小久保藩は、幕末から明治初頭にかけて上総国に短期間存在した藩である。1868年、将軍徳川慶喜の大政奉還を経て、徳川宗家の家達が静岡藩として駿河・遠江に入封すると、その地にあった7藩は上総・安房へ移封された。江戸中期の10代将軍家治の時代に老中を務めた田沼意次の直系子孫である田沼意尊の相良藩もその一つであった。意尊は、1840年に家督を継いだ後、1861年に若年寄に昇進、翌文久2年には外国御用取扱を命じられ、激動する内外情勢に対処したが、1866年に若年寄を罷免されて幕政から退いた。相良藩1万石は、1868年(明治元)9月に上総国天羽郡・周准郡の計31村を新たな領地として移され、小久保藩を立藩した。これに伴い小久保字弁天に藩庁(陣屋)・居所を定めた。意尊は翌69年(明治2)1月に相良を発った後、一時東京に居住、6月には版籍奉還により小久保藩知事となり、7月に入って小久保藩庁に住所を置いたが、12月51歳で死去し、新御堂村の最勝福寺に葬られた。その後養子の意斉が家督を継ぎ、1870年(明治3)2月に藩知事となった。翌年7月、明治政府による廃藩置県で、意斉は藩知事を免じられ、小久保藩も消滅した。この短い治世の間に藩校盈進館が設立され、洋学を取り入れ、英語・算術・地理・歴史などが教えられ、士庶共学であった。盈進館はその後の地域の教育の礎となった。
小久保藩陣屋は、富津市中央公民館の敷地となっている。この地は高台になっていて、西側に平地との崖線がある。公民館駐車場には弁天山古墳という前方後円墳があり、これを取り込むように陣屋が形成されていた。駐車場の南にある公園が藩庁跡と藩邸跡がある。藩庁跡には井戸が残り、藩邸跡には庭園の一部が残っている。それ以外に目立った遺構はないが、明治維新後の過渡期の重要な歴史が秘められている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.281108/139.857596/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

明治維新という建国神話: 「版籍奉還」とは何だったのか (歴史文化ライブラリー) - 青山 忠正
ラベル:陣屋











