
←三ノ郭群背後の堀切
堀田城は、歴史不詳の城である。唯一関連しそうな一次史料として、1569年10月25日付けで
増山城主神保長職が家臣の神保近江守覚広に宛てた知行宛行状があり、その中に「堀田六介」という武士の名が現れる。堀田氏は神保氏に属していた土豪層と考えられ、堀田城はこの堀田氏の居城であった可能性が考えられている。
堀田城は、2つの谷に挟まれた標高106mの山稜上に築かれている。細尾根で繋がった3つの峰にそれぞれ独立性の高い曲輪群を展開した、一城別郭の縄張りとなっている。明確な登り道がわからなかったので、三ノ郭群の東の支尾根先端に北東麓から取り付いて訪城した。
まず北東の峰に築かれた三ノ郭群は、頂部の三角形をした曲輪を中心として、北・東・南の三方に腰曲輪群を展開している。北と東に伸びる尾根筋には堀切を穿って遮断している。更に北尾根の方は堀切前面に小郭を設け、その先の自然地形の尾根の東に腰曲輪、その先に小堀切を穿っている。また東尾根の方は、堀切の先は細尾根で、少し行った先に小堀切を穿っている。頂部の曲輪は後部に物見台状の土壇を築き、背後には堀切を穿っている。この他、南腰曲輪には竪堀が穿たれ、また東の腰曲輪の南端には土壇が築かれて、頂部曲輪との間を堀切状にして通路を狭めている。
次に二ノ郭群は三ノ郭群の南の尾根続きにある。三ノ郭群から尾根を少し進むと窪地状の浅い堀切があり、その向こうが二ノ郭群である。頂部平場を中心にして外周に1~2段の腰曲輪を廻らしているが、三ノ郭群と比べると造作が甘く、曲輪の切岸や腰曲輪の輪郭があまりはっきりしていない。頂部平場は南に虎口らしい造作が見られる。南東の支尾根に小堀切を穿ち、頂部曲輪の背後も堀切で分断している。
主郭群は、二ノ郭群の南西にあり、細尾根上の曲輪で繋がっている。この曲輪の先に堀切が穿たれ、その向こうが主郭群である。主郭群は、頂部曲輪の北東に虎口郭を設け、前述の堀切に対する防衛線としている。頂部曲輪の北と南東に腰曲輪を設け、特に南東のものは横堀状を呈している。南西背後に堀切2本を穿って後方を遮断している。また北西の支尾根にも小堀切を穿っている。
北西の支尾根は細く続き、途中に小堀切があって、その先に三角点のある曲輪がある。その北は幅広の鞍部となり、その先にほぼ自然地形の曲輪がある。資料では一応ここまでを城域としている。
以上が堀田城の遺構で、かなり曲輪が分散しており、求心性に乏しい。しかもそれぞれの曲輪は規模が小さく、城域は広いが大した兵数を置くことはできない。小土豪が苦労して作った詰城という感じである。
二ノ郭群背後の堀切→


←主郭群背後の堀切(外堀)
↓スーパー地形で見た堀田城

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:
https://maps.gsi.go.jp/#16/36.802485/136.974769/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
越中中世城郭図面集 3 西部(氷見市・高岡市・小矢部市・砺波 - 佐伯 哲也
posted by アテンザ23Z at 02:00|
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古城めぐり(富山)
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