2026年02月19日

新城古城(愛知県新城市)

DSCN4927.JPG←城跡に立つ標柱
 新城古城は、1532年に菅沼定継が築いて大谷城から居城を移したとされる。大谷城に対して新城と呼ばれたが、後の1576年に奥平信昌が築いた新城城と区別するため、後年に新城古城と呼称された。定継は田峯菅沼氏の嫡流であったため、数年後に田峯城に移って家督を継ぎ、代わって弟定氏が新城古城に入った。1556年、亀山城主奥平貞勝が今川氏から離反した際、定継は奥平氏に与して蜂起した。しかし実弟たちや主要な支族の多くは今川方に留まったため、一族相克の状況となり、同年8月に今川義元の軍勢に攻撃されて定継は討死した。1562年、野田城を押さえていた今川勢は、元城主の菅沼定盈に城を奪還され、今川勢は撤退の帰路、新城古城を攻撃した(石田合戦)。定氏は今川勢を撃退したが、損傷が著しかったためか新たに杉山端城を築いて居城を移し、新城古城は廃城となったと言う。

 新城古城は、豊川北岸の幽玄川との合流点西側に築かれていた。往時は60m×60mの規模の方形単郭の城であったとされ、南以外の三方に土塁を廻らしていたらしい。現在は住宅地と畑に変貌しており、遺構はほとんど残っていない。車道脇の植込みに城址標柱が立っているが、ここはおそらく城跡の北西角に当たると思われる。後で調べたら、東側の幽玄川に面した所に高さ30cm程の土塁状の高まりが30m程に渡って残っているらしいが見逃した。いずれにしても、ほとんど失われた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.893489/137.494534/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

駿河今川氏十代 (中世武士選書25) - 小和田哲男
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ラベル:中世崖端城
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2026年02月17日

新城城(愛知県新城市)

DSCN4901.JPG←南東角の土塁跡
 新城城は、1575年の長篠合戦の際に長篠城を死守して織田・徳川連合軍の大勝の要因を作る大功を挙げた奥平信昌が、戦いの翌年の1576年に新たに築いた城である。信昌は、元の名は貞昌と言ったが、長篠合戦の大勝の後、織田信長は貞昌の軍功を称賛して偏諱を与え、以後奥平信昌と改名した。そして徳川家康の長女亀姫を娶り、家康の女婿として厚遇された。1590年に徳川氏が関東に移封となると、信昌は上野宮崎城に移った。その後、新城城は吉田城主池田輝政の所領となり、片桐半右衛門が城代となった。その後何人かの城主の交代を経て、1645年に一旦廃城となったが、1648年に旗本の菅沼定実が7千石で新城に入部し、城跡に陣屋を築いた。以後、幕末まで旗本菅沼氏の本領として存続した。

 新城城は、豊川に臨む台地南縁部に築かれている。現在は新城小学校の校地に変貌しているので、遺構はかなり湮滅している。しかしグラウンドの南東端と南西端に土塁跡が残り、その裏手には深い堀跡がわずかに残っている。最近は不審者侵入防止などのため休日に閉門されている学校が多いが、ここは市の指定史跡でもあり、遺構が見れる様になっていたのはありがたかった。
南西部の堀跡→DSCN4906.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.896917/137.498085/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

図説・江戸三百藩「城と陣屋」総覧: 決定版 (東国編) (歴史群像シリーズ) - 溝口彰啓, 三浦正幸
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ラベル:中世崖端城 陣屋
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2026年02月15日

武田勝頼才ノ神本陣(愛知県新城市)

DSCN4751.JPG←空堀状地形
 才ノ神本陣は、長篠合戦の主戦場、連吾川沿いの平地を眼前に望む丘陵地に置かれた、武田勝頼の本陣である。長篠城を包囲していた勝頼は、織田・徳川連合軍の進軍を受けて軍議を開いた後、長篠城包囲戦の本陣医王寺山から清井田へ進出し、更に才ノ神へ本陣を進めて決戦に挑んでいった。ここで全軍を指揮していたが、戦況の推移に伴い更に内藤昌豊が陣を置く天王山へ陣所を移して昌豊と共に指揮を執ったとも言われる。

 才ノ神本陣は、武田軍の武田信廉・内藤昌豊・原昌胤らが激戦を繰り広げた柳田前激戦地の後方の、比高35m程の丘陵上にある。山林となっているが、散策路が整備されていて、丘陵頂部に祠と石碑・解説板が立っている。明確な遺構は少ないが、丘陵の北西などに空堀状の地形や、堀切状の切通し道が見られる。尚、現地解説板の呼称は「武田勝頼才ノ神観戦地」であるが、「観戦」とはあまりにも勝頼をバカにした様な呼称なので、ここでは他の案内板に書かれていた「武田勝頼才ノ神本陣」の呼称を採用した。
本陣地の頂部付近→DSCN4740.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.923459/137.529872/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

長篠合戦と武田勝頼 (敗者の日本史 9) - 平山 優
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ラベル:陣所
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2026年02月13日

小川路城(愛知県新城市)

DSCN4659.JPG←西端の湾曲した土塁
 小川路城は、小川路右衛門が築城したと伝えられる。後に川路城主設楽氏の支城となり、設楽甚三郎や設楽兵庫の居城となったと言う。

 小川路城は、連吾川と大宮川に挟まれた台地先端部に築かれている。先端の山林の中に、東西に伸びる土塁が残っており、西端部は郭外に向かって湾曲した1/4円弧状の土塁があり、東端には虎口が築かれた土塁がある。土塁内側の曲輪も断崖線に沿って東西に長く伸びているが、郭内はわずかな段差で2段に分かれている。市の史跡となり、標柱はあるが、解説板はない。
東端の虎口→DSCN4682.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.907972/137.520371/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

東海の名城を歩く 愛知・三重編 - 中井 均, 鈴木 正貴, 竹田 憲治
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ラベル:中世崖端城
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2026年02月11日

岩広城(愛知県新城市)

DSCN4641.JPG←主郭の現況
 岩広城は、鎌倉末期の1312年に設楽重清によって築かれたと伝えられる。設楽氏は元々増瑞寺屋敷を本拠としていたが、重清は豊川と半場川が合流点に突き出た断崖先端部に城を構えて本拠とした。以後設楽氏は岩広城を本拠とし、一族の城として来迎松城川路城を築いて勢力を拡大した。

 岩広城は、前述の通り断崖先端部の半島状台地に築かれている。城跡はほとんど水田や畑となっていて、明確な遺構は北東端にあるL字型の土塁だけである。またこの半島状台地の基部には一段低くなった畑地があり、堀跡のようであるが、堀形はかなり失われている。結局、改変が進んでいて往時はどのような縄張りの城だったのかはよくわからず、残念な状況である。尚、城から北東約350mの場所には、築城主である設楽重清夫妻の墓とされる「全光塚」がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.904312/137.516556/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める) - 松岡 進
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ラベル:中世崖端城
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2026年02月09日

来迎松城(愛知県新城市)

DSCN4616.JPG←わずかに残る土塁跡
 来迎松城は、中世に東三河の設楽郷一帯を領した土豪設楽氏の城館群(増端寺屋敷岩広城など)の一つである。戦国時代には川路城主設楽越中守貞通の属城で、弓の名手として知られる家老の夏目久四郎がこの城を守っていたとされる。主君貞通は、まだ松平元康と名乗っていた徳川家康が今川義元討死後に今川氏から離反して自立した時、早い段階から家康に従ったが、夏目氏も貞通と行動を共にし、1573年の野田城攻防戦や1575年の長篠合戦でも貞通に従って活躍したと言う。

 来迎松城は、大宮川西岸の台地上に築かれている。現在は、JR飯田線が城域中央部を貫通し、大きく破壊を受けている。そのため遺構はほとんど残っていないが、1箇所だけ北東部に土塁の一部が塚状に残っており、現在はその上に稲荷大明神と宝篋印塔2基が祀られている。遺構はわずかであるが、市の史跡に指定され、解説板も立てられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.911544/137.517418/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書 増補改訂版 - 小和田哲男, 加藤理文
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ラベル:中世平城
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2026年02月07日

増瑞寺屋敷(愛知県新城市)

DSCN4612.JPG←北側の空堀
 増瑞寺屋敷は、この地の土豪設楽氏が鎌倉時代に最初の本拠とした居館と言われている。設楽氏は、平安末期の武士伴助高の子孫で、助高は八名・設楽郡の領主となり、その子助兼は設楽大夫を称した。設楽氏は代々源氏とのつながりが深く、鎌倉時代に三河守護となった足利氏の被官となり、元弘の乱に始まる倒幕戦では足利尊氏に従う武将の中に設楽五郎左衛門尉の名が『太平記』に記されている。また鎌倉末期には、設楽氏は豊川沿いの岩広城に居城を移したらしい。戦国後期には徳川家康に従った結果、江戸時代には徳川家の旗本として家名を残した。

 増瑞寺屋敷は、現在はその名の通り増瑞寺の境内となっている。増瑞寺は、1574年に野田城主菅沼定盈が創建し、長篠合戦後に新城城を築いた奥平信昌が再建した寺だと言う。遺構はかなり湮滅しているが、北から西にかけてL字型の空堀が残っている。ただ夏場に行ったので、堀が草木に覆われてしまっていて、規模が把握しにくかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.913642/137.517320/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

太平記 全6巻: 美装ケースセット (岩波文庫) - 兵藤 裕己
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ラベル:居館
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2026年02月05日

羽柴秀吉陣地(愛知県新城市)

DSCN4556.JPG←陣跡の現況
 羽柴秀吉陣地は、1575年の長篠合戦の際、織田信長の家臣羽柴秀吉が陣を置いた場所である。陣地は織田信長の茶臼山本陣の隣の宗国台地にあり、織田・徳川連合軍の最左翼に位置していた。秀吉はここから連吾川最前線に陣を移したと言う。現在陣跡は丘陵地の水田地帯となり、その最上段の小さな平場に石碑と設楽原古戦場いろはかるたの看板が立っている。水田に変貌しているので、改変を受けていると思われるが、現状見る限りでは明確な遺構はなさそうである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.929525/137.512457/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

長篠合戦と武田勝頼 (敗者の日本史 9) - 平山 優
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ラベル:陣所
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2026年02月03日

欠下城(愛知県新城市)

DSCN4547.JPG←二ノ郭と主郭切岸
 欠下城は、歴史不詳の城である。『日本城郭大系』では室町後期の遺構としているが、その根拠は不明である。新東名高速 長篠設楽原PA (上り)のすぐ西に隣接する丘陵上にあり、切岸で囲まれた方形の主郭と、その周囲に廻らされた腰曲輪状の二ノ郭で構成されている。縄張り的には極めて簡素で単純である。主郭には三河青年道場というコンクリート作りの建物が建てられているので、改変を受けていると思われる。この建物は、随分前に廃墟となっていて、訪城した当日はちょうど解体工事の一部が始まっているところだった。この他、主郭の南西下方に城址石碑が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.923445/137.503849/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

戦国の城 (学研新書) - 小和田哲男
戦国の城 (学研新書) - 小和田哲男
ラベル:中世平山城
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2026年02月01日

織田信忠本陣地(愛知県新城市)

DSCN4501.JPG←本陣が置かれた野辺神社
 織田信忠本陣地は、1575年の長篠合戦の際、織田信長の嫡男織田信忠が本陣を置いた場所である。天神山の野辺神社に本陣を置いたと伝わる。後備えである岡崎信康本陣の後方であるが、弟の北畠信雄本陣よりは前方にある。神社の境内という以外は特に遺構は見られないが、石碑と看板・解説板が歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.917398/137.510655/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:陣所
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2026年01月30日

北畠信雄本陣(愛知県新城市)

DSCN4507.JPG←本陣跡の八幡神社
 北畠信雄本陣は、1575年の長篠合戦の際に、織田信長の次男北畠(織田)信雄が本陣を置いた場所である。信雄は、伊勢国司北畠氏に入嗣しており、前年に初陣を飾ったばかりの青年武将であった。最前線からかなり後方の新見堂山に陣所が置かれていて、後備えの更に後詰めという感じで、最初から直接戦闘に加わることは想定されていなかったようである。現在は、新見堂山に建つ八幡神社の前に解説板が立っているだけで、遺構はない。また介護老人保健施設「サマリヤの丘」の南西の法面にも石碑と看板があるらしいが、薮で確認できなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.917660/137.507483/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー 382) - 平山 優
検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー 382) - 平山 優
ラベル:陣所
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2026年01月28日

織田信長極楽寺山本陣(愛知県新城市)

DSCN4487.JPG←本陣跡の丘陵地
 織田信長極楽寺山本陣は、1575年の長篠合戦の際、信長が最初に本陣を置いた場所で、決戦を前にした軍議はここで開かれ、徳川家康の重臣酒井忠次による鳶ヶ巣山奇襲の進言はここで行われたと言う。現在は豊川用水の開削などで地形が改変されているが、用水北側の高台に「設楽原古戦場いろはかるた」の掲示板が立っている。石碑もあるようだが、初夏の薮に埋もれて確認できなかった。
 尚、南西にある平井神社には、「信長ここにあり」と幟旗や旗指物を林立させた旗本陣があったと言う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.913751/137.503531/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

長篠合戦 鉄砲戦の虚像と実像 (中公新書) - 金子拓
長篠合戦 鉄砲戦の虚像と実像 (中公新書) - 金子拓
ラベル:陣所
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2026年01月26日

夷ヶ谷城(愛知県新城市)

DSCN4486.JPG←城跡の段丘地形
 夷ヶ谷(えびすがや)城は、夷城とも言い、奥平土佐守定雄が築いた城である。奥平定雄は、山家三方衆と呼ばれる奥三河の土豪の一つ作手奥平氏の庶流で、和田奥平氏初代貞盛の次男であった。また新城城主奥平信昌の4男で後に江戸幕府の重鎮となった松平忠明が1583年にこの城で産まれたと伝えられている。

 夷ヶ谷城は、北から南に延びた丘陵先端部に築かれていたが、現在は県道整備や圃場整備事業によって大きく改変され、遺構はほとんど残っていない。しかしそれでも、豊川用水沿いに畑地が段丘地形となっているのがわかる。規模は東西120×南北150m程度と推定され、長円形に近い多角形の単郭の城館であったらしい。見るべき遺構はほとんどないが、市の史跡に指定され、標柱・解説板が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.913677/137.499971/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

図説 江戸幕府 - 大石 学
図説 江戸幕府 - 大石 学
ラベル:中世平山城
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2026年01月24日

国広城(愛知県新城市)

DSCN4474.JPG←城跡の現況
 国広城は、歴史不詳の城である。現地解説板によれば、城主として野口季宗、林雅楽之助、彦坂九兵衛の名が伝わると言うが事績は不明。尚、『日本城郭大系』では菅沼大膳亮定継の築城で、天文年間(1532~55年)に廃城になったとしているが、これは背後の丘陵地にある大谷城のことであろうか?

 国広城は、田町川東方のなだらかな丘陵地にあったらしい。現在は一面の栗畑となっていて、遺構は完全に湮滅している。往時は堀で囲まれた、単郭の城館であったらしい。車道脇に解説板が立っており、わずかに城があったことを伝えているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.913789/137.495617/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

戦国の城: 目で見る築城と戦略の全貌 (上) (歴史群像シリーズデラックス版 1) - 西ヶ谷 恭弘
戦国の城: 目で見る築城と戦略の全貌 (上) (歴史群像シリーズデラックス版 1) - 西ヶ谷 恭弘
ラベル:中世平城
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2026年01月22日

川路城(愛知県新城市)

DSCN4466.JPG←城址標柱と解説板
 川路城は、この地の土豪設楽越中守貞通の居城である。貞通は、まだ松平元康と名乗っていた徳川家康が今川義元討死後に今川氏から離反して自立した際、野田菅沼氏・西郷氏らと共に早い段階から家康に従った。長篠合戦時には、酒井忠次率いる鳶ヶ巣山奇襲隊に参加し、武田勢の退路を断つ活躍を見せた。1590年の小田原の役の後、徳川氏が関東に移封となると、貞通の嫡男貞清も関東に移り、武蔵国太田庄羽生領の内、加須・礼羽・馬内・戸崎の4ヶ村1500石を拝領し、礼羽に陣屋を構えた。

 川路城は、連吾川西岸の台地上に築かれていた。方形に近い形状の単郭の城館であったようだが、遺構は全く残っていない。わずかにお鷹井戸と呼ばれる井戸跡が残るが、現在は立入禁止となっていて見ることができない。それでも市の史跡に指定され、標柱が立つ。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.910295/137.521620/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城 - 香川元太郎
ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城 - 香川元太郎
ラベル:中世平城
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2026年01月20日

川路端城(愛知県新城市)

DSCN4458.JPG←主郭跡
 川路端城は、現地標柱では端城城と呼ばれ、永禄年間(1558~70年)に菅沼十郎兵衛門が築城し、設楽氏の城館群の一翼を担ったと言われる。尚、『日本城郭大系』では小川路氏の支城としている。

 川路端城は、連吾川の東岸に築かれている。台地の縁が西に向かって少し突き出た部分に築かれており、連吾川を天然の堀としている。主郭とされる部分は畑となっている。それ以外は土塁もなく、北西端に城址標柱が立っているだけであるが、昭和20年代前半の航空写真を見ると東から南にかけてL字型の空堀があった様である。しかも東の空堀の中央付近には矩形の突出があり、出枡形が築かれていた可能性があるが、今となっては全て地下に埋もれてしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.908208/137.523152/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

東海の名城を歩く 愛知・三重編 - 中井 均, 鈴木 正貴, 竹田 憲治
東海の名城を歩く 愛知・三重編 - 中井 均, 鈴木 正貴, 竹田 憲治
ラベル:中世崖端城
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2026年01月18日

設楽越中守陣地(愛知県新城市)

DSCN4425.JPG←県道脇の高台にある解説板・石碑
 設楽越中守陣地は、1575年の長篠合戦の際、前哨戦となった鳶ヶ巣山奇襲の際に徳川方の設楽越中守貞通が陣を置いた場所である。貞通は川路城主で、まだ松平元康と名乗っていた徳川家康が今川義元討死後に今川氏から離反して自立した際、野田菅沼氏・西郷氏らと共に早い段階から家康に従った。長篠合戦時には、酒井忠次率いる鳶ヶ巣山奇襲隊に参加し、広瀬の渡を渡河した後、兵500と鉄砲50挺で樋田に陣を構えた。そして奇襲成功により敗走してきた武田勢をこの地で迎撃し、退路を断ったと言う。

 設楽越中守陣地は、豊川の南、県道69号線沿いの高台に解説板と石碑が立っている。ちょうど新城市クリーンセンターの前に当たる。遺構はないが、長篠合戦の重要な一場面である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.907332/137.540565/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー 382) - 平山 優
検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー 382) - 平山 優
ラベル:陣所
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2026年01月16日

出沢砦(愛知県新城市)

DSCN4360.JPG←砦のあった丘の遠望
 出沢(すざわ)砦は、甲斐武田氏に服属した長篠城主菅沼正貞が1572年頃にこの地に侵入した際、出沢を領した滝川助義が川路城主設楽貞通と共にこの砦に籠り、侵攻を防いだと伝えられている。尚、助義は織田信長の家臣滝川一益の旗本であったと伝えられ、1575年の長篠合戦の際に左翼最前線で奮戦した。そして敗走する武田軍の追撃戦の中で、澤の尻の殿戦において武田方の部将笠井肥後守を討取り、信長より感状等を賜ったが、重傷のため翌日屋敷で没したと言う。

 出沢砦は、龍泉寺の北西にある小丘の上に築かれている。ネット上の情報では、一応平場群が残っているようだが、民家の持山で民家の敷地からでないと訪城できないうえ、周囲の道路は狭くて車を停めておける場所も見当たらなかったので、踏査は断念した。丘陵北側の車道脇の上方に砦跡の石碑が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.943172/137.534503/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

長篠合戦 鉄砲戦の虚像と実像 (中公新書) - 金子拓
長篠合戦 鉄砲戦の虚像と実像 (中公新書) - 金子拓
ラベル:中世平山城
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2026年01月12日

丸山砦(愛知県新城市)

DSCN4313.JPG←小山の上の陣地石碑
 丸山砦は、長篠の戦いの際に織田方の佐久間信盛と武田方の馬場信房が奪い合った砦である。設楽原決戦場のほぼ北端に当たり、最初は佐久間信盛が陣を置いていたが、武田軍右翼の馬場信房が攻め取って占拠した。この勢いに乗じて武田方の真田信綱・昌輝兄弟、土屋昌次らが三段ある馬防柵の第一柵を突破し、激戦を展開した。この付近は大宮前激戦地と呼ばれている。

 丸山砦は、連吾川の東岸にある小山で、車道脇から登道がついており、上まで登ると陣地の石碑が立っている。遺構はなく、自然地形をそのまま利用した陣場であったと思われる。そうであれば、他の長篠合戦関連史跡と同様に丸山陣地とか丸山本陣とか言うべきであるのに、なぜここだけ「砦」と呼ばれるのか、理由がよくわからない。現在は本当に小さな小山だが、古い航空写真を見ると現在の2倍以上ある山だったらしいが、近年削られたようである。それにしても、織田・徳川連合軍の中ではこの陣場だけが連吾川の東、即ち武田側の軍勢がひしめく中に突出している。全軍突撃する武田方からすれば目障りなことこの上なく、信房が攻めたのも当然であろう。もしかしたら、武田軍の突撃兵力を分散させるために、わざと突出した陣場を築いて攻撃を誘ったものかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.925261/137.524798/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田勝頼 (シリーズ・中世関東武士の研究) - 平山 優
武田勝頼 (シリーズ・中世関東武士の研究) - 平山 優
ラベル:陣所
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2026年01月10日

岡崎信康本陣(愛知県新城市)

DSCN4291.JPG←本陣地遠望
 岡崎信康とは、徳川家康の嫡男松平信康のことである。岡崎城を居城としたため、岡崎三郎を称した。信康は17才で長篠の戦いに参陣し、石川数正や平岩親吉と共に本陣を松尾神社に置いたと言う。

 岡崎信康の本陣地は、最前線に当たる父家康の本陣から川一つ隔てた後方に当たり、後備えとして後方に控えていた。また前面にある大宮川沿いには、家康本陣後方を防御する一重柵が築かれていた。もし武田勢の一軍が家康本陣の側背に回り込んだ場合、この一重柵で敵の突撃を抑えると共に、信康の後備え部隊が駆けつけて撃滅する作戦だったと思われる。特に遺構はないが、長篠合戦での織田・徳川連合軍の作戦がよく分かる陣取りである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.918734/137.516187/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

徳川家康と武田勝頼 (幻冬舎新書) - 平山優
徳川家康と武田勝頼 (幻冬舎新書) - 平山優
ラベル:陣所
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2026年01月08日

徳川家康八剱山本陣(愛知県新城市)

DSCN2623.JPG←本陣跡の石碑
 徳川家康八剱山本陣は、現地の石碑では単に徳川家康本陣跡と呼ばれ、史上有名な長篠の戦いの際に家康が本陣を置いた地である。1575年5月、設楽原の決戦に臨んだ徳川家康は、この八剱山に進軍して本陣を置き指揮を執った。

 徳川家康八剱山本陣は、八剱神社裏手の丘陵頂部に置かれたらしい。丘の上は自然地形のままで遺構は全くないが、八剱神社の参道脇に標柱が立つ他、丘陵頂部に「家康本陣地」と刻まれた石碑が立っている。この石碑は東郷ケッターパークというマウンテンバイクのコースの奥にある。またこの丘陵の南東端には断上山9号墳という古墳があり、ここは家康物見塚と伝わる。すぐ前面には連吾川沿いの狭い平地が見渡せ、その向こう数百m先に連なる丘陵地は全て武田方の陣地である。つまり、家康は激戦地の最前線に本陣を置いて指揮を執ったのであり、これは後の天正壬午の乱や関ヶ原の戦いでも見られた最前線に身を投じる家康の、闘将としての側面であった。
八剱神社参道脇の標柱→DSCN4282.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.917685/137.522268/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー 382) - 平山 優
検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー 382) - 平山 優
ラベル:陣所
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2026年01月03日

天王山陣所(愛知県新城市)

DSCN4144.JPG←陣所跡の現況
 天王山陣所は、1575年5月の長篠合戦の時、武田四天王の一人内藤昌豊の陣所であった。武田勝頼は才ノ神に本陣を置いて全軍を指揮していたが、戦況の推移に伴いここへ陣を移して昌豊と共に指揮を執ったとされる。その後、武田勢が敗退する中、昌豊は馬場信春と共に勝頼を戦場から逃すためこの地に踏みとどまり、討死したと伝えられる。

 天王山陣所は、東郷中こども園の裏手にある丘で、現在は公園となっている。現在は周りの木々で見通しがきかないが、西のすぐの麓には連吾川が流れ、武田軍が最後の突撃を敢行したという柳田前の激戦地を控える、まさに戦闘の最前線にあった。ここには「武田勝頼公指揮之地」と刻まれた石碑と、内藤昌豊・横田備中守の墓が建っている。横田備中守康景も武田氏の重臣の一人で、信玄の重臣であった横田高松の養嗣子である。父子4人で長篠合戦に参戦し、悉く討死した。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.920602/137.528139/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田氏滅亡 (角川選書) - 平山 優
武田氏滅亡 (角川選書) - 平山 優
ラベル:陣所
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2026年01月01日

武田勝頼清井田戦地本陣(愛知県新城市)

DSCN4124.JPG←本陣跡の石碑と解説板
 武田勝頼清井田戦地本陣は、長篠合戦の際、長篠城攻撃の本陣であった医王寺山から、織田・徳川連合軍が布陣する設楽原に向けて前進した武田勝頼が、最初に本陣を置いた場所である。
1575年4月、1万5千の大軍を率いて甲斐を発した勝頼は、全軍を4つに分けて三河に進出し、4月下旬に長篠城周辺に包囲網を敷き、医王寺山に本陣を置いた。5月18日、後詰めとして進出してきた織田・徳川連合軍は、設楽原に野戦陣地を作り始めた。医王寺山本陣で諸将と軍議を開いた勝頼は重臣達の反対を押し切って設楽原での決戦を決断し、5月19日に設楽原へ進軍を開始した。寒狭川を渡ってこの清井田に陣を進め、陣地検分の報告や合戦の打合せを行ったとされる。この後更に連吾川を見下ろす才ノ神に前進し、全軍を指揮して決戦に臨んだと言う。

 武田勝頼清井田戦地本陣は、新東名高速の新城ICの南東の丘にあったらしい。周辺の地形は工場団地や道路建設で改変されてしまっている。丘の上には墓地があり、そこら辺りに陣を敷いたのかもしれないが、見るべき遺構もなさそうだったので、登道の途中にある石碑と解説板だけ見て撤収した。清井田本陣は、おそらく決戦を前にした勝頼が一時的に陣を置いて敵情を探っただけの中継地で、陣城としての構築はほとんど行われなかったのではないかと思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.922787/137.539704/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田三代 信虎・信玄・勝頼の史実に迫る (PHP新書) - 平山 優
武田三代 信虎・信玄・勝頼の史実に迫る (PHP新書) - 平山 優
ラベル:陣所
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2025年07月07日

武節城(愛知県豊田市)

DSCN6279.JPG←多数の腰曲輪群
 武節城は、山家三方衆の一、田峯城主菅沼氏の支城である。永正年間(1504~21年)に菅沼定信が築城した。三河・信濃・美濃の3国の国境に近く、三河防衛の最前線基地となり、菅沼氏は街道防衛のため一族を城代として置いたと言われる。当初、田峯菅沼氏は今川氏に属していたため、1556年には信州下伊那の下条信氏の侵攻を受けて武節城は落城したが、また今川方に復したらしい。1571年3月、武田信玄が大軍で三河へ侵攻すると、武節城は戦うことなく落城し、田峯菅沼氏も戦うことなくその軍門に下った。以後、武田氏の先手衆として活動した。1575年5月、長篠の戦いで武田勝頼が大敗すると、菅沼定忠は敗走する勝頼を自身の居城田峯城に案内したが、留守居役の家老今泉道善らの叛逆により城に入れず、やむを得ず段戸の山中で夜を明かし、武節城に入って休息を取り、一夜を明かした。翌日勝頼は信濃を経由して甲斐に戻った。その後、武節城は酒井忠次が攻略し、長篠城籠城戦で大功を上げた奥平信昌の領するところとなった。1590年に徳川家康の関東移封に伴って信昌が関東に移ると、武節城は廃城となった。

 武節城は、道の駅「どんぐりの里いなぶ」のすぐ東側にそびえる比高40m程の小山に築かれている。城内は公園化されている他、耕地化や墓地造成でかなり改変を受けている。大空堀で城域を大きく二分した一城別郭の縄張りとなっている。大型の櫓台が後部に築かれた主郭を中心に置き、北東に向かって階段状に二ノ郭・三ノ郭を配置している。これらの外周には数段の腰曲輪が築かれているが、傾斜がゆるい北西斜面に、より多く、より広い曲輪群が構築されている。主郭後部の櫓台には城山神社が建っているが、社伝によれば天正年間(1573~92年)の城主菅沼定広が城の鎮守のために祀ったのが始まりであるらしい。櫓台の背後には前述の大空堀が穿たれている。大空堀は、東側は腰曲輪群を分断しながら急峻な斜面を落ち、西側は北西に向かって腰曲輪群の間を下っている。大空堀の南には三角形状の外曲輪が築かれ、その周囲にも幾重にも腰曲輪群が築かれている。城域南端には車道が貫通しているが、これも改変されているが堀切が穿たれていた跡らしい。以上が武節城の遺構で、城の主要部は改変が多いが、大空堀の南にある外郭遺構は改変が少なく、ほぼ完存している。多数の将兵を失った後、苦心の末にこの城にたどり着いた勝頼の心中は、如何ばかりであったろうか?
主郭後部の櫓台→DSCN6340.JPG
DSCN6372.JPG←櫓台背後の大空堀
スーパー地形で見た武節城↓
Screenshot_2025-06-24-00-00-37-681_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.214234/137.505312/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田三代の城 - 岩本 誠城
武田三代の城 - 岩本 誠城
ラベル:中世平山城
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2025年07月05日

清水城(愛知県設楽町)

DSCN6204.JPG←二ノ郭から見た主郭虎口
 清水城は、南北朝時代に足助氏の代官であった菜倉左近蔵人の居城と伝えられる。1334年頃に在任し、近隣28ヶ村を支配したと言う。菜倉氏は足助氏と共に南朝方に付いて戦った。2代右衛門佐伊武は跡継ぎがなく、新田氏から孫六兼氏を養子に迎え、一時新田氏を称した。

 清水城は、比高20m程の小山に築かれている。頂部に弓形に曲がった形の主郭を置き、その西に虎口を築き、前面に1段低く二ノ郭を配置している。二ノ郭は小さいので、実質的に虎口郭と思われる。主郭・二ノ郭の東から南にかけて、円弧状に帯曲輪が廻らされている。二ノ郭の西側下方には2段の平場が見られるが、耕地化で改変されているらしいので、曲輪としての名称が付いていない。しかし帯曲輪と接続していること、二ノ郭下方を押さえる場所であることから、原型を留めていないかもしれないが三ノ郭があったと推測される。この平場の付け根の北側には竪堀が落ちている。主郭北側下方には円弧状に堀切が穿たれ、そのまま西側に斜めの竪堀となって落ちている。堀切の北には尾根が続くが、西側が採土で削られているなどかなり改変されているので、土塁や堀状地形が見られるが、構造がはっきりとは捉えられない。以上が清水城の遺構で、小土豪が構築した小規模な城砦である。
堀切から落ちる竪堀→DSCN6227.JPG
↓スーパー地形で見た清水城
Screenshot_清水城.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.177485/137.530482/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

東海の名城を歩く 愛知・三重編 - 中井 均, 鈴木 正貴, 竹田 憲治
東海の名城を歩く 愛知・三重編 - 中井 均, 鈴木 正貴, 竹田 憲治
ラベル:中世平山城
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2025年07月03日

奥平館(愛知県設楽町)

DSCN6142.JPG←東側の空堀(竪堀)
 奥平館は、作手奥平氏の庶流、名倉奥平氏に関連する居館である。名倉奥平氏2代喜八郎信光(後の戸田加賀守信光)の居館と伝承されるが、名倉奥平氏の本拠は寺脇城であり、この奥平館との関係は不明。信光が家督を継ぐ以前に、この地に居住したものであろうか?

 奥平館は、現在民家の敷地となっている。丘陵を背後に控えており、背後の斜面の山林内に空堀と土塁が残っている。空堀と土塁は、南に向かって末広がりに開いたコの字形をしているが、東側の空堀(竪堀)が尾根先端まで掘り切っているのに対して、詳細地形図を見ると西側の空堀南端は途中で西に向かって折れている様である。土塁の南東端の上には、「戸田喜八郎信光之碑」と刻まれた石碑が立っている。
スーパー地形で見た奥平館↓
Screenshot_奥平館.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.171430/137.545262/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編 - 宮坂武男
信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編 - 宮坂武男
ラベル:居館
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2025年07月01日

湯谷城(愛知県設楽町)

DSCN6080.JPG←空堀先端部の二重空堀
 湯谷城は、歴史不詳の城である。名倉奥平氏の居城寺脇城から1.5kmしか離れていないので、名倉奥平氏の支城であった可能性がある。

 湯谷城は、名倉川西方の丘陵中腹に築かれている。主郭の一部は墓地となっていて、そこまで通じる車道があるので訪城は容易である。城のある丘陵の麓には寺屋敷川が流れていて、天然の外堀となっている。城跡は、前述の通り墓地や車道建設で改変を受けているが、それ以外の部分は遺構がよく残っている。主郭は扇形をした曲輪で、東に向かって傾斜しており、北から西にかけて1/4円弧状の土塁・空堀が構築されている。空堀の東端は幅が広くなり、中央に土塁を築いて二重空堀の形状としている。その先は車道建設で削られてしまっている。またこの二重空堀の内側は、主郭北辺の堀となっている。もしかしたら大手虎口とそれに続く城道の跡だったのかもしれないが、これも車道建設で先端部が削られているので、勝手に想像することしかできない。墓地の東の山林内にも三角形の平場があり、これも曲輪であったと思われる。以上が湯谷城の遺構で、主郭外周を廻る空堀・土塁だけが城跡らしさを残している。
主郭土塁と空堀→DSCN6101.JPG
↓スーパー地形で見た湯谷城
Screenshot_湯谷城.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.155249/137.531619/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世崖端城
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2025年06月29日

鍬塚城(愛知県設楽町)

DSCN6002.JPG←大手郭上方の小郭と石積み跡
 鍬塚城は、名倉奥平氏の支城である。城主は戸田加賀守と伝えられるが、これは名倉奥平氏2代奥平信光の異称で、要は寺脇城主名倉奥平氏の持ち城であったと言うことであろう。信光は武田信玄の没後に徳川氏に服属し、1575年の長篠合戦でも鳶ヶ巣山砦の奇襲隊に参加しており、1581年には織田信長の命により三信国境の城を固守するよう命じられている。『信濃をめぐる境目の山城と館』では、鍬塚城はこの頃に修築を受けた可能性が高いと推測している。

 鍬塚城は、集落から離れて奥まった、標高795mの城山に築かれている。北・東・南の三方を急崖で囲まれ、西の尾根筋だけが唯一の接近ルートであるという要害の地にある。北西の大野山方面から林道があり、更に山中に入り、斜面をトラバースする小道を抜けると尾根に至り、そこから尾根道を辿る道がある。最初の林道は荒れていて、普通の車では通行は難しいので、林道に入ってすぐに曲輪を脇に止めて、歩いて訪城した。山中に入る登り口からでも遠い城だが、登り口や尾根道入口など要所に城への案内杭が立っているので安心である。大手に当たる西尾根から接近すると、両側方を竪堀で穿っており、その先に大手郭と思われる平場がある。その上に2段の小郭があって、大手の防衛をしている。上の小郭の切岸にはわずかな石積みが残っている。その上に長円形の主郭が築かれている。主郭は北から西にかけて土塁が廻らされ、南と東に虎口が開かれている。主郭の南には南1郭・南2郭の2段の段曲輪、北には2段の小郭の下に北郭が築かれている。大きさと構造から見て、この北郭が実質的な二ノ郭と見て間違いない。北郭の西辺にも土塁が築かれており、このため北郭から主郭西側に伸びる帯曲輪は横堀に近い形状となっている。主郭・北郭の土塁上や段曲輪の切岸には、石が散乱しており、石積み跡であった可能性がある。以上が鍬塚城の遺構で、小規模な城だが防御思想が明確に読み取れ、東方への監視と防衛を担い、少人数で守りを固められる城だったと思われる。
北郭→DSCN6050.JPG
↓スーパー地形で見た鍬塚城
Screenshot_鍬塚城.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.135370/137.573777/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世山城
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2025年06月27日

寺脇城(愛知県設楽町)

DSCN5889.JPG←主郭背後の切岸と空堀
 寺脇城は、鎌倉末期に後藤弾正の居城であったと言われるが定かではない。城の歴史が明確なのは戦国時代以降で、山家三方衆と呼ばれる奥三河の土豪の一、亀山城主作手奥平氏の庶流、名倉奥平氏の居城であった。名倉奥平氏は、作手奥平氏2代貞久の6男貞次が1532年頃にこの地に分封されたことに始まる。2代喜八郎信光(後の戸田加賀守信光)は、宗家作手奥平氏と共に今川氏に属し、1558年に岩村城主遠山景任の軍勢が奥三河に侵攻した際には、名倉の船渡橋で宗家奥平定勝と共に激戦を展開し、遠山勢を退けた。この軍功により今川義元から感状を受けた。1560年に桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、今川氏から離反して徳川家康に服属した。しかしその後、武田信玄が奥三河への攻勢を強めると、他の奥三河の国衆とともに武田氏に従った。1573年に信玄が病没すると、同年8月、宗家の奥平定能・信昌父子は徳川氏に帰順し、信光もこれに従ったらしい。以後、徳川氏の配下となり、武田氏と戦った。後に4男松平忠吉に属してその重臣となった。1590年に徳川氏が関東に移封となると、信光もこの地を離れたと思われる。1600年の関ヶ原の戦いの後、忠吉が尾張清洲城に転封となると、信光も清洲城に移ったと言う。

 寺脇城は、標高700m、比高35m程の丘陵上に築かれている。背後の山上には詰城として浜城が築かれている。半月形をした主郭を頂部に置き、南東から南西斜面にかけて腰曲輪群を築いた縄張りとなっている。主郭は、コの字型に土塁を築いて背後を防御し、その裏には空堀を穿っている。主郭の大手虎口は南にあり、搦手虎口が東側に開かれている。南西の腰曲輪群の南面には登城路を兼ねた大空堀があり、その南端には枡形を経由して大手門に至る。また南東の腰曲輪群の北側には竪堀が穿たれ、その上部は主郭の北の尾根まで貫通している。この城の縄張りで不思議なのは、南東から南西斜面にかけてはしっかりした防御構造が構築されているのに、主郭裏の北から西斜面にかけては自然地形のままで、なんらの防御施設も構築されていないことである。名倉奥平氏の本城である割には、普請が中途半端で、不思議な印象を持つ城である。
大空堀→DSCN5851.JPG
↓スーパー地形で見た寺脇城
Screenshot_寺脇城.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.153498/137.548483/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世平山城
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2025年06月25日

長江城(愛知県設楽町)

DSCN5806.JPG←主郭
 長江城は、鎌倉時代から南北朝時代まで永江荘の地頭であった永江氏の歴代の居城である。永江八郎時俊は、建久年間(1190~99年)に源平合戦の軍功により源頼朝から永江荘の地頭職を与えられ、以後13代にわたって永江八邑を支配した。永江氏は、鎌倉幕府滅亡後の南北朝の争乱では、終始南朝方として戦い、南朝方の衰退と共にこの地を去り、長江城は廃城となった。

 長江城は、長江集落の北方にそびえる標高737mの山上に築かれている。南中腹から登山道が整備されており、各所に標柱が立っていて迷うことなく登ることができる。登って最初に現れるのは三ノ郭で、台形をした広い緩斜面となっており、緩斜面付け根の東端には堀状の大手虎口が、付け根北端にも堀状の虎口が確認できる。三ノ郭から斜面をしばらく登った上方には、二ノ郭がある。二ノ郭は、正方形の平坦地と長方形の緩斜面で構成されている。主郭は山頂にある。長円形の平場で、周囲の切岸は不明瞭であるが地山ではなく、平らにならされている。主郭から東に下った尾根鞍部には、中世伊那道の古道が通っていて、切通し部分はサカモリザ峠と言い、堀切の役目も兼ねていたようである。以上が長江城の遺構で、一見すると自然地形のようにも見えるが、緩斜面の平場は明瞭で、二ノ郭・三ノ郭は縁の塁線もはっきりしており、何らかの普請がされたことは間違いない。古い時代の城館遺構である。
二ノ郭→DSCN5796.JPG
↓スーパー地形で見た長江城
Screenshot_長江城.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.114380/137.595692/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(愛知) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする