2025年06月23日

岩古谷城(愛知県設楽町)

DSCN5704.JPG←大岩の上の西物見
 岩古谷城は、山家三方衆と呼ばれる奥三河の土豪の一、長篠菅沼氏の祖である菅沼満成が永享年間(1429~41年)に築城したと言われる。その後、2代元成が長篠城を築いて移った後、1575年満直が城主の時、武田氏に属して長篠合戦に敗れ、廃城となった。

 岩古谷城は、標高799mの峻険な岩古谷山に築かれている。登山で有名な山なので、登山道が整備されているが、一部に急峻な登路もあるので軽装での山登りは避けるべきである。私は西麓の堤石トンネル登山口から登った。途中、不動堂・不動滝がある平場を経由して、猿すべりと呼ばれる岩壁の脇を登っていくとガレ場があり、ここには城井戸の標柱がある。城井戸の上方には井戸曲輪という水の手防衛の曲輪があるらしいが、絶壁に阻まれて登ることはできない。城井戸から登山道を更に登っていくと、北西に伸びる支尾根に到達するが、ここからが本格的な城域となる。ただ、城と言うにはあまりにもささやかな遺構で、小規模な平場群が散在するだけであるが、平場群は明瞭で、それぞれに標柱と簡単な解説文が書かれていて大変助かる。現地解説板の縄張図に従って書くと、北西の支尾根には北四曲輪~北六曲輪があり、北六曲の先にも大手口と物見台がある。一方、北四曲輪の南東下に腰曲輪状の北三曲輪が置かれている。北四曲輪からは谷地の斜面に敷設された登道を登っていくが、途中に腰曲輪状の北二曲輪・北一曲輪がある。更に登って主尾根に到達すると、最初に現れるのがベンチが設置された円形の平場で、ここが本曲輪である。主尾根は岩場の多い細尾根の稜線で、本曲輪の南西には南物見と大岩の上の西物見、北東には東物見とその少し先に東曲輪がある。東曲輪の先の尾根先端には岩塊があり、鍵掛け岩と言って、岩場を下っていく道から長い綱と鉤によって籠城時の兵糧を運んだところと伝えられる。以上が岩古谷城の遺構で、ほとんど居住性のない峻険な山城で遺構わずかだが、山上からの眺望は格別で、城巡りよりトレッキングとして行った方がよい山である。
北西の支尾根の北五曲輪→DSCN5658.JPG
DSCN5763.JPG←城が築かれた岩古谷山
スーパー地形で見た岩古谷城↓
Screenshot_岩古谷城.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.087285/137.600548/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世山城
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2025年06月21日

田内城(愛知県設楽町)

DSCN5586.JPG←二ノ郭と主郭虎口
 田内城は、山家三方衆と呼ばれる奥三河の土豪の一、田峯菅沼氏の一族島田菅沼氏3代伊賀守定盛が、天文年間(1532~55年)に家督を弟定孝に譲り、この地に移り田内城を築いたと言われる。その後、定勝・定清(三照)と続いた。駿河の今川・三河の松平・尾張の織田の各勢力がこの地に及んでくると、菅沼一族では一族相克の激しい内部抗争が行われた。この中で、1556年8月に宗家の菅沼定継が今川勢と戦って討死すると、菅沼定勝・定清父子が一時田峯城を占拠する事態も生じた。後に定清が新城の井道に移ると廃城となったと言う。

 田内城は、豊川西岸の独立小丘に築かれている。西麓の集落から登道が整備されているので、訪城は容易である。小規模かつ簡素な作りの城で、山頂に長円形の主郭を置き、北に1段、西に1段、南に3段の腰曲輪を築いている。南に大手口があり、登道はここに繋がっている。主郭の虎口は3ヶ所あり、南に大手虎口、西側中央に西虎口、北東に東虎口が築かれている。南の腰曲輪の最上段は二ノ郭とされているが、曲輪の規模としては北の腰曲輪とほとんど変わらない。堀切や横堀はなく、曲輪群と切岸だけで防御を固めた小城砦である。

スーパー地形で見た田内城↓
Screenshot_tanai.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.070578/137.554926/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世平山城
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2025年06月19日

道満屋敷(愛知県設楽町)

DSCN5562.JPG←屋敷跡の平場
 道満屋敷は、菅沼氏の一族菅沼道満の居館である。道満の系譜と事績はいずれも不明であるが、長篠菅沼氏4代俊則が道満のことであるとの説もある。

 道満屋敷は、多宝寺の南にある台地上に築かれている。境内の端から鳥居の建っている登り口があり、その脇に解説板が立っている。その内容によれば、屋敷跡は戦時中に食糧増産のために開墾されたという。台地上には舌状の平場が広がっているだけで、北西にわずかに小さな腰曲輪が付随している。かつては道満稲荷が建っていたが、現在は取り壊されて残骸しか残っていない。背後には、土塁と堀状の溝があるが、これは山道と猪垣の跡であるらしい。尚、背後の山上には見張台とされる城砦遺構があるらしいが、今回は時間の関係で未確認である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.065063/137.554289/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:居館
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2025年06月17日

田峯城(愛知県設楽町)

DSCN5394.JPG←入口から見た田峯城
 田峯城は、山家三方衆と呼ばれる奥三河の土豪の一、田峯菅沼氏の歴代の居城である。菅沼氏は美濃守護土岐氏の庶流と言われ、三河国額田郡菅沼郷に移り住んで菅沼氏を称した。嘉吉年間(1441~44年)頃、菅沼伊賀守定成の時に田峯に移り、その子信濃守定信が1470年に田峯城を築いて居城とした。以後、菅沼氏は田峯城を本拠として、島田菅沼氏・長篠菅沼氏・野田菅沼氏などを輩出し、奥三河一帯に勢力を扶植した。定信の子定忠は、子定広と共に今川氏に属した。今川氏親が1526年に没すると、定広の子定継は1529年に安祥の松平清康に従った。1535年、尾張攻略を目指した清康が守山城で家臣に殺されると(守山崩れ)、織田氏が三河に侵攻し、定継は亀山城主奥平貞勝と共に織田氏に気脈を通じた。しかし弟定直(布里城主)・定氏(大野城主)・定仙(井代城主)らは今川方に残ったため、一族相克の状況となった。1556年、定継は定直と戦ってこれを破ったが、同年8月に今川義元の援軍に攻撃され、弟の島田菅沼定俊・野田菅沼定村の弟定円と共に討死した。これ以後田峯城は、一族の田内城主菅沼定勝・定清父子によって占拠されたが、後に布里城主定直が入城して兄定継の遺子定忠を補佐した。1561年、定忠は徳川家康より遺領を安堵され、田峯城主となった。甲斐の武田信玄が奥三河への攻勢を強めると、定忠は1571年に武田氏の誘いに応じて武田氏に従い、以後長篠合戦まで武田方として活躍した。1575年、定忠は家老城所道寿と共に長篠合戦に出陣したが、武田勢が織田・徳川連合軍に大敗すると、留守居役の叔父定直と家老今泉道善らが謀反を起こし、武田勝頼一行を先導して田峯城に入ろうとした定忠は入城できず、山を越えて武節城に入った。ここで勝頼一行を甲斐に見送った定忠は武節城に立て籠もったが、奥平氏に攻められて信濃に逃れた。復讐を誓った定忠は翌76年7月、田峯城を夜襲して叔父定直ら謀反の一族老若男女96人を惨殺し、首謀格の今泉道善を鋸引きの刑に処して、信濃に引き上げた。その後武田氏滅亡後の1582年5月、定忠は信濃国知久平において牛久保城主牧野康成の軍勢と戦って討死し、田峯菅沼氏は断絶した。その後家康は、終始徳川方であった道目記城主菅沼小大膳定利(定直の嫡子)に田峯の遺領を継がせた。1583年、定利は伊那郡司に任命され、知久平城に入った。その後田峯城は廃城になったと思われる。

 田峯城は、豊川西岸の丘陵上にある田峯集落南東の小山に築かれている。この田峯集落自体が、山間地の中にぽつんと離れ小島のように存在していて、こんなところに集落があるのかと思うぐらい、隠れ里のような場所にある。城はほぼ全域に散策路と標柱が設置されていて、主郭には模擬の主殿・大手門・物見台などが復元されている。山頂に主郭を置き、北西斜面に段状に曲輪群を築き、主郭背後の東側にも腰曲輪数段と堀切、東出曲輪が築かれていて、そのすぐ東の斜面には敵兵の回り込みを防ぐためと思われる竪堀が落ちている。また裏曲輪と呼称される腰曲輪は、北側をグルっと回って東の堀切まで通じている。南斜面下方にも帯曲輪群が築かれている。城の入口は現在木橋が架かっている城域西端部で、ここには虎口郭が設けられ、空堀が穿たれている。城は高低差の大きな縄張りで、曲輪群はいずれもしっかりした切岸で区画されている。一部の腰曲輪は墓地となっている。城内の曲輪にはほとんど土塁が築かれていない。以上が田峯城の遺構で、遺構がよく残り、整備されていて見やすい。
 尚、行ったのが正月だったので、主郭は休城中で立ち入りできなかった。
東の堀切→DSCN5451.JPG
DSCN5412.JPG←南斜面の竪堀
スーパー地形で見た田峯城↓
Screenshot_damine.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.054834/137.534771/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世平山城
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2025年06月15日

川尻城(愛知県新城市)

DSCN5327.JPG←主郭後部の土塁
 川尻城は、山家三方衆と呼ばれる奥三河の土豪の一、作手奥平氏の初期の居城である。作手奥平氏は、14世紀末頃に奥平八郎左衛門貞俊が上野奥平城から母方の親戚・川手領主山崎三郎左衛門高元を頼って三河国設楽郡作手に移り住んだことに始まる。貞俊は1424年に川尻城を築いて居城としたが、その後新たに亀山城を築いて居城を移した。川尻城は、本城移転後も一族衆が守る支城として存続したと推測されている。

 川尻城は、比高40m程の丘陵上に築かれている。城跡は現在、創造の森城山公園の一部となって公園化されている。ほぼ単郭の城で、広い主郭の周囲に1段の腰曲輪を廻らし、更に南に2段の腰曲輪を築いている。主郭直下の南の腰曲輪には、模擬の冠木門が建っている。主郭は中央北側に一段高い高台があり、一見すると櫓台のように見えるが、『日本城郭大系』等に言及がないので、これは公園化による改変であろうか。主郭の後部には土塁が築かれ、その背後(東側)の腰曲輪は南北の腰曲輪より1段高くなっていて、低土塁を伴っている。更にその先に腰曲輪が1段築かれ、その先は平坦な尾根上の平場が続いている。この平場が遺構かどうか判断に迷うが、北辺に数ヶ所屈曲した土塁が見られ、公園化によるものとも見えるし、遺構のようにも見え、判断が難しい。以上が川尻城の遺構で、縄張り面で特筆するようなものはあまりなく、公園化による改変もあるため、ちょっとパッとしない印象の城である。
腰曲輪の模擬冠木門→DSCN5315.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.981346/137.429172/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世平山城
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2025年06月13日

文殊山城(愛知県新城市)

DSCN5258.JPG←北東の堀切・土橋
 文殊山城は、亀山城主奥平氏が甲斐武田氏の命令で築いた城と伝わる。伝承では、元亀年間(1570~73年)に武田氏との和睦の証として塞之神城と共に築く筈であったが、延引したため武田氏より強談に合い、奥平氏が一夜にしてこれを築いたと言う。このため別名を一夜城とも言う。北東の尾根続きには塞之神城があり、その目と鼻の先の独立小丘には古宮城があることから、これらと密接に関連して築かれた城と推測される。

 文殊山城は、標高661mの山上に築かれている。北東麓から車道が伸びており、城のすぐ直下まで車で行くことができる。ほぼ単郭の城で、文殊堂が建てられた長円形の主郭と、その周囲の腰曲輪から構成されている。主郭外周の3/4程には土塁が築かれ、下方を廻る腰曲輪にも東側と北西部には土塁が築かれて横堀となっているは。また北東は舌状曲輪が伸び、その先に堀切が穿たれ、中央に土橋が架かっている。この先の山道を下っていくと塞之神城に至る。以上が文殊山城の遺構で、物見と連絡を主任務とした小城砦であったと思われる。
横堀→DSCN5276.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.969274/137.415353/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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2025年06月11日

塞之神城(愛知県新城市)

DSCN5215.JPG←土塁囲みの主郭
 塞之神城は、伝承によれば元亀年間(1570~73年)に武田氏によって、奥平氏との和睦の際に合議により築かれたとも、或いは奥平氏の作手来住以前に作手に住した米福長者時代に存在していたとも言われるが、確かなことはわかっていない。古宮城のすぐ西の峰にあり、両城の間は450m程しか離れていないので、古宮城と一体となって機能した詰城的な城砦であったかもしれない。

 塞之神城は、標高628mの峰に築かれている。西の山上にある文珠山城に至る林道の途中から尾根筋に降りていく方法もあるようだが、わかりにくかったので私は一旦文珠山城まで車で行き、そこから東に伸びる尾根筋を辿るルートを選択した。この方が、文殊山城から塞之神城に行く山道に案内が出ており、わかりやすい。塞之神城は、大きく東西2つの曲輪群で構成されている。東が主郭群、西が二ノ郭群である。主郭は不整五角形をした曲輪で、北東辺以外を土塁が取り巻いている。主郭の北・東・南西にはそれぞれ腰曲輪が築かれている。東と南西の腰曲輪の外周には土塁が築かれている。主郭虎口は北東と南に築かれ、北東の虎口から伸びる登城道は東腰曲輪の側方をすり抜けて下っており、少し先には片堀切と土塁が築かれて、前衛の防御としている。南虎口は南西腰曲輪に繋がっており、更に南西腰曲輪の南西には枡形虎口が築かれて、城道は屈曲しながら二ノ郭群に通じている。二ノ郭は三角形に近い形状の曲輪で、前述の南西腰曲輪とは尾根上の曲輪で繋がっている。二ノ郭の西と南には土塁が築かれ、下の尾根にはそれぞれ堀切が穿たれている。二ノ郭と主郭群とを繋ぐ尾根上の曲輪は、南側に一段低い帯曲輪を伴っており、帯曲輪の北東端は竪土塁で遮断している。この他、主郭群の南西腰曲輪の南斜面には、比較的大きな竪堀が穿たれている。竪堀の脇には井戸のような窪みがある。もし井戸だとすると、この竪堀は水の手への連絡路であったのかもしれない。以上が塞之神城の遺構で、コンパクトに纏まった城である。
南西腰曲輪の枡形虎口→DSCN5184.JPG
DSCN5249.JPG←南斜面の竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.972095/137.422552/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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2025年06月09日

岩波城(愛知県新城市)

DSCN5135.JPG←主郭
 岩波城は、亀山城主奥平氏の支城である。城主は和田城主和田奥平氏の奥平出雲守貞寄や勝次と伝えられているが、和田奥平氏の嫡男が代々砦の守りとして配置されたものだろうか?

 岩波城は、山間地の中にそびえる標高568mの峰に築かれている。登道はなく、西麓の谷筋を通る県道436号線からその脇を流れる川に架かる橋を渡り、城のある峰の西に伸びる尾根に取り付いて直登した。主郭とその南北に小さな腰曲輪があるだけの城で、曲輪間を区画するわずかな段差は認められるが、主郭は地山で削平がほとんどされておらず、ただの物見の尾根という感じである。前後の腰曲輪も痕跡はわずかである。城とはほとんど名ばかりで、ここが城跡だと知らなければ、ただの山にしか思えないであろう。非常に残念な城である。
尚、城の北西方向の県道脇に、城主の奥平出雲守貞寄の墓が祀られている。
主郭と腰曲輪を区画する段差→DSCN5131.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.990115/137.466413/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

「城取り」の軍事学 (角川ソフィア文庫) - 西股 総生
「城取り」の軍事学 (角川ソフィア文庫) - 西股 総生
ラベル:中世山城
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2025年06月07日

古宮城(愛知県新城市)

DSCN4882.JPG←城域を二分する大堀切
 古宮城は、甲斐武田氏が作手郷に築いた奥三河の戦略拠点である。武田信玄は1571年に奥三河に進出し、翌72年に重臣馬場信房の縄張りでこの城を築いたと考えられている。それは、服属間もない亀山城主奥平氏監視のためでもあったろう。1573年に武田信玄が病没すると、同年8月奥平定能・定昌親子は一族郎党の大半を率いて亀山城を退去し、徳川氏に帰順した。奥平親子が滝山城(亀穴城)に拠ると、武田軍は離反した奥平氏討伐のため滝山城に攻め寄せた。この混乱に乗じて、手薄となった古宮城には奥平氏の援軍として駆け付けた徳川勢が攻め入り、一時、武田勢は敗走したと言う。しかしその後、古宮城は再び武田氏の支配下となり、武田勝頼は小幡与一らを城番として守らせた。1575年、徳川家康の家臣であった大岡弥四郎、山田重英らは武田勝頼に内通して謀反を起こし、その際、勝頼は作手筋に出馬する予定を伝えているが、この作手筋が古宮城を指しているものと推測されている。同年5月、武田勝頼による長篠城包囲戦をきっかけとして生起した長篠の戦いで武田氏が織田・徳川連合軍の前に大敗を喫すると、武田氏の奥三河への影響力は著しく減退し、古宮城は放棄されたと考えられている。

 古宮城は、比高20m程の小さな独立丘陵全体を城砦化している。武田氏の最大版図の中において、武田流築城術を駆使した城としては本拠地甲斐から最遠の地に築かれた城である。大堀切で丘陵を二分した一城別郭の縄張りで、頂部には堀切を挟んで東に主郭、西に西曲輪(二ノ郭)が築かれている。いずれの曲輪も土塁で全い周を囲み、内部に仕切り土塁を設け、虎口には枡形を築いている。殊に主郭では、見たことないぐらい大きな仕切り土塁が構築され、枡形虎口は躑躅ヶ崎館新府城で見られるコの字型の土塁を対向配置して武者溜まり状にし、内門・外門を並行配置した両袖型枡形虎口となっている。また主郭の南西部には張り出し櫓台が築かれている。主郭・西曲輪の外周斜面には、腰曲輪・横堀が複雑に構築され、また竪堀・竪土塁を築いた区画なども見られる。下から見上げると、幾重にも構築された腰曲輪群・多重横堀群が連なっており、見事というほかはない。この前に行った亀山城も面白かったが、亀山城の3倍楽しい城である。
主郭の両袖型枡形虎口→DSCN5053.JPG
DSCN4989.JPG←西曲輪外周の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.972531/137.428082/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田三代の城 - 岩本 誠城
武田三代の城 - 岩本 誠城
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2025年06月05日

亀山城(愛知県新城市)

DSCN4679.JPG←本丸の西虎口
 亀山城は、山家三方衆と呼ばれる奥三河の土豪の一、作手奥平氏の歴代の居城である。作手奥平氏は、14世紀末頃に奥平八郎左衛門貞俊が上野奥平城から母方の親戚・川手領主山崎三郎左衛門高元を頼って三河国設楽郡作手に移り住んだことに始まる。貞俊は1424年に川尻城を築いて居城としたが、その後新たに亀山城を築いて居城を移し、以後貞能までの5代166年間の居城となったと言われる。その後、東三河に勢力を伸ばしてきた駿河今川氏に従属したが、1560年に桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、今川氏から離反して徳川家康に服属した。しかしその後、武田信玄が奥三河への攻勢を強めると、他の奥三河の国衆とともに武田氏に従った。1573年に信玄が病没すると、同年8月、貞能は一族郎党の大半を率いて亀山城を退去し、徳川氏に帰順した。奥平氏の離反を聞いた武田勝頼は大いに怒り、人質であった貞能の次男仙千代ら3人を処刑した。貞能は、家康との盟約によって家康の長女亀姫を娶ることになっていた長男貞昌(後の信昌)に家督を譲って隠居した。その後1575年2月に貞昌は要衝長篠城の城将となり、5月に城に押し寄せた武田の大軍の猛攻をしのぎ切り、長篠合戦の大勝に繋げる大功を挙げた。織田信長は、戦いの後貞昌の軍功を称賛して偏諱を与え、以後奥平信昌と改名した。1576年、信昌は新城城を築いて移り、更に1590年には徳川氏の関東移封に伴って上野宮崎城に移った。1602年、信昌の4男松平忠明は三河作手藩主(1万7000石)に封じられ、亀山城を復興したが、1610年に伊勢亀山城に移封となり、亀山城は廃城となった。

 亀山城は、道の駅つくで手作り村の東に隣接する比高25m程の低丘陵に築かれている。城内には散策路が整備されているので、全域の遺構がよく確認できる。土塁で囲んだ長円形の本丸を中心に、北東に二ノ丸を築き、これらの外周に腰曲輪群を築いた縄張りとなっている。本丸の東西には虎口が開かれ、二ノ丸の北側には更に枡形虎口が築かれている。本丸の南側には横堀が穿たれ、南西側に対する防備を固めている。また本丸西虎口の外に築かれた腰曲輪は土塁を伴った半月型の曲輪で、両側に虎口を築いており、本丸との間には堀こそ無いものの、その形態は丸馬出そのものである。この他、腰曲輪外側の西斜面には竪堀・竪土塁も築かれている。近世初頭に再興された城なのでどこまで戦国期の形態を留めているかはよくわからないが、現在残る遺構を見る限り武田氏、または武田氏の築城技術を吸収していった徳川氏による戦国期城郭の様相を色濃く残している。
本丸南側の横堀→DSCN4806.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.963901/137.423391/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

おもしろすぎる家康の城図鑑 - 栗原 響大, 千田 嘉博
おもしろすぎる家康の城図鑑 - 栗原 響大, 千田 嘉博
ラベル:中世平山城
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2025年06月03日

石橋城(愛知県新城市)

DSCN4644.JPG←寺の背後の土塁
 石橋城は、作手奥平氏の庶流石橋氏の居城である。作手奥平氏2代貞久の2男弾正久勝がこの地に石橋城を築いて石橋氏を称し、3代貞昌の家臣となった。久勝の子弾正繁昌は、1537年9月、主君の4代貞勝が若年であったことから謀反を図って露見し、貞勝の命を受けた土佐定雄に屋敷を攻められて、郎党40人余と共に討死にしたと言う。

 石橋城は、奥平宗家の居城亀山城の目と鼻の先にあり、現在慈昌院という寺の境内となっている。この寺は繁昌一族の死を哀れんだ2代目住職が、貞勝から石橋城跡をもらい受けて寺地としたものとされる。前を通る国道301号線から見ると、境内は5m程の高台となっており、寺の周り北から西にかけて土塁と空堀が築かれている。遺構はよく残っているが、城と呼ぶにはあまりに小さな城館であり、亀山城との位置関係から見ても、独立した城というより亀山城下の家臣屋敷の一つという方が実態に即しているように思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.963763/137.420048/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ) - 日本城郭協会
日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ) - 日本城郭協会
ラベル:中世平城
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2025年06月01日

和田城(愛知県新城市)

DSCN4622.JPG←背後の土塁・堀切
 和田城は、和田奥平氏の居城である。山家三方衆と呼ばれる奥三河の土豪の一つに作手奥平氏があったが、和田奥平氏はその庶流である。作手奥平氏初代貞俊の次男出雲守貞盛が和田の地に分封されて、以後和田奥平氏と呼ばれた。貞盛の後、2代貞寄、3代勝次と続いて岩波城を守った。勝次は、1537年、奥平宗家に謀反を起こした石橋城主石橋弾正繁昌を討った戦功により、新たに和田城を築いて居城としたと言う。

 和田城は、作手の入口に当たる保永地区の小さな盆地内の台地上に築かれている。山地の裾野の台地で、北西に向かって突き出た地勢である。城の後部が貫通する車道によって破壊されているが、主郭やその先の曲輪群は概ねの形状を残している。主郭は現在耕作放棄地となっているが、東側に虎口を形成していたらしい土塁が見られる。ただ改変の可能性もあるので、往時の形状のままかどうかはわからない。主郭の先には幅の狭い曲輪を1段挟んで数段の平場が続いている。しかしこれらの曲輪は耕地化されているが、大きな形状の変更はないと推測される。この他、車道の南側の丘陵部に、帯曲輪と土塁・堀切が残っている。最も城の形態を留めている部分である。和田城は、居館機能を主とした館城である。
虎口らしき土塁→DSCN4601.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.923664/137.449299/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

東海の名城を歩く 愛知・三重編 - 中井 均, 鈴木 正貴, 竹田 憲治
東海の名城を歩く 愛知・三重編 - 中井 均, 鈴木 正貴, 竹田 憲治
ラベル:中世平山城
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2025年05月30日

織田信長茶臼山本陣(愛知県新城市)

DSCN4565.JPG←主郭周囲の腰曲輪
織田信長茶臼山本陣は、織田信長戦地本陣とも言い、史上有名な長篠の戦いの際に信長が本陣を置いた地である。1575年5月20日、長篠の戦いに臨んだ織田信長は、設楽原の決戦を控えて、上平井の極楽寺で軍議を開き武田軍との決戦の作戦を練った。その後、信長はこの茶臼山に進軍して本陣を置き、指揮をとった。

織田信長茶臼山本陣は、新東名高速の長篠設楽原PA(下り)に隣接する茶臼山に築かれている。なんとパーキングエリアから行ける陣城で、散策路がパーキングエリアの東端から整備されている。山頂に平場があり、それが主郭である。主郭の後部には稲荷社が祀られた土壇があり、井楼櫓が建てられていた可能性がある。主郭の周囲には数段の腰曲輪が築かれている。更に南東に伸びる尾根に陣地が広がっていたと思われるが、茶臼山公園となっていて改変されている部分もあるため、実際どの様な陣城構造だったのかは今ではよくわからない。
PAから見た陣城→DSCN4537.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.924863/137.514376/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

信長と家臣団の城 (角川選書 633) - 中井均
信長と家臣団の城 (角川選書 633) - 中井均
ラベル:陣城 中世平山城
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2025年05月28日

君ヶ伏床砦(愛知県新城市)

DSCN4510.JPG←物見台
 君ヶ伏床砦は、1575年の長篠の戦いのきっかけとなった武田勝頼による長篠城包囲戦の際に築かれた乗本五砦(姥ヶ懐砦・君ヶ伏床砦・鳶ヶ巣山砦中山砦久間山砦)の一つである。1575年5月、武田勝頼は1万5千の大軍を率いて長篠城を包囲攻撃した。その際、和田兵部信業・長竹昌基・反町大膳ら300人が君ヶ伏床砦に布陣したと言う。織田・徳川連合軍が後詰めのため設楽ヶ原に布陣すると、武田勝頼は長篠城への押さえのため乗本五砦の兵を残し、設楽ヶ原に進出して織田・徳川連合軍と対峙した。武田軍の退路を断つため、5月21日明け方、酒井忠次率いる鳶ヶ巣山奇襲隊が背後から鳶ヶ巣山砦を攻撃した。この時、君ヶ伏床砦も激戦の末に陥落し、和田兵部らは討死した。

 君ヶ伏床砦は、乗本五砦の中では最も東、かつ最も高所(標高190m)に位置している。浅間山と呼ばれる小山で、山上の砦跡は公園化されており、北麓から登道が整備されている。南東部に物見台状の高台があって、ここに砦の石碑とお地蔵さんが祀られている。ここには実際に物見が置かれたのだろう。その西側下方にはやや広めの平場が広がっていて遊具が設置されている。この平場の後部には、物見台から続く尾根が土塁のように連なっている。また北側斜面には段状の平場群があり、後世の改変の可能性もあるが、腰曲輪群であった可能性も捨てきれない。君ヶ伏床砦からは木立に遮られて直接長篠城を望むことができない一方で、北東側への眺望が開けていて、他の4砦とは谷で隔絶された尾根上にあることから考えても、他の4砦を背後から防衛するような役割を負っていたことが考えられる。しかしその目論見は、酒井忠次軍の松山峠越えによる奇襲によって崩れ去ってしまった。
西側の平場→DSCN4506.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.926281/137.572833/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田勝頼 (シリーズ・中世関東武士の研究) - 平山 優
武田勝頼 (シリーズ・中世関東武士の研究) - 平山 優
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2025年05月26日

姥ヶ懐砦(愛知県新城市)

DSCN4496.JPG←切岸らしい段差
 姥ヶ懐砦は、1575年の長篠の戦いのきっかけとなった武田勝頼による長篠城包囲戦の際に築かれた乗本五砦(姥ヶ懐砦・君ヶ伏床砦鳶ヶ巣山砦中山砦久間山砦)の一つである。1575年5月、武田勝頼は1万5千の大軍を率いて長篠城を包囲攻撃した。その際、三枝守友・守義・守光兄弟、草刈隼人助、宍戸大膳らが布陣したと伝えられる。織田・徳川連合軍が後詰めのため設楽ヶ原に布陣すると、武田勝頼は長篠城への押さえのため乗本五砦の兵を残し、設楽ヶ原に進出して織田・徳川連合軍と対峙した。武田軍の退路を断つため、5月21日明け方、酒井忠次率いる鳶ヶ巣山奇襲隊が背後から鳶ヶ巣山砦を攻撃した。この時、姥ヶ懐砦も激戦の末に陥落し、三枝守友らは討死した。

 姥ヶ懐砦は、鳶ヶ巣山砦の北に分岐している尾根にあり、鳶ヶ巣山砦から歩いて数分のところにある。尾根の車道脇から北の尾根に登る小道があり、そこに小さな標識杭が設置されている。ただ、標識杭で案内があるのに、地主さんの立入禁止のテープが張ってあるという矛盾があり、入ってよいものか迷った挙げ句、テープの張ってない端の方の踏み跡を辿り、畑跡に入らないようにした。丘上は薮と耕作放棄茶畑となっている。明確な遺構はほとんど無いが、丘の北側に切岸らしい段差が確認できる。尚、乗本五砦の中ではここだけ石碑や解説板がなかったが、後で調べたら北側中腹に三枝兄弟の墓と陣跡の石碑があるらしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.923231/137.567732/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田氏滅亡 (角川選書) - 平山 優
武田氏滅亡 (角川選書) - 平山 優
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2025年05月24日

鳶ヶ巣山砦(愛知県新城市)

DSCN4436.JPG←堀切と土塁
 鳶ヶ巣山砦は、1575年の長篠の戦いのきっかけとなった武田勝頼による長篠城包囲戦の際に築かれた乗本五砦(姥ヶ懐砦君ヶ伏床砦・鳶ヶ巣山砦・中山砦久間山砦)の一つであり、五砦の中の主城である。1575年5月、武田勝頼は1万5千の大軍を率いて長篠城を包囲攻撃した。その際、武田(河窪)兵庫信実(信玄の異母弟)・小見山信近らの軍勢が鳶ヶ巣山砦に布陣したと言う。織田・徳川連合軍が後詰めのため設楽ヶ原に布陣すると、武田勝頼は長篠城への押さえのため乗本五砦の兵を残し、設楽ヶ原に進出して織田・徳川連合軍と対峙した。武田軍の退路を断つため、5月21日明け方、酒井忠次率いる鳶ヶ巣山奇襲隊が背後から鳶ヶ巣山砦を攻撃した。武田軍は狼狽しながらもよく防戦し、激戦となった。しかし砦群は攻略され、信実らは悉く討死した。

 鳶ヶ巣山砦は、比高100m程の山上に築かれている。背後の尾根まで車道が伸び、駐車場があるので、砦まではそこから歩いてすぐである。乗本五砦の中央に位置し、遺構も最もしっかりしており規模も大きい。尾根上に、綺麗に削平された細長い曲輪があり、その先に浅い堀切ど土塁で区画された方形の曲輪がある。ここには祠2基と長篠合戦の戦没将士の墓が建っている。これらの曲輪の側方には帯曲輪が築かれ、南西の支尾根にも曲輪が、また後部の尾根の側方に二重竪堀が見られる。更に西側下方の尾根にも平場群が見られるが、どこまで城域が広がっていたのかは改変があってよくわからない。しかしさすがは一族衆である主将信実が陣を敷いただけあって、長篠城包囲の砦群の中では普請の痕跡をよく留めている。
竪堀→DSCN4413.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.921338/137.567140/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

長篠の戦い (歴史新書y) (歴史新書y 1) - 藤本 正行
長篠の戦い (歴史新書y) (歴史新書y 1) - 藤本 正行
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2025年05月22日

中山砦(愛知県新城市)

DSCN4398.JPG←櫓のモニュメントと石碑
 中山砦は、1575年の長篠の戦いのきっかけとなった武田勝頼による長篠城包囲戦の際に築かれた乗本五砦(姥ヶ懐砦君ヶ伏床砦鳶ヶ巣山砦・中山砦・久間山砦)の一つである。元々は、1573年7月に徳川家康が長篠城を奪還した際に、隣接する久間山砦と共に築いたと伝えられる。1575年5月、武田勝頼は1万5千の大軍を率いて長篠城を包囲攻撃した。その際、名和宗安・飯尾助友・同祐国・名和田晴継・五味貞氏等が中山砦に布陣したと言う。

 中山砦は、久間山砦の北に隣接する細尾根上に築かれていた。現在は新東名高速の建設で尾根は大きく削られ、遺構は消滅している。建設前の発掘調査の結果では、土塁と堀切1本が確認された他、鉄製の鏃が出土している。砦跡の尾根の側道脇に、現在櫓のモニュメントと石碑が建てられている。櫓上からは長篠城主郭内が丸見えで、奥には勝頼の医王寺山本陣の物見櫓も望むことができる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.918980/137.562372/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田勝頼 (シリーズ・中世関東武士の研究) - 平山 優
武田勝頼 (シリーズ・中世関東武士の研究) - 平山 優
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2025年05月20日

久間山砦(愛知県新城市)

DSCN4389.JPG←砦跡の頂部の尾根
 久間山砦は、1575年の長篠の戦いのきっかけとなった武田勝頼による長篠城包囲戦の際に築かれた乗本五砦(姥ヶ懐砦君ヶ伏床砦鳶ヶ巣山砦中山砦・久間山砦)の一つである。元々は、1573年7月に徳川家康が長篠城を奪還した際に、隣接する中山砦と共に築いたと伝えられる。1575年5月、武田勝頼は1万5千の大軍を率いて長篠城を包囲攻撃した。その際、和気善兵衛・大戸直光・倉賀野秀景、原胤成、野州浪人組他300人が久間山砦に布陣したと言う。織田・徳川連合軍が後詰めのため設楽ヶ原に布陣すると、武田勝頼は長篠城への押さえのため乗本五砦の兵を残し、設楽ヶ原に進出して織田・徳川連合軍と対峙した。武田軍の退路を断つため、5月21日明け方、酒井忠次率いる鳶ヶ巣山奇襲隊が背後から鳶ヶ巣山砦を攻撃した。この時、久間山砦も激戦の末に陥落し、和気善兵衛らは討死した。

 久間山砦は、乗本五砦の最も南に位置している。比高約70mの尾根先端にあり、南の谷戸からわずかな踏み跡がある小道が付いている。頂部の尾根上には「久間山砦」と刻まれた石碑と木碑があるが、ほとんど自然地形で、後方にも堀切などの明確な防御施設は見られない。また頂部の尾根から20m程低い位置にある西の尾根には、明確な削平はされていないものの平坦な尾根が広がっており、わずかに土塁のような地形も見られることから、ここも砦の一郭であったと考えられる。以上が久間山砦の遺構で、明確な遺構はほとんど無い。
西側下方の尾根→DSCN4375.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.916622/137.561396/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

再検証長篠の戦い - 藤本 正行
再検証長篠の戦い - 藤本 正行
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天神山陣地(愛知県新城市)

DSCN4359.JPG←山上の現況
 天神山陣地は、長篠の戦いのきっかけとなった武田勝頼による長篠城包囲戦の際に、武田家重臣の一条信龍、真田信綱・昌輝兄弟、土屋昌次らの軍勢2000が布陣した場所と伝えられる。

 天神山陣地は、医王寺山武田勝頼本陣のすぐ南に隣接する小山に位置している。小さい山で大通寺山陣地と比べるとあまりに狭いので、2000の兵の大半は山麓にいたと思われる。北には天然の堀切状の地形があるので、ここも兵の駐屯地となっていたと思われる。山上はほぼ自然地形で、明確な遺構は確認できない。尚、天神山陣地の解説板は、山上ではなく南中腹の荏柄天神社境内に立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.929065/137.557465/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

長篠合戦の史料学―いくさの記憶 - 金子拓
長篠合戦の史料学―いくさの記憶 - 金子拓
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2025年05月18日

医王寺山武田勝頼本陣(愛知県新城市)

DSCN4322.JPG←堀切と主郭切岸
 医王寺山武田勝頼本陣は、1575年の長篠城包囲戦の際に、武田勝頼が全軍を指揮するために本陣を置いた陣城である。1575年4月、1万5千の大軍を率いて甲斐を発した勝頼は、全軍を4つに分けて三河に進出し、4月下旬に長篠城周辺に包囲網を敷き、医王寺山に本陣を置いた。5月18日、後詰めとして進出してきた織田・徳川連合軍は、設楽原に野戦陣地を作り始めた。医王寺山本陣で諸将と軍議を開いた勝頼は設楽原での決戦を決断し、5月19日に設楽原へ進軍を開始した。勝頼は本陣を清井田へ進め、更に才ノ神へ進めて決戦に挑んでいった。即ち4月下旬から5月19日まで、勝頼はこの医王寺山に本陣を置いていた。

 医王寺山武田勝頼本陣は、医王寺背後の比高約50mの山上に築かれている。散策路が整備されていて、迷うことなく登ることができる。陣城は、中央に主郭を置き、西に堀切を挟んでL字型の土塁を伴った西郭を、東には長い土橋で連絡した東郭を置いている。東郭の南端には虎口も築かれている。更にこれらの曲輪の周囲に腰曲輪を築いている。主郭には現在物見櫓が建てられていて、そこからは天神山陣地と大通寺山陣地の間に長篠城を遠望できる。まさに武田の全軍を俯瞰し指揮できる要地であることがわかる。歴史の証言者として重要な遺構である。
東郭に繋がる土橋→DSCN4334.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.931457/137.557922/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

長篠合戦 鉄砲戦の虚像と実像 (中公新書) - 金子拓
長篠合戦 鉄砲戦の虚像と実像 (中公新書) - 金子拓
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2025年05月16日

大通寺山陣地(愛知県新城市)

DSCN4289.JPG←陣所跡の丘陵
 大通寺山陣地は、長篠の戦いのきっかけとなった武田勝頼による長篠城包囲戦の際に、武田家重臣の武田信豊・馬場信房・小山田昌行らの軍勢2000が布陣した場所と伝えられる。尚、陣所の入口に当たる大通寺本堂裏には、盃井戸が残る。これは、1575年5月19日、医王寺山本陣の軍議で武田勝頼が反対論を押さえて織田・徳川連合軍との決戦を決断すると、決戦回避を主張して容れられなかった馬場信房・山県昌景・内藤昌豊・土屋昌次らが死を覚悟して別れの水盃を交わしたと伝わる井戸である。

 大通寺山陣地は、長篠城の主郭・巴城郭・瓢郭(ふくべくるわ)を眼下に望む標高110m、比高50m程の丘陵上に位置している。大通寺裏から散策路が整備され、丘陵内に解説板が立っている。明確な遺構はなく、なだらかな丘陵上に雑木林が広がっているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.927590/137.561698/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー 382) - 平山 優
検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー 382) - 平山 優
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2025年05月14日

長篠城(愛知県新城市)

DSCN4177.JPG←主郭土塁上から見た空堀
 長篠城は、戦国史に名高い長篠の合戦のきっかけとなった城である。1508年、駿河の今川氏親に属していた岩古屋城主菅沼元成は長篠城を築いて本拠を移し、奥三河に割拠する山家三方衆の一、長篠菅沼氏となった。この地は、三河・遠江の国境に近く、信濃・美濃へも通じる交通の要衝であったため、1560年の今川義元討死後、今川・武田・徳川3氏による争奪の場となった。義元死後の1561年、菅沼貞景は松平元康(徳川家康)に降り、貞景が1569年の遠江掛川城攻めの先鋒となって討死すると、その子正貞は1571年に武田氏の重臣秋山虎繁(信友)・犬居城主天野景貫に攻撃されて武田氏に降った。1573年、武田信玄が病没すると、徳川家康は長篠城を奪回した。正貞は信濃へ逃れたが、徳川方への内通を疑われ、小諸城に幽閉された。その後、家康は松平家忠・奥平景忠らを城番として長篠城に入れたが、1575年2月に武田氏から離反した奥平信昌を長篠城主とした。同年5月、武田勝頼は1万5千の大軍を率いて長篠城を攻撃した。しかし若い信昌は寡兵で以って城を堅守し、鳥居強右衛門を徳川家康のもとに走らせ、救援を要請した。織田・徳川連合軍が後詰めのため設楽ヶ原に布陣し、ここに長篠合戦の火蓋が切られ、武田勢は大敗した。1576年、信昌は新城城を築いて移り、長篠城は廃城となった。

 長篠城は、豊川と宇連川の合流点に突き出た段丘上に築かれている。現在国の史跡として整備されているが、主郭のすぐ東側をJR飯田線が貫通し、二ノ郭以下の外郭部は住宅地となるなど、主郭以外の改変が進んでいる。しかし公園化された主郭には横矢掛りのクランクを持った大土塁と空堀が残り、しっかりした遺構を留めている。また線路を挟んで東側には野牛曲輪があり、土塁や櫓台跡、井戸跡が残っている。野牛曲輪の突端にも野牛門跡の小道と側方の櫓台がある。ちなみに野牛曲輪には廃屋があり、立ち入るのがためらわれたが、郭内の遺構には標柱が建っているので、半ば公開されているのだろうか?この他、残っている遺構としては、主郭から沢を挟んで西側に築かれた弾正曲輪外周の土塁だが、弾正曲輪は宅地であり、外から眺めることしかできない。その他、遺構はないが、各所に大手門跡・搦手門跡・家老屋敷跡などの標柱が立っている。周囲には、武田勢が布陣した砦群・陣跡が遠望できる。以上が長篠城の遺構で、歴史の重要な転換点となった城である。
野牛門に通じる小道→DSCN4230.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.922601/137.559787/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

長篠合戦と武田勝頼 (敗者の日本史 9) - 平山 優
長篠合戦と武田勝頼 (敗者の日本史 9) - 平山 優
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2018年01月29日

木之下城(愛知県犬山市)

IMG_0851.JPG←神社裏の堀跡らしい地形
 木之下城は、尾張守護斯波氏の家臣織田広近が築いた城である。広近は、守護代織田氏の一族岩倉織田氏(伊勢守家)の当主であった織田敏広の弟で、美濃守護代の斉藤妙椿の侵攻に備える為、1469年に兄敏広の命で木之下城を築いて居城としたと言う。以後約70年間に渡って織田氏の歴代の居城となったが、1537年、織田信康(織田信長の叔父)は新たに犬山城を築いて居城を移し、木ノ下城は廃城となった。

 木之下城は、犬山城の南方約1kmの位置にあった平城で、現在の愛宕神社の位置に本丸があったとされる。神社本殿が建つ高台はかつての主殿跡とされ、すぐ脇に金明水という城内の井戸であったと推測される井戸が残っている。神社背後は低い窪地状の地形となっており、堀跡であった様である。周辺は市街化が進んでいるため、城の縄張りはわからなくなっているが、城址碑と解説板が城の歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.378982/136.942778/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
ラベル:中世平城
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2011年01月01日

犬山城(愛知県犬山市)

IMG_5270.JPG←山上に聳える国宝天守
(2004年4月訪城)
 犬山城は、国宝4天守の一つとして有名である。1537年に、尾張守護代織田氏の庶流織田信康(織田信長の叔父)によって、木之下城より城を移築したと言われている。犬山城の築かれた山は背後に木曽川を控え、木曽川の渡河点に当たるほか、濃尾平野を一望の下に収める絶好の陣場でもあり、中山道・美濃街道を制する要地でもあったため、戦国時代を通して争奪の的となり、幾多の城主の変遷を迎えた。1547年、信康の子信清は、織田信長に反抗したため城を追われ、信長の家臣池田恒興が城主となった。その後、信長が本能寺の変で倒れると、1584年に豊臣秀吉と徳川家康との間に小牧・長久手の戦いが生起した。この時の犬山城主は織田信雄の家臣中川定成だったが、旧城主で秀吉方の池田恒興が城を急襲して攻め落とし、秀吉が入城して本陣となし、小牧山に拠る家康と対峙した。その後も城主は代わったが、1609年に徳川義直が清洲城主となると、その補佐役の平岩親吉が犬山城主となった。1617年には尾張徳川家の付家老成瀬正成が城主となり、成瀬氏の居城として幕末まで存続した。

 犬山城は大きな城ではないが、コンパクトにまとまった縄張に、非常に均整の取れた天守を戴いている。本丸の背後は木曽川に望む断崖になっており、いわゆる「後堅固の城」の典型例である。本丸に至る大手道の石段は広く直線的で、防御性には問題があるので、太平の世の近世城郭となってからの改修によるのではないかと想像される。大手道の両側には杉の丸、樅の丸などの曲輪が連なり、石垣で囲まれている。外郭は破壊が進んでいるが、山麓には空堀が中世城郭さながらの雰囲気で残っている。犬山の城下町も、古い町並みが残っていて風情がある。非常に印象深い城の一つである。
樅の丸の石垣→IMG_5244.JPG
IMG_5267.JPG←山麓に残る空堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.388062/136.939623/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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2010年12月16日

小牧山城(愛知県小牧市)

IMG_5228.JPG←小牧長久手合戦時の虎口跡
(2004年4月訪城、2017年10月再訪により記事修正)
 小牧山城は、織田信長が美濃侵攻の拠点として築いた平山城である。1563年に濃尾平野を一望できる要衝小牧山に城を築いた信長は、清洲城から居城を移して城下町を建設した。1567年、木下藤吉郎秀吉(後の豊臣秀吉)の活躍などで美濃の戦国大名斉藤龍興の居城稲葉山城を落として美濃を攻略すると、信長は稲葉山城に居城を移して岐阜城と改称し、小牧山城は廃城となった。後、豊臣秀吉の時代の1584年に、小牧長久手の戦いで秀吉と対峙した徳川家康は、濃尾平野の真ん中に聳える独立丘陵の小牧山にいち早く本陣を構えた。この時家康は、信長の城跡を陣城とて大規模な改修を加えた。この要衝を押さえた家康は、秀吉勢の動きを手に取るように把握することができ、秀吉につけいる隙を与えなかった。家康を力で屈服させることに失敗した秀吉は、結局懐柔策で家康を取り込まざるを得ず、このことが家康に、豊臣政権内で他の諸大名と隔絶した大きな勢力を与えることとなった。

 小牧山城には、2004年に行っているが、その後継続的に発掘調査が続けられ、多数の石垣跡などが見つかっていることから13年ぶりに再訪した。以前は山頂付近まで樹木で覆われていたが、かなり伐採されて整備され、主郭周囲の石垣も発掘復元が現在進行形で進められている。現在の現地解説板では、城内は大きく5つのブロックに分けられ、主郭地区・西側曲輪地区・大手曲輪地区・西側谷地区・帯曲輪地区と呼称されている。中心になるのは勿論山頂部の主郭地区で、模擬天守の建つ主郭の周りを幾重にも腰曲輪が取り巻いている。主郭は、発掘調査の結果、内枡形の大手虎口も含めて総石垣であったことが判明しているが、現在は部分的にしか残っていない。主郭地区と西側曲輪地区の間は、堀切で分断されて、土橋と櫓台を設けた虎口が築かれている。私の過去の記事では「大規模な堀切や竪堀がほとんど見られず、中世城郭の遺構としてはそれほど技巧的な縄張ではない」としていたが、これは初級キャッスラーの全くの見誤りであった。この堀切は大きさは大したものではないが、屈曲しながら南に長い竪堀となって落ち、下方で90度曲がって横堀に変化し、土塁囲郭を取り囲んでいる。西側曲輪地区は2方向の尾根に伸びた段曲輪群で構成され、土塁や横堀で防御された曲輪も見られる。大手曲輪地区は、南から途中まで一直線に伸びる大手道の両側に広がる腰曲輪群で、下方には横堀を備えている。西側谷地区は、自然地形の谷戸を利用しており、最下段に土塁で囲まれた方形の「屋敷跡伝承地」がある。帯曲輪地区は、主に東麓一帯に置かれた曲輪群で、武家屋敷が置かれ、南東の土塁で囲まれた最も大きな曲輪は信長の居館跡と推測されている。帯曲輪地区は早くから発掘調査と整備復元が進められ、堀で区画された曲輪跡が復元されている。外周には土塁があるが、これは信長時代にはなく、小牧長久手の戦いの際に築かれたそうだ。またこの時築かれた虎口跡も復元されている。この他に主郭地区の腰曲輪北端に枡形虎口もあったようだが、見逃してしまった。とにかく以前来た時とは全くイメージが異なり、基本的には中世山城の造りだが近世城郭の萌芽が見えており、中世から近世への過渡期の城として見所が多い。
発掘復元中の主郭地区→IMG_0567.JPG
IMG_0598.JPG←主郭周囲に残る石垣
長く落ちる竪堀→IMG_0544.JPG
IMG_5226.JPG←帯曲輪部に復元された土塁と堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.292456/136.913466/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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2010年12月01日

清洲城(愛知県清須市)

IMG_5109.JPG←清洲古城の碑
(2004年4月訪城)
 清洲城は、五条川西岸に築かれた平城である。若き織田信長の居城として有名であるが、元々は1405年に尾張守護斯波義重が下津城の別郭として築いたと言われている。後、応仁・文明の大乱が起き、各地の守護勢力が没落して尾張でも騒乱が国内を覆うと、守護の斯波義廉は下津城に代わって清洲城に守護所を移した。しかし義廉は、もう一つの領国越前にあって尾張の守護権力は空白であった為、将軍足利義政は織田敏定を尾張守護代に任じて清洲城主とし、尾張鎮定の任に当たらせた。一方、織田氏の庶流織田信秀(信長の父)は、1532年に駿河の戦国大名今川氏の尾張経営の前進基地であった那古野城を奪って、那古野城を居城とした。1555年、那古野城主織田信長は、伯父の守山城主織田信光と共に、守護斯波義統殺害の仇を報いて清洲城主織田信友を清洲城に討ち、清洲城に入城した。1560年桶狭間の合戦の際には信長はこの清洲城から出陣し、少数精鋭の軽兵で以って驟雨の中を今川義元の本陣めがけて奇襲を掛け、義元の首を討ち果たす大戦果を挙げた。信長の居城となって以降、城は次第に整備拡張され、当初は一重掘であったものが、信長の次男信雄が城主となった1582年には三重掘の構えとなった。信長は尾張国内の同族を討ち平らげて一国を平定すると、美濃侵攻を企図して1563年に小牧山城を築いて居城を移した。以後も尾張経営の拠点として存続したが、1600年の関ヶ原の合戦で覇権を握った徳川家康は、大阪城の豊臣秀頼を包囲牽制する為、1609年諸大名に命じて新たに名古屋城を築城し、「清洲越し」と言われる清洲の城下町丸ごとの移転を行った。以後、清洲城は廃城となった。

 清洲城は、現在では遺構はほとんど湮滅しているが、清洲公園として残っており、清洲古城の碑や信長の銅像が建っている。碑が建っている部分の土盛りが、天守台の跡だったらしい。公園中央を東海道新幹線・東海道本線がぶち抜いているなど破壊はかなり進んでいて、かつての縄張を想像することすら難しい。ただ、五条川西岸の遊歩道に、発掘された本丸南側の石垣が復元展示されているのが唯一の遺構であろう。尚、五条川東岸に建つ模擬天守は全くの創作で、史実とは全く関係ないものであることを付記しておく。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.217654/136.841798/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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2010年06月01日

那古野城(愛知県名古屋市)

IMG_4171.JPG←名古屋城二ノ丸の石碑
(2004年2月訪城)
 那古野城は、近世城郭名古屋城の前身で、今川氏が築いた中世の平城である。駿河の守護大名今川氏親は遠江、三河を押さえて強大となり、1521年頃には尾張国の東半分を制圧し、前進拠点として那古野城を築城した。氏親は一族の今川氏豊を那古野城に入れて守らせたが、氏豊は連歌に耽るなど文弱であったため、1532年に織田信秀(信長の父)によって城を奪われ、信秀は那古野城を居城とした。信長が生まれたのは、この那古野城であったと言われている。信秀はその後、那古野城の南方に古渡城を築くなど、名古屋での勢力を強めていった。信秀の跡を継いだ信長は、1555年に清洲城に拠点を移し、叔父織田信光らに那古野城を守らせたが、1582年頃に廃城となった。後に徳川家康が名古屋城を築くに当たり、この那古野城址を取り入れて二ノ丸の一部とした。
 那古野城は前述の通り、名古屋城の一部となってしまい多くの改変を受けてしまったので、往時を偲ばせるものは残っていない。わずかに名古屋城二ノ丸庭園に石碑と解説板が立つのみである。かつては那古野台地の西北端に位置し、尾張平野を一望の下に収める要害の地であったという。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.184437/136.902341/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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2010年05月01日

名古屋城(愛知県名古屋市)

IMG_5164.JPG←二ノ丸外周の広大な空堀
(2004年2月・4月訪城)
 名古屋城は、徳川御三家筆頭、尾張徳川家の歴代の居城である。この地には元々那古野城と言う城があったが、徳川家康が関ヶ原合戦を制して天下の権を握り、豊臣氏打倒を計画し始めると、濃尾平野の要地に大規模な城を造営することを考えた。そこで1610年、清洲城に代わる新城造営地として那古野城の故地に、秀吉恩顧の外様大名20家に命じて名古屋城を築城させた。いわゆる天下普請である。これは、豊臣氏に対する備えだけでなく、秀吉恩顧の外様大名の勢力漸減を狙ったことであるのは言うまでも無い。城がほぼ完成すると、1615年に家康の9男義直が入城し、以後、尾張徳川家の居城となって幕末まで存続した。明治維新を迎えた後も、天守や本丸御殿などはそのまま残って保存され、国宝となっていたが、太平洋戦争での空襲により全て消失した。

 名古屋城は、さすがに徳川天下普請で造られただけあって、江戸城に次ぐ規模を持った大城郭である。その遺構の詳細については既に多くのサイトで語られている為、ここでは多くは記載しない。豊臣氏との緊張状態の中で築かれた為、その縄張は極めて実戦的で、馬出しや巧みな曲輪配置でほぼ正方形の本丸を防御している。内堀・外堀の全周には重厚な石垣を築き、周囲の堀は圧巻の規模を持つ。この城で特筆すべきなのは、内堀だけでなく、三ノ丸外周の外堀まで見事に残っていることである。車道建設や市街化で一部改変を受けていると言うものの、門脇の石垣などその重厚さは素晴らしい。天守は残念ながら戦後の再建であるが、築城の名手加藤清正が受け持って築いた天守台石垣は、往時のままの見事な反りを持ち、その曲線美には惚れ惚れとしてしまう。その他、多くの隅櫓や門が現存し、江戸城に匹敵する見事さである。本丸御殿はその礎石だけが残っているが、現在復元計画が進んでおり、いずれ熊本城の様に見事な御殿が再建されることになる。
本丸御殿跡と再建天守→IMG_4136.JPG
IMG_4151.JPG←この見事な反り!さすが清正流
三ノ丸外周の外堀→IMG_5122.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.185182/136.899798/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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2010年01月15日

守山城(愛知県名古屋市)

DSC02535.JPG←櫓台跡、頂上に石碑が建つ
 守山城は、那古野城(現、名古屋城二ノ丸)の東方、矢田川沿いの台地上に築かれた平山城である。1521年に今川氏親が那古野城を築いた頃に、小幡城・川村城に対応して築かれたという説があるが定かではなく、築城時期・築城者とも不詳である。三河の松平信定が領有していた頃の1526年、連歌師宗長がこの城を訪れ、連歌の会が盛大に催されたと伝えられている。1535年、松平清康(徳川家康の祖父)は三河の大半を手中に収め、勢いに乗じて尾張攻略を目論んだ。大軍を率いてこの城を織田方から奪って占拠したが、ある夜、馬が暴れだした騒ぎの中、誤って家臣の阿部弥七郎に殺され、主将を失った松平勢は総崩れとなって岡崎へ撤収した。これを「守山崩れ」と言う。以後、松平氏は弱体化し、長い雌伏時代を迎えることとなった。守山崩れの後、守山城は織田信秀に属した。その後、織田信長の叔父信次・弟信時が城主となったが、1560年の桶狭間の戦いの後、廃城となったと言う。

 守山城も末森城と同様、市街地の真っ只中の城であるが、民家の裏に空堀が良好に残っている。この空堀は幅10m以上もある大規模なもので、約40~50mにもわたって一直線に伸びている。また、周囲の住宅地の中に土塁や櫓台の跡が散在している。本丸跡には宝勝寺が建っていて改変されているなど、全体的な遺構は市街化で破壊が進んでいるものの、城跡の痕跡は各所に明瞭に残っている。また周囲の道路も地形的に堀跡であることが明らかで、おぼろげに往時の城の縄張りが見えてきそうな雰囲気がある。これほどの遺構がいまだに残る名古屋は素晴らしい。是非、これ以上破壊が進まないよう保護していってもらいたいものだ。
大規模な空堀跡→DSC02549.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.197089/136.949494/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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2010年01月14日

末森城(愛知県名古屋市)

DSC02435.JPG←本丸周囲の大規模な空堀
 末森城は、1547年に織田信秀が築いた平山城である。この城を築くと、古渡城から居城を移した。守山城を守る弟信光と連携して三河の今川氏に対する備えの為であったと言う。翌年信秀はこの城で病死し、三男信行が城主となった。信行は兄信長に代わって家督を継ごうと画策したため信長と対立し、稲生原の合戦を起こして敗れ、1558年に清洲城で誘殺された。翌年末森城は廃城となったと言う。

 末森城は、那古野城(現、名古屋城二ノ丸)の東南東約6kmの城山に築かれている。現在、城山には城山八幡宮などが置かれて改変を受けているものの、本郭等の周囲の大規模な空堀がものの見事に残っている。空堀の大きさは深さ10m程もあり、山上の遺構とはいえ日本第3位の都会のど真ん中でこれほどの規模の空堀がほとんど完存しているとは、驚愕すべきことである。城は、本丸・ニノ丸・三ノ丸・西出丸に曲輪が分かれるようだ。本丸は八幡宮前の広場になっていて、八幡宮の置かれる三ノ丸とは空堀に掛かる土橋で連結されている。二ノ丸には愛知学院大学の研究棟が建てられている。本丸と二ノ丸の間の道路は、明らかに空堀の跡であろう。二ノ丸の一段下に駐車場があるが、これはどうも腰曲輪の跡のようである。二ノ丸の北側に武道場が建っているが、二ノ丸とは高低差もあり独立性が高いので西出丸だったと思われる。各曲輪の周囲にはいずれも大きな空堀を築いて分断し、防御性を高めている。その他、腰曲輪らしい地形がいくつか散見される。

 以上が概要であるが、行ったのが9月で藪が多く、見通しが利かない部分が多かったが、冬場に行けば空堀の威容をもっとよく見ることができただろう。まるで滝の城が東京23区内にあるようなもので、その遺構の見事さには目を見張らざるを得ない。名古屋恐るべし。
空堀外周の土塁→DSC02448.JPG
DSC02482.JPG←二ノ丸下の腰曲輪跡の駐車場

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.167643/136.959579/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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