2026年03月19日

豊田城(富山県富山市)

DSCN5568.JPG←城跡に建つ火宮社
 豊田城は、1570年代に神通川東方の段丘上にあった城である。1578年、越中に侵攻した上杉謙信が、豊田城を攻撃するために一夜にして稲荷砦を築いたと言われている。城主としては、江上重左衛門・竹島五郎左衛門・丹波権平の名が伝わっている。

 豊田城は、前述の通り段丘辺縁部に築かれており、現在も南の国道8号線から坂道を登った上にある。ここは西と南が高さ3m程の崖になっていて、往時城の下には泥田が多い要害地形であったらしい。現在館跡は火宮社が建っており、周囲は住宅地となっていて、市街化により遺構は完全に湮滅している。周囲に残るわずかな切岸地形が城の名残を留めている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.726444/137.231542/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

北陸の名城を歩く 富山編 - 佐伯 哲也
北陸の名城を歩く 富山編 - 佐伯 哲也
ラベル:中世崖端城
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2026年03月17日

新庄城(富山県富山市)

DSCN5566.JPG←湾曲している小学校東側の道路
 新庄城は、越中に侵攻した越後上杉氏の前進基地となった城である。文献上の初見は1520年で、越後の長尾為景が神保慶嗣らを討つため越中に進攻して新庄に布陣し、慶嗣を自刃に追い込んだ「新庄の合戦」が記録されている。しかし発掘調査の結果では、それ以前にも室町時代の館跡が確認されている。その後、天文年間(1532~55年)には神保氏配下の三輪飛騨守が築城し、代々居住した。1572年、上杉謙信の部将鰺坂長実が在城し、同年5月に一向一揆勢が富山城を攻略すると、新庄城は上杉氏の富山城攻撃の前線基地となった。1580年、織田方の神保長住が新庄城を攻撃し、その後織田氏の部将佐々成政が越中を平定すると、新庄城は佐々氏の支城となった。1583年、上杉方の土肥政繁の部将杵屋平左衛門に攻略され、一時新庄城が奪われた。佐々成政が越中から退去すると、前田氏の城となり、1615年の一国一城令によって廃城となった。その後、加賀藩3代藩主前田利常によって城跡に御陣屋が作られたと言う。

 新庄城は、富山城の東方約3.8kmの位置にある。この地は東に常願寺川、西に荒川を望む要害であり、北陸道に面する交通の要衝でもあったため、早くから軍事上の重要拠点であった。本丸と推定される高台は、かつて御屋敷山と呼ばれていたが、現在は新庄小学校の校地に変貌している。推定復元では、主郭・副郭・出丸の3郭を東西に連ねた連郭式で、周囲を堀で囲んでいたと考えられている。現在は市街化で遺構は完全に湮滅しているが、堀跡らしい水路が見られる他、小学校周囲の道路が弓なりに湾曲している部分があり、かつての堀跡を想起させる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.701650/137.252176/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

上杉謙信とその一族 (戦国大名の新研究) - 黒田基樹, 前嶋 敏
上杉謙信とその一族 (戦国大名の新研究) - 黒田基樹, 前嶋 敏
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2026年03月15日

今泉城(富山県富山市)

DSCN5552.JPG←城址碑と解説板
 今泉城は、上杉氏勢力によって普請されたことが伝わる城である。1574年に上杉謙信の部将河田長親から越後の吉江資堅に宛てた書状によると、3月に今泉城の「普請」等を命じており、この頃までには築城されたと思われる。一説にはそれ以前から存在し、1571年に越中に進撃して栂尾城猿倉城の2城を築いた飛騨の武将塩屋筑前守秋貞が今泉城を攻略したとも言われるが明証はない。謙信の没後の1578年10月4日、越中中央部に進出した織田氏勢力が上杉勢を撃破した月岡野の戦いで、今泉城にいた上杉勢は没落し、以後織田方の斎藤氏が城主となった。しかしまもなく廃城となったと推測されている。

 今泉城は、富山城の南方約2.6kmの位置にある。周囲に沼や低湿地が広がる微高地に築かれており、当時は越中と飛騨を結ぶ飛騨街道がこの付近を通っていて、今泉城は越飛間の交通を押さえる役割を果たしていた。現在は市街地の只中にある。日枝社に案内板と石碑が建っているが、主郭はそこから南西約80mのところにあったらしい。市街化で遺構はおろか痕跡すら残っておらず、戦後まもなくの航空写真を見ても既に一面の水田地帯に変貌していて、どの様な縄張りであったかも皆目わからない。失われた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【日枝社の位置】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.669851/137.213852/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

図説 上杉謙信 - 今福 匡
図説 上杉謙信 - 今福 匡
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2026年03月13日

城ヶ山城(富山県富山市)

DSCN5505.JPG←推定主郭の堀切らしい地形
 城ヶ山城は、今から700年程前にに諏訪左近と言う武将が構えた城と伝えられるが、詳細は不明。700年程前というと鎌倉時代末期頃であろうか。現在は全域が城ヶ山公園となって公園化されており、改変が進んでいて、どこからどこまでが城域であったのかも明確にできない。かなり広い丘陵地で、仮に山頂の標高200mの平場を主郭と考えると、主郭の背後には堀切状の地形があり、また主郭の北東下方には円形の二ノ郭らしい平場がある。この平場の後部は一段高い櫓台のようになっている。二ノ郭らしい平場の東下方には芝生公園があるが、その東に一段高い大きな高台があり、これも曲輪跡であった可能性がある。更に丘陵の北東先端部にも、先端に円形の高台を伴った広い平場があり、これも曲輪であった可能性がある。もしこれらが本当に曲輪だったとすると、相当に広大な城だったということになり、そんなものが鎌倉末期に地頭などの土豪によって作られたとは到底考えられない。或いは、最後に書いた丘陵の北東先端部の平場だけが、城域だったのかもしれない。地形的には戦国時代にも山城が構えられても不思議ではないのだが、戦国期の伝承がないのも不思議である。ここでは推測だけ記載して、後究に待ちたい。
推定二ノ郭後部の櫓台らしい地形→DSCN5470.JPG
↓赤色立体図で見た城ヶ山城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z城ヶ山城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.572644/137.131217/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

北陸の名城を歩く 富山編 - 佐伯 哲也
北陸の名城を歩く 富山編 - 佐伯 哲也
ラベル:中世山城
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2026年03月09日

越中御所(富山県射水市)

DSCN5137.JPG←荒屋神社
 越中御所は、流れ公方と呼ばれた室町幕府10代将軍足利義材(後の義稙)が越中在国中に拠点を置いた場所である。1493年、管領細川政元によって明応の政変が起き、義材の将軍職を廃して清晃を新将軍に擁立した(11代将軍義澄)。幽閉された義材は、嵐の夜、近臣数人を連れて脱出し、自身の有力与党である畠山氏の領国の一つ、越中国に下向した。そして、畠山氏の重臣で越中守護代の放生津城主神保長誠に迎えられ、放生津に落ち着いた。長誠は義材のために将軍御所を造営した。これを越中御所と呼び、越中在国中の義材のことを越中公方と呼んでいる。

 越中御所の正確な場所は不明であるが、荒屋神社付近にあったらしい。神社境内の脇に「荒屋神社 周辺のご案内」という解説板があり、その中に「室町幕府将軍 足利義材ゆかりの地」と言う項目があり、越中御所のことが書かれている。放生津八幡宮と放生津城の中間に当たるこの付近には、往時神保氏や将軍家関係者が多数住んでいたらしい。現在では一面の市街地である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.778747/137.093069/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

室町幕府将軍列伝 新装版 - 榎原雅治, 清水克行
室町幕府将軍列伝 新装版 - 榎原雅治, 清水克行
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2026年03月07日

太閤山陣所(富山県射水市)

DSCN5100.JPG←太閤山陣所の現況
 太閤山陣所は、1585年の豊臣秀吉による富山の役(佐々成政征伐)の際、陣を張った場所と伝えられる。開発前は比高100m程の丘があり、土塁が残り、開発前の発掘調査では二重の溝跡が見つかったらしい。その後丘は削り取られて遺構は消滅し、パチンコ店の駐車場となったが、現在はパチンコ店さえもなくなって住宅地に変貌している。東には平地を挟んで白鳥城のある呉羽丘陵が見える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.703804/137.103474/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

図説 豊臣秀吉 【オールカラー】 - 柴裕之
図説 豊臣秀吉 【オールカラー】 - 柴裕之
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2026年03月05日

小白山砦(富山県南砺市)

DSCN5078.JPG←解説板
 小白山砦は、広瀬城の出城である。元々は鎌倉時代の関東下知状に記される柿谷寺比定地の裏山の寺地であったとされ、一時期、出城である小白山砦が置かれ、後に若宮社が建てられた。この若宮社は明治時代に場所を移されたため、旧若宮社跡は「元若宮」と呼ばれている。

 現在の若宮社の南西にある車道脇に解説板が立っている。小白山砦の場所は、解説板から70~80m程南西にある傾斜面の上部だと思って夏の草むらを探索したら、南斜面に竪堀状の地形が見られたので、これが遺構かもと考えた。しかし後で調べたら、そこより南東200mの位置にある丘の上が旧若宮社=小白山砦であったらしい。ただ1mメッシュの赤色立体図で確認すると、山頂に平坦地があり、背面半周ほどにわたって土塁が残っているようである。いずれにしても大した遺構ではなさそうである。

 お城評価(満点=五つ星):ー(遺構未確認のため評価なし)
 場所:【当初砦跡と考えた場所】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.548728/136.840034/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【実際の砦の位置】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.547597/136.838204/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

北陸の名城を歩く 富山編 - 佐伯 哲也
北陸の名城を歩く 富山編 - 佐伯 哲也
ラベル:中世平山城
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2026年03月03日

安養寺御坊(富山県小矢部市)

DSCN5063.JPG←西側の崖線
 安養寺御坊は、安養寺城とも呼ばれ、一向宗勝興寺の御坊である。吉崎御坊に居た蓮如が文明年間(1469~87年)に叔父如乗が創建した二俣本泉寺を頼って医王山西麓一帯を巡錫した際、この地の豪族である杉浦万兵衛の屋敷に逗留し、土山御坊を設けて布教の拠点とした。土山御坊は後に勝興寺の寺号を与えられ、蓮如は次男の蓮乗を後継として残した。蓮乗は本泉寺・瑞泉寺を掛け持つ立場にあったため、4男蓮誓を勝興寺(土山御坊)に置いて布教に当たらせた。勝興寺(土山御坊)は1494年に高木場に移り、更に1519年に火災のため安養寺に移り、この間に真宗教団内での寺格も次第に高くなって、瑞泉寺と共に越中一向一揆の二大勢力として大きな地位を占め栄えた。1581年4月、当時の住職顕幸が石山合戦に出陣中に木舟城主石黒左近蔵人成綱に攻撃されて焼失した。1584年、越中を支配した佐々成政は、守山城主神保氏張の持城であった古国府城の地を寄進して、勝興寺を古国府城の地に移して再興した。

 安養寺御坊は、渋江川南岸に面した高台に築かれていた。絵図によれば二重の堀や土塁によって守られた寺院城郭であった。現在は大半が水田に変貌し、一部が民家となっている。改変が進んでいて遺構は残っていないが、周囲より高台となった地勢は、崖線が西側などに部分的に残っており、寺院城郭の名残を伝えている。水田地帯の只中に石碑や解説板が立っている。
石碑と解説板→DSCN5049.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.629963/136.834637/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14) - 神田 千里
一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14) - 神田 千里
ラベル:中世平城
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2026年03月01日

鷹栖館(富山県砺波市)

DSCN5045.JPG←館跡の水田
 鷹栖館は、小倉殿館とも呼ばれ、戦国時代に小倉六右衛門という土豪の居館であったと伝えられる。六右衛門は一向宗の勝満寺の有力門徒で、1566年に木舟城主石黒左近蔵人成綱が勝満寺を攻撃した際、鷹栖館も炎上したと伝わる。尚、小倉の土居に居住した小倉孫左衛門は、六右衛門の子孫とされる。

 鷹栖館は、現在は一面の水田に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。地籍図によればほぼ方形の居館であったと推測されている。砺波市教育委員会が作った「とやま城郭カード」の対象に選ばれているが、現地には解説板はおろか標柱すらなく、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.621738/136.925242/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

戦国時代と一向一揆 - 日本史史料研究会, 竹間芳明
戦国時代と一向一揆 - 日本史史料研究会, 竹間芳明
ラベル:居館
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2026年02月25日

牛嶽砦(富山県砺波市)

DSCN5032.JPG←土塁跡らしき土盛り
 牛嶽砦は、増山城の出城であったとの伝承がある。現在は市谷牛嶽神社境内となっており、周辺には殿城、下郎屋敷島などの地名が残るという。社殿周囲に土塁跡らしき土盛りがあり、「増山城牛嶽砦跡」と刻まれた小さな石碑が立っている。社殿が建つ場所が主郭と思われ、その1段下にも平場があるが、往時の曲輪跡なのか、神社建設で作られたものなのかはわからない。あくまで伝承地なので、本当に往時城砦があったのかどうかもわからないが、あったとしても小規模な城砦であったろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.627056/137.053911/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

北陸の名城を歩く 富山編 - 佐伯 哲也
北陸の名城を歩く 富山編 - 佐伯 哲也
ラベル:中世平山城
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2026年02月23日

岩木砦(富山県富山市)

DSCN5021.JPG←わずかに残る土塁
 岩木砦は、飛騨国の武将塩屋筑前守秋貞が斎藤次郎右衛門が拠る城生城を攻撃するために築いた付城と伝えられる。ただそれ以前から、城生城の東の出城として斎藤氏による砦が置かれていた可能性がある。『三州志』では、秋貞は嫡男監物・次男三平と共に越中に出陣し、栂尾城猿倉城の2城を築いてこれに拠り、城生城対岸に向城として岩木砦を築いて家臣の杉政三郎右衛門を置いて、城生城の斎藤氏を攻撃したとある。この時、斎藤氏は上杉謙信に救援を求め、上杉方は栂尾城を攻めて秋貞を飛騨へ追ったと伝えられる。

 岩木砦は、城生城から神通川を挟んだ北東約900mの位置に築かれている。現在は墓地や水田に変貌しており、遺構はかなり失われているが、わずかに墓地の北側に土塁の跡が小さな土盛りとなって残っていて、そこに標柱が立っている。古い史料には、北に虎口や馬出の遺構があり、本郭とは別に東西六間・南北八間の一郭や、堀・土塁の跡も残っていたとある。現状からではどのような縄張りの城だったのかは全くわからなくなっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.579337/137.186955/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5) - 佐伯哲也
戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5) - 佐伯哲也
ラベル:中世崖端城
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2026年02月21日

猿倉城(富山県富山市)

DSCN4950.JPG←腰曲輪群に見られる横堀
 猿倉城は、飛騨国の武将塩屋筑前守秋貞が1571年に越中へ勢力を伸ばす過程で築いたとされる。上杉謙信の家臣長尾景直の書状によれば、1571年に秋貞は、飛騨から越中へ出軍して上杉軍に従軍していたが、4月22日夜、突如退却して猿倉山に城を普請した。『三州志』では、秋貞は嫡男監物・次男三平と共に越中に出陣し、栂尾城・猿倉城の2城を築いてこれに拠り、城生城対岸に向城として岩木砦を築いて家臣の杉政三郎右衛門を置いて、城生城の斎藤氏を攻撃したとある。この時、斎藤次郎右衛門は上杉謙信に救援を求め、上杉方は栂尾城を攻めて秋貞を飛騨へ追ったと伝えられる。その後、織田信長の部将佐々成政が越中を平定すると、猿倉城は佐々氏の支城となったらしいが、1585年の豊臣秀吉による富山の役の際、金森長近の攻撃によって落城したと伝えられる。
 尚、城主については寺島三八郎・三木秀綱など別説もあるが、史実かどうかは不明。

 猿倉城は、神通川の東岸にそびえる標高344.4mの猿倉山に築かれている。この地は越中の飛騨口に当たり、富山から南下した飛騨街道が北西麓の笹津で東道と西道に分かれる交通の要衝であった。城跡は現在公園化されており、遺構の改変が見られるが、概ねの遺構は残っているようである。西中腹にある駐車場から登山道が整備されているで、迷うことなく登ることができる。山頂に東西に長い主郭があるが、郭内の西と東では高さが異なっているので、公園化される以前は東西2郭で構成されていたのかもしれない。現在はゆるやかなスロープで繋がっていて、高い東側には展望台が建っている。主郭の東斜面には4~5段程の腰曲輪群が築かれ、その一部は土塁を築いた横堀となっている。不思議なのは、地形から推測すると大手は北西にあったと思われるが、こちらには曲輪が築かれた形跡がない。登山道敷設で破壊された可能性もあるが、登城路がどのように設定されていたのか、現状からではよくわからない。いずれにしても、縄張りは比較的単純であるが、富山平野を眼下に一望できる要地である。
主郭の現況→DSCN4936.JPG
↓赤色立体図で見た猿倉城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z猿倉城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.555109/137.228437/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

佐々成政(シリーズ・織豊大名の研究11) - 萩原大輔
佐々成政(シリーズ・織豊大名の研究11) - 萩原大輔
ラベル:中世山城
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2025年12月04日

朝日山城(富山県氷見市)

DSCN2736.JPG←城跡の現況
 朝日山城は、南北朝・戦国時代の文献にしばしば現れる「氷見城」の候補地の一つである。城のある朝日山は低い丘陵ながら中世以来の「氷見湊」を見下ろす要衝であり、古くから軍事上の拠点として重視されていたのではないかと推測されている。しかし過去の氷見高校の建設などにより遺構は失われており、1996年に発掘調査も行われたが、堀切1ヶ所以外は城の痕跡は確認できなかったと言う。

 朝日山城は、朝日山公園の北縁部の尾根上にあったとされる。しかし現在は「見晴らしの丘」という公園に変貌し、改変され尽くしていて全く原形を留めていない。前述の堀切も現在は公園化で削られてしまっていて、痕跡すら残っていない。もしここが氷見城であったとしたら、南北朝期の軍忠状などの一次史料に現れる城であったのに、遺構が全く残っていないとはなんとも惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.856137/136.980992/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

「城取り」の軍事学: 築城者の視点から考える戦国の城 - 西股 総生
「城取り」の軍事学: 築城者の視点から考える戦国の城 - 西股 総生
ラベル:中世平山城
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2025年11月30日

宇波城(富山県氷見市)

DSCN2545.JPG←主郭東側の堀切
 宇波城は、南北朝史に現れる城である。『得田章親代大隅貞章軍忠状(得田文書)』によれば、1359年に能登守護吉見氏頼の一族吉見刑部少輔は、元越中守護の井上入道暁悟(利清)・同河内前司章俊らを討伐するために氷見に出陣した。7月18日に越中国長坂口に進軍すると、井上方の白河城の軍勢は没落した。その後、能登勢は白河城と閣間(角間)要害に駐屯した後、9月20日から再び軍事行動を起こし、井上方が拠る宇波城・八代城千久里城を攻め落とし、井上勢を没落させた。

 宇波城は、能越道灘浦IC東方の安居寺山というH型をした山上に築かれている。南に伸びる尾根の内、左の尾根には宇波安居寺古墳群があり、円墳3基が間隔を開けて尾根上に連なっているが、この古墳群も城域に取り入れられている。明確な登道はないが、古墳群の東下方を北西方向に登っていく作業用林道があり、それを途中まで登り、尾根が南向きから南東向きに向きを変える辺りの取り付きやすい場所から尾根に取り付いて訪城した。古墳3基の内、南の2つの背後には堀があるが、これは城の堀切ではなく古墳の周濠の跡と思われる。しかし一番北の古墳の南東尾根には明確に2本の堀切が穿たれている。また古墳背後にも幅広の鞍部の曲輪があり、その少し上方に土橋が架かった堀切が穿たれている。これらのことから、古墳が物見台として転用されていたことはほぼ確実と思われる。そこから先に登っていく尾根には遺構がなく、一気に主郭に至る。主郭は狭小な不等四辺形の曲輪で、北西に数段の段曲輪群が付随している。主郭の東側には堀切が穿たれて、東尾根との間を遮断している。東尾根は中央部辺りが鞍部となっていて、天然の堀切状を呈している。尾根の東端には高台となった小郭があり、その東側下方に広い平坦地が広がっている。兵の駐屯地であろうか。ここから南北に支尾根が伸びているが、北尾根はほとんど自然地形である。南尾根には小堀切や片堀切があったようだが、作業用林道の開削で破壊されてしまっている。南端には小平場があり、これも城の一郭であったと推測されている。以上が宇波城の遺構で、堀切がよく残っているが、堀切は木谷城・稲積城(三角山城)と比べて幅が狭く、同じ南北朝時代の城でも築城主体による普請の違いが見て取れる。
城内に取り入れられた古墳→DSCN2515.JPG
DSCN2530.JPG←古墳の北にある土橋と堀切
主郭→DSCN2537.JPG
↓赤色立体図で見た宇波城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z宇波城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.921448/137.009683/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

太平記 全6巻: 美装ケースセット (岩波文庫) - 兵藤 裕己
太平記 全6巻: 美装ケースセット (岩波文庫) - 兵藤 裕己
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2025年11月28日

稲積城(富山県氷見市)

DSCN2450.JPG←主峰・副峰の間の大堀切
 稲積城は、南北朝時代の軍忠状に現れる「三角山城」と推定される城である。その戦歴は南西約1.6kmにある木谷城と重なっている。即ち、1352~53年にかけて能登守護吉見氏頼が前越中守護で反幕府の闘将桃井直常・直信兄弟を討伐するため能登勢を率いて越中国に出陣し、氷見地域で交戦した際、三角山城は木谷城・獅子頭城(守山城)千久里城・氷見城と共に桃井方の拠点となった(『得田文書』『天野文書』)。1352年6月9日に吉見勢が桃井方の守る木谷城・獅子頭城・三角山城を攻撃し、その戦いのあと吉見勢は鶉塚に陣取った。続いて15日には、桃井方の常門新左衛門尉が城将となっていた三角山城を吉見勢が再度攻撃し、桃井方の武士白井弥八・渡部源八らが討死した。その後も氷見では、1359年に能登勢が出陣して元越中守護の井上暁悟(普門俊清)・同章俊を討伐するなどの合戦があり、史料には現れないが、引き続いて三角山城が軍事拠点として使われ続けた可能性があると言う。

 稲積城は、阿尾城西方に連なる山地の中の、標高98.5mの峰に築かれている。明確な登道はなく、私は城の西側を通る車道の脇から山林に入り、北西の尾根に取り付いて訪城した。非常に特異な縄張りの城で、急峻な斜面で囲まれてそびえ立つ主峰の小郭と、その西に大堀切を挟んで副峰の小郭があり、更に幅広の堀切を挟んで広い曲輪が連なっている。主峰・副峰とその間の大堀切は、おそらく自然地形を利用したもので、屹立する主峰の威容が「三角山」の名の由来になったものかと思われる。ちなみに主峰の小郭には「三角山」のネームプレートが付けられていた。2峰の間の大堀切も圧倒的で、自然地形に手を加えたものだろう。主峰・副峰の小郭は物見台で、それぞれ下部側方に1~2段の腰曲輪を伴っている。しかしこれらには兵を置ける程のスペースはほとんどなく、本陣が置かれた主郭は一番西にある広い曲輪と推測される。主峰の腰曲輪の東尾根と、副峰の腰曲輪の北西尾根も曲輪として使われたと推測されるが、ほとんど自然地形に近い。この他、主郭の外周に帯曲輪が1段廻らされ、南に長く伸びた尾根の中程に物見台的な小ピークの平場がある。この南には食違いの小堀切が穿たれており、ここまでが城域だったと思われる。以上が稲積城の遺構で、木谷城と同様に、南北朝期の古い遺構がそのまま残っており、極めて貴重である。
副峰と主峰→DSCN2435.JPG
DSCN2459.JPG←主峰の小郭
↓赤色立体図で見た木谷城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z稲積城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.885161/136.973561/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

越中中世城郭図面集 3 西部(氷見市・高岡市・小矢部市・砺波 - 佐伯 哲也
越中中世城郭図面集 3 西部(氷見市・高岡市・小矢部市・砺波 - 佐伯 哲也
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2025年11月26日

木谷城(富山県氷見市)

DSCN2341.JPG←南東尾根の土橋と堀切
 木谷城は、南北朝時代の軍忠状に現れる城である。『得田文書』の軍忠状によれば、1352~53年にかけて、能登守護吉見氏頼は前越中守護で反幕府の闘将桃井直常・直信兄弟を討伐するため能登勢を率いて越中国に出陣し、氷見地域で交戦した。その際、木谷城は獅子頭城(守山城)三角山城千久里城・氷見城と共に桃井方の拠点となった。中でも木谷城は吉見勢の再三の攻撃を受けたが、落城せずに持ちこたえている。1359年には、元越中守護の井上暁悟(普門俊清)・同章俊を討伐するため、吉見刑部少輔を大将とした能登勢が越中国に出陣し、氷見地域で交戦した。この時、能登勢は木谷城に陣を置いている。その後は歴史に現れず、木谷城は役割を終えたと推測されている。

 木谷城は、能越道氷見北ICの南西にある標高106mの山上に築かれている。城の中心部は東に向かって開いたY字型の山頂部にある。明確な登道はわからないが、城の南西に加納新池というため池があり、その近くにある山裾の墓地裏から南の尾根に取り付いて訪城した。山頂部は北東と西に2つの峰があり、ここに築かれた曲輪とその間の尾根を城域としている。北東の峰にあるのが主郭で、狭小な曲輪の周囲に2段の腰曲輪を廻らしている。北と南の尾根筋には、それぞれ中央に土橋を架けた堀切が穿たれている。一方、西の峰にあるのが二ノ郭で、東から南面にかけて腰曲輪を廻らしている。二ノ郭の東には、主郭との間の幅広の尾根が広がっているが、そことの間に堀切を穿っている。主郭と二ノ郭の間の幅広の尾根は軍団の駐屯地であったらしく、なだらかな自然地形に近い曲輪で、南東の尾根との間に土橋を架けた堀切を穿っている。ここの堀切が一番規模が大きく、この方面を重点的に防御していたことがうかがわれる。南北朝期の城らしく築城技術が未発達で、堀切は比較的幅広であるが浅いものが多く、曲輪の切岸もあまり切り立っておらず、やや不明瞭である。とはいえ、南北朝期の一次史料にも現れる城の遺構がそのまま残っており、極めて貴重である。
主郭→DSCN2357.JPG
DSCN2328.JPG←ニノ郭の東の堀切
↓赤色立体図で見た木谷城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z木谷城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.874591/136.962059/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

太平記 全6巻: 美装ケースセット (岩波文庫) - 兵藤 裕己
太平記 全6巻: 美装ケースセット (岩波文庫) - 兵藤 裕己
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2025年11月24日

惣領砦(富山県氷見市)

DSCN2253.JPG←二ノ郭北の堀切
 惣領砦は、飯久保城主狩野氏の出城と伝えられている。狩野氏は、これらの他に鞍骨山城も詰城として築いていた。惣領砦には、家老の大前左近と奥野主馬が在城したと言う。狩野氏の事績については、飯久保城の項に記載する。

 惣領砦は、飯久保城の西方約1.3kmの山稜上に築かれている。東北麓から散策路が整備されており、薮もなく歩きやすく、遺構の確認もしやすい。基本は細尾根上に築かれた連郭式の城で、主要な曲輪は3つ。東から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭が堀切を介して連続している。主郭は101.3mの三角点のある峰に築かれており、前面に2段の段曲輪を置き、前面に堀切を穿っている。堀切の前にも小郭ともう1本の堀切を穿っている。主郭後部には堀切を挟んで、細長い二ノ郭がある。二ノ郭内の西寄りには凸凹した地形があるが、遺構なのか何なのかよくわからない。二ノ郭の北には城内最大の堀切が穿たれ、中央に土橋が架けられて三ノ郭に繋がっている。三ノ郭は北端が丸く広がった曲輪で、東西に小郭を築き、更に北から東にかけてもう1段腰曲輪を廻らしている。この腰曲輪は背後尾根との間の堀切を兼ねている。中心となる3郭の北側には延々と腰曲輪が築かれており、主郭前面と二ノ郭後部の堀切と繋がっている他、曲輪途中には竪堀が穿たれている。また二ノ郭の南西尾根の付け根にも堀切が穿たれている。以上が砦の中枢部であるが、更に東の尾根に砦から離れて側方竪堀と土橋が架かった堀切、また背後に当たる三ノ郭北の尾根にも少し離れて堀切が穿たれている。惣領砦は小規模な城砦ではあるが、堀切群で厳重に守りを固めた要害である。
主郭前面の堀切→DSCN2197.JPG
DSCN2201.JPG←主郭北側の腰曲輪
↓赤色立体図で見た惣領砦(提供:富山県)
z惣領砦赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.804495/136.941316/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

越中中世城郭図面集 3 西部(氷見市・高岡市・小矢部市・砺波 - 佐伯 哲也
越中中世城郭図面集 3 西部(氷見市・高岡市・小矢部市・砺波 - 佐伯 哲也
ラベル:中世山城
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2025年11月22日

飯久保城(富山県氷見市)

DSCN2108.JPG←主郭の大土塁
 飯久保城は、この地の土豪狩野氏の居城である。狩野氏の出自は明確ではないが、加賀を本拠とした室町幕府奉公衆・狩野氏の系譜を引くものと推測されている。加賀の狩野伊豆入道義茂は、1352年5月に足利尊氏の御教書を得て越中の桃井勢討伐のために氷見地方に参陣しており、こうした戦いを経て加賀狩野氏の支流が飯久保付近に所領を得て土着したと考えられている。飯久保の狩野氏は、飯久保城を本城とし、鞍骨山城を詰城、繋ぎの城として惣領砦を構えた(史料では鞍骨山城が本城、飯久保城が出城とされるが、城の規模構造を見る限り、飯久保城が本城であったと考えられる)。戦国時代に射水・婦負郡守護代となった神保氏が守山城を有力支城として支配すると、狩野氏も神保氏に属した。天正年間(1573~92年)に入って守山城主神保氏張が勢力を持つと、狩野氏も氏張に属し、1576年に上杉謙信が氷見地方へ侵攻して氏張が上杉氏に服属すると、狩野氏もこれに従ったとみられる。しかし1578年に謙信が急死すると織田氏の越中侵攻が始まり、氏張はいち早く織田方と結んで織田方の部将長連龍を客将として迎え入れ、妹を連龍に娶らせた。その際の媒酌人を氏張麾下の狩野将監が務めたことが知られる。1581年、織田氏の部将佐々成政が越中に分封されると、狩野氏も氏張と共に成政に仕えたと思われる。1585年8月、成政が豊臣秀吉に降伏して越中を去ると、狩野氏も飯久保城を去り、城は廃されたと考えられる。

 飯久保城は、能越道・氷見南ICの南東にある細長い丘陵上に築かれている。飯久保八幡宮の奥から散策路が整備されているが、劇ヤブに覆われた城で、富山西部では中村山城と並ぶ薮城であり、富山県内でも最悪の部類の一つである。公園化失敗の典型例で、維持管理できないのに皆伐して薮払いしたため、日当たりが良くなって猛烈に雑草が繁茂し、遺構が訳わからなくなってしまっている。北の支尾根が大手筋で、曲輪群を越えて進むと、この城の特徴である枡形虎口がある。食違いの土塁で動線を屈曲させている。更に少し登ると両側方を堀切で穿った土橋があるが、この辺りから薮が酷くなって、構造の把握が困難になってくる。更に腰曲輪群を経由して、頂部の広い主郭に至る。主郭は東西に長く、中央北側が内側に窪んだ凹型をした曲輪で、後部に大土塁を築いて防御している。この大土塁の東端部はやや広くなっていて、見張り台とされている。主郭の北西には広い舌状の二ノ郭が張り出しているが、薮で形状がほとんどわからない。主郭・二ノ郭の北西・西・南の支尾根には堀切が穿たれているが、酷い薮で踏査が大変である。これらの中では南の支尾根には、尾根上の曲輪を挟んで合計3本の堀切が穿たれているが、はっきり形状を確認できたのは真ん中の1本だけである。また主郭の東には堀切を挟んで東郭が築かれている。東郭は先端が高台となっており、そこから北に3段の腰曲輪が築かれ、その先の北東の尾根筋に二重堀切を穿っている。ここには一応散策路があって、道の部分だけ薮払いされているが、道の両側は薮で閉ざされてしまっている。以上が飯久保城の遺構で、遺構は完存しているが酷い薮で残念な城である。
大手筋の枡形虎口→DSCN2091.JPG
DSCN2149.JPG←二重堀切
↓赤色立体図で見た飯久保城(提供:富山県)
z飯久保城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(薮で☆一つ減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.803478/136.955751/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5) - 佐伯哲也
戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5) - 佐伯哲也
ラベル:中世山城
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2025年11月20日

神代城(富山県氷見市)

DSCN1956.JPG←南尾根1本目の堀切
 神代城は、『氷見の山城』では神代砦と記載され、歴史不詳の城である。この地域では、飯久保城・神代城・堀田城が至近距離で横一線に並んでおり、関連が指摘されている。特に西の飯久保城方面を向いた尾根筋にだけ堀切がないことから、飯久保城の出城ではないかとの説が提示されている。

 神代城は、標高72mの峰に築かれている。南の尾根に高圧鉄塔が建っており、そこへの保守道が東麓から整備されているので(東麓に小河川があるが、渡れるようになっている)、これを辿って尾根上に至り、尾根を北に辿って訪城した。切り立った切岸で囲まれた主郭を中心にして、北東・北・西に腰曲輪を廻らした縄張りとなっている。非常にコンパクトにまとめられた求心性の高い縄張りで、北・東・南の三方に伸びる尾根には鋭い多重堀切を穿って動線を遮断している。まず北尾根は、主郭前面に堀状になった腰曲輪を挟んで櫓台が築かれている。その前面に土橋を架けた堀切を介して小郭が置かれ、更にその前に堀切が穿たれている。その先は下りの尾根となり、少し先にもう1本の堀切が穿たれている。次に東尾根では、鋭い堀切を主郭直下に穿ち、その前面に独立堡塁を築き、更にその前に堀切を穿っている。主郭北東の腰曲輪は、これらの堀切・堡塁の北側をすり抜けて尾根先に通じている。3つ目の南尾根では、主郭直下に堀切が穿たれ、この堀切の西端は西の腰曲輪群に繋がっている。堀切の先に南郭が築かれ、更に鋭い堀切を挟んで小郭があり、もう1本堀切が穿たれて、背後の尾根となる。ただ最後の堀切のすぐそばに中央を土橋状に削り残した小堀切が側方に穿たれている。このように三方尾根筋は堀切群で厳重に遮断されている。その一方で、前述の通り西の腰曲輪群から伸びる西と北西の尾根には堀切がなく、舌状曲輪が尾根上に張り出しただけとなっている。以上が神代城の遺構で、縄張り的に尾畑城と類似点が見られ、在地土豪による城というよりも上杉勢力が築いた城ではないかと個人的に推測している。
東尾根1本目の堀切→DSCN2035.JPG
DSCN2030.JPG←北東の腰曲輪、奥は櫓台
↓スーパー地形で見た神代城
神代城_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.802914/136.967587/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

図説 上杉謙信 - 今福 匡
図説 上杉謙信 - 今福 匡
ラベル:中世山城
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2025年11月18日

堀田城(富山県氷見市)

DSCN1788.JPG←三ノ郭群背後の堀切
 堀田城は、歴史不詳の城である。唯一関連しそうな一次史料として、1569年10月25日付けで増山城主神保長職が家臣の神保近江守覚広に宛てた知行宛行状があり、その中に「堀田六介」という武士の名が現れる。堀田氏は神保氏に属していた土豪層と考えられ、堀田城はこの堀田氏の居城であった可能性が考えられている。

 堀田城は、2つの谷に挟まれた標高106mの山稜上に築かれている。細尾根で繋がった3つの峰にそれぞれ独立性の高い曲輪群を展開した、一城別郭の縄張りとなっている。明確な登り道がわからなかったので、三ノ郭群の東の支尾根先端に北東麓から取り付いて訪城した。
 まず北東の峰に築かれた三ノ郭群は、頂部の三角形をした曲輪を中心として、北・東・南の三方に腰曲輪群を展開している。北と東に伸びる尾根筋には堀切を穿って遮断している。更に北尾根の方は堀切前面に小郭を設け、その先の自然地形の尾根の東に腰曲輪、その先に小堀切を穿っている。また東尾根の方は、堀切の先は細尾根で、少し行った先に小堀切を穿っている。頂部の曲輪は後部に物見台状の土壇を築き、背後には堀切を穿っている。この他、南腰曲輪には竪堀が穿たれ、また東の腰曲輪の南端には土壇が築かれて、頂部曲輪との間を堀切状にして通路を狭めている。
 次に二ノ郭群は三ノ郭群の南の尾根続きにある。三ノ郭群から尾根を少し進むと窪地状の浅い堀切があり、その向こうが二ノ郭群である。頂部平場を中心にして外周に1~2段の腰曲輪を廻らしているが、三ノ郭群と比べると造作が甘く、曲輪の切岸や腰曲輪の輪郭があまりはっきりしていない。頂部平場は南に虎口らしい造作が見られる。南東の支尾根に小堀切を穿ち、頂部曲輪の背後も堀切で分断している。
 主郭群は、二ノ郭群の南西にあり、細尾根上の曲輪で繋がっている。この曲輪の先に堀切が穿たれ、その向こうが主郭群である。主郭群は、頂部曲輪の北東に虎口郭を設け、前述の堀切に対する防衛線としている。頂部曲輪の北と南東に腰曲輪を設け、特に南東のものは横堀状を呈している。南西背後に堀切2本を穿って後方を遮断している。また北西の支尾根にも小堀切を穿っている。
 北西の支尾根は細く続き、途中に小堀切があって、その先に三角点のある曲輪がある。その北は幅広の鞍部となり、その先にほぼ自然地形の曲輪がある。資料では一応ここまでを城域としている。
 以上が堀田城の遺構で、かなり曲輪が分散しており、求心性に乏しい。しかもそれぞれの曲輪は規模が小さく、城域は広いが大した兵数を置くことはできない。小土豪が苦労して作った詰城という感じである。
二ノ郭群背後の堀切→DSCN1853.JPG
DSCN1892.JPG←主郭群背後の堀切(外堀)
↓スーパー地形で見た堀田城
z堀田城_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.802485/136.974769/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

越中中世城郭図面集 3 西部(氷見市・高岡市・小矢部市・砺波 - 佐伯 哲也
越中中世城郭図面集 3 西部(氷見市・高岡市・小矢部市・砺波 - 佐伯 哲也
ラベル:中世山城
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2025年11月16日

安養坊砦(富山県富山市)

DSCN1709.JPG←C郭
 安養坊砦は、以前は茶屋町東遺跡と呼ばれ、1585年に豊臣秀吉が越中の佐々成政を討伐した富山の役に築かれた砦と考えられている。秀吉は、佐々攻めを行う際に白鳥城を本拠とし、安田城大峪城を出城として築き、前田利家の家臣が両城の守備に当たったとされる。史料ではこれらのほかに、先遣隊の前田利家が陣を張った砦が安養坊坂にあったとする記述があり、これが安養坊砦であったと推測されている。

 安養坊砦は、富山市街地の西に横たわる呉羽丘陵の東斜面に築かれている。呉羽山公園の一角であり、一部遊歩道の造作で改変を受けているが、それ以外の部分の遺構は残っている。峰の上に平坦地があり、そこから南東に向かって突き出た支尾根の上に全部で5段の平場(A~E郭)が展開している。といってもほとんど自然地形に毛が生えた程度のもので、かなりささやかな遺構である。改変を受けず、最も明確な曲輪は3段目のC郭である。先端のE郭は物見台的な曲輪で、願海寺城と富山を結ぶ主幹道を監視していたと思われる。この他、頂部の主尾根の北には空堀跡があるが、笹薮で覆われていて、窪地地形であることしかわからなかった。ささやかな遺構であるが、重要な歴史の証言者として貴重である。
先端のE郭→DSCN1717.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.707152/137.183460/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

図説 豊臣秀吉 【オールカラー】 - 柴裕之
図説 豊臣秀吉 【オールカラー】 - 柴裕之
ラベル:中世山城
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2025年11月14日

大館城(富山県富山市)

DSCN1699.JPG←虎口部分の塁線・土塁の折れ
 大館城は、歴史不詳の城である。赤江川西方の丘陵地帯の東中腹に築かれており、山林内に高台となった大きな平場が東向きに築かれている。ほぼ単郭の城で、この主郭の西面から南面にかけて大土塁と空堀がL字型に築かれている。土塁の北端部は、東に向かって2本の土塁が並走して伸びており、2本の土塁の間は竪堀状となっている。珍しい構造で意図がよくわからない。また主郭の南東隅に虎口があり、虎口外の枡形空間を囲むように主郭塁線と土塁が内側に折れている。この他、主郭から少し南に離れた斜面に竪堀が1本落ちている。以上が大館城の遺構で、比較的簡素な構造の館城である。
西側の空堀→DSCN1679.JPG
DSCN1669.JPG←2本の土塁と竪堀状地形

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.629095/137.114864/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

越中中世城郭図面集 (1(中央部編(富山市・中新川郡・射水市))) - 佐伯哲也
越中中世城郭図面集 (1(中央部編(富山市・中新川郡・射水市))) - 佐伯哲也
ラベル:居館
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2025年11月12日

楡原館(富山県富山市)

DSCN1602.JPG←館跡付近に建つ畠山重忠の墓
 楡原館は、大乗悟山城楡原山城を詰城とした能登守護畠山義則が、永禄年間(1558~70年)に楡原一帯を治めた平時の居館であったと伝えられる。しかし大乗悟山城・楡原山城の項に記載した通り、七尾城を居城とした守護大名畠山氏の当主がこの地に居たとは考えられず、代官が置かれたか、何らかの仮託であったと思われる。ただ館跡付近には、鎌倉武士の鑑と称えられた畠山重忠の墓が建っているので、古くから畠山氏に仮託する武士の居館があったのであろう。

 楡原館は、現在高台となった水田付近にあったらしい。遺構は全く残っていないが、前述の通り館跡付近には畠山重忠の墓があり、東の国道脇には重忠の石碑が建てられている。畠山伝説を色濃く残す地である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.536588/137.227148/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

中世武士 畠山重忠: 秩父平氏の嫡流 (477) (歴史文化ライブラリー 477) - 清水 亮
中世武士 畠山重忠: 秩父平氏の嫡流 (477) (歴史文化ライブラリー 477) - 清水 亮
ラベル:居館
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2025年11月10日

楡原山城(富山県富山市)

DSCN1559.JPG←南尾根の堀切
 楡原山城は、大乗悟山城と共に、戦国時代に楡原館を平時の居館とした能登守護(?)畠山氏の詰城と伝えられる。城主の名は畠山義則と伝わるが、能登畠山氏の系図にその名は見えない。畠山義綱の異名ともされるがはっきりしない。「義慶」も読みが同じなので、畠山義慶のことであるかもしれない。いずれにしても、七尾城を居城とした守護大名畠山氏の当主がこの地に居たとは考えられず、代官が置かれたか、何らかの仮託であろう。

 楡原山城は、神通川西岸にそびえる標高462mの城ヶ山に築かれている。明確な登道はなく、城ヶ山から東に伸びる支尾根の先に鉄塔があるので、鉄塔保守道を使って鉄塔まで登り、そこから先は尾根伝いに登って城に到達した。城の遺構は全体的に中途半端で、まるで築城途中で放棄したかの様な印象を受ける。山頂部の北と東を区画するように腰曲輪が築かれている。この腰曲輪で区画された内部が城内となるが、南西角に櫓台状の後部高台があり、そこから北東に向かって主郭のような高台が突き出ている。その周囲はほとんど自然地形の斜面で囲まれ、特に北側はけっこう傾斜のきつい斜面のままである。堀切は、南西角の高台背後の南尾根にのみ穿たれていて、規模は大きくはないが堀形はしっかりしている。この他、城内の南東角にL字型の土塁が構築され、虎口の切れ込みが築かれている。以上が楡原山城の遺構で、一応城郭遺構は残っているがかなり部分的で、普請が中途半端な印象は否めない。未整備の薮もあって周囲への眺望も効かず、あまり登山の苦労が報われない城である。
北の腰曲輪→DSCN1579.JPG
DSCN1590.JPG←主郭のような高台
南東角のL字型の土塁→DSCN1551.JPG
↓スーパー地形で見た楡原山城
z楡原山城_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.520491/137.220406/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

越中460年を行く 富山城探訪 - 北日本新聞社編集局
越中460年を行く 富山城探訪 - 北日本新聞社編集局
ラベル:中世山城
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2025年11月08日

薄波砦(富山県富山市)

DSCN1486.JPG←主郭背後の堀切
 薄波砦は、2012年に発見された城砦である。従って記録も伝承も残っていない。眼下に飛騨東街道と桧峠越えが交差する交通の要衝に築かれていることや砦の構造的特徴から、佐伯哲也氏は天正年間(1573~92年)に飛騨の豪族江馬氏が築き、対立する神保氏の侵攻阻止、または江馬氏の越中での拠点・中地山城への繋がる桧峠越えを押さえる目的で築城したと推測している。

 薄波砦は、神通川と長棟川の合流点南東にそびえる標高348mの山上に築かれている。砦のすぐ南に鉄塔が建っており、そこへの保守道が西麓から整備されている。この道は最初、砦の方向とは異なる南東方面の谷筋を登っていくので、本当にこの道でいいのか不安になるが、しばらく登ると北に向きを変えるので、迷わずこの道を登っていけばよい。やがて尾根の鞍部に到達するので、ここから北へ尾根筋を登っていけば、鉄塔のすぐ先に堀切が見えてくる。ほぼ単郭の小規模な砦で、地山に近い縦長の主郭とその前後の堀切、堀切と繋がる西側の腰曲輪、それと更に後部の尾根に穿たれた長い堀切から構成されている。堀切はかなり明瞭で、主郭背後の堀切が最も深さがあり、薮も少なく見やすい。その後部にある堀切は、深さは浅いが逆への字型をしていて、西と北に長く伸びている。この堀切の形状が、佐伯氏によれば江馬氏城郭の特徴であるらしい。以上が薄波砦で、作戦上の理由で臨時に造られた城砦らしい構造である。尚、主郭に到達した際、キバシリ3羽がお出迎えしてくれた。
主郭→DSCN1495.JPG
DSCN1521.JPG←長く伸びた後部の堀切
↓スーパー地形で見た薄波砦
z薄波砦_com.kashmir3d.superdem.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.501105/137.255710/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

ラベル:中世山城
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2024年11月11日

池田城(富山県氷見市)

DSCN6643.JPG←南郭先端の堀切
 池田城は、小浦城とも言い、この地の国人領主小浦氏(三善氏)歴代の居城である。小浦氏の祖は三善石見守朝宗で、鎌倉幕府創業の功臣で問注所の初代執事であった三善康信の後裔と言われ、応安年間(1368~75年)に備後国からこの地に移り住んで、小浦山に城を築いたと伝えられる。7代三善石見守光康は、能登畠山氏に属して軍功を上げた。その子石見守一守の時に小浦氏を称した。1576年、越中を制圧し能登へ侵攻した上杉謙信に服属した。この時、一守の子(後の松原内匠)は幼少ながら謙信の館に人質として居住した。1578年に謙信が急死すると、松原内匠は小浦に戻り、一守は織田信長の部将佐々成政に属した。信長横死後の1584~5年に佐々成政と前田利家が対立した時には、小久米(池田城下)の市場が前田氏の部将奥村永福・千秋範昌の軍勢の夜襲を受けているので、池田城が佐々方の前線拠点と見做されていたことがわかる。1585年に佐々成政が豊臣秀吉に降伏してこの地が前田氏の支配下となると、小浦氏は城を退去して佐々領として残された新川郡に移住した。池田城はこの時廃城になったと思われる。1587年に成政が肥後に移封となると一守父子はそれに従ったが、翌年成政が肥後国人一揆の責任を問われて尼ヶ崎で自害させられると、一時越後堀家にあり、1593年には浪人となって能登国飯山郷に移住した。一守はここで剃髪し、松原斉安と号した。子の松原内匠は1611年に前田利長に仕えて加賀藩士となり、大坂の陣にも従軍、以後加賀藩士として続いた。

 池田城は、標高90.3m、比高70m程の小山に築かれている。城内は公園として整備されるほか、南郭など一部が畑となっている。コンパクトに纏められた城で、山頂に主郭を置き、その周りに帯曲輪1段が全周している。更に西側下方には三角形をした二ノ郭があり、その下に小堀切が穿たれて尾根筋を防衛している。また、東尾根には2段の腰曲輪があり、南東尾根には南郭1段が築かれている。南郭の先端は堀切で遮断している。以上が池田城の遺構で、戦国末期まで存続した城であるが、佐々時代に改修を受けた形跡はなく、小土豪の城の形態を留めている。
 尚、南郭の畑で作業していたおじいさんから話を伺うことができた。城の西尾根の先に広い平場があるが、城があった当時はそこで城主が食事を取っていたとの言い伝えがあるらしい。居館があったということであろうか?また城主の末裔は南関東にいるらしく、以前に立派なスーツを着てこの地に来たことがあるらしい。
主郭周囲の帯曲輪→DSCN6690.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.844255/136.898274/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

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  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
ラベル:中世平山城
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2024年11月09日

久津呂城(富山県氷見市)

DSCN6605.JPG←主郭の切岸
 久津呂城は、1578年に上杉勢の攻撃により能登穴水城を脱出して越中に逃れた長連龍が、一時期拠った城と伝えられる。これに先札つ1577年に上杉謙信は能登を制圧し、長氏の居城穴水城も上杉氏に攻略された。長一族でただ一人生き残った連龍は、織田信長の支援を得て御家を再興し、上杉方に奪われた穴水城の奪回戦を展開した。そして1578年8月、穴水城を攻略して奪回を果たした。しかし間もなく上杉方の反撃によって同年10月下旬に越中へ逃れ、守山城主神保氏張を頼った。その際に連龍は、家臣石黒大膳と関係のあったこの地の土豪崩(久津呂)三郎左衛門の空城であった久津呂城に居住したと言う。その後連龍は守山城に移ったが、1578年11月11日の信長朱印状によれば、守山城移動の時期は11月11日以前であるので、連龍の久津呂城逗留期間は10月下旬から11月初旬にかけての短期間であったようである。尚、地元の伝承では久津呂城は高松城の見張所であったとも言うが、詳細は不明である。

 久津呂城は、下久津呂集落の背後に横たわる比高35m程の丘陵上に築かれている。城内には東麓から林道が通っており、改変が進んでいるが主要な遺構は残存している模様である。丘陵中央部に高さ5m程の切岸で切り立った主郭があり、その周囲に腰曲輪らしい平場、北斜面に腰曲輪群が築かれている。また東には出曲輪らしい平場が突き出ており、付け根の部分の南斜面に二重竪堀のような地形も見られる。但し、これらの遺構の内の一部は後世の耕地化による改変もあるかもしれない。また主郭西側の基部の尾根には堀切は見られず、この城がどちらかと言うと居館的なものであったことを物語っているかもしれない。いずれにしても小規模な城砦である。
北斜面の腰曲輪群→DSCN6607.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.829640/136.952670/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


現代語訳 信長公記(全) (ちくま学芸文庫 オ 25-1)

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  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2017/02/08
  • メディア: 文庫
ラベル:中世平山城
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2024年11月07日

千久里城(富山県氷見市)

DSCN6444.JPG←北西尾根の堀切から落ちる竪堀
 千久里城は、南北朝史に現れる城である。一次史料である軍忠状には2回現れる。1回目は1352年6月で、観応の擾乱の余燼が燻り続ける中、直義党の急先鋒であった桃井直常は本拠地越中に戻って反幕活動を続けていた最中の時である。能登守護吉見氏頼は6月6日に桃井勢討伐のために能登勢を率いて越中に進軍し、氷見湊周辺で蠢動する桃井勢と8、9、14、15日と立て続けに交戦した。これらの合戦の中で、15日に吉見勢が三角山城(稲積城か?)を攻撃して討ち取った敵兵の首を懸けたところ、桃井直信の軍勢が千久里・木谷・氷見(朝日山城か?)・獅子頭(守山城)の諸城から後攻めに駆けつけ、合戦となった。2回目は1359年で、能登守護吉見氏頼の一族吉見刑部少輔は、元越中守護の井上入道暁悟(利清)・同河内前司章俊らを討伐するために氷見に出陣し、9月20日に芝峠城や木谷城に本陣を置いて以降、井上方の宇波・八代・氷見・千久里の諸城を攻め落とした。明確に史料に残るのはこれだけであるが、現在残る遺構から戦国期まで使われたと考えられており、この地の豪族鞍川氏の城だったのではないかとの説が提示されている。

 千久里城は、標高137.3mの竹里山に築かれている。東の中尾地区から西の上田地区に通じる車道が山中を通っており、その脇から登道が整備されている。途中傾斜の急な部分にはロープも設置されているが、途中で切れていたりするので若干の注意が必要である。城は、南の最高所に物見を兼ねた狭小な詰丸を置き、そこから北東に伸びる尾根上に主郭・二ノ郭・三ノ郭を配置した縄張りとなっている。大手は詰丸の東に伸びた尾根筋と想定され、ここには段曲輪群が築かれ、先端部は東出丸が築かれ、比較的大きな円弧状の土塁が南東辺に構築されている。前述の登道はこの曲輪に到達しており、土塁はこの登道から接近する敵を迎撃するために築かれていたと思われる。また東尾根の段曲輪群には、中間部に小堀切、段曲輪群の付け根にも土橋を架けた堀切が穿たれて、大手筋を防衛している。付け根の堀切の上には舌状の虎口郭があり、そこから細い通路を通って主郭に至る。主郭は先端部が菱形に広がった、付け根の狭い曲輪で、北東辺に土塁を築き、その前面に堀切を穿って、北東にある二ノ郭との間を分断している。この堀切は、主郭の東側に回り込んで横堀となり、その外側には腰曲輪が築かれている。また二ノ郭側には堀切沿いに帯曲輪が1段築かれるという珍しい形態となっている。二ノ郭も先端に土塁が築かれ、北東の三ノ郭との間を中規模の堀切で分断している。二ノ郭西端部は一段低くなっていて西側下方の腰曲輪に繋がる虎口となっている。西腰曲輪は数段の段差で区画されており、北西尾根には大きな堀切が穿たれている。この堀切は北側で折れ曲がりながら竪堀となって落ちている。北西尾根には、その先にももう1本堀切が穿たれて、尾根筋を遮断している。三ノ郭は横長の曲輪で、東の尾根には小郭を挟んだ二重堀切が穿たれている。また三ノ郭北には腰曲輪があり、内部に物見台らしい土壇が築かれ、北東に堀切を穿っている。最後に峰上の詰丸であるが、東西に細長い小さな平場で、内部に三角点が置かれている。詰丸の南西下方には堀切が穿たれている。その更に南にも堀切があるらしいが、薮が酷かったので踏査しなかった。以上が千久里城の遺構で、堀切を要所に効果的に配置し、ある程度の居住性も持った山城である。
東出丸の円弧状土塁→DSCN6381.JPG
DSCN6527.JPG←主郭東側の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.855021/136.940246/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

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  • 作者: 亀田俊和
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2019/02/08
  • メディア: Kindle版
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2024年11月05日

中村山城(富山県氷見市)

DSCN6367.JPG←西斜面の畝状竪堀の一部
 中村山城は、越後上杉氏の部将長尾左馬助が在城したと伝わる城である。しかしその時代やそれ以外の歴史は不明である。ただ、畝状竪堀が設けられていることから、上杉氏の城であったことは間違いないと考えられている。

 中村山城は、西から伸びる丘陵先端の標高66mのピーク上に築かれている。縄張図によると、中央のピークから北・東・南の三方に伸びる尾根上に曲輪群を展開した、比較的コンパクトに纏められた城である。お城巡りの先達の方に倣い、東尾根にある墓地裏からアプローチした。ネットの事前情報で猛薮だと聞いて覚悟はしていたが、想像以上のちょー激薮の城で久しぶりに参った。まだ城域ではない墓地裏が早くも見通しの効かない激薮で、これを抜けるとようやく東尾根に穿たれた堀切に到達し、ここから城域となる。この堀切の側方斜面に畝状竪堀があるらしいが、薮がひどくて確認不能である。堀切の上にあるのが東郭で、北東尾根との間にも堀切を穿って分断している。東郭の付け根は空堀が穿たれ、北寄りに土橋が架かっている。その上に東二ノ郭がある。その西にはわずかな段差で区画された主郭がある。主郭は円形に近い部分と東尾根に尾のように張り出した部分で構成された、オタマジャクシ形をしている。主郭の北には土橋が架かった堀切を挟んで北二ノ郭がある。北二ノ郭は折れ曲がった形状をした細長い曲輪で、下方に対して横矢の張出しを数ヶ所に設けているようだが、薮がひどくてよくわからない。北二ノ郭の北から西を通り、主郭の西・南まで、周囲を防衛する腰曲輪が築かれているが、踏査したのは北と南の部分だけである。南は更に一段低く南1郭が築かれているが、ここも薮がひどくてその先の踏査は断念した。縄張図では、この南にも堀切、南2郭があり、更に大手道が南に伸びていたらしい。一方、北の腰曲輪の北西には中規模の堀切が穿たれ、その東側方に下段の腰曲輪が築かれている。この堀切から西斜面に回り込むと、この城の最大の特徴である畝状竪堀が穿たれている。しかしここも薮が多くて形状が捉えにくく、辛うじて畝状竪堀の一部が確認できただけである。以上が中村山城の遺構で、遺構がよく残っているものの薮がひどすぎて、その魅力を大きく減じてしまっている。
主郭~北二ノ郭間の堀切→DSCN6331.JPG
DSCN6351.JPG←北西の堀切から落ちる竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(薮がひどい分、減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.871639/136.931126/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 3 西部(氷見市・高岡市・小矢部市・砺波

越中中世城郭図面集 3 西部(氷見市・高岡市・小矢部市・砺波

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2013/12/01
  • メディア: 大型本
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2024年11月01日

一夜城(富山県氷見市)

DSCN6257.JPG←主郭
 一夜城は、1582年6月に上杉景勝が能登奪還のために派遣した軍勢が一夜宿陣した城と伝わる。6月3日に上杉方の魚津城が柴田勝家率いる織田勢の猛攻により落城したが、その前日に本能寺の変が起こって織田信長が横死していた。魚津城を落としたばかりの織田方諸将はこの報を受け、翌4日に突如撤退していった。一方、多方面から織田勢の侵攻を受け、滅亡の縁にあった景勝の元に信長横死の知らせが届いたのは同月8日頃のこととされる。景勝は直ちに反転攻勢を開始し、新川郡で失地を回復して魚津城を奪還した。更に前田利家が支配する能登には、能登畠山氏の旧臣温井景隆・三宅長盛らが率いる上杉勢を海路送り込んだ。この上杉勢は、一夜城に一泊した後、石動山に向かったと言う。

 一夜城は、女良集落の北にそびえる丘陵先端部に築かれている。城内の一角に墓地があり、西麓の道神社から登道が付いている。全体的に薮に覆われた薮城で踏査が大変だが、一応遺構の確認ができる。中心部は東西に長い高台となった主郭があり、内部は3段程の段差に区画されているようである。主郭の西・南・東の三方に腰曲輪が築かれ、東側の腰曲輪は堀切状となり、その東に高台となった曲輪が築かれている。その東下方にも更に平場群があるが、高台から東は墓域になっているため、後世の改変の可能性がある。しかし曲輪跡と見做しても縄張り的に不合理ではない。以上が一夜城の遺構で、後世の改変も考えられるのでどこまで城の遺構か不明瞭なところはあるが、主郭などしっかり削平されている。一夜だけの陣城にしては、普請がしっかりされている感じなので、元々あった城砦を一夜の陣城として再利用したものと考えた方が良さそうである。
東側の堀切状の腰曲輪→DSCN6290.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.942123/137.026849/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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