2026年03月31日

小久保藩陣屋(千葉県富津市)

DSCN5760.JPG←庭園跡
 小久保藩は、幕末から明治初頭にかけて上総国に短期間存在した藩である。1868年、将軍徳川慶喜の大政奉還を経て、徳川宗家の家達が静岡藩として駿河・遠江に入封すると、その地にあった7藩は上総・安房へ移封された。江戸中期の10代将軍家治の時代に老中を務めた田沼意次の直系子孫である田沼意尊の相良藩もその一つであった。意尊は、1840年に家督を継いだ後、1861年に若年寄に昇進、翌文久2年には外国御用取扱を命じられ、激動する内外情勢に対処したが、1866年に若年寄を罷免されて幕政から退いた。相良藩1万石は、1868年(明治元)9月に上総国天羽郡・周准郡の計31村を新たな領地として移され、小久保藩を立藩した。これに伴い小久保字弁天に藩庁(陣屋)・居所を定めた。意尊は翌69年(明治2)1月に相良を発った後、一時東京に居住、6月には版籍奉還により小久保藩知事となり、7月に入って小久保藩庁に住所を置いたが、12月51歳で死去し、新御堂村の最勝福寺に葬られた。その後養子の意斉が家督を継ぎ、1870年(明治3)2月に藩知事となった。翌年7月、明治政府による廃藩置県で、意斉は藩知事を免じられ、小久保藩も消滅した。この短い治世の間に藩校盈進館が設立され、洋学を取り入れ、英語・算術・地理・歴史などが教えられ、士庶共学であった。盈進館はその後の地域の教育の礎となった。

 小久保藩陣屋は、富津市中央公民館の敷地となっている。この地は高台になっていて、西側に平地との崖線がある。公民館駐車場には弁天山古墳という前方後円墳があり、これを取り込むように陣屋が形成されていた。駐車場の南にある公園が藩庁跡と藩邸跡がある。藩庁跡には井戸が残り、藩邸跡には庭園の一部が残っている。それ以外に目立った遺構はないが、明治維新後の過渡期の重要な歴史が秘められている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.281108/139.857596/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

明治維新という建国神話: 「版籍奉還」とは何だったのか (歴史文化ライブラリー) - 青山 忠正
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ラベル:陣屋
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2026年03月29日

富津陣屋(千葉県富津市)

DSCN5739.JPG←陣屋跡の石碑がある空き地
 富津陣屋は、かつて幕府老中首座として寛政の改革を主導した白河藩主松平定信が、江戸湾の房総沿岸防備を命じられて築いた陣屋である。元々この地には、1590年に旗本小笠原氏の居所として陣屋が建設されていたが、その後旗本の江戸常住に伴って廃されていた。1810年に房総沿岸防備を命じられた定信は、1822年に館山の波佐間から陣屋を移設し、新たな富津陣屋を築造した。以後富津村の領主は幕府代官、武蔵忍藩、陸奥会津藩、筑後柳河藩、陸奥二本松藩、上野前橋藩と引き継がれ、藩領内の行政や海防の拠点、及び駐留藩士の居所として使用された。1868年1月、鳥羽・伏見の戦いを契機として戊辰戦争が始まり、江戸城無血開城後の閏4月、請西藩主林忠崇らは旧幕府軍として挙兵し、富津陣屋を包囲した。前橋藩は反乱軍に陣屋を明け渡し、兵士・武器・食料を与えた。その責を負って家老小河原左宮は自刃した。同年6月、富津陣屋から旧幕府軍が退去すると富津陣屋は前橋藩の手に戻り、白井宣左衛門が陣屋総括者として陣屋に入った。前橋藩は既に新政府に恭順の意を示していたが、旧幕府軍に兵士・武器を与えたことで、新政府軍から旧幕府軍への内通を疑われ、詰問された宣左衛門は責を負って自刃した。同年10月、富津陣屋は廃止された。

 富津陣屋は、東京湾に突き出た富津岬の基部に築かれていた。平地に築かれた単郭方形の陣屋で、内部には屋敷が建てられていたらしい。現在陣屋跡地は完全に宅地化されて明確な遺構は残っていないが、古い航空写真を見ると、戦後まもなくの写真ではほぼ方形の陣屋の痕跡が明確に残り、1975年頃までは明瞭であった。しかしその後の開発でその痕跡は失われている。住宅地の中の空き地の木が茂った場所に、ぽつんと陣屋跡・小河原左宮自刃地・白井宣左衛門自刃地の3つの石碑と解説板が立っている。ここだけわずかに小高くなっているが、古い航空写真と照合するとどうも陣屋の西辺に当たり、西側の土塁跡かもしれない。わずかな痕跡であるが、幕末・戊辰戦争の歴史を伝える貴重な史跡である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.310923/139.820174/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

戊辰戦争: 敗者の明治維新 (中公新書 455) - 佐々木 克
戊辰戦争: 敗者の明治維新 (中公新書 455) - 佐々木 克
ラベル:陣屋
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2026年03月27日

真武根陣屋(千葉県木更津市)

DSCN5702.JPG←陣屋跡地脇の城址碑
 真武根陣屋は、徳川幕府の譜代大名であった林播磨守忠旭(ただあきら)が、1850年に造営した請西(じょうざい)藩の陣屋である。林氏は、初代出羽守忠英が1825年に若年寄となり、7千石を加増されて1万石の大名になった。その後も加増を受け、1839年に貝淵に陣屋を築いた。その子2代藩主忠旭は、貝淵陣屋から移転して新たに築いたのが真武根陣屋である。藩主及び重臣の詰所として使用され、貝淵陣屋を下屋敷というのに対し、上屋敷と呼ばれていた。1868年、4代藩主忠崇は戊辰戦争において旧幕府側に属し、木更津に集結した遊撃隊の伊庭八郎らとともに藩兵を率いて各地で新政府軍と戦った。この出陣の際自ら火を放ち真武根陣屋は焼失した。10月に仙台藩を通じて降伏し、12月に請西藩は領地没収・廃藩となり、陣屋も廃された。尚、請西藩は、石高1万石の小藩ながら、伏見奉行など幕府の要職を勤め、また故事に習って将軍が元旦に食べる雑煮に入れた兔肉を代々献上したと言う。

 真武根陣屋は、請西地区の台地南端に築かれている。陣屋跡地の北東部の車道脇に城址碑と解説板が立っている。跡地を見渡したところ、以前に住宅地建設のために北半は削平されてしまったらしく、現在は一面の空地になって草茫々となっていた。南半は林となっていた。しかし最近公開された1mメッシュの赤色立体図で確認したところ、この南半の林の中に土塁が残っている様である。いずれ再訪して確認してみたい。

↓MPI赤色立体図で見た真武根陣屋(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z真武根陣屋赤色立体図.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.364570/139.935056/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

図説・江戸三百藩「城と陣屋」総覧: 決定版 (東国編) (歴史群像シリーズ) - 溝口彰啓, 三浦正幸
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ラベル:陣屋
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2026年03月25日

宮原御所(千葉県市原市)

DSCN5701.JPG←周囲に残る土塁
 宮原御所は、16世紀の前半古河公方足利氏の一族足利晴直が居住した居館である。晴直は、古河公方3代足利高基の次男で古河公方4代足利晴氏の実弟である。1525年、関東管領山内上杉憲房が病没すると、憲房の嫡子憲政が幼少だったため、憲房の養子となって山内上杉氏の家督と関東管領職を継ぎ上杉憲寛(憲広)と称した。1531年、憲寛は憲政を奉じる安中氏・小幡氏らに攻められて敗れ、山内上杉氏の家督と関東管領職を憲政に奪われた。憲寛は上総国宮原に退去して、足利姓に復して足利晴直と改名し、宮原御所と称された。この地ではそのまま隠遁したらしく、再び政治の表舞台に出ることなく1551年に没したと言う。館跡には晴直菩提のために明照院が建立された。1590年、徳川家康が関東に移封となると、晴直の孫義照は召し出され、下野国足利に1040石を与えられて徳川家の旗本に取り立てられ、宮原姓を称するよう命じられた。徳川幕府が成立すると高家となって幕末まで存続した。

 宮原御所は、周囲が水田となった低地帯に張り出した台地上に築かれており、明照院の境内となっている。山門前に標柱があるが、錆びがひどくて解説文がほとんど読めなくなっている。境内北東部が入隅のように内側に折れているが、鬼門除けの意図があったのか、元々の地形だったのかは、よくわからない。ただ境内周囲には土塁が残っている。隠遁地なので、この土塁は防御のためではなく、中世の貴人の館の作りとして標準的に土塁が廻らされたのだろうと想像している。それにしても、こんなところに古河公方足利氏の一族が住んでいたとは全く知らなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.473008/140.094360/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

古河公方と北条氏 (岩田選書「地域の中世」 12) - 黒田 基樹
古河公方と北条氏 (岩田選書「地域の中世」 12) - 黒田 基樹
ラベル:居館
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2026年03月23日

野馬奉行綿貫家屋敷(千葉県松戸市)

DSCN5617.JPG←屋敷の現況
 野馬奉行綿貫家屋敷は、小金御厩役所とも言い、江戸幕府が軍馬育成のために設置した小金牧を管理した野馬奉行綿貫家の役宅である。綿貫氏は下総の名族千葉氏一族の末裔と言われ、徳川家康から野馬奉行を命ぜられた際に綿貫姓を拝領したと伝えられる。以後野馬奉行を世襲した。

 野馬奉行綿貫家屋敷は、JR北小金駅の近くにある。ここは江戸から水戸徳川家の本拠水戸とを結ぶために整備された水戸道中小金宿のそばであり、街道に面して整備された役宅であったと思われる。現在でも綿貫家の居宅である。見た目は市街地の中の一般住宅にしか見えないが、人知れず重要な歴史が秘められている。尚、家人のご迷惑にならないように、遠目から見るだけにしよう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.832000/139.930724/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

図説 江戸幕府 - 大石 学
図説 江戸幕府 - 大石 学
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2026年03月21日

目吹城(千葉県野田市)

DSCN5601.JPG←城跡の現況
 目吹城は、永禄~天正年間(1558~92年)頃の城と伝えられている。伝承では、古くは後三年の役の頃に鎌倉権五郎景政の知行地で、後三年の役で清原武衡の家臣鳥海弥三郎に眼を射られた景政が、豪勇にも自らその矢を抜いて戦い、合戦の後にこの地で傷を治したと言われ、それが「目吹」の地名の元となったとも言うが、伝説の域を出ない。時代は下って永禄年間(1558~70年)には近江から佐々木義信が来住して城を築き直し、また義信の出家後の1582年には小田原北条氏の家臣丸山将監が城主になったとも言う。しかしこれらの伝承も確証はないらしい。

 目吹城は、利根川南方の比高10m程の段丘上に築かれていたらしい。以前は段丘の縁に建つ民家の脇に城址標柱があったらしいが、現在は無住となっていて、民家の周りはトラック展示場や砕石を敷いた空き地に変貌し、標柱も撤去されていた。尚、付近には城宿、門城などの地名が残っているらしい。また城跡推定地の西方約1kmのところには、「鎌倉権五郎目洗いの池」がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.969073/139.892849/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

エミシはなぜ天皇に差別されたか: 前九年の役と後三年の役 - 林 順治
エミシはなぜ天皇に差別されたか: 前九年の役と後三年の役 - 林 順治
ラベル:中世崖端城
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2023年01月18日

平賀氏館(千葉県松戸市)

DSCN1366.JPG←本土寺の本堂
 平賀氏館は、鎌倉時代の豪族平賀左近将監忠晴の居館である。忠晴の妻は下総国印東庄能戸の領主印東治郎左衛門尉祐昭の娘(妙朗尼)で、最初は平賀二郎有国に嫁ぎ、後に忠晴に嫁いだらしい。妙朗尼の兄が日蓮直弟子の六老僧筆頭の日昭で、その関係からか平賀氏一族は熱心な日蓮宗の信者となった。1277年、平賀氏は日蓮上人の弟子日朗(父は平賀二郎有国で、後述する日像・日輪の異父兄)を導師として招き、屋敷内に御堂を建立した。これが現在の本土寺で、池上本門寺・鎌倉妙本寺と共に「朗門の三長三本の本山」と称される屈指の名刹となった。忠晴の子は日像・日輪といった日蓮宗の高僧となった。

 平賀氏館は、前述の通り本土寺の境内となっている。広大な境内を有する寺で、館の明確な遺構は確認できないが、段丘の突出部の上にあり、南以外の三方を崖で囲まれた地勢は館跡を思わせる。境内には甲斐武田氏一門の秋山虎康や、その娘で徳川家康の側室となった秋山夫人の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.840177/139.928076/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日蓮「立正安国論」「開目抄」 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)

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  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
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  • メディア: Kindle版
ラベル:居館
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2022年10月17日

関宿城 その2(千葉県野田市)

DSCN3641.JPG←搦手門付近の外堀跡
 関宿城には16年も前に訪城したが、その時は公園化された主郭ぐらいしかよくわからなかった。しかし今年に入って、お城仲間から関宿城には三ノ丸切岸や外堀も残っていると言われ、古い航空写真と現在のものとを照合して、再訪してみた。

 搦手門跡の南北に堀跡と切岸がはっきりと残っている。搦手門付近ではわずかに堀が折れていて、枡形虎口を形成していたらしい。大手門跡は堤防脇の車道にあるが、その東側にわずかに外堀の痕跡が残る。本丸の東側には、堀跡の水田を挟んで三ノ丸の切岸が確認できる。三ノ丸自体は大きく改変されているので、現状では西辺と北辺以外の形状を追うことはできない。
以上が現在確認できる現存遺構で、わずかではあるものの往時の雰囲気を残している。
大手門横の外堀の痕跡→DSCN3667.JPG
DSCN3676.JPG←堀跡と三ノ丸切岸

 場所:【搦手門跡】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.091739/139.784546/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【大手門跡】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.091185/139.780190/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


千葉県の歴史散歩

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/05/01
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ラベル:近世平城
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2018年05月15日

平山城(千葉県千葉市)

IMG_6810.JPG←妙見社裏の大土塁
 平山城は、長谷部城とも呼ばれ、一時期千葉氏の居城となったと言われている。15世紀の後半、鎌倉公方足利成氏と関東管領山内上杉憲忠の対立から、享徳の大乱が勃発した。その余波で千葉氏内部に内訌が生じて千葉宗家が滅ぼされ、その後は庶流の馬加康胤の系統が千葉氏を称した(後期千葉氏)。この馬加系の千葉宗家を継いだ輔胤(康胤の庶長子とされる)が平山城を取り立てて居城とし、その子孝胤の時に平山城から本佐倉城に居城を移したらしい。しかしこの辺りの歴史は、当時の大乱による混乱もあってか、諸説あっていずれが正しいか明確ではない。ちなみに平山城周辺には家臣の屋敷伝承地が散在していることから、一時期とは言え千葉宗家の居城として整備されていた様だ。本佐倉城移城後の平山城の歴史は不明である。

 平山城は、都川支流の北岸にそびえる標高43m,比高23m程の長方形をした台地突出部に築かれている。城の主要部は民家奥の畑地であり、入口の家の方に断って入る必要がある。そこのお婆さんに城跡探訪ということで話をしたが、どこでもそうなのだが、しっかり遺構がある所に限って「何もない」と力説されるのは何故なのだろう?平山城もそうで、妙見社の背後や台地辺縁部など、立派な大土塁が各所に確認できる。かなり広大な城で、畑の周りによくこれだけ土塁が残っていたものだと感心する。ただ城郭遺構が断片的なので、往時の縄張りがどうなっていたのか、想像するのが難しい。台地中央には周囲を土塁や切岸で囲んだ方形の広い空間があり、周囲より高くなっていることから、ここが主郭と想定される。その南西に広がる畑地を、ここでは仮に二ノ郭とする。二ノ郭には前述の妙見社があるが、その背後の大土塁は何の役目を果たしていたのか、わかりにくい。一方、二ノ郭の南西端には南と西の二辺を土塁で囲んだ一段低い曲輪があり、その脇に二ノ郭隅櫓台の土塁が繋がっている。そのには腰曲輪があり、前述の櫓台下に竪堀状の城道があり、途中に木戸口らしい遺構も見られる。しかしこの城道から上の二ノ郭への動線が切れてしまっている。また二ノ郭の南東角には小堀切と土壇を有した小郭が築かれている。二ノ郭の東辺にも土塁が散見される。主郭は南東側に大土塁を築き、虎口が残っている。この他、周囲には腰曲輪らしい平場が広範囲に残っているが、民家や畑への改変がされていて、どこまでが遺構なのかは微妙である。平山城は、居館的色彩の強い城で、本佐倉城と比べると戦国期以前の素朴な縄張りの城であったことが窺える。
主郭周囲の大土塁→IMG_6839.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.571602/140.192714/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


日本城郭大系〈第6巻〉千葉・神奈川 (1980年)

日本城郭大系〈第6巻〉千葉・神奈川 (1980年)

  • 作者: 平井 聖
  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 1980/02
  • メディア: -
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2018年05月13日

城の腰城(千葉県千葉市)

IMG_6719.JPG←大堀切
 城の腰城は、歴史不詳の城である。伝承では、板倉筑後守が築城したと言われているが、筑後守は1638年の島原の乱で戦死した板倉内膳重昌の次男重直と比定されており、1639年にこの地を知行している。そうなると元和の一国一城令の後に、わざわざ中世城郭的な城を築いたことになり、時代背景が合わない。中世城郭の色彩の濃い城の造りと、千葉氏の勢力圏の真っ只中の地域であることを考えれば、千葉氏かその家臣が戦国期に築いた城と考えるのが自然であり、一説には都川支流に点々と所在する城山城立堀城平山城と共に連携して機能した城ではなかったかとも推測されている。

 城の腰城は、都川支流の北岸に突き出した比高15m程の段丘上に築かれている堀切で分断した城で、単郭ではあるが曲輪の面積は大きい大規模な城である。北限の堀切も規模が大きく、長さ100m以上に渡って幅15m、深さ10m程の堀が穿たれている。残念ながら主郭部は千葉東金道路が貫通して、大きく破壊されてしまっているが、東金道路脇から主郭の南端部に登ると、道路の向こうに見える城域北限までかなりの距離があり、大きな曲輪を有した城であったことがわかる。また前述の堀切は藪化しているものの、ほぼ無傷で残っているので、遺構の規模をよく推し量ることができる。堀切は一直線ではなく、横矢掛かりの折れが見られ、塁線が中央部で内側に折れ込んでいる部分に虎口が辛うじて残存している。虎口から堀切に向かって、土橋状に土塁が伸びている様であるが藪でわかりにくい。また堀切北側には土塁の張り出しも見られる。堀切の主郭側には土塁がそびえ、東西両端部は物見台となっている。この他、残存する主郭南端部の東側には低土塁も確認できる。城の腰城は、その規模から考えて、軍団の中継基地か兵站拠点であったことが窺われ、千葉氏やその重臣の原氏、或いはそれらを傘下に収めた小田原北条氏などによって使われた可能性は十分に考えられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.600413/140.157781/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


図説 房総の城郭

図説 房総の城郭

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2002/09
  • メディア: 単行本
ラベル:中世崖端城
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2018年05月11日

飯野城(千葉県佐倉市)

IMG_6621.JPG←主郭の枡形虎口
 飯野城は、歴史不詳の城である。位置的には印旛沼を挟んで臼井城師戸城と相対する位置に築かれており、臼井城の支城群と連携して湖沼の水運を扼する要害ではなかったかと想像される。

 飯野城は、印旛沼東岸の比高20m程の南北に細長い丘陵上に築かれている。地形図を見ると本当に細長い尾根となっているが、現地に実際に行くと城内は思った以上に広い。城は県立印旛手賀自然公園の西端にあり、野鳥観察の為の散策路が整備されている。しかし遺構はよく残っており、公園化による破壊は少ない様である。北に主郭、南に二ノ郭を置いた連郭式の縄張りの簡素な城砦である。主郭先端は細尾根となって降っている。主郭南には枡形虎口の土塁が築かれ、二ノ郭との間にはかなり浅いが堀切が確認できる。堀切の西端は竪堀となって落ち、東端は東斜面の腰曲輪に繋がっている。二ノ郭は広く、南東にやはり枡形虎口が築かれ、虎口脇に土塁や腰曲輪が築かれて防御を固めている。また二ノ郭の東斜面には帯曲輪が延々と伸びている。南東にも2段ほどの腰曲輪が構築され、その先は台地基部を繋ぐ幅広の尾根となっている。尾根は自然地形のままで、特に堀切などの普請は見られない。飯野城は、大した城ではないものの、主郭・二ノ郭の桝形虎口がよく残っており、遺構面からすると戦国期の城であったことが推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.751084/140.201275/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


図説 房総の城郭

図説 房総の城郭

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2002/09
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ラベル:中世崖端城
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2018年05月09日

志津城(千葉県佐倉市)

IMG_6593.JPG←神社のある高台
 志津城は、千葉氏の一族臼井氏の居城臼井城の支城である。臼井昌胤の次男胤氏がこの地に分封されて志津氏を称し、志津城を居城とした。鎌倉後期の1314年、臼井氏10代祐胤(胤氏の兄)が25歳の若さで病没し、わずか3歳の嫡子竹若丸(興胤)が、叔父の志津胤氏の後見を受けて家督を継いだ。しかし胤氏は、竹若丸を暗殺して臼井氏惣領の座を奪おうとした。それを知った一族の岩戸胤安は、竹若丸を臼井城から脱出させて自らの居城岩戸城に匿い、更に鎌倉建長寺に竹若丸を隠した。これを知った胤氏は、岩戸城を攻めて岩戸胤安・胤親父子を滅ぼし、臼井氏を乗っ取り臼井城を居城とした。後に成長した興胤は、南北朝の騒乱の中で足利尊氏に従った軍功により臼井氏の惣領と認められ、1338年、尊氏の命で胤氏は興胤に臼井城を明け渡した。しかし内心不本意な胤氏は、興胤を侮って非礼が多く、遂に興胤は胤氏討伐を決意し、1340年に志津城を攻撃して志津氏を滅ぼした。以後、志津城は廃城となったと考えられている。

 志津城は、小河川に面した比高5m程の低台地に築かれていたと考えられている。城址周辺一帯は市街化でかなり改変されており、天御中主神社の付近だけが城址の雰囲気を残している。神社境内は、2段ほどの平場を持った小さな高台となっており、往時の城の櫓台の様な感じである。この高台の脇には水堀らしい跡も残っている。確認できるのはそのぐらいで、あとはやや起伏のある地形に住宅地が広がっているだけである。志津城は、師戸城・岩戸城と並ぶ臼井城周辺の三大支城の一であったと言われているらしいので、この周囲を城域とした広大な城であったと思われるが、戦後の航空写真を見ても既にどの様な縄張りだったのか、追うことができなくなってしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.709366/140.147202/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


東葛の中世城郭―千葉県北西部の城・館・城跡

東葛の中世城郭―千葉県北西部の城・館・城跡

  • 作者: 千野原 靖方
  • 出版社/メーカー: 崙書房出版
  • 発売日: 2004/02
  • メディア: 単行本
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2018年05月07日

井野城(千葉県佐倉市)

IMG_6577.JPG←二ノ郭の桝形虎口
 井野城は、歴史不詳の城である。戦国時代のこの地域は下総の名族千葉氏の勢力下にあり、千葉氏の一族で重臣であった原氏が臼井城の支城として井野城を築いたのではないかと推測されている。

 井野城は、ユーカリが丘という住宅団地の一角にある。ユーカリが丘は、もうかれこれ40年程前、私がまだ小学生で八千代市の近くに住んでいた頃に、住宅団地と一緒にユーカリが丘線という新交通システムができたということで、友達とわざわざ京成線を乗り継いで乗りに行ったことがある、思い出の地である。まさかこんな開けてしまったところに、城址遺構が残っているとは思わなかった。周辺は市街化で往時の面影は全く残っていないが、城跡部分の丘だけが周囲から隔絶された異次元空間の様に残っている。昭和30年代の航空写真を見ると、南に向かって張り出した台地先端部の小山となっていたが、周辺台地の地形はかなり変わってしまっている。そうした地形の改変を考慮した上で遺構を見る必要があるだろう。南側の谷戸は、現在宮の杜公園という調整池となっている。丘の上には八社大神という神社があり、その脇に窪地状の広い空間があり、これが主郭とされている。窪地状の曲輪という、珍しい形である。その周囲は削り残しの土塁らしく、外周には横堀が遊歩道となって残っている。また主郭の東側にニノ郭があり、前述の横堀はこの二ノ郭手前で東に折れている。この折れの部分に二ノ郭の虎口があり、一種の枡形虎口を形成していた様である。虎口脇には土塁もはっきり残っている。二ノ郭は、主郭より小さい曲輪だがなぜか主郭より一段高い位置にある。しかし周囲の土塁の防御性では主郭より劣っていることを考えると、やはり高い位置にある方が二ノ郭なのかな?という不思議な感じの縄張りである。井野城は、この様にあまり城跡らしさを感じさせない遺構であるが、おそらく陣屋的な機能が主体の城砦だったのではないかと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.739084/140.148983/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


東葛の中世城郭―千葉県北西部の城・館・城跡

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ラベル:中世平山城
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2018年05月05日

柳戸砦(千葉県柏市)

IMG_6461.JPG←東側の空堀
 柳戸砦は、歴史不詳の城砦である。この地は、鎌倉~室町前期頃には、下総相馬氏か、新田岩松氏(相馬氏2代義胤の娘土用御前の嫁ぎ先)が領したことが、『新田岩松文書』から推測されている。戦国後期には、小金城主高城氏がこの地を支配していたらしい。しかし柳戸砦との関連は不明である。
 柳戸砦は、下柳戸集落背後の丘陵地に築かれている。六所神社の東側に隣接しており、山林内に南に開いたコの字状に、浅い空堀と低い土塁が廻らされている。北側の空堀には土橋のようなものも見られるが、かなりささやかなもので、実際に遺構であるかどうかはわからない。東側の堀・土塁は、比較的しっかり普請されているものの、全体的にはかなり小規模なものなので、どこまで城砦としての防御性を有したかは疑問がある。どちらかと言うと、屋敷地の区画という意図で作ったもののように見受けられる。遺構を見る限り、意図不明の城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.837307/140.063581/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


東葛の中世城郭―千葉県北西部の城・館・城跡

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ラベル:中世平山城
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2018年01月02日

手賀城(千葉県柏市)

IMG_8376.JPG←外郭に残る土塁跡
 手賀城は、下総の名族千葉氏の重臣原氏の一族、手賀原氏の居城である。手賀原氏は、戦国中期の頃に臼井城主原胤貞が千葉勝胤より手賀郷600貫を与えられ、胤貞の2男筑前守胤親が手賀城に入って手賀原氏初代となったと伝えられるが、時代的に合わないなど信憑性に乏しく、詳細な系譜は不明である。胤親の子久胤の時に小田原の役となり、手賀城も上方勢の攻撃を受けて落城した。その後、手賀原氏は当地に隠棲していたが、久胤死後にその後を継いだ弟胤次の時に徳川家の重臣板倉勝重に召し出され、1617年、勝重の推挙によって江戸北町奉行所の与力に抜擢されたと言う。その後、幕末まで代々江戸町奉行の与力として続いた。

 手賀城は、手賀沼南東の比高15m程の段丘上に築かれている。広い台地の広範囲を城域としていたらしいが、宅地化で遺構の湮滅が進んでいる。主郭は段丘北端の中央部にあり、現在は畑となっている。畑の中に小さな神社が建ち、神社への入口に城址碑が建っている。主郭の東側などに僅かに土塁が残存し、その脇を通る車道は往時の堀底道であろう。この他にも宅地の脇や外郭南東部の市道脇に、部分的に土塁が残存している。明確な遺構はその程度であるが、城の地勢はよく残っている。


【2018年1月再訪】
前回手賀城を訪れたのは真夏で、見逃していた遺構もあった為、近くまで来たついでに再訪した。主郭の東側斜面に腰曲輪があり、先端には木戸口と思われる地形が確認できる。腰曲輪から谷戸を挟んで、東側に土塁を伴った段曲輪がある。一方、主郭の南西には斜面に沿って円弧状に横堀と土塁を築いた曲輪跡がある。この他、前回は気付かなかったが、主郭南西の民家の中に土塁が見られ、ちょうど道路の屈曲部に当たり、土塁はL字型をしているようである。どうも枡形虎口の跡の様である。そうすると、道路の左手の民家の敷地境界に見られるわずかな土盛も、もしかしたら虎口土塁の遺構なのかも知れない。
主郭の東側腰曲輪の木戸口→IMG_9518.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.845761/140.072100/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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2018年01月01日

夏見城(千葉県船橋市)

IMG_8326.JPG←寺背後に残る土塁囲郭
 夏見城は、この地の在地領主夏見氏の居城である。『長福寺縁起』によれば、城主夏見加賀守政芳は、1564年に不意に敵の攻撃を受けて落城、討死したと伝えられている。尚、夏見氏についてはこの伝承の他に、長福寺の木造聖観世音菩薩の胎内銘に、1536年12月24日付で「夏見豊嶋勘解由左衛門尉平朝臣胤定」なる者が旦那となって造立したことが記されており、船橋市内の城館の中で唯一城主又はその近縁者の名が一次史料によって判明していると言う。この夏見豊嶋勘解由左衛門尉は、「豊嶋」の名乗りにもある様に、長尾景春の乱で太田道灌に滅ぼされた武蔵の名族豊島氏の一族が、この地に逃れ来たったものではないかとの説がある。

 夏見城は、海老川西岸の段丘辺縁部に築かれている。急峻な崖で囲まれた地勢で、主郭は現在、長福寺の境内となっている。寺背後の高台(墓地の東側)に土塁で囲まれた曲輪があるが、主殿を建てるほどの広さはないので、寺境内を主郭とし、高台を詰丸としていたと思われる。寺周辺は市街化しているため往時の縄張りはよくわからないが、戦後の航空写真を見ると寺周囲の円弧状の車道に沿って並んでいる宅地部は、広い堀跡であったらしい。その周りには二ノ郭があったと推測されるが、戦後でも既にその形状はわからなくなっている。尚、詰丸北東部の土塁の上には妙見尊が祀られた「雪解塚」があるが、ここには往時井戸があり、戦いで討死した城兵の遺骸を埋めたとも、城の女中らが身を投げたとも言われ、雪が積もらなかったことからその名が付いたと言う。歴史不詳ながら、しっかりした土塁が残っており貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.712293/139.997599/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
ラベル:中世崖端城
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2017年07月30日

小森城(千葉県白井市)

IMG_8861.JPG←主郭北東の隅櫓台
 小森城は、歴史不詳の城である。城主については、下総の名族千葉氏の家臣であったと言う伝承があるが、真偽は定かではない。一説には、戦国期には臼井城を本拠とした臼井原氏の支配下にあったとも推測されている様だ。尚、小森城のある地域は平塚郷と呼ばれ、印西庄に属していた。同じ印西庄に属していた高田山城との縄張りの類似性も指摘されている。

 小森城は、下手賀沼南西の比高15m程の段丘上に築かれている。往時は、眼下まで沼地となっていた。方形の主郭とその周りのL字状の二ノ郭から成る梯郭式の縄張りとなっている。横矢掛かりはほとんど無く、直線的な土塁と堀で構成されている。主郭は全周を土塁で囲んでおり、殊に北東角には隅櫓台が築かれ、また主郭背後は比較的規模の大きな土塁となっている。二ノ郭は主郭の東と南に広がっているが、一部小屋が建っていて土塁が崩されている。また二ノ郭外周の土塁・空堀は非常に小さく、一部は不分明なほどささやかなものである。この他、主郭の北と東の斜面に帯曲輪が築かれている。城址近くまで工業団地が広がっており、ここだけ遺構が残っているというのは奇跡的であるが、遺構自体は比較的小規模である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.825242/140.070791/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
ラベル:中世崖端城
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2016年08月25日

中野城(千葉県千葉市)

IMG_9812.JPG←ニノ郭前面の二重横堀・三重土塁
 中野城は、上総北東部に武威を振るった土気酒井氏の、土気城以前の居城であったと言われている。酒井氏の出自は諸説あって明確ではない。一説には、土気酒井氏の祖酒井定隆は、元は遠江国の武士で、房総の地に移り住み、安房里見氏の支援によって中野城を築いたと言われる。しかし定隆は、太田道灌が千葉氏を攻撃した1478年の境根原合戦、翌79年の臼井城合戦の際、千葉孝胤・原胤房に与力していることから、安房里見氏の支援は疑問視されており、実際には千葉氏の勢力を背景として、上総武田氏に対する国境前線の守りとして中野城に封じられ、その後、土気城に進出したと考えられている。定隆は法華宗信仰が厚く、領内全ての寺院を法華宗に改宗させ、「七里法華」と呼ばれる宗教政策を行った。また定隆に迎えられた日泰上人は、旧中野城内に長秀山本城寺を開創して布教に務めたと言う。

 中野城は、現在も本城寺の境内となっている。浸食谷に面した段丘上に築かれており、寺のあるのが主郭で、外周の西・北・南の3面に土塁と空堀が延々と築かれている。城域は境内の外まで広がっていて、おそらく往時は複郭の城であったと思われるが、曲輪の区画は今では湮滅して明確ではない。しかし、仮に主郭の南をニノ郭とすると、ニノ郭前面の斜面上に二重横堀・三重土塁が残っており、大手前面の防御を担っていたと考えられる。しかしこの部分は民有地の山林らしく、2月下旬に訪城した時は一部の土塁が重機で破壊の真っ最中であった!(もう破壊され尽くしているかも。頼むからやめてくれ~!)この他、浸食谷をそのまま天然の空堀としている様だ。想像より、しっかりした遺構が残っており素晴らしいが、民有地部分の破壊だけは何とかしてほしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.582100/140.265648/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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2016年08月15日

立堀城(千葉県千葉市)

IMG_9735.JPG←南東角部の城塁と空堀
 立堀城は、歴史不詳の城である。一説には、千葉輔胤が一時本拠を置いた平山城(長谷部城)の出城であったとも言われるが明確ではない。
 立堀城は、支川都川の北岸の比高20m程の丘陵上に築かれている。北東に向かってすぼまった台形状の曲輪だけで構成された単郭の城であるが、城塁は5m程の高さを持つ規模の大きいもので、主郭の面積もこの手の城にしては異例に大きい。主郭は全周を土塁で囲み、更に全周に空堀を巡らして防御を固めている。主郭の塁線は西面と東面で僅かに歪んでいるようだが、ほぼ直線状の城塁のみで築かれている。南東辺にだけ張り出しの櫓台が築かれている程度である。土橋で接続された虎口は北東と南西の2ヶ所築かれているが、土橋への横矢は掛けられておらず、その面では戦国前期までの構築の様に思われる。主郭内部は倒竹地獄で進入は困難である。全体から受けた印象としては、軍需物資を集積した兵站拠点のような使われ方をした城の様に感じられた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.573845/140.178552/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
ラベル:中世平山城
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2016年08月13日

栄福寺館(千葉県千葉市)

IMG_9687.JPG←境内周囲の土塁
 栄福寺館は、平安時代後期に千葉介常重の家臣板尾五郎治の居館であったとされている。寺伝では、1130年に嫡子常長に付き添われてここより西にあった三角山に仮住居を設けて安住地を探し、翌31年にこの地に居城を移し、千葉氏の守護神妙見大菩薩を奉祀安置したと言う。栄福寺館のすぐ西方300mの位置に城山城があるが、両者の関係は明確ではない。

 栄福寺館は、現在栄福寺の境内になっている。城館跡であることを知らなかったが、城山城の帰りに何か城と関連する歴史があるかもと立ち寄ったところ、千葉氏との関連する歴史が残る寺で、境内の周りに土塁遺構の様なものも見られ、帰ってから調べたらやっぱり館跡だったというわけである。寺の石碑に寺伝が記載されており、その中に前述の歴史が記載されていた。周囲には土塁だけで堀跡がなく、城館の遺構であるかどうかは確実ではないが、ここでは一応遺構ということにしておきたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.594786/140.170999/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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2016年08月11日

城山城(千葉県千葉市)

IMG_9590.JPG←西尾根の櫓台
 城山城は、歴史不詳の城である。元々この地は千葉庄池田郷に属し、平安時代後期には千葉介常重の家臣板尾五郎治が治めていたとされる。しかし一説には、江戸時代初期の寛永年間(1624~43年)の頃に板倉筑後守重直が築城したとも伝えられる。しかし元和の一国一城令が敷かれた後のことであり、史上疑問も多い。『日本城郭大系』では、東方300m程の位置にある板尾五郎治の居館(栄福寺館)の出城か、都川支流に点々と所在する城の腰城立堀城平山城と共に連携して機能した城との推論を紹介している。

 城山城は、支川都川の北岸の比高20m程の段丘先端に築かれている。南東の腰曲輪には現在、日枝神社が建っており、また城のすぐ北側には千葉東金道路が貫通し、城のすぐ脇まで車道が来ているので、訪城は容易である。しかし城自体は藪城なので、夏場の訪城は無理だろう。遺構はよく残っており、平坦で広い主郭とその北側に一段低い二ノ郭があり、周囲を腰曲輪で防御した構造である。二ノ郭北側には堀跡も残っている。主郭南東部に櫓台を備えた虎口が築かれている。主郭前面に当たる南側は堀底道を介して腰曲輪があり、腰曲輪の西から南にかけては横堀が穿たれている。この腰曲輪にも虎口があって、南に一段低い腰曲輪と繋がっている。一方、南東にも腰曲輪があって前述の通り日枝神社が建っている。神社裏手には土塁や主郭に通じる木戸口らしい地形が見られる。この他、主郭の東西にも腰曲輪があり、一部に土塁が築かれている。また西に伸びる尾根上にも遺構があり、櫓台や堀切、腰曲輪が連なっている。比較的小規模で、大した技巧性もない城であるが、遺構の残り具合は想像より良かった。
西尾根の堀切→IMG_9596.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.594297/140.167716/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
ラベル:中世崖端城
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2016年08月09日

木出城(千葉県四街道市)

IMG_9538.JPG←北辺の櫓台
 木出城は、歴史不詳の城である。地域としては千葉氏の勢力圏に属していたことから、千葉氏関連の在地領主の城と考えられているが、遺構から推測すると戦国後期のものと考えられることから、三船山合戦以後、反攻に転じた安房里見氏に対して、北条氏が築いた防衛の砦とも考えられよう。

 木出城は、比高15m程の段丘先端部に築かれている。ほぼ単郭の城で、民家裏の山林に遺構が眠っている。民家の優しい老夫婦に断れば、快く見学を承諾頂ける。北に700m程の位置にある福星寺館と構造がよく似ており、主郭はほぼ方形の曲輪で、外周には土塁が築かれて防御を固め、東西南北四辺に横矢掛かりの櫓台張出しを設けており、それに伴って外周の空堀を屈曲させている。外周の堀底から見た城塁は高さ4~5m程で福星寺館よりはやや規模が小さい。しかし主郭の面積は福星寺館より広く、主郭南にも外郭が広がっていて、堀らしい溝状地形が見られる。主郭には西と南に虎口が開かれているが、土橋はなくそのまま堀底に繋がっている。空堀自体が城内通路として機能したらしい。この他、台地の東側下方にも水堀跡らしい田んぼが残っている。横矢の発達や福星寺館との相互関係から推測すると、三船山合戦以後に里見氏の激しい攻勢に曝された北条氏が、防衛線維持のために築いた城砦と考えるのが妥当ではないだろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.640540/140.196941/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
ラベル:中世崖端城
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2016年08月07日

福星寺館(千葉県四街道市)

IMG_9467.JPG←北辺の櫓台と空堀
 福星寺館は、歴史不詳の城館である。地域としては千葉氏の勢力圏に属していたことから、千葉氏関連の在地領主吉岡氏関連の城館と考えられているが(『図説 房総の城郭』)、遺構から推測すると戦国後期のものと考えられることから、三船山合戦以後、反攻に転じた安房里見氏に対して、北条氏が築いた防衛の砦とも考えられよう。

 福星寺館は、比高20m程の段丘先端部に築かれている。単郭の小規模な城館で、郭内は現在福星寺が建っている。主郭はほぼ方形の曲輪であるが、外周には高土塁が築かれて防御を固め、東西南北四辺の中間部に横矢掛かりの櫓台張出しを設けており、それに伴って外周の空堀を屈曲させている。外周の堀底から見た城塁は高さ6~7mにも及ぶ規模で、城の規模と比べると不釣り合いなほど厳重に防御されている。また東や南に虎口が開かれ、土橋が架かっている。空堀の外周にも一部土塁などが散見される。南に700m程しか離れていない木出城と構造がよく似ており、横矢の発達や厳重な防御構造から推測すると、三船山合戦以後に里見氏の激しい攻勢に曝された北条氏が、防衛線維持のために築いた城砦と考えるのが妥当ではないだろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.646974/140.198271/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=gazo4&vs=c1j0l0u0f0
ラベル:中世平山城
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2016年08月05日

根古谷城(千葉県八街市)

IMG_9373.JPG←天満宮裏に残る堀跡
 根古谷城は、千葉氏の重臣円城寺氏の居城である。円城寺氏は、原氏・木内氏・鏑木氏と共に「千葉四天王」と称される程、千葉宗家の中で勢力を持った一族で、享徳年間(1452~55年)に、根古谷城はこの円城寺氏によって築かれたと推測されている。しかし1455年、鎌倉公方足利成氏は、亡き父持氏の仇の子である関東管領上杉憲忠を謀殺し、関東を二分する大乱、享徳の乱が勃発した。この余波で下総では名族千葉氏に内訌が生じ、成氏方の康胤は、同族の小弓城主原胤房と共に、上杉方に付いた宗家千葉胤直・胤宣父子を攻め滅ぼし、宗家を乗っ取った。この時、円城寺氏も滅び、その後根古谷城は、粟飯原氏が城主となった様である。その後の歴史は不明であるが、1590年の小田原の役の際に落城したと言う。

 根古谷城は、弥富川南岸に南から突き出した比高10m程の台地上に築かれている。天満宮の境内が主郭に当たり、外周には土塁が築かれ、台地との間の南東側と南西側にそれぞれ二重の堀が穿たれている。主郭は天満宮が建っているところが高台になっていて、往時の櫓台の跡らしい。また北に向かって数段の平場に分かれており、最下段が屋号「要害」の民家となっている。主郭以外は宅地化で改変が進んでいるため、遺構はあまり明瞭ではないが、車道沿いに土塁らしい痕跡を一部に残している。城の中心から南西に500m程離れた位置に西御門神社があるが、ここもその名の通り西の木戸口を防衛する出砦であったと思われる。あまり期待していなかったが、主郭部は思ったよりも遺構が良好に残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.637767/140.259340/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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2016年08月03日

岩富城(千葉県佐倉市)

IMG_9280.JPG←主郭に残る土塁
 岩富城は、下総の名族千葉氏の重臣原氏の一族、弥富原氏の居城である。1470年頃に原左衛門尉景廣が築城したと言われ、以後子の胤行らが城主を務めた。弥富原氏も千葉宗家と共に小田原北条氏に属した為、1590年の北条氏滅亡と共に滅んだ。その後、玉縄北条氏の当主氏勝が、関東に入部した徳川家康より岩富1万石に封じられて城主となった。氏勝は、小田原の役の際には要衝の山中城主となって激戦の指揮をとったが、上方勢の猛攻の前に落城を免れず、自害しようとしたところを松田康長ら重臣達に説得されて城を脱出し、本拠の玉縄城に立て籠もった。その後、説得を受けて玉縄城を包囲した家康に降り、以後は家康に従ったものである。1614年、養子の氏重が下野富田城に移封となり、岩富城は廃城となった。

 岩富城は、鹿島川東岸の比高20m程の段丘上に築かれている。城域北西端に五角形をした主郭を置き、その周囲に二ノ郭などの曲輪を配している。現在明確に残っているのは主郭だけで、東側に土橋の架かった虎口を構え、外周を土塁で防御している。特に虎口部では土塁上の幅が広くなっており、櫓門が築かれていたことが想像される。主郭の東と南の空堀もはっきりと残っている。主郭東側が二ノ郭であったと思われ、段状に平場が築かれている。ニノ郭の北西斜面の下方に腰曲輪があり、主郭下方の腰曲輪との間は、空堀から落ちる竪堀で分断されている。この竪堀はどうも城内通路を兼ねていた様である。この他、本宿の地名が残る付近に方形の土塁の一部が残るらしいが、主郭以外の曲輪は宅地化されているので、確認はできない。城内はかなり改変されているが、教蔵寺北側に東から谷戸が入り込み、そこに古道が残っている。見るからに堀跡・虎口跡らしい地形で、搦手虎口だった可能性もある。いずれにしても、明瞭な遺構は主郭周りだけなのは惜しいことである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.655448/140.235801/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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2015年08月25日

大須加山砦(千葉県千葉市)

IMG_6746.JPG←馬加康胤の首塚
 大須加山砦は、歴史不詳の城砦である。千葉氏の有力支族馬加氏の居城馬加城に近く、往時は砦の下を通る国道14号線の際まで海岸線が迫っており、馬加城を防衛し、海岸線防備も兼ねた砦であったと推測されている。
 大須加山砦は、浜田川西岸の比高10m程の大須賀山と呼ばれる段丘先端に築かれている。往時は前述の通り眼下近くまで海岸線が迫り、浜田川の河口も間近に位置していた。丘の中腹には大日堂があり、台地上には馬加康胤の首塚と伝えられる方形の塚が残っている。この塚は、櫓台ほどの大きさがあり、古の方墳であったものがいつの頃からか康胤の首塚と伝えられるようになったのかもしれない。塚の周囲には腰曲輪らしい平場があり、土塁と物見台らしき土盛りも見られる。詳細不明であるが、物見の砦を置くには絶好の場所であったことはうなづける。
土塁らしき土盛り→IMG_6741.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.66345,140.045707&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
ラベル:中世平山城
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2015年08月23日

若宮館(千葉県市川市)

IMG_6657.JPG←外周に残る土塁
 若宮館は、日蓮の代表的な門下であった富木常忍の居館である。常忍は元々、下総守護千葉頼胤に仕えた豪族で、八幡荘若宮と呼ばれたこの地に館を構え、幕府のある鎌倉との間を往復していた。その中でたまたま布教活動をしていた日蓮と出会い、熱心な信者となった。日蓮との繋がりの強さは、1260年に日蓮が鎌倉松葉ヶ谷で焼討ちされた際に、常忍を頼って若宮館に難を逃れたことからも推測できる。この時常忍は、館内に法華堂を建て、日蓮に説法を願い出た。1264年に安房小松原で、日蓮が地頭東条景信に襲撃され重症を負った後にも(小松原法難)、日蓮は若宮館に身を寄せた。1282年、日蓮の入滅後、常忍は出家して日常と号し、法華堂を改めて法華寺とし、後に法華経寺の奥之院と称されるようになった。

 若宮館は、よくある単郭方形居館であったと思われ、現在でも奥の院の周囲に土塁が残っている。かなり改変されている部分もあるが、土塁の痕跡は明瞭で、周囲の道路も空堀跡であることが城館巡りに慣れた人ならばひと目で分かるだろう。この館には、法華経寺に行こうとして車で通りかかり、たまたま道路脇の解説板を見つけて訪城した。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.721326,139.953547&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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2015年08月21日

幸谷城(千葉県柏市)

IMG_6611.JPG←林の中に残る土塁
 幸谷城は、歴史不詳の城である。鎌倉時代には幸谷城のある増尾村が千葉氏の一族相馬氏の所領であったこと、また幸谷城の規模・構造が近くの増尾城と比べて単純で要害性に劣ることなどから、鎌倉時代に相馬一族の城館であった可能性が高いと考えられている。

 幸谷城は、増尾城の南方わずか600mの、地元で「きつね山」と呼ばれる比高10m程の段丘上に築かれている。松ヶ崎城などと同じく段丘の上の平地に方形の土塁を築いており、段丘の要害性を活かした単郭方形居館であったと思われる。民有地の屋敷林の中にあるが、現在は地元の有志「柏ふる里つくり隊」によって整備され、年1回の地元イベント「カシニワフェスタ」の中で公開されている。人目を気にせず大手を振って遺構の探索が出来る貴重な機会なので、今年の開催に合わせて訪城した。遺構としては、南と西の土塁がかなり明瞭で、特に西側には空堀と外側の土塁もはっきり確認できる。一方、東の遺構は湮滅しており、北側にも土塁と空堀が残るがかなり不明瞭になってしまっている。あまりはっきりしないが、北側も西と同様二重土塁になっていたように見受けられる。土塁の切れ目は西と南に見られるが、南のものは後世の改変の可能性が拭い切れず、西のものは食違い土塁になっていることから往時の虎口であったと思われる。この他、南東に物見台らしい土壇も見受けられる。「柏ふる里つくり隊」のHPに掲載されている遺構図は、実物とは左回りに90度回転して記載されてしまっている様だ。小規模な城館であるが、こうして大切に遺構が守られているのは素晴らしいことである。「柏ふる里つくり隊」には今後も頑張ってほしいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.834828,139.98436&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
ラベル:居館
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2015年03月23日

松子城 その2(千葉県成田市)

IMG_8984.JPG←腰曲輪から見た隅櫓台
 松子城には、昨年一度訪城しているが、遺構は湮滅したばかりだと思っていた。その後の確認で、稲荷馬場と呼ばれる外郭遺構があるらしいことがわかったので、改めて訪城した。
 稲荷馬場は、松子城北西に位置する比高30m程の長円形の曲輪で、本城とは車道に変貌した堀切で分断されている。頂部の曲輪内は稲荷神社が鎮座する他は畑となっている。この曲輪の北から西にかけての山腹には腰曲輪が延々と築かれている。この腰曲輪は、一部は土塁を築いて横堀状となっている。腰曲輪は南西部で何段かの段差で区画され、虎口跡らしい土塁も散見される。これらの腰曲輪に対して、頂部の曲輪には北端と西端の2ヶ所に隅櫓台が築かれている。大規模な遺構ではないが、湮滅した松子城の名残を伝える貴重な遺構である。
横堀の土塁→IMG_8963.JPG

 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.838281,140.419232&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
ラベル:中世平山城
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2015年03月21日

須賀山城(千葉県東庄町)

IMG_8810.JPG←主郭の空堀
 須賀山城は、森山城の外郭として機能した城である。元は、森山城同様、鎌倉初期の1190年に、千葉常胤の6男東胤頼によって築かれたとされる。胤頼は、源頼朝の挙兵に尽力した功績により、1185年、東荘33郷・三崎荘55郷を拝領した。当初は桜井城を居城としたが、1190年に須賀山城を築いて居城を移し、更に1218年に隣接地に森山城を築いて移ったと言われている。その後も須賀山城には一族が拠ったと思われ、東頼数・教頼・常綱等の在城が伝えられていると言う。戦国後期には、小田原北条氏の支援を受けた千葉胤富によって森山城が整備拡張されると、隣接する須賀山城もその外郭として取り込まれたことが、「原文書」という同時代資料から知られている。1590年の小田原の役で、森山城と共に廃城になったと思われる。

 須賀山城は、森山城の台地続きの南東端に築かれた城で、大規模な森山城と比べると比較的コンパクトにまとまった城である。東端に主郭を置き、その外周にニノ郭・三ノ郭等を配置した、梯郭式に近い縄張りとなっている。主郭は方形に近い曲輪で、現在は整備されて公園化されている。背後に土塁を築き、外周に空堀を廻らし、ニノ郭との間に土橋を架けている。主郭の東側と南側には腰曲輪も築かれている。二ノ郭は畑となった小さな曲輪で、北に位置する西曲輪(Ⅳ郭)との間を堀切で分断し、ここにも土橋が架かっている。西曲輪も畑となっており、外周に空堀が廻らされているが、一部を除いて藪がひどく、上からではほとんどその形を把握することができない。西曲輪北端には横矢掛かりの櫓台が残っている。一方、二ノ郭の南側には三ノ郭に相当する大六天曲輪がある。大六天は、相模の城を巡り歩いた人ならばわかると思うが、小田原北条氏が信仰した神で、北条氏の城郭やその近くに多く存在する。このことからも、須賀山城と森山城が北条氏の強い影響力の下に整備されたことが伺われる。大六天曲輪は土塁が残り、周囲に腰曲輪が廻らされている。須賀山城は、横矢は部分的にあるが、比較的オーソドックスな縄張りである。尚、主郭は、「須賀山城再生」ということで町ぐるみで昨年整備・開園したばかりらしく、現在は非常に見易くなっている。こうして薮に埋もれていた城と歴史が整備されるのは、地方再生に向けた最も素晴らしい取り組みだと思う。
主郭背後の土塁→IMG_8828.JPG
IMG_8887.JPG←横矢の掛かる西曲輪空堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.830331,140.650696&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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