2025年12月30日

平田城(岩手県大船渡市)

DSCN3900.JPG←主郭後部の高台
 平田城は、越喜来の土豪本丸城主多田氏の支城である。多田氏の事績は本丸城の項に記載する。多田氏は戦国時代頃に只野氏を称したらしく、天正年間(1573~92年)には葛西氏の家臣只野民部が平田城主であったらしく、葛西氏が遠野阿曽沼氏を攻撃した際には、気仙郡から只野民部が参陣して討死したと言う。

 平田城は、越喜来湾に突き出た、その名も「舘崎」に築かれている。地名も「舘」である。地続きとなっている南西以外の三方を断崖で囲まれた要害の地で、現在は東北大の三陸地震観測所が建っている。入口に関係者以外立入禁止のバリケードがあるので、内部探索はできず遠目に見ただけだが、主郭内は平坦地で、後部が高台となっている。東に突き出た尾根の基部に堀切があるのだけ、薮の中に確認できた。尚、城の西には市の天然記念物である株椿がある。
東尾根の堀切→DSCN3914.JPG
↓MPI赤色立体図で見た平田城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z平田城MPI赤色立体地図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.106837/141.813592/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

描かれた中世城郭: 城絵図・屏風・絵巻物 - 竹井 英文, 中澤 克昭, 新谷 和之
描かれた中世城郭: 城絵図・屏風・絵巻物 - 竹井 英文, 中澤 克昭, 新谷 和之
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2025年12月28日

本丸城(岩手県大船渡市)

DSCN3875.JPG←ニノ郭と主郭切岸
 本丸城は、越喜来の土豪多田氏惣領家の居城である。多田氏は、系図によれば多田源氏の末流とされ、鎌倉前期の建保年間(1213~19年)頃に越喜来へ来住したらしく、多田満仲より8代の裔多田蔵人行綱の3男三郎定綱が初代であったようである。以後100年以上にわたって勢力を伸ばし、本丸城を軸に、周囲に平田城・高森城・小出城・吉浜城などの支城を配して、越喜来から吉浜一帯を支配する国人領主となった。南北朝期の康永年間(1342~45年)には、多田左近将監が城主であったと見られ、南朝方の鎮守府将軍北畠顕信の命を奉じて側近五辻民部権少輔清顕が多田左近将監に宛てた軍勢催促状2通が、また観応年間(1350~52年)には奥州管領吉良貞家の弟貞経が多田三郎左衛門尉に宛てた軍勢催促状が残っており、南朝・北朝の両陣営から注目される地域の実力者であったことが伺える。その中で多田氏は一貫して南朝方に属し、北畠顕信を支援した。しかし奥州南朝方が敗退すると、多田氏は北朝方に下った。その後は中世を通じて気仙郡を支配した葛西氏の配下に組み込まれ、戦国期頃から只野氏を称した様である。

 本丸城は、標高40mに満たない丘の上に築かれている。主郭南東の腰曲輪に八幡神社が建っていて、参道が整備されているので、訪城は容易である。南北に長い主郭を中心にして、全周を取り巻く様に二ノ郭が廻らされた環郭式の縄張りとなっている。二ノ郭の北と南には更に腰曲輪が築かれている。主郭・二ノ郭ともに後部に小さな土塁が築かれているが、それ以外には土塁も堀もなく、簡素な構造の館城である。尚、主郭・二ノ郭共に南半分は矢竹の薮に覆われている。八幡神社の裏手に解説板が立っている。
主郭後部の土塁→DSCN3858.JPG
↓赤色立体図で見た本丸城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z本丸城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.118421/141.815319/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

南北朝武将列伝 南朝編 - 亀田俊和, 生駒孝臣
南北朝武将列伝 南朝編 - 亀田俊和, 生駒孝臣
ラベル:中世平山城
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2025年12月26日

小田の御所(岩手県山田町)

DSCN3823.JPG←腰曲輪と二ノ郭切岸
 小田の御所は、南北朝時代に奥州南朝方の総帥であった鎮守府大将軍北畠顕家の嫡子顕成が拠った城との伝承が残る。顕成は、実在はほぼ認められるが具体的事績は伝承の域を出ない人物であり、不明点が多い。小田の御所は船越御所と同様、船越氏が北畠顕成一行庇護のために造ったものとして伝えられている。山城であるので、特に戦時に備えた臨時の館、即ち船越御所に対して詰城としての機能を持っていたと推測されている。

 小田の御所は、船越半島の南西端に位置する、船越湾に突き出した標高80mの山上に築かれている。城の東側には古道が通る峠があり、この古道を押さえていた城だったと思われる。国土地理院1/25000地形図に破線で記載されている古道は現存していて、これを北麓から入って峠まで登れば、西側にそびえているのが小田の御所である。形態としては純然たる山上の館城で、「へ」の字型をした大型のニノ郭と、その東端部に一段高くそびえる長円形の主郭、そしてこれらの外周を取り巻く幅のある腰曲輪で構成されている。主郭の南端部には虎口郭と思われる土壇があり、その切岸にわずかに石積らしい跡が見られる。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』によれば、「二ノ郭が主郭と接する箇所には土盛りした壇があり、10個の礎石が残されている」と書かれているが、この石積のことであろうか。主郭はやや削平が甘い曲輪で、郭内は南に向かってやや下り勾配となっている。前述の報告書に「主郭のほぼ中央に8個の磯石が遺存」とあるが、埋もれているのか見つからなかった。主郭北西角から二ノ郭北辺に向かって坂土橋を兼ねたと思われる土塁が伸びている。二ノ郭は南側中央部が内側に向かって折れており、下の腰曲輪に対して横矢を掛けられるようになっている。西に向かって下り勾配となっているが、郭内に明確な段差は見られない。二ノ郭西端の先の腰曲輪には文化八年の年号が刻まれた宝篋印塔があり、「小田之御所海上恩」と刻まれている。この他、外周の腰曲輪から北に伸びる尾根の根本に、浅い堀切が穿たれている。腰曲輪の南や東にも帯曲輪らしい平場が数段見られるが、この付近の山は近世以降の耕作でどこも段々になっているので、どこまでが城の遺構なのかよくわからない。以上が小田の御所の遺構で、大きな二ノ郭を持った城である。

 尚、『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の縄張図と城の構造の記載であるが、東西南北の方向も城全体の形状も実態とかけ離れており、鵜呑みにしてはいけない。
石積らしい跡→DSCN3767.JPG
DSCN3813.JPG←腰曲輪に残る宝篋印塔
北尾根付け根の堀切→DSCN3737.JPG
↓赤色立体図で見た小田の御所(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z小田の御所赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.414006/141.985459/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

南朝の真実: 忠臣という幻想 (歴史文化ライブラリー 378) - 亀田 俊和
南朝の真実: 忠臣という幻想 (歴史文化ライブラリー 378) - 亀田 俊和
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2025年12月24日

織笠楯(岩手県山田町)

DSCN3639.JPG←大手郭群にある大手道
 織笠楯(織笠館)は、立神館とも呼ばれる(現地のバス停の名前は「舘神」なので、舘神館と書くべきか)。楯主は織笠氏で、1439年に福士床次郎安定(保定?)が南部氏14代義政より織笠村等4ヶ村を賜って織笠氏を称したとされる。安定の事績はよくわからないが、信仰心の厚い人であったと言われ、立神楯の近隣に竜泉寺を開基したほか、先祖を祀るために八幡宮を建立したと伝えられている。ちなみに東方1.3kmにある坊主山館も織笠館の別称があって紛らわしい。

 織笠楯は、織笠川北方に連なる丘陵の内、北側に沢が入り込み、東に向かって突き出た丘陵に築かれている。東麓の舘神バス停の脇から奥に登っていく道があるので、これを登っていけばよいが、途中で道が薮に埋もれてしまっているので、薮漕ぎしながら奥へと進むほかはない。この道筋は2つの尾根に挟まれた間の谷戸地形に当たるが、実はこれが大手道らしく上下2段の平場に分かれ、上段曲輪に登る道は往時の大手道の形を留めていると思われる。この大手郭群を挟むように南北に三角形をした舌状曲輪が張り出している。その上に、中央部分が傾斜した広い腰曲輪が広がり、腰曲輪の北寄りに台形状の三ノ郭、南側に大型の二ノ郭がそびえている。三ノ郭~二ノ郭間は腰曲輪が堀切を兼ねて分断している。三ノ郭の北には堀切が穿たれて支尾根を分断しており、堀切は前述の舌状曲輪に繋がった通路となっている。二ノ郭の後部には土塁が築かれ、ここに立神様が祀られている。二ノ郭の背後には深い堀切が穿たれ、堀切の西側に細尾根の曲輪が伸び、その先に主郭がある。主郭の周囲にも数段の腰曲輪があるようだが、笹薮が酷くて形状が全くわからないし進入も困難である。主郭の背後には二重堀切が穿たれて、背後の尾根を遮断している。以上が織笠楯の構造で、遺構はよく残っているが一部を除いて薮が酷く、曲輪内への進入・踏査が容易ではない。1mメッシュ赤色立体図などの詳細地形図を持っていない限り、訪城はやめた方が良いと思う。
二ノ郭背後の堀切→DSCN3699.JPG
DSCN3682.JPG←主郭背後の二重堀切の内堀
↓MPI赤色立体図で見た織笠楯(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z立神楯MPI赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.443581/141.933806/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。

図解 戦国の城がいちばんよくわかる本 - 西股 総生
図解 戦国の城がいちばんよくわかる本 - 西股 総生
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2025年12月22日

沢田楯(岩手県山田町)

DSCN3606.JPG←堀切
 沢田楯(沢田館)は、竹の御所とも呼ばれる。伝承では、建武の新政期の1334年、この地の土豪山田六郎は大沢御牧の牧馬の殺害や狼藉のかどで追放され、その所領は飯岡村は南部又次郎に、山田村は藤原朝臣某にと分割されて管理されたと言う。藤原某の詳細は不明であるが、「朝臣」とあることから後醍醐天皇の命で鎮守府将軍として奥州多賀国府に派遣された北畠顕家と共に奥州に下向した京都の公家であった可能性がある。この山田村の管理のために構築されたのが沢田楯で、藤原某の代官として派遣されてきたのが山田関屋丸だったと伝えられる。

 沢田楯は、道の駅やまだのすぐ後ろにある丘陵上に築かれている。主城部と詰城部の2つで構成されていたが、詰城部は三陸道山田ICの建設で破壊されており、現在残っているのは主城部だけである。主城部は、南東に向かって突き出た細長い丘陵の上に広大な主郭が築かれ、その北に堀切を挟んで副郭が築かれている。更にそれらの外周に1~2段の腰曲輪が築かれている。主郭には八幡神社が建っており、神社への参道が西麓から付いている。この参道が西の腰曲輪に登りつく箇所は虎口のような形状をしているので、往時の登城路を参道にしていると思われる。主郭外周の腰曲輪には、主郭先端部近くの左右に竪堀が落ちており、腰曲輪内の移動を分断している。おそらく往時は竪堀に木橋を架けていたのだろう。また前述の堀切は、東側が円弧状に曲がっている。この他、主郭南の2段の腰曲輪の先に尾根が続いており、先端に物見郭が置かれている。この物見郭では、道の駅の真裏なのにカモシカ2頭が現れた。以上が沢田楯の遺構で、詰城部は失われているが、主城部は遺構がよく残っている。
腰曲輪から落ちる竪堀→DSCN3571.JPG
↓赤色立体図で見た沢田楯(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z沢田楯赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.479251/141.951687/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。

北畠顕家: 奥州を席捲した南朝の貴族将軍 (中世武士選書 第 22巻) - 大島 延次郎
北畠顕家: 奥州を席捲した南朝の貴族将軍 (中世武士選書 第 22巻) - 大島 延次郎
ラベル:中世平山城
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2025年12月20日

高館城(岩手県大船渡市)

DSCN3465.JPG←東側の2段の腰曲輪と山火事跡
 高館城は、葛西氏の家臣千田大学の居城と伝えられる。千田大学は、伊達勢が葛西大崎一揆にとどめを刺した桃生郡深谷の戦いで討死した。

 高館城は、標高93.3mの山上に築かれている。綾里湾を眼下に望み、槻館城と相対峙する位置にあった。この綾里地区では本年2月に大規模な山火事が発生しており、訪城した時は高館城周辺でも山火事の痕跡が生々しく残っていた。城のすぐ脇を車道が通っているので、簡単に訪城できる。山頂の主郭は段差で南北2段に別れていて、上段は縦長の台形をした小さな曲輪で、その南にやや幅のある下段平場があり、その北東には上段曲輪から土塁が伸びている。主郭の北西に二ノ郭が突き出ており、主郭西側まで腰曲輪状に廻っている。これら城の中心部を取り巻くように1~2段の腰曲輪が廻らされている。堀切・横堀はなく、平場群だけで構成された簡素な構造の城である。尚、城内ではシカが2頭ダッシュで逃げていった。
主郭から見た二ノ郭→DSCN3478.JPG
↓赤色立体図で見た高館城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z高館城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.043406/141.800170/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

中世城郭の新論点――石垣・障子堀・畝状空堀群・海城・陣城・城郭類似遺構 - 髙田 徹
中世城郭の新論点――石垣・障子堀・畝状空堀群・海城・陣城・城郭類似遺構 - 髙田 徹
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2025年12月18日

矢作内館城(岩手県陸前高田市)

DSCN3412.JPG←主郭後部の櫓台
 矢作内館城は、別名を鶴崎城、或いは単に内館とも言い、奥州千葉氏の一流矢作千葉氏の居城である。1315年に本吉郡馬籠城主千葉六郎左衛門忠広の二男次郎太夫広胤が気仙郡矢作村に所領を与えられて矢作千葉氏の祖となった。南北朝期の1336年に勃発した馬籠合戦では、本家筋の馬籠千葉氏が北朝側であったにも関わらず、矢作氏は南朝側の葛西氏に従って参陣し、戦後葛西氏より所領を安堵された。以後、矢作千葉氏の子孫は広田湾周辺に分封されて勢力を広げ、小友千葉氏・高田千葉氏・長部千葉氏・浜田千葉氏などを分出した。天正年間には千葉玄蕃・因幡父子が城主で、1590年の葛西氏改易の後、没落した。

 矢作内館城は、気仙川南岸に北に向かって突き出た半島状台地に築かれている。城の南側を通る市道脇から丘陵上を北に向かえば城域に入る。城は主要な曲輪が3つあり、その周囲に腰曲輪群を廻らした構造となっている。前述の通り丘陵上の山林を北上すると、台地の上に最初に現れるのが三ノ郭である。周囲の腰曲輪とは段差で区画された長方形の小さい曲輪で、北の二ノ郭とは堀切で分断されているが、二ノ郭南東角と土橋で繋がっている。三ノ郭南側の切岸は東に行くほど不明瞭な斜面となっているが、大きさと配置から推測して三ノ郭は馬出しとして築かれたものかもしれない。その北にあるのが二ノ郭で、内部の一部は竹薮が酷い。詳細地形図を見ると東側に突出部があるが、薮がひどく踏査できていない。また北東角に虎口が築かれ、北下の腰曲輪に通じている。二ノ郭の北から西には、三ノ郭周囲から続く腰曲輪が展開している。腰曲輪の北には1段低く主郭周囲の腰曲輪が広がっているが、眼前には主郭切岸がそびえており、主郭腰曲輪は箱堀状の堀切を兼ねた形態となっている。主郭は南北に長い曲輪で、後部に土壇が築かれ、そこに八幡神社が鎮座している。往時の櫓台であろう。主郭外周には腰曲輪が廻らされているが、傾斜の緩い西側だけ3段の腰曲輪が築かれている。2段目の腰曲輪の北端には、竪堀状の地形が斜面を落ちており、船着き場に通じる通路があった可能性がある。この他、主郭の東側には東側腰曲輪の北端を遮るように土塁が突き出ている。以上が矢作内館城の遺構で、主郭とその周辺は薮が少なく、遺構の確認がしやすい。
堀切状の主郭腰曲輪→DSCN3374.JPG
DSCN3376.JPG←二ノ郭北の腰曲輪と二ノ郭
↓赤色立体図で見た矢作内館城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z矢作内館城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.029026/141.608212/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
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2025年12月16日

小梨城(岩手県一関市)

DSCN3291.JPG←城域北西端にある土橋と搦手虎口
 小梨城は、『日本城郭大系』では北小梨館と記載され、葛西氏の家臣小梨氏の居城と伝えられる。城主としては小梨右馬允(右馬之丞)の名が伝わる。葛西氏改易後、小梨氏は伊達政宗に仕えたと言う。

 小梨城は、洞雲寺の南の丘陵上に築かれている。尾根の南東端に突き出た、幅のある丘陵地を切り開いて築城している。北麓の洞雲寺参道脇に城址標柱があり、そこから登道が付いているので、簡単に登ることができる。腰曲輪を経由して登り切るとニノ郭と思われる平場に出るが、あまりにきれいに平坦化されており、どうも近代の改変があったと思われる。この平場の東に切岸で囲まれた主郭が築かれている。主郭は東西に長く、中央南側がやや内側に窪んだ形をしており、西端部には土塁と櫓台が築かれ、2基の祠が立っている。主郭の南側には数段の腰曲輪が築かれ、内側に折れた主郭塁線から横矢が掛かるようになっている。主郭の東や南東にも舌状の曲輪がある。一方、二ノ郭の西側にも高台となった西郭がある。西郭はY字型をした曲輪で、北西端に土塁と堀切を設けている。堀切の北西にも小郭があり、先端に土橋を架けた堀切が穿たれ、土橋に向かって搦手虎口を設けている。以上が小梨城の遺構で、全体的には遺構がよく残っているが、主郭周囲の腰曲輪群は未整備の薮に覆われていて、踏査できない部分がほとんどである。
主郭後部の櫓台→DSCN3253.JPG
DSCN3249.JPG←主郭から見た南の腰曲輪群
↓赤色立体図で見た小梨城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z小梨城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.904166/141.371298/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城 - 香川元太郎
ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城 - 香川元太郎
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2025年12月14日

寺沢城(岩手県一関市)

DSCN3165.JPG←主郭背後の堀切
 寺沢城は、中館とも呼ばれ、寺沢氏の居城である。寺沢氏は本姓佐々木氏で、史料には笹木新右衛門、佐々木右近などの名が伝わる。寺沢佐々木氏の出自には2説あり、摺沢城の岩淵氏(摺沢氏)と同祖で、1337年に佐々木宮内忠光がこの地に分封されて寺沢城を築いたとも、或いは1579年に佐々木貞綱は下河原玄蕃と争い、胆沢郡永沢から寺沢邑に移され、寺沢城に拠って佐々木氏を称したとも伝えられる。詳細は不明であるが、寺沢佐々木氏には2系統あった可能性もある。1590年、寺沢胤長(宮内少輔)は豊臣秀吉の奥州仕置軍に敗れて没落し、帰農したとも伝えられているらしい。

 寺沢城は、千厩町磐清水地区の谷戸の奥に東に向かって突き出た丘陵上に築かれている。南側から二ノ郭に登る道が付いている。西端に主郭を置き、その東に細長い形状の広い二ノ郭を置き、更にその東に1段低く舌状の三ノ郭を配置している。これらの曲輪間は切岸だけで区画され、二ノ郭先端には櫓台と思われる幅のある土壇が築かれており、その下に八幡神社の社殿が建っている。二ノ郭の中程には塚のような大きな土盛りがあるが、何のものか、遺構かどうかも含めて情報がなくわからない。また二ノ郭の南側には帯曲輪らしい平場が2段ある。主郭は四角形に近い長円形の曲輪で、後部に土塁が築かれ、背後に堀切を穿っている。この堀切の西側には少し間隔を開けて、もう1本堀切が穿たれて城域が終わっている。これら2本の堀切の北側は谷地の広い平坦地が広がっており、近代の耕地化で改変されているようだ。以上が寺沢城の遺構で、技巧性はないが、この地域では割とよくある形態の館城である。尚、城の北側、永沢寺の参道近くの車道脇に、城の古びた解説板が立っている。
二ノ郭→DSCN3152.JPG
DSCN3203.JPG←主郭後部の土塁
↓MPI赤色立体図で見た寺沢城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z寺沢城MPI赤色立体図.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.943299/141.310708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
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2025年12月12日

牛生蓮楯(岩手県一関市)

DSCN3109.JPG←台地基部の堀切
 牛生蓮(ごしょうれん)楯(牛生蓮館)は、楿城(現地解説板では「かおるぎ城」と振り仮名が振られる)とも呼ばれ、後朱雀天皇(在位1036〜45年)の朝臣楿(かおるぎ)氏の居館と伝えられるが、詳細は不明。時代は降って鎌倉前期の1220年、胆沢郡百岡の初代城主千葉胤広の孫勝光がこの城に移り住んで城主となったと言われる。1324年、7代目の千葉隼人胤仲は、中日向に居館を移したが、この時京都八幡宮より御分霊を請けて旧居館の牛生蓮楯と新居館の新館に祀って守護神とした。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で葛西氏が改易となると、時の城主胤徳は帰農したと言う。尚、『日本城郭大系』では城主を二階堂氏としている。

 牛生蓮楯は、千厩川北側の丘陵先端部に築かれている。城の西中腹に牛生蓮八幡神社があり、その裏手から城に入ることができる。丘陵南端に長円形の主郭を置き、それを取り巻くように築かれた二ノ郭は北側に舌状に伸び、西側中央部が大きく内側に窪んだ形をしている。更にその外周に腰曲輪が廻らされ、その北端から北と西に舌状曲輪が築かれている。西の舌状曲輪の付け根には、小郭を挟んで2つの堀切が穿たれている。一応、城内はある程度薮払いされていて、二ノ丸跡地・本丸跡地と書かれた標柱が立っている。腰曲輪東側の台地基部には堀切が穿たれている。その北東にも外郭があったらしく、物見台状の高台があるが、薮が酷いうえに改変を受けている様である。その東側に二重堀切が穿たれ、北に向かって長く降っているが、ここも薮が多くて形状がよくわからない。以上が牛生蓮楯の遺構で、広やかな丘陵に展開した館城の構造をよく残している。
主郭→DSCN3090.JPG
DSCN3083.JPG←二ノ郭
↓赤色立体図で見た牛生蓮楯(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z牛生蓮楯赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.955314/141.384456/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。

土の城指南 - 西股 総生
土の城指南 - 西股 総生
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2025年12月10日

鵜住居西城〔仮称〕(岩手県釜石市)

DSCN0267.JPG←城塁手前の堀切
 鵜住居西城は、アプリ「スーパー地形」で5月に公開された1mメッシュデータから発見した城である。現認は2025年11月下旬。室町・戦国時代には、この地は大槌城主大槌氏の支配地域であったので、大槌氏の支城であった可能性がある。尚、この城の北東の峰続きにも鵜住居東城があり、両城一体となって機能していたと推測される。

 鵜住居西城は、標高113mの峰に築かれている。鵜住居東城から尾根伝いに近づくと、城塁の手前にしっかりと穿たれた堀切が現れる。単発でそれほど大きなものではないが、西城・東城の中では最も深い堀切である。堀切の上に3段の腰曲輪があり、その上に主郭がある。主郭は「へ」の字をした細長い曲輪で、南に行くほど高さを増し、南端が最も高くなっている。この城の特徴は主郭の西斜面に築かれた重厚な腰曲輪群で、全部で5段程構築されており、主郭西側を厳重に防御している。また主郭の南東下方に堀切を兼ねた腰曲輪が築かれている。これらの腰曲輪の間の移動を制約するため、竪堀3本が腰曲輪の端に落とされているのもこの城の特徴である。鵜住居西城はコンパクトに纏められた求心性の高い城で、防御も東城より厳重である。位置的には西城の方が低い位置にあるが、峠道との位置関係や守りの堅さから、西城が本城で、東城は峠道を押さえる出城であったと推測される。元々鵜住居東城・西城を地形図で見つけた時は、チャシレベルの大した城でない可能性もあると想像していたが、実際の遺構を見ると堀切に竪堀3本まで穿たれた、知られざる中世城郭であった。
主郭→DSCN0282.JPG
DSCN0338.JPG←西斜面の腰曲輪群
腰曲輪横の竪堀→DSCN0308.JPG
↓赤色立体図で見た鵜住居西城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z鵜住居西城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.321530/141.891408/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

戦国の城 (歴史群像シリーズ特別編集)
戦国の城 (歴史群像シリーズ特別編集)
ラベル:中世山城
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2025年12月08日

鵜住居東城〔仮称〕(岩手県釜石市)

DSCN0163.JPG←峠のすぐ南に二重堀切
 鵜住居東城は、アプリ「スーパー地形」で5月に公開された1mメッシュデータから発見した城である。現認は2025年11月下旬。室町・戦国時代には、この地は大槌城主大槌氏の支配地域であったので、大槌氏の支城であった可能性がある。尚、この城の南西の峰続きにも鵜住居西城があり、両城一体となって機能していたと推測される。

 鵜住居東城は、標高136mの峰に築かれている。西麓から作業用林道がありこれを辿って尾根上に至り、尾根を南に登ればすぐ城域に入る。この林道は尾根付近ではつづら折れの小道になっており、尾根上は溝状の道となっていて、どうも峠道の古道があったらしく、古道を押さえる役目も持った城だった様である。この峠のすぐ南に二重堀切があり、その上に北出郭が築かれている。北出郭は縦長の三角形をした曲輪で、北端に物見台状の土壇がある。北側に2段の帯曲輪が築かれていて、ここから峠の古道を迎撃できるようになっている。帯曲輪は東にも2段、西には1段構築されている。これら北郭群の西端に当たる西尾根にも二重堀切が穿たれている。北出郭は南東に向かって平坦な細尾根となり、その先に主郭がそびえている。主郭も北端部が一段高くなっており、南に細長く平場が伸びている。外周には1~2段の帯曲輪が築かれている。主郭北端から東に伸びる尾根には小郭と堀切がある。また主郭の南端から西に伸びる尾根には帯曲輪と繋がった二重堀切が構築されている。この帯曲輪は南尾根まで繋がっているが、南尾根だけは堀切がない。前述の主郭から伸びる西尾根は鵜住居西城に繋がっているが、この尾根に西城との連絡路を塞ぐように単発の堀切があり、東城・西城が一体となって機能していたことはほぼ確実である。元々鵜住居東城・西城を地形図で見つけた時は、チャシレベルの大した城でない可能性もあると想像していたが、実際の遺構を見るとしっかり堀切が穿たれた、知られざる中世城郭であった。
北出郭の物見台→DSCN0189.JPG
DSCN0221.JPG←主郭
主郭西の二重堀切→DSCN0231.JPG
↓赤色立体図で見た鵜住居東城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z鵜住居東城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.322666/141.893125/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※岩手県の「いわてデジタルマップ」の文化財地図に記載されていないため、新発見城郭として記載しています。もし地元ではかねてより城跡として認識されている場合は、コメントいただけると幸いです。

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
ラベル:中世山城
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2025年12月06日

釜石平田城〔仮称〕(岩手県釜石市)

DSCN0129.JPG←主郭背後の堀切(内堀)
 釜石平田城は、アプリ「スーパー地形」で5月に公開された1mメッシュデータから発見した城である。現認は2025年11月下旬。狐崎城から南方約3kmの位置にあり、江戸時代に南部藩が伊達藩との藩境に番所を置いた平田地区の北側に当たる。現在は眼下に水産技術センターなどが建つ平地が広がっているが、これは全て埋立地で、埋め立て以前は眼下に海が迫っていた。つまり平田城は、釜石中心部に通じる海沿いの街道を扼する位置にある。この地域では、1601年に葛西氏旧臣らが狐崎城で蜂起した釜石一揆が起こり、伊達軍に討伐されている。このことから平田城は、釜石一揆の一揆勢が伊達軍の接近を阻止するために築いた城砦だった可能性がある。尚、城名であるが、大船渡市三陸町にも平田城があることから、区別するために釜石平田城と命名した。

 平田城は、標高98mの山上に築かれている。現在城の北側に釜石斎場が建っており、駐車場脇から山裾に取り付いて東側の斜面を登れば城に行ける。山頂に狭小な主郭を置き、背後の尾根に二重堀切を穿っている。二重堀切の外堀は小さいが、内堀はしっかりした規模で背後を分断している。内堀から左右に落ちる竪堀の脇には、主郭の南北両方の下方に竪土塁を挟んで横堀が始まり、そのまま北東と南東の尾根に向かって長大な空堀となって落ちている。特に南側の空堀が始まる横堀部分の土塁には多数の石があり、石積があった可能性がある。主郭の東と北東の尾根には腰曲輪が何段も築かれているが、東尾根に大きな一郭があり、ニノ郭と思われる。この他、主郭の北東側の腰曲輪群には虎口らしい跡があり、そこにも石が多数あって、石積の虎口が築かれていた可能性がある。
主郭から見た二重堀切→DSCN0116.JPG
DSCN0135.JPG←横堀土塁の石積らしい跡
二ノ郭→DSCN0098.JPG
DSCN0141.JPG←北東尾根の空堀
↓赤色立体図で見た釜石平田城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z平田城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.250813/141.886750/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※岩手県の「いわてデジタルマップ」の文化財地図に記載されていないため、新発見城郭として記載しています。もし地元ではかねてより城跡として認識されている場合は、コメントいただけると幸いです。

城館調査の手引き - 中井 均
城館調査の手引き - 中井 均
ラベル:中世山城
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2025年11月06日

毒沢城(岩手県花巻市)

DSCN1336.JPG←幅広のニノ郭と主郭
 毒沢城は、和賀氏の庶流で重臣である毒沢氏の居城である。毒沢氏は、和賀氏18代政義の3男盛義が1366年に独沢郷に2百余町を賜って入部したことに始まるとされる。以後、1590年の豊臣秀吉の奥州仕置で主家和賀氏が改易されたことに伴い、毒沢氏が追放されるまで歴代の居城となった。追放された毒沢義森は、1600年の和賀一揆(岩崎一揆)に加担したが敗れ、主君和賀忠親と共に仙台で自刃した。義森の子毒沢伊賀守一忠は伊達政宗に仕え、その娘勝子姫は政宗の側室となって伊達兵部少輔宗勝(後の一関藩主)を産んだ。

 毒沢城は、標高約250mの山上に築かれている。城域は大きく2つに分かれ、南の主城部と北の出丸である北郭群とがある。城への登道は複数整備されているが、全体の遺構の周りやすさから、北の谷戸の奥にある搦手の登り口から登城した。
 主城部は公園化されて薮払いされているので、遺構が見やすくなっている。中心に高台となった主郭を置き、その外周に輪郭式に二ノ郭を廻らしている。主郭は土塁のない平坦な曲輪で、東西でわずかな段差で区画されている。南東に一段低く虎口郭が置かれている。二ノ郭は幅広で、ある程度の居住性のある曲輪である。更にその外周に1~2段の帯曲輪が築かれているが、いずれも幅が広めである。また帯曲輪の北西に舌状の曲輪が築かれ、二ノ郭の南西には半島状に突き出た西郭が構築されている。西郭は、中央がやや高くなってスロープ状に降っており、北西辺と南端に低土塁が築かれ、外周に帯曲輪が廻らされている。南端の先には浅い堀切を介して物見台的な小郭が築かれている。
 北郭群は、主城部のすぐ北東の尾根にあるが、未整備で、冬場は枯れ木に覆われている。ほぼ自然地形の地山の周囲に帯曲輪群を数段廻らしただけの簡素な構造で、いかにも付属の出城という趣である。
 以上が毒沢城の遺構で、整備された主城部は城の構造がわかりやすい。

 尚、『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の縄張図であるが、毒沢城のものと車館のものとが入れ替わってしまっているので、注意が必要である。
西郭先端の堀切→DSCN1366.JPG
DSCN1448.JPG←北郭群の帯曲輪
↓スーパー地形で見た毒沢城
z毒沢城_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.344447/141.232085/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
ラベル:中世山城
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2025年11月04日

野手崎城(岩手県奥州市)

DSCN1201.JPG←本丸から見た曲輪群
野手崎城は、小梁川館とも呼ばれ、藩政時代に伊達家の家臣大立目氏、後に小梁川氏の居館である。伊達家の藩制で言う「野手崎所」(「所」は「要害」の下のランク)である。葛西大崎一揆の鎮圧後、旧葛西・大崎領を与えられた伊達政宗は、領内各地に家臣を配したが、野手崎には大立目内匠・中村九平治らを置いて統治させた。大立目氏は高屋敷館と呼ばれる平坦地に居館を置き、古館には中村九平治らが入り、野手崎城を構築して対立する盛岡南部藩領和賀郡境の治安警備に当たらせた。1644年、小梁川氏6代中務宗影がこの地に移封となり、そのまま幕末まで居住した。

野手崎城は、烏帽子山(館山)の東北東に伸びた尾根が末広がりとなった先端部を利用して築かれている。基本的には切岸だけで区画されたひな壇状の曲輪群で構成された城で、背後に明確な堀切はないが、本丸後部に土壇があり、その裏は堀切状となっている。最上段に本丸があり、その下には表記はないが二の丸と思われる平場が広がっている。両者には建物の礎石跡と思われる石が散在している。二の丸の北東には大手門跡があり、大手門から大手小路に繋がる通路は大きく屈曲し、実質的な枡形を形成している。また南北に通じる通路部は横に土塁が築かれて横堀状を呈している。この通路の東に広がる曲輪が高屋敷館で、わずかな段差で区画された2段の平場で構成されている。一方、二の丸の南東に張り出した曲輪は御蔵・厩舎跡である。これらの下方にも段々に平場があり、これらは家臣団屋敷跡である。この屋敷群の中央を貫通するように大手小路が東に下っている。その先には枡形が形成されている。この他、城からやや南に離れた山上に小梁川氏の廟所がある。以上が野手崎城の遺構で、一応の防御構造と要害性は持ち合わせているが、近世城郭らしく政庁機能を主体とした城である。
大手門跡→DSCN1172.JPG
DSCN1142.JPG←最下方にある枡形
↓スーパー地形で見た野手崎城
z野手崎城_com.kashmir3d.superdem.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.285397/141.259033/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

伊達の国の物語 政宗からはじまる仙台藩二七〇年 - 菅野正道
伊達の国の物語 政宗からはじまる仙台藩二七〇年 - 菅野正道
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2025年11月02日

浮牛城(岩手県北上市)

DSCN1092.JPG←二の丸から見た城跡
 浮牛城は、藩政時代には上口内要害と呼ばれ、伊達氏が領内に置いた21要害(城の一つ下のランク)の一である。元々は、葛西氏の家臣江刺氏の一族口内帯刀の居城であった。伝承では最初の構築は安倍貞任によると言われるが、もとより伝説の域を出ない。戦国末期の天正年間(1573~92年)に岩谷堂城主江刺兵庫頭重恒が修築し、その子である口内帯刀が居住したと伝えられる。1590年に主家葛西氏が豊臣秀吉の奥州仕置によって改易となると、江刺氏一族は南部氏に仕えた。葛西大崎一揆を経て旧葛西・大崎領が伊達政宗に与えられると、口内の地は伊達・南部両藩の藩境に接する伊達藩北方の重要拠点であったため、上口内要害として取り立てられ、瀬上氏・小梁川氏・藤田氏・田手氏らの重臣が相次いで配された。1659年には古内氏が上口内要害に封じられ、その後1695年に中島氏がこの地を拝領すると、明治の廃藩置県まで続いた。
 尚、浮牛城という城名は5代藩主伊達吉村による命名であるらしく、中世にこの城が何と呼ばれていたのかは文献がなくよくわからない。元の名は、口内城とでも呼ぶべきであろうか。

 浮牛城は、口内川の東岸にある比高20m程の独立丘に築かれている。現在城跡は公園化されており、かなり改変を受けているものの概ねの形態は残っているようである。本丸は中心にあり、切岸で囲まれた三角形の曲輪で、南端には本丸門の内枡形跡が、また本丸内には梵字池跡が残っている。本丸の周囲には、周囲より一段高い腰曲輪が廻らされている。この腰曲輪は、西側は二の平、東側は的場と呼ばれていたようである。腰曲輪の北西から北辺にかけては横堀が穿たれ、北東の台地基部では折れ曲がってクランクし、横矢掛りを意識している。腰曲輪の東側には二の丸や要害屋敷の曲輪が広がっていたらしいが、ただの空き地に変貌しており、外周を囲んでいた水堀も現在は湮滅している。以上が浮牛城の遺構で、かなり改変を受けているものの城らしい形態は残っている。
本丸門跡の内枡形→DSCN1076.JPG
↓スーパー地形で見た浮牛城
z浮牛城_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.298386/141.203947/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

伊達家: 仙台藩 (家からみる江戸大名) - J・F・モリス
伊達家: 仙台藩 (家からみる江戸大名) - J・F・モリス
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2025年10月31日

枛ノ木田古楯(岩手県北上市)

DSCN0956.JPG←主郭横堀、奥は二ノ郭
 枛ノ木田(はのきだ)古楯(枛ノ木田古館)は、枛ノ木田城の詰城と考えられている。城主については枛ノ木田城の項に記載する。

 枛ノ木田古楯は、枛ノ木田城の東方約400mの位置にあり、谷を挟んで相対している。城へは、北西から林道が城のすぐ後ろまで通っているのでそれを辿り、城のある尾根まで来たところ(左手に「県行造林 舘沢事業区」という表示板が出ている)で林道から南西の山林に入って訪城した。城は東西に大きく2つの曲輪群で構成されている。東の主郭は、南西部が一段低く腰曲輪状となった平坦な曲輪で、後部に堀切を穿ち、この堀切はそのまま南に竪堀となって落ちている。また堀切は主郭北側で横堀に変化し、外側に大土塁を築いて、二ノ郭との間の堀切に繋がっている。主郭~二ノ郭間はこの堀切で分断され、堀切北端は横堀と合流し、更に合流点から北に竪堀となって落ちている。この堀切の南端も竪堀となって南に落ちている。西の曲輪群は切岸で区画されたニノ郭・三ノ郭・四ノ郭が段状に配列され、その先に先端郭が築かれている。二ノ郭後部にだけ土塁が築かれ、主郭との間の分断を強化している。ニノ郭~四ノ郭の外周には更に腰曲輪が廻らされ、先端郭の下方には片堀切と城道が通じている。この他、三ノ郭の東端部に枡形虎口らしい構造も見られる。枡形虎口があるということは設計が新しい城と思われるが、なぜ古楯(館)と呼ばれているのだろうか?以上が枛ノ木田古楯の構造で、比較的薮が少なくて歩きやすく、遺構もよく残っている。
堀の合流点から落ちる竪堀→DSCN0958.JPG
DSCN0959.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
↓スーパー地形で見た枛ノ木田古楯
z枛ノ木田古楯_com.kashmir3d.superdem.jpg
↓枛ノ木田城と枛ノ木田古楯の位置関係
z枛ノ木田2城_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.278972/141.180376/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。

パーツから考える戦国期城郭論 - 西股総生
パーツから考える戦国期城郭論 - 西股総生
ラベル:中世平山城
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2025年10月29日

枛ノ木田城(岩手県北上市)

DSCN0912.JPG←背後の堀切
 枛ノ木田(はのきだ)城は、城主として枛ノ木田大和、枛ノ木田大炊の名が伝わっているが、詳細は不明。『日本城郭大系』によれば、枛ノ木田氏は及川氏の一族であるらしい。詰城として枛ノ木田古楯があり、両城一体となって機能したと見られる。

 枛ノ木田城は、現在民家の敷地となっている。民家に入る南側の登道が大手とされる。敷地の外側から確認したが、主郭の北角と北東角に堀状の出入り口らしいものがあった。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』には北角のものは西門と書かれているが、北東角のものは具体名が書かれていない。裏門跡であろうか。また背後に堀切があるが、明確なのは東部分だけだった。
裏門跡?→DSCN0911.JPG
↓スーパー地形で見た枛ノ木田城
zはの木田城_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.279700/141.176080/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世崖端城
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2025年10月27日

立花高楯(岩手県北上市)

DSCN0871.JPG←主郭外周を廻る横堀
 立花高楯(立花高館)は、本来の城名を単に高館と言う。しかし「高館」では県内だけでも各地にあるため、ここでは地名を冠して立花高楯と呼称する。伝承では源満仲の家臣藤原仲光の居城とされるが、もとより伝説に過ぎない。実際には、戦国時代に和賀氏によって築かれたものと推測されている。但し、『岩手県中世城館跡分布調査報告書』では、一部の発掘調査で遺構も遺物も全く発見されなかったこと、また各曲輪の連絡や堀の規模が一定していないことなどから、未完成のまま放棄した可能性を指摘している。

 立花高楯は、北上川東方の東から西に伸びた細長い丘陵先端付近に築かれている。大きく5つの平場で構成された連郭式の城である。最後部に主郭を置き、そこから西に向かって二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭・五ノ郭と配置し、更に外周斜面に腰曲輪を配置している。五ノ郭腰曲輪には妙見社が建っている。妙見社といえば千葉氏と言うぐらい、関東では下総の名族千葉氏との所縁の深い神社であるので、この城も奥州千葉氏に連なる一族が関連したものだろうか?五ノ郭の背後にだけ堀切が穿たれて、四ノ郭との間を分断している。四ノ郭は城内最大の曲輪で、全体がくの字に折れた形状をしている。四ノ郭から主郭までは切岸だけで区画されている。いずれの曲輪にも土塁は築かれていない。主郭南には虎口郭があり、二ノ郭と繋がっている。またニノ郭と虎口郭との接続部には、竪堀状の城道があって南腰曲輪に繋がっている。一方、主郭後部には横堀が穿たれ、この横堀は南西に向かって下っており、前述の南腰曲輪の横に落ちてきている。横堀の外周は帯曲輪状の平場となっているが、周りの丘陵部との区画は明確でなく、どこまで城域となっていたのかははっきりしない。横堀は、主郭の北側から四ノ郭北側まで、城の中枢部北側を囲むように伸びていたと思われるが、四ノ郭北側以外はほとんど埋もれてしまっている。以上が立花高楯の遺構で、堀切・横堀や曲輪群がよく残っており、未完成の城という感じはなかった。
五ノ郭背後の堀切→DSCN0771.JPG
DSCN0896.JPG←城の中枢部北側の横堀跡
↓スーパー地形で見た立花高楯
z立花高楯_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.283712/141.149065/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
ラベル:中世平山城
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2025年10月25日

高前壇楯(岩手県北上市)

DSCN0730.JPG←主郭西側の堀切
 高前壇楯(高前壇館)は、和賀氏が葛西氏領との境目に築いた最前線の城である。築城時期は不明だが、和賀氏の有力支族鬼柳氏が相去地区を支配下においた1391年以降、丸子楯の支城として和賀氏領南方の最前線に位置し、葛西氏の重臣柏山氏と対峙していたと考えられている。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で和賀氏が改易となると、高前壇楯は相去清三郎を最後の城主として廃城となったと言う。

 高前壇楯は、北上川西方の独立丘陵の東端部に築かれている。この独立丘陵は、城跡の西側が工場や運動公園建設で大きく削られ改変されてしまい、旧状を失っている。しかし城跡はよく残っている。主郭には白山神社・愛宕神社の石祠が祀られており、東から参道が整備されている。主郭は平坦な平場で、東側に段曲輪群を築いている。また主郭西には土塁と堀切が構築され、堀切の南側はクランクして下の帯曲輪に落ちている。堀切の西側には西郭があり、西郭の外周に腰曲輪を廻らし、西辺に一直線状の土塁を築いている。前述の堀切の北端は、西郭腰曲輪に繋がる通路となっている。この他、主郭の南側には2段の帯曲輪が築かれている。簡素な城であるが思いのほか堀切・土塁が良好に残っており、期待していなかったが嬉しい誤算となった。
主郭東側の段曲輪群→DSCN0710.JPG
↓スーパー地形で見た高前壇楯
z高前壇楯_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.258007/141.103313/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
ラベル:中世平山城
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2025年10月23日

白髭楯(岩手県北上市)

DSCN0685.JPG←堀切
 白髭楯(白髭館)は、和賀氏の重臣鬼柳蔵人の居城と伝えられている。北上川と和賀川の合流点南西の、段丘先端が北西に向かって突き出た半島状台地に築かれている。城内は改変が進んでいるため、遺構はあまり明確ではないが、白髭神社が建つ細長い長円形の主郭と、台地基部に繋がる三角形状の二ノ郭で構成され、2郭の間には堀切が穿たれている。明確な城郭遺構はこの堀切だけで、主郭は神社境内に変貌し、二ノ郭は一面の墓地となっている。また主郭の付け根の東側には腰曲輪状の平場がある。台地周囲は切り立った急崖で囲まれており、城跡らしい地勢だけ残っている。
白髭神社が建つ主郭→DSCN0690.JPG
↓スーパー地形で見た白髭楯
z白髭楯_com.kashmir3d.superdem.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.268182/141.113840/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。

戦国の城 下 中部・東北編―目で見る築城と戦略の全貌  歴史群像シリーズデラックス版 3 - 西ヶ谷 恭弘
戦国の城 下 中部・東北編―目で見る築城と戦略の全貌  歴史群像シリーズデラックス版 3 - 西ヶ谷 恭弘
ラベル:中世崖端城
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2025年10月21日

赤荻城(岩手県一関市)

DSCN0650.JPG←三ノ郭の石祠と標柱
 赤荻城は、戦国時代末期に葛西氏の家臣小岩一族の勢力圏であったことから小岩一族の属城と考えられている。城主は、『葛西真記録』では岩渕壱岐守経道、『仙台領古城書上』『安永風土記書上』では小岩大膳重光としている。

 赤荻城は、東北道一関IC北西にある標高104mの山上に築かれている。南麓から登道が整備され、市道脇には解説板も立っている。頂部の峰に築かれた主郭から南東に下る尾根に沿って曲輪群を階段状に築いた縄張りとなっているが、一部を除いて薮に覆われ、遺構の確認が大変である。頂部に置かれているのが主郭で、長円形で土塁はなく、現在は高圧鉄塔が立っている。外周には腰曲輪が廻らされ、背後は一段低い腰曲輪が堀切を兼ねている。主郭の南東には長い二ノ郭があり、主郭腰曲輪との間に堀切を穿っている。二ノ郭内部は酷い薮で覆われ、全く地形が確認できない。二ノ郭の南東には、堀切を介して三ノ郭が置かれている。三ノ郭には神社の石祠と城址標柱が立ち、後部には土塁が築かれている。三ノ郭の南斜面にはいくつもの段が築かれ、腰曲輪群だったと思われるが、薮が多いうえ、鉄塔建設や耕地化による改変も見られ、どこまでが往時の遺構か判然としない。尚、現地解説板にある縄張図では、主郭の上にも瓢箪型の曲輪が描かれ、その背後に二重堀切も描かれているが、現状では地形が大きく削られて破壊されているようで、実際に城域だったのかどうかわからない。もう少し遺構の改変が少なければ良かったのだが。
三ノ郭背後の堀切・土塁→DSCN0652.JPG
DSCN0657.JPG←二ノ郭背後の堀切
↓スーパー地形で見た赤荻城
z赤荻城_com.kashmir3d.superdem.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.944914/141.096185/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
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2025年10月19日

上黒沢城(岩手県一関市)

DSCN0518.JPG←腰曲輪に落ちる2本の大竪堀
 上黒沢城は、片平館ともいい、葛西氏麾下の部将小岩越中守信行の居城である。小岩氏は甲斐武田氏の分流を称し、戦国初期に羽州奉行人となり出羽国河辺郡に入部した。その後1518年、小岩信実・信行兄弟の時、咎により出羽の所領を没収され、小岩一族は外祖父である胆沢郡の柏山兵部を頼って寄寓の身となった。そして1521年、柏山氏の推挙により葛西太守政信に仕えたと言う。この頃、葛西氏は隣接する大崎氏と激しい抗争の最中にあり、1534年、胆沢郡から境目に当たる西磐井郡西部に転封となった。そして荻野庄市野々村の釣尾城に拠った兄信実と共に、信行は市野城に入り、後に上黒沢城を居城とした。以後、小岩一族は磐井郡西部に蟠踞して境目の守備に当たるとともに、葛西氏領内の数々の合戦に出陣した。1574年、本吉郡志津川城主の本吉大膳大夫重継が主家葛西氏に反乱を起したとき、小岩信明は太守晴信に従って出陣して戦功をあげた。1585年の浜田兵乱では、主君葛西晴信に従って小岩信隣・信定と共に上黒沢城主小岩越中守信明が出陣して活躍したと言う。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で葛西氏が改易となると、没落した。

 上黒沢城は、久保川南岸の標高117mの丘陵先端部に築かれている。この部分は広い長円形の平坦な峰となっていて、ここに館城が構築されている。ネットではほとんど情報がなかったが、現地の有志の方によって登道が最近整備されたらしく、東麓から城の案内板と道があった。ただ遺構のほとんどは薮に覆われていて、登道付近以外は未整備である。中央に主郭を置き、その周囲に幅広の二ノ郭を廻らし、更にその外側に腰曲輪を築いている。主郭内は東西や北に段差があって数段の平場に分かれている。全体で主郭群と見做すべきだが、東の一段低い平場には「千畳敷」の表示板があった。また主郭の南辺やや東よりが南に突き出ていて、土壇が築かれ、「御明神様」と呼ばれる祠が祀られている。往時の櫓台だろう。主郭の南にも二ノ郭が廻っているが、丘陵基部の中央に方形の大きな土壇が築かれていて、主郭との間は幅広の堀切となっている。二ノ郭の南側も堀切で丘陵基部と区画されている。主郭の東側中央には、二ノ郭から登る坂土橋が築かれている。二ノ郭は北側に段差があって東西の平場に区画されている。二ノ郭の北東の切岸には3つの幅広の大竪堀が腰曲輪に向かって落ちている、崩落地形かとも思ったが、竪堀の下に土砂の堆積が見られなかったので、竪堀と判断した。一番西寄りの竪堀の脇には、腰曲輪より高所にある物見台の小郭が築かれ、腰曲輪に侵入した敵兵に対する迎撃拠点となっている。以上が上黒沢城の遺構で、遺構はよく残っているが、西半分は酷い薮に埋もれて踏査できず、東半分しか踏査できなかった。
3本目の大竪堀脇の物見台→DSCN0528.JPG
DSCN0566.JPG←主郭東下段の千畳敷
主郭南の櫓台(御明神様)→DSCN0563.JPG
DSCN0595.JPG←主郭南の幅広の堀切
主郭東の坂土橋→DSCN0541.JPG
↓スーパー地形で見た上黒沢城
z上黒沢城_com.kashmir3d.superdem.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.916127/141.086567/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

奥州管領斯波大崎氏 難敵に挑み続けた名族 (中世武士選書) - 佐々木慶市
奥州管領斯波大崎氏 難敵に挑み続けた名族 (中世武士選書) - 佐々木慶市
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2025年10月17日

下黒沢城(岩手県一関市)

DSCN0498.JPG←主郭
 下黒沢城は、葛西氏の庶流黒沢氏の居城である。黒沢氏は、源頼朝が奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼした後、奥州惣奉行に任じた葛西清重の4男時重が、1225年に鎌倉幕府4代将軍藤原頼経から磐井郡黒沢邑を賜り、黒沢氏を称したことに始まるとされる。黒沢氏は宗家葛西氏との間に血縁を重ね、葛西氏に家老として近侍した。1324年、5代重尚の時に葛西忠清に仕えて葛西北方鎮護となり、黒沢村に千町を賜っており、その際に下黒沢城が拠点として築かれたと推測されている。

 下黒沢城は、磐井川南方の丘陵地帯の一角にある標高130m程の広い峰に築かれている。城の中心部は耕作放棄地で、一部が薮払いされているものの大半がひどい薮に埋もれている。耕作放棄地に通じる往時の作業道が西側から伸びているが(国土地理院1/25000地形図にある黒実線の道)、これも途中で深い薮に覆われてしまっている。城自体は東に向かって開いたV字型の尾根とその間の谷間の平坦地から構成されている。谷間の平坦地の最上段が最も広い曲輪で、ここが主郭であったと思われ、ここだけ薮払いされている。この主郭の北・西・南を防御するようにV字型尾根が土塁として築かれている。おそらくV字の頂点に当たる部分に櫓台が置かれていたと思われるが、現在は矢竹が密生していて全く近づくことができない。V字尾根の北の尾根は北東に伸び、その先に堀切があるようだが、ここも薮がひどくて全く近づけない。V字尾根の南の尾根は東側に伸びた先で大きく長円形に開けた平場となっており、ここが二ノ郭と思われるが、これも薮がひどく、全く形状を把握することができない。この他、主郭の東下方にも谷間に曲輪群が展開しているようだが、これも薮がひどくてよくわからない。以上が下黒沢城の現況で、それなりに遺構は残っているが、踏査が困難な劇ヤブに阻まれている。
二ノ郭外周の切岸→DSCN0485.JPG
↓スーパー地形で見た下黒沢城
下黒沢城_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.912998/141.113986/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

東北の争乱と奥州合戦―「日本国」の成立 (戦争の日本史) - 関 幸彦
東北の争乱と奥州合戦―「日本国」の成立 (戦争の日本史) - 関 幸彦
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2025年10月15日

中日向城〔仮称〕(岩手県一関市)

DSCN2947.JPG←南西先端の円弧状横堀
 中日向城は、アプリ「スーパー地形」で5月に公開された1mメッシュデータから発見した城である。現認したのは2025年5月中旬。岩手県の遺跡地図には記載されていないが、西方約1.7kmの位置にある橘城の伝承によると、文永年間(1264~75年)に5代目橘城主佐藤師光は、橘城の東に新城館を築造したため葛西氏に滅ぼされたとあり、位置関係と遺構の規模から、中日向城こそがこの新城館ではないかと個人的に推測している。ただ本格的な山城の縄張りであり、鎌倉時代の築城とは考えにくい。少なくとも室町前期以降の築城と思われ、そうなると伝承の時代が間違っているのかもしれない。そもそも新城を築いたことで主君に滅ぼされるというのも戦国時代にはあり得る話だが、鎌倉時代では考えにくいと思う。

 中日向城は、橘城の東方約1.7kmの位置にある標高264.9mの山上に築かれている。明確な登道はわからなかったので、南中腹を通る車道脇から南東の尾根筋を辿って訪城した。かなり大型の城で、いくつかの張り出しを設けた主郭を中心として、東西と南に曲輪群を展開している。主郭は中央北寄りに神社が建っており、曲輪内部はある程度薮払いされている。西側には土塁があるようだが、この付近は薮がひどくて確認できない。主郭の西と南西に広い緩斜面の曲輪があり、ここでは西のものを二ノ郭、南西のものを三ノ郭としておく。二ノ郭は平坦な舌状曲輪で、南辺と北辺に土塁が築かれている。二ノ郭の北東部は高台となっていて、主郭との間には浅い堀切が穿たれている。三ノ郭は段差で上下2段の平場に分かれたハート型の曲輪である。三ノ郭の西に長い曲輪が伸び、その先端には円弧状の横堀が穿たれ、そこから西に竪堀が落ちている。この部分の構造が、ここが城跡であると判断する決め手となった。主郭の北側には腰曲輪が1段築かれているが、薮がひどく踏査は大変であるが、ここには西寄りに竪堀1本が穿たれている。主郭の東尾根には、堀切を挟んで物見的な東1郭と平坦な東2郭がある。東2郭の北東角にも堀切がある。この他、主郭の南から南東にかけての斜面にいくつかの腰曲輪らしい平場があるが、以前に耕地化されていたようなので、どこまでが往時の遺構なのかよくわからない。築城途中で放棄された可能性も考えられる。以上が中日向城の遺構で、城の規模・構造からすると、かなり本格的な山城を築城していたことがうかがわれ、主君に無断で新たにこの城を築こうとしていたら、伝承の通り主君に謀反を疑われて滅ぼされるのも無理はないと思われる。南から南東にかけての遺構が不明瞭なのも、築城途中で滅ぼされたためかもしれない。
 それにしてもこの城は、岩手県の史跡地図には載っていないが、主郭に神社があって薮払いもされているので、地元では城跡と認識されているかもしれない。
円弧状横堀から落ちる竪堀→DSCN2945.JPG
DSCN2966.JPG←神社が建つ主郭
主郭東側の堀切→DSCN3005.JPG
DSCN2976.JPG←二ノ郭南辺の土塁
↓スーパー地形で見た中日向城
中日向城_com.kashmir3d.superdem.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.963453/141.375649/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世山城
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2025年10月12日

竹ノ下楯〔仮称〕(岩手県一関市)

DSCN2922.JPG←主郭背後の堀切
 竹ノ下楯(竹ノ下館)は、アプリ「スーパー地形」で5月に公開された1mメッシュデータから発見した城である。現認したのは2025年5月中旬。谷筋に面した尾根先端にあり、上部の主郭から南から西にかけて、最大5段の腰曲輪群を築いている。主郭の後部には土壇を築き、背後には堀切を穿って尾根筋を分断している。この堀切は明瞭で、明らかに城郭遺構である。城のすぐ西麓には民家があったが、残念ながらお留守で話を伺うことができなかった。民家に隣接した城なので、おそらく地元では城として認識されているのではないだろうか。しかし岩手県の遺跡地図には記載されておらず、公式には城と認識されていない。
主郭→DSCN2909.JPG
↓スーパー地形で見た竹ノ下楯
竹ノ下楯_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.955838/141.324267/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
ラベル:中世平山城
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2025年10月10日

田ノ神楯〔仮称〕(岩手県一関市)

DSCN2860.JPG←腰曲輪から見た主郭
 田ノ神楯(田ノ神館)は、アプリ「スーパー地形」で5月に公開された1mメッシュデータから発見した城である。現認したのは2025年5月中旬。訪城時に農作業をしていた方に話を伺ったが、この城の存在はご存知なかった。城の位置は寺沢城の東方約1.4kmで、標高172mの丘陵上にある。城のある峰の北東に耕作放棄地らしい広い削平地があるので、まず北東の水田地帯を越えてこの削平地まで行く。この削平地の北西端から登道があるので、これを辿れば城域に至る。城は、山頂の三角形状の主郭を中心に、東、北、西の三方に切岸で区画された曲輪群を展開している。主郭には祠がある。北に3段、東に4段の腰曲輪群、西は傾斜した1段の曲輪を置き、それらの間は帯曲輪で連結されている。更にこれらの最外周に帯曲輪状の平場があるが、農耕用に作られた道の可能性があり、遺構かどうかは即断できない。ただ、この最外周の平場には北と北西に堀状の地形があり、遺構と見えなくもないが、この堀も削道によってできたものである可能性がある。しかし西の曲輪の南には、道らしいものがない所に堀地形があるので、これは遺構と見て良さそうである。城の西側にも農地らしい大きな削平地があり、西の曲輪群は削られてしまっている可能性がある。
 以上が田ノ神楯の遺構で、明確な堀切が少なく、段差だけで区画された平場群からなる城で、虎口らしい遺構もよくわからない。こうしたことから近世以降に耕地化されたことによる段築と見れないこともないが、この城の周囲の山中には同様な段築は全く見られず、山城跡ではよく祀られている石祠が主郭にあることから、城の遺構と見て間違いないのではないかと思う。尚、ここから東の尾根続きには、同じく新発見した葉山楯〔仮称〕があるが、城の造りにあまり共通点は見られない。
帯曲輪と切岸→DSCN2864.JPG
DSCN2826.JPG←北西の堀状地形
西曲輪の南の堀地形→DSCN2833.JPG
↓スーパー地形で見た田ノ神楯
田ノ神楯_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.944914/141.326559/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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2025年10月08日

葉山楯〔仮称〕(岩手県一関市)

DSCN2763.JPG←西の堀切
 葉山楯(葉山館)は、アプリ「スーパー地形」で5月に公開された1mメッシュデータから発見した城である。現認したのは2025年5月中旬。訪城後に農作業をしていた方に話を伺ったが、この城の存在はご存知なかった。城の位置は寺沢城の東方約1.9kmで、標高162mの丘陵上にある。南中腹の山中に小さな神社があり、そこへの登道が南麓から付いている。これを登って神社の脇から北西に登っていく道があるので、これを登ると城に至る。登り切ると両側に土塁が築かれた虎口があり、これを入ると主郭外周を廻る腰曲輪がある。この腰曲輪は主郭を全周しており、西と北に堀切が穿たれていて尾根筋を分断している。主郭は明確な切岸で囲まれた曲輪で、西の堀切に面して虎口が築かれている。その脇には土塁が築かれ、また北の堀切の手前にも土塁が築かれている。主郭内部にはいくつかの段差や傾斜があり、削平はやや甘い。ほぼ単郭の小規模な城であるが、普請の痕跡は明確である。ここから西の尾根続きには、同じく新発見した田ノ神楯〔仮称〕があるが、城の造りにあまり共通点は見られない。
腰曲輪の虎口→DSCN2756.JPG
DSCN2776.JPG←主郭
北の堀切→DSCN2803.JPG
DSCN2810.JPG←腰曲輪と主郭切岸
↓スーパー地形で見た葉山楯
葉山楯_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.944634/141.332760/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
ラベル:中世山城
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2025年05月01日

大萩大楯・小楯(岩手県遠野市)

IMG20241116143522.jpg↑大楯の大堀切に落ちる畝状竪堀
 大萩大楯(大萩大館)・大萩小楯(大萩小館)は、大萩円源という者の城と伝えられるが、事績・詳細共に不明である。小楯が恒常的な居館で、大楯がその詰城だったのではないかとの見解が提示されているらしい。

 大萩大楯・小楯は、大萩集落南方の山上に築かれている。この山は大寺沢という川の東岸に張り出しているが、この川沿いを南下して鵢崎(みさざき)地区に抜ける間道があり、道沿いに南部氏13代守行の墓があることから古くから使われた道であったと思われ、この間道を押さえる役目を果たした城だったと考えられる。城へは、大寺沢を渡る橋が架かった小道があり、これを南に辿って登っていくと薮を突っ切って城まで至る。

小楯前面の横堀→DSCN2970.JPG
 最初に現れるのが大萩小楯で、横堀と切岸が眼の前に現れる。長円形の主郭と、その東斜面に築かれた2段の帯曲輪だけで構成された簡素な城館である。前面には前述の通り横堀が穿たれている。また主郭背後の丘陵基部も堀切状の地形となっているが、林道開削による改変があり、遺構かどうかはっきりしない。ただ基部の東側に竪堀地形があるので、遺構だった可能性は十分ある。

DSCN3027.JPG←大楯の1本目の大堀切
 大萩大楯は、小楯から南に400m程離れた山上にある。小楯とは比較にならないほど大きな城で、大型の長円形の主郭を中心に、南・西・北の三方に帯曲輪を廻らしている。主郭内にはいくつかの段差があり、後部(東端)が一番高く、低土塁が築かれている。また帯曲輪の外周には二重横堀が廻らされているようだが、時間がなく全ては踏査できていない。また横堀の一部は山道になっているので、後世の改変の可能性もあって、どこまで横堀が穿たれていたのか、わかりにくい部分もある。主郭の背後には大きな堀切が穿たれて、丘陵基部を分断しているが、この堀切は3.5重とも言うべき、変則的な堀切となっている。しかも堀切群は畝状竪堀に変化して1本目の大堀切に落ちており、初めて見る特異な構造である。いずれにせよ時間の制約があり、薮がひどい部分もあって、遺構の全容を掴むまでには至らなかった。

 大萩大楯・小楯は、長円形の主郭と帯曲輪群という基本構成は同じであるが、大楯は規模・質共に小楯を大きく上回っており、大楯が常の居城で、小楯はその前衛の砦だったのではないかと推測される。
大堀切に落ちる畝状竪堀→DSCN3032.JPG
DSCN3147.JPG←大楯の二重横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:【大萩小楯】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/39.402155/141.497362/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【大萩大楯】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/39.399528/141.495164/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。

東北中世の城 - 竹井英文, 齋藤慎一, 中井均
東北中世の城 - 竹井英文, 齋藤慎一, 中井均
ラベル:中世山城
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2025年04月28日

駒木楯(岩手県遠野市)

DSCN2770.JPG←巨大な竪堀
 駒木楯(駒木館)は、駒木氏の城と伝わるが詳細は不明。遺構や縄張りから考えると、戦国後期の城、しかも遠野阿曽沼氏勢力のものと推測されるので、八幡座楯主駒木氏(菊池氏)の詰城であった可能性が考えられる。

 駒木楯は、八幡座楯の北北東約1.3kmの山中に築かれている。南西麓から林道(未舗装路、1/25000地形図に描かれている実線の道)が城域まで伸びているので、この林道を登っていけばよい。ただオフロード車でないと通行困難な道なので、私は途中で車を降りて歩いて登った。駒木楯は南北の主尾根とそこから西に派生する支尾根とにL字型に曲輪群を展開した城で、一部林道で破壊されているものの、全体的に遺構はよく残っている。主尾根に展開しているのが主郭群で、4段の平場と腰曲輪で構成されている。最上段はL字型に低土塁を築き、背後に小堀切を兼ねた小郭を置いている。この小郭の背後には三重堀切が穿たれている。林道敷設で尾根上は破壊されているが、尾根側方には堀切から落ちる竪堀がはっきり残っている。三重堀切の西側は、3本の竪堀が合流して落ちている。東側は、後ろ2本だけが合流しているようだ。主郭群の先端は舌状の小郭で、側方の腰曲輪から登るようになっていて、虎口郭になっていたと思われる。主郭群の西側斜面には4段程の腰曲輪群が築かれ、中程に竪堀が穿たれている。主郭群の西に派生する支尾根には、西尾根曲輪群が展開している。西尾根曲輪群の上部には、方形の櫓台的な曲輪が数個築かれている。西尾根曲輪群と主郭群の西側腰曲輪群との間には大きな竪堀が穿たれ、下方で「く」の字に屈曲しながら林道に落ちている。林道部分は、元々横堀であった可能性もあるが、改変されているのでよくわからない。また前述の後部三重堀切の脇から2本の横堀が西尾根曲輪群側方に伸びている。この横堀は帯曲輪に変化して、そのまま曲輪群に並走している。西尾根曲輪群の先端には二重の円弧状横堀が穿たれ、更に2段の帯曲輪が構築されている。帯曲輪には一部土塁が築かれていて、横堀状を呈している。西尾根曲輪群の南西に、更に尾根が伸びているが、平坦で中央が窪んだ地形が続いており、大手道があった可能性がある。この尾根の先端には方形の土壇のような地形も見られる。以上が駒木楯の遺構で、個々の曲輪は小さく居住性はあまりないが、竪堀や多重堀切・横堀などでしっかりと防御されていて、詰城として重視されていたことが伺われる。
三重堀切から落ちる竪堀群→DSCN2931.JPG
DSCN2799.JPG←三重堀切の脇から伸びる横堀
西尾根曲輪群先端の二重横堀→DSCN2715.JPG
↓縄張り概略図
IMG_20250428_0001.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.371895/141.573189/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。

よみがえる東北の城: 考古学からみた中世城館 (歴史文化ライブラリー 612) - 飯村 均
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ラベル:中世山城
posted by アテンザ23Z at 23:54| Comment(0) | 古城めぐり(岩手) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする