆に属した曽根孫太夫長一の城である。城山の北麓に居館があったとされ、その詰城であった。長一は、高天神城主小笠原長忠(信興)の寄子で、武田勝頼が高天神城を攻略した第一次高天神城合戦の際には、本丸の守備に付いた。高天神城が開城すると、長一は徳川方に逃れ、徳川氏家臣の大須賀康高に仕えたと伝えられる。

 朝比奈城は、朝比奈川南岸の標高90m、比高70mの山稜上に築かれている。牧之原台地の支脈の一つから北西に突き出た尾根に位置している。登り口がよくわからなかったので、私は北に派生した支尾根の先端からアプローチした。尾根を辿っていくと、やがて主尾根に築かれた二ノ郭に至る。二ノ郭は、以前は畑になっていたらしく一部改変されているのではっきりしないが、北に虎口があり、後部に土塁らしき土盛りが見られる。二ノ郭の北には腰曲輪、北西には堀切と小郭、南西の尾根には段曲輪群が築かれている。二ノ郭から西に登っていくと、最上部に築かれた主郭に至る。主郭は円形の小さな曲輪である。主郭背後に当たる南東の尾根には、腰曲輪を介して堀切が穿たれている。この堀切の先には3郭・4郭が置かれ、それぞれ堀切で分断されている。この尾根には、主郭背後・3郭~4郭間、4郭先端と3本の堀切が穿たれているが、いずれも中規模の堀切でしっかり普請されている。4郭の後部には土壇があり、堀切に繋がる城道はこの土壇の脇をすり抜けるように敷設されている。また3郭・4郭の南斜面にのみ、腰曲輪が置かれている。各堀切はこの腰曲輪に向かって落ちている。4郭の背後の尾根の先にはわずかな堀切と土橋が見られ、搦手筋を防御している。以上が朝比奈城の遺構で、基本的には細尾根城郭だが、主郭・二ノ郭は幅のある平場であり、小屋掛けぐらいは置かれていた可能性がある。
主郭背後の堀切→DSCN0838.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.660508/138.147701/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東海の名城を歩く 静岡編

東海の名城を歩く 静岡編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2020/07/20
  • メディア: 単行本
ラベル:中世山城
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2022年09月16日

殿ノ山城(静岡県御前崎市)

DSCN0756.JPG←クランクする堀切
 殿ノ山城は、歴史不詳の城である。城周辺には、「おかたやしき」「遍照寺」「おおみどう」「りょうもん」等の古地名が残り、「おかたやしき」からは13世紀後半のものとみられる四耳壺が、また「遍照寺」からは室町時代の宝篋印塔の相輪2点が出土している。このことから、当時この地を治めていた比木氏の館がこの根古屋にあり、館の防衛を殿ノ山城が担い、更に詰城として比木城が築かれていたと推測されている。

 殿ノ山城は、比高20m程の小さな低丘陵先端部に築かれている。西を通る車道を少し北に登った所に、擁壁を登る階段が付いており、その先の小道を登れば城域北端の堀切に至る(この小道は堀切脇にある墓地に通じている)。北端の堀切は浅く小規模であるが、西側でクランクしており、横矢を掛けている。堀切には土橋が架かり、主郭の虎口に繋がっている。主郭は南北に細長い高台となっている。主郭の西から南にかけて、二ノ郭が広がっている。二ノ郭の南にも腰曲輪があるが、薮が酷い。腰曲輪の南端には小堀切と前面の土壇がある。遺構としてはそれだけで、地勢・縄張り共にあまり防御性が高いとも思えない、小規模で簡素な城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.657313/138.170886/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東海から行く! 御城印めぐり (ぴあ MOOK 中部)

東海から行く! 御城印めぐり (ぴあ MOOK 中部)

  • 出版社/メーカー: ぴあ
  • 発売日: 2020/08/17
  • メディア: ムック
ラベル:中世平山城
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2022年09月15日

比木城(静岡県御前崎市)

DSCN0722.JPG←南東尾根の堀切
 比木城は、歴史不詳の城である。鎌倉期に比木弾正という武士が築いたとの伝承があるらしいが、詳細は不明。比木氏の詰城を、東遠江を制圧した武田氏が改築したとの説もある様だ。

 比木城は、比高70m程の舌状台地に築かれている。ここは比木城山と呼ばれ、主郭は全面茶畑に、二ノ郭は民家の敷地となっていて、これらには明確な遺構は見られないが、主郭の南東尾根・南西尾根に遺構が残っている。主郭である茶畑の西側に降っていく小道があり、これを降っていくと主郭南西尾根に築かれた小規模な腰曲輪と堀切がある。また茶畑の南東角から薮を降ると、主郭の南斜面に竪堀が2本落ちている。その脇の南東尾根には腰曲輪があり、その下方には堀切が穿たれている。堀切の前面は物見らしい土壇となっている。堀切の東側を降ると腰曲輪に繋がっており、その東にも腰曲輪や堀切が残っている。一方、南東尾根の堀切・土壇の先は細尾根となり、一旦降ってからまた登りになり、その先に東西に長い峰上の平場がある。平坦ではあるがほとんど自然地形で、外周の塁線もはっきりせず、遺構ではないようだ。この他、主郭の東側に一段低い平場があり、腰曲輪であったと思われる。以上が比木城の遺構で、主要部が改変により遺構が失われているせいもあって、あまりパッとしない城だった。
南斜面の竪堀→DSCN0693.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.661726/138.171337/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


静岡県の歴史 (県史)

静岡県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2015/02/01
  • メディア: 単行本
ラベル:中世崖端城
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2022年09月14日

相良館(静岡県牧之原市)

DSCN0670.JPG←標柱が立つ館跡
 相良館は、この地を本貫地とした相良氏の居館である。相良氏は、藤原為憲の流れを汲む遠江守維兼を祖とする一族で、1112年に工藤周頼が相良庄に入部し、相良氏を称した。以後、8代長頼までの80余年間の本拠となった。1198年に長頼は幕府より九州下向を命じられ、肥後国球磨郡人吉荘を領して、人吉城を居城とし、鎮西の御家人となった。その後、相良氏は九州の戦国大名となり、しぶとく生き延びて江戸時代にも肥後人吉藩2万2千百石の大名として幕末まで存続した。即ち相良館は、近世大名相良家の発祥の地である。

 相良館は、荻間川東岸の平地に築かれていたらしい。現在は民家近くのただの空き地で、明確な遺構は残っていない。館跡を示す標柱が、その歴史を伝えているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.690101/138.199317/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


静岡県の歴史散歩

静岡県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/08/01
  • メディア: 単行本
ラベル:居館
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2022年09月13日

滝堺古城(静岡県牧之原市)

DSCN0632.JPG←先端の主郭
 滝堺古城は、室町中期に勝間田城主勝間田氏によって築かれた出城と伝えられる。その後、1476年に遠江攻略を目指す駿河守護今川義忠に攻められて廃城になったと言う。後に今川氏を駆逐してこの地を支配した甲斐の武田信玄は、滝堺古城が手狭であるため、新たに新城(滝堺城)を築いた。

 滝堺古城は、眼下に太平洋を望む比高60m程の丘陵上に築かれている。牧之原台地の南東端の一角に当たる。西の台地上は一面の茶畑になっており、茶畑の奥の薮を突っ切ると、細尾根を下っていく小道がある。この小道は一旦鞍部まで降り、その先は再び登りとなる。尾根を登りきった先に細長い平場が広がっており、そこが主郭となる。主郭はただの平場で、きれいに削平はされているが、塁線ははっきりせず、周囲にも明確な切岸はない。主郭の先端近くに、倒れた城址碑がある。以前は解説板もあったらしいが、現在は失われている。主郭先端から北と南東に尾根が下っているが、小郭などの明確な遺構は特に見られない。前述の尾根の鞍部は、はっきりしないが堀切だった可能性がある。結局、明確なのは主郭だけである。西の茶畑が二ノ郭だったとの情報もあるが、現状からでは判断できない。いずれにしても、海上監視を主任務とした物見的な城だったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.705467/138.210347/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城の政治戦略 (角川選書)

城の政治戦略 (角川選書)

  • 作者: 大石 泰史
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2020/12/18
  • メディア: 単行本
ラベル:中世崖端城
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2022年09月12日

大熊備前守屋敷(静岡県吉田町)

DSCN0621.JPG←屋敷跡の茶畑
 大熊備前守屋敷は、小川城城代となった武田氏の家臣大熊備前守長秀の城代屋敷である。武田信玄は1571年2月、徳川家康の部将松平左近真乗が守っていた山崎の砦を攻略し、馬場美濃守信房に命じてこれを修築して、新たに小山城を築いた。そして信玄は、越後上杉氏から亡命した客将大熊備前守朝秀の子長秀を足軽大将とし、小山城城代とした。長秀は、騎馬30・足軽75人で小山城を守備し、その後陣として相木市兵衛昌朝率いる80騎が置かれたと言う。長秀は、以後1572年暮頃までの約1年半を、この地で過ごした。

 大熊備前守屋敷は、小川城のある台地の地続きにある。台地の北端にあり、現在屋敷跡の北半分は削られて工場敷地となり、南半分は茶畑となって変貌している。「東は深い沢で空堀や土塁の跡も見られる」と解説板にあるが、薮でどこのことかよくわからなかった。結局台地の上にあるという以外、明確な遺構はない。それでも史跡に指定され、標柱・解説板が立っている。
 尚、近くを通る県道230号線のトンネルは備前守隧道と言い、武将の名がトンネル名になっている珍しい例である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.776791/138.240988/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

武田三代の城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
  • メディア: 単行本
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2022年09月11日

家康御陣場(静岡県吉田町)

DSCN0619.JPG←陣場跡の八幡神社
 家康御陣場は、徳川家康が武田勢の拠点城郭小川城を攻略するため、本陣を置いた場所である。1573年の武田信玄の死後、遠江で武田勢に押されていた家康は、同盟する織田信長と共に反転攻勢に転じた。1575年の長篠合戦で武田勝頼が織田徳川連合軍に大敗を喫すると、徳川勢の遠江での攻勢は一段と強まり、一旦は勝頼に奪われた遠江の要衝高天神城奪還のため、武田方の補給路を断つ作戦に出た。徳川方は、激戦の末に攻略した諏訪原城を前進基地とし、高天神城への補給線の重要な中継拠点となっていた小山城攻撃のため、1578年3月と同年8月の二度にわたり、家康は大井川の八幡の森に陣を敷いたと言う。

 家康御陣場は、小山城の北方約1.5kmの位置にある大幡の八幡神社の地に置かれた。現在町史跡に指定されており、入口の鳥居の近くに解説板が立っている。遺構はなく、普通の神社の境内である。大井川にほど近く、国道にも近いので大井川の渡河点を押さえていたのだろう。田中城など、駿河方面からの武田勢の後詰を警戒した選地であったことがうかがわれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.792158/138.248112/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東海の名城を歩く 静岡編

東海の名城を歩く 静岡編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2020/07/20
  • メディア: 単行本
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2014年10月18日

向笠城砦(静岡県磐田市)

IMG_9007.JPG←標柱の立つ法雲寺の裏手
 向笠城砦は、歴史不詳の城である。平城であった向笠城から南に1.2kmの位置にあり、その出城として機能したものと推測される。
 向笠城砦は、法雲寺の裏手付近にあったらしい。比高30m程の段丘の縁に位置しているが、標柱が建っているだけで解説板もないので、由来も縄張りもよくわからない。おそらく物見程度の簡素な砦だったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.756828/137.878708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
ラベル:中世平山城
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2014年10月17日

向笠城(静岡県磐田市)

IMG_9002.JPG←城址付近の現況
 向笠城は、戦国時代に今川氏に属した向笠氏の居城である。向笠伯耆守が築城したと言われ、1508年に、今川氏親の部将伊勢宗瑞(北条早雲)が三河岩津城を攻撃した際、向笠氏も参陣していたと伝えられている。今川氏が滅亡した後は、遠江に進出した甲斐武田氏に属し、武田方の一支城として修築されたが、1573年3月、徳川家康の家臣酒井忠次・平岩新吉らに攻囲され落城した。時の城主向笠彦三郎は、一旦高天神城に逃れたが討死したと言う。

 向笠城は、敷地川西側の平野部に築かれていたとされる。城址一帯は、民家と一面の畑に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。付近には、城屋敷・東門・陣垣戸・奥屋敷など、城にちなむ地名が多く残っているらしい。この他には、向笠史談会が建てた解説板だけが、往時を物語っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.768094/137.880473/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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2014年10月16日

加賀爪甲斐守屋敷(静岡県磐田市)

IMG_9000.JPG←屋敷跡とされる場所
 加賀爪甲斐守屋敷は、江戸時代前期の旗本加賀爪氏の屋敷跡である。加賀爪氏は元々上杉氏の一族で、加賀爪甚十郎忠郷の時に駿河守護今川氏の被官となって加賀爪氏を称した。今川氏滅亡後、加賀爪政尚は徳川家康に仕え、長久手の戦いや小田原の役で功を挙げ、武蔵国比企と相模国高座に3,000石を領した。政尚の子忠澄は、関ヶ原合戦や大坂の役の戦功により、5,500石に加増され、江戸町奉行に登用され、最終的には9,500石に累進した。忠澄の子、加賀爪甲斐守直澄は、1万1,500石を領して大名格となり、掛塚藩を立藩した。一時期は、武蔵の高坂館に陣屋を構えたと言われ、館跡の高済寺境内に加賀爪氏累代の墓が残っている。その後直澄は、書院番隊長や1661年には寺社奉行となり、幕府の重職を歴任して、1668年には更に3,000石が加増された。また直澄は、旗本中の乱暴者として通り、一方で茶道にも通じていたとされる。1679年、嫡子直清に家督を譲ったが、1681年に成瀬正章と領地問題で争いを起こし、処置不十分を理由に改易された。

 加賀爪甲斐守屋敷とされる場所は、敷地川西側の段丘の麓にある。この付近一帯は民家や畑に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。わずかに向笠史談会が建てた標柱と解説板だけが、往時のことを物語っている。尚、ここから南に1.3kmの位置にある寺田家の門は、加賀爪甲斐守屋敷の門であったと伝えられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.774554/137.872555/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
ラベル:居館
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2014年01月07日

瀬名館(静岡県静岡市葵区)

DSC05099.JPG←松寿院に残る2代氏貞の墓
 瀬名館は、今川氏の一族瀬名氏の居館である。瀬名氏の祖今川陸奥守一秀は、遠江今川氏の後裔堀越氏の一族で、父の堀越城主堀越貞延が1474年の小夜の中山合戦で討死すると、海蔵寺の喝食から還俗した。1476年、今川義忠が塩買坂で討死すると、今川家中では幼い嫡子竜王丸と義忠の弟小鹿範満の間で家督争いが起こり、今川一秀が竜王丸の補佐役として抜擢されて駿府に移り、旧領の瀬名郷を与えられて瀬名氏を称した。瀬名氏は今川宗家を補佐する一族として大きな勢力を有し、一秀は二俣城の城将となって遠江斯波氏の勢力を押さえるなど、重臣として活躍した。一秀以後の瀬名館は、氏貞・氏俊・氏詮と4代に渡る居館となった。氏俊は、桶狭間合戦の際には今川軍の先発隊の将となり、その名を残している。尚、瀬名館の付近には瀬名砦があったが(所在不明)、1568年の武田信玄の駿河侵攻の際に落城した。
 瀬名館は、長尾川東岸に広がる瀬名郷に築かれていたが、現在は完全に宅地化され、遺構は完全に湮滅している。西奈図書館の西側一帯が館跡と推測されており、付近には「大屋敷」の字名が残る。尚、館跡推定地の東側には、今川一秀の菩提寺光鏡院や松寿院があり、供養塔や墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.017503/138.422359/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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2014年01月06日

内牧城(静岡県静岡市葵区)

DSC05072.JPG←畑化した平場
 内牧城は、南北朝時代に駿河南朝方の武将狩野介貞長が築いた安倍城の支城である。元々内牧城には狩野氏の居館が置かれており、その創築・廃城時期は安倍城と同時期と考えられている。
 内牧城は、内牧川西岸に突き出た比高40m程の丘陵突端に築かれている。2つの曲輪から成り、尾根には堀切もあった様だが、現在は畑に変貌している他、城域の一部を新東名が通っており、かなり破壊を受けていると思われる。「思われる」というのも、主郭と思われる先端の平場は、前述の通り民有地の畑で、勝手に入ることはできないからである。柵越しに見たところでは、畑に変貌した平場以外は確認できない。この平場の中央には、台座に「内牧城址」と刻まれた五輪塔と石碑が建っている。いずれにしても南北朝期の城であり、同じ安倍城の支城であった小瀬戸城と同様、素朴な縄張りであったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.020794/138.345073/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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2014年01月05日

小川城(静岡県焼津市)

DSC05052.JPG
 小川城は、法永長者屋敷とも呼ばれ、1476年に今川義忠が塩買坂で討死した後に今川家中で生起した跡目争いの時、伊勢新九郎長氏(北条早雲)を介して、義忠の正室で長氏の姉妹であった北川殿とその子竜王丸(後の今川氏親)を保護した人物「法永長者」の居城である。その後、法永の子孫は長谷川氏を称して今川氏の家臣となり、今川氏滅亡後は徳川氏に仕えたと伝えられている。
 小川城は、現在は住宅地に変貌しており、遊歩道に石碑と解説板が建つ以外は何もなく、遺構は完全に湮滅している。空中写真閲覧サービス(旧称、国土変遷アーカイブ)の昭和20年代の航空写真では、畑地の中に方形に巡る堀跡がはっきりと残っている。発掘調査の結果からも、方形の単郭居館であったらしく、南側に虎口が2ヶ所築かれ、大手虎口にはわずかに横矢が掛かっていた様である。わずかでも遺構が残っていればよかったのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.856425/138.304771/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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2014年01月03日

城之崎城(静岡県磐田市)

DSC05007.JPG←球場の周囲に残る城塁
 城之崎城は、見附城とも言い、徳川家康が築城途中で放棄した城である。一説には、古く平安末期の寿永・建久年間(1182~1190)に遠江守となって当地に入部した安田三郎義定が築いたのが始まりともされるが、定かではない。その後、応仁の乱の時、今川義忠の遠江侵攻により生起した今川氏と遠江守護斯波氏との抗争の際に、一時的に城塁として機能したと推測されている。城之崎城が歴史上に明確に現れるのは、1569年正月に徳川家康が築城した時で、山本帯刀成氏(成行)の縄張りで見付宿の東方山続きの「旧塁」を崩して新城を築こうとした。この頃家康は、武田信玄と連携して東西から今川領を挟撃しており、駿府を逃れて掛川城に籠もった今川氏真を包囲攻撃していた。しかし掛川城の守りは固く、同年5月に氏真と講和を結び、掛川城が開城となると、城之崎城は未完のまま放棄され、1570年6月に曳馬城へ移った。そして曳馬城を一郭として取り込んだ形で新たに浜松城を築城した。

 城之崎城は、磐田原台地の南、今之浦川とその支流に挟まれた段丘上に築かれている。かつての主郭は、現在は城山球場に変貌し、ニノ郭とされる場所は磐田東高校となっている。その為、遺構はかなり破壊されているが、球場の外周には土塁が残り、特に北西角には櫓台があったと思われる高土塁が残っている。その北の外郭らしい高台には小さな神社が鎮座している。球場の東側には空堀跡が広い低地となって残っている。破壊を受けたにも関わらず、思ったより城塁らしい雰囲気をよく残している。
空堀跡の低地→DSC04995.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.722585/137.864975/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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2014年01月02日

見付端城(静岡県磐田市)

DSC04954.JPG←墓地外周に残る土塁
 見付端城は、今川氏が築いた城である。この地には元々遠江国府が所在し、南北朝時代に足利一門として足利尊氏に従って各地を転戦して今川氏興隆の礎を築いた今川範国は、遠江における拠点として見付端城を築いたと言う。その後、今川範氏・泰範は駿河に進出して拠点を移し、見付端城は庶家今川了俊を祖とする遠江今川氏の数代の居城となった。後に堀越館に移ったものと推測されている。室町時代後期には、今川義忠の遠江侵攻に抵抗した狩野宮内少輔・横地氏・勝間田氏らの拠点となったと思われる。戦国時代には、城主の堀越用山(今川貞基)は、花倉の乱で反義元派となった為、今川義元の命を受けた犬居城主天野氏により、1537年に攻め落とされた。その後、義元の持ち城となり、1563年、堀越氏一族の時に焼失したらしく、後の1569年に徳川家康が城之崎城築城の時に廃城となったと考えられる。

 見付端城は、現在の大見寺から磐田北小学校にかけての一帯に築かれていた。古絵図によれば、東を流れる今之浦川を外堀とし、大見寺境内を主郭、磐田北小敷地をニノ郭として、それぞれ方形の土塁で囲んでいたらしい。現在は市街化で遺構の湮滅が進んでいるが、大見寺境内墓地の南と西側に土塁が残り、西側には堀跡も残っている。しかしかなり改変が激しい。地元のご老人の話では、今川義忠が塩買坂での討死の前に攻め落としたのは、この城であったそうだが・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.728281/137.858773/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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2013年11月14日

井出館(静岡県富士宮市)

DSC01375.JPG←現在に残る屋敷門
 井出館は、井出の代官屋敷とも呼ばれ、この地の小土豪井出氏の居館である。井出氏は、鎌倉時代以来この地に居住した小土豪で、富士山本宮浅間神社の富士大宮司家に仕えたとされる(富士氏の被官であったことについては、静岡古城研究会著『静岡県の城跡』では否定的見解を示している)。『吾妻鏡』によれば、1193年5月に源頼朝が富士の巻狩をした際、宿泊所となったのが井出館とされており、既にこの頃には将軍に宿所を提供する程の格式を持った名家であったことがわかる。またこの事績から、この地には「狩宿」という地名が付いている。井出氏は戦国時代には今川氏に仕え、今川氏輝・義元・氏真から、安堵状などが度々下されている。1569年、駿河に侵攻した武田信玄は富士氏の大宮城を攻めたが、この時井出氏一族は富士氏の被官として戦功を立て、今川氏真を支援した北条氏政から感状が下されている。その後間もなく今川氏が滅亡し、富士地方が武田氏の支配下に入ると、井出氏の一族は武田氏に従った者と小田原北条氏を頼った者に分かれた。武田氏に従った井出氏は、武田氏滅亡後は徳川家康に仕えて駿河国代官職に任じられ、1606年には井出志摩守が三島代官に任じられ、天領を支配し、その後も幕臣として続いた。

 井出館は、前面に潤井川が流れ、背後に芝川渓谷と丘陵地を控えた平地に築かれている。現在でも井出家の屋敷が構えられており、表には立派な屋敷門(長屋と高麗門)が建てられている。屋敷の前には国の特別天然記念物にもなっている「下馬桜」があるが、「駒止めの桜」とも呼ばれ、頼朝縁の桜である。訪問したのは3月下旬で、静岡では既に桜が開花していたので期待していったが、残念ながら硬い蕾のままだった。それもそのはず、ここは標高435mもあり、咲くのは4月中旬になるらしい。井出館は、遺構はないものの、歴史的遺物が多く興味深い。又付近には、曾我兄弟の仇討ちにまつわる遺蹟も多く残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆ (あくまで城館遺構としての評価)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.301554/138.587948/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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2013年11月13日

樽山城(静岡県浜松市天竜区)

DSC01348.JPG←先端の堀切と小郭
 樽山城は、犬居城主天野氏の支城である。天野氏の所領の東端、遠駿両国の山間部を結ぶ街道の要衝に位置し、関所的な機能を有する城であった為、勝坂城と並んで重要な支城であったと言う。天野氏は、今川氏没落後、徳川氏に属したが、武田信玄が遠江に侵攻すると、武田氏に降ってその尖兵となって活動した為、徳川家康は激怒して犬居城に攻め寄せた。一度目の1574年の攻城戦で惨敗した徳川勢は、長篠合戦の翌年の76年に再び大挙侵攻した。一度目の敗戦の経験から、武田方の後方支援を遮断する為、家康はまず周辺の支城の攻略に取り掛かり、樽山城は真っ先に攻め落とされ、城兵は勝坂城に敗退した。この時の城主は、天野兵衛佐とも天野助兵衛とも言われており、いずれにしても天野氏の一門衆が守る重要な城であった様だ。
 樽山城は、樽山南東の敷原沢の蛇行部にそびえる標高629mの山上に築かれている。物凄い山間の奥地に築かれており、ここまで来るのは車でも大変である。大井川沿いから境川ダム近くで国道362号線を西に入り、クネクネ道を10kmほど走り、そこから更に分岐した車道を4km以上走らなければならない。しかもこの分岐した車道は、途中落石も多く、城址まで数百mの所で進めなくなった為、そこに車を置いて歩いて訪城した。登城口に解説板が建ち、道も付いているので登城は容易である。小規模な連郭式の山城で、ニノ郭・主郭・三ノ郭の順に並んでおり、登城道を登ると腰曲輪と枡形虎口を経由して三ノ郭に至る。三ノ郭には僅かな空堀と枡形虎口の土塁が築かれている。主郭は狭小な曲輪で、ニノ郭との間には堀切が穿たれている。ニノ郭の下方の尾根筋には更に小郭が置かれ、堀切を介して尾根先端の物見曲輪に至り、城域が終わっている。いずれの曲輪も狭小で、20人籠もるのが精一杯の感じで、徳川勢に一斉攻撃されたらひとたまりもなかっただろう。しかしこの手の小規模な城にしては、明確な枡形虎口だけが異彩を放つ遺構である。
三ノ郭の枡形虎口→DSC01328.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.013240/138.006597/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
ラベル:中世山城
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2013年11月12日

徳山城(静岡県川根本町)

DSC01244.JPG←「殿屋敷」の大土塁
 徳山城は、南北朝時代に駿河南朝方の最後の拠点となった城である。1353年、在地土豪の鴇(土岐)氏は、居館の東方にそびえる無双連山に徳山城を築き、周囲にも萩多和城護応土城などの城砦群を構築して駿河山間部に立て籠もった。又この時、観応の擾乱で尊氏と争った直義方の武将石塔義房の家人佐竹兵庫入道らも、大津城を攻め落とされた後、南朝方と合力して徳山城に籠もったらしい。将軍足利尊氏の命を受けて今川範氏はこれを討伐し、援将伊達景宗は先鋒として発向し、まず出陣の翌日の2月11日、早くも萩多和城を落とし、尾根伝いに洗沢に抜け、13日には護応土城を攻め落とし、本城の徳山城に迫り、夜襲により落城させたと伝えられている。

 徳山城は、標高1100mの無双連山一帯に築かれた峻険な山城である。山中まで林道が伸びているが、物凄いガレ道で、RVではない普通車は登るのは止めた方が良い。しかも車を降りた標高823mの四差路からでも、本城まで歩いて登るのに1時間近くも掛かる遠い道のりである。そんなわけで、この城に登るにはそれなりの装備と覚悟が必要である。
 徳山城は、まず北端に「清水砦」とされる小ピークがあり、そこから本城までの間は「犬戻り」と呼ばれる一騎駆けの細尾根となる。この一騎駆けは、明らかに両脇を人工的に削り落としている。本城部は「殿屋敷」と呼ばれ、尾根上に削平の甘い緩斜面が広がっているだけであるが、その北斜面には空堀状の窪地や大土塁、切岸など、やはり明らかに人工的な加工の跡を残した地形が見られる。ここから南西に尾根を降って行くと、やはり曲輪らしき緩斜面などが展開しているが、あまり明瞭ではない。途中にある堀切も、鋭さはなく、多少加工の跡を留める程度である。堀切の先の広い平場には中部電力の反射板が置かれ、更にその南西尾根の緩斜面が「陣屋平」、更に三角点のある小ピークを越えて、「鍛冶屋敷」という平坦地に至る。徳山城は、南北朝期の山城でもあるため、戦国期の山城と違って明確な遺構は少ないが、本城部の腰曲輪と大土塁・空堀は見応えがある。また平場状の緩斜面も多数存在する。しかし、南朝方の一土豪の城に、これらの平場を守備できるだけの多数の兵が籠って戦ったのかは、甚だ疑問である。何しろ、清水砦から鍛冶屋敷まで、全長1.3km程にも及ぶ城域で、更に周辺城砦群を備えていたとされるなど、劣勢にあった南朝方にそれほど広大な城砦群が守備できたのだろうか?今後の考究が待たれる城である。
険しい一騎駆け→DSC01225.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.062425/138.152679/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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