2026年08月14日

蟇目楯(岩手県宮古市)

DSCN1140.JPG←屈曲する二重横堀
〔訪城日:2025年11月下旬〕
 蟇目楯(蟇目館)は、蟇目(ひきめ)氏の居城である。蟇目氏の事績については手元に資料がなく、不明である。

 蟇目楯は、閉伊川蛇行部の北西にある標高139mの山上に築かれている。明確な登道はなさそうだったので、山の南西にある谷戸を少し入ったところから、東の斜面に取り付いて、斜面を直登した。城域は大きく2つに分かれており、南の尾根先端部に構築された南砦と、東西に横たわる主尾根に築かれた主城部である。先程の東の斜面を登っていくと、最初に南砦の西郭に至る。南砦は中央に削平の甘い主郭を置き、その周囲に1~2段の腰曲輪を築いている。また北・東・西の三方の支尾根には舌状曲輪を配置している。西と南の尾根には小堀切を穿ち、西尾根では堀切の先に前述の西郭がある。また北尾根の曲輪の西側側方に2段の帯曲輪を築き、北尾根の付け根付近の西側に竪堀を落としている。北尾根曲輪の先端には、主城部との繋ぎの尾根を分断する堀切・土塁が築かれている。ここまでが南砦で、そこから北に伸びる繋ぎの尾根は自然地形のままであるが、やはり西側にだけ帯曲輪が1段築かれている。尾根を登った先に主城部の二ノ郭がある。ただ二ノ郭とは名ばかりで、削平も甘く、切岸も不明瞭なほとんど地山のままであるが、北西の背後尾根には二重堀切が穿たれている。この二重堀切は、尾根から落ちたところで南に向きを変えて斜面を横断する二重横堀に変化して走り、先端で再び屈曲して二重竪堀となって落ちている。これがこの城の最大の見所である。二ノ郭から東に向かって平坦な尾根があり、その先に主郭がある。二ノ郭と比べると、主郭の方が広く、内部も平らで切岸も多少はっきりしている。ただ主郭周囲にはほとんど明確な防御構造が見られない。唯一、主郭から南東の尾根を下って140m程離れた所に、もう一つの二重堀切が穿たれている。以上が蟇目楯の遺構であるが、主城部よりも南砦の方が防御構造がはっきりと普請されているのが不思議である。主城部と南砦とで、使われた年代が異なるのかもしれない。
二ノ郭南東の二重堀切→DSCN1129.JPG
DSCN1071.JPG←南砦北端の堀切・土塁
↓MPI赤色立体図で見た蟇目楯(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-08-11 215028.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.637102/141.836957/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
ラベル:中世山城
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2026年08月12日

田代楯(岩手県宮古市)

DSCN0962.JPG←西郭~東郭間の堀切
〔訪城日:2025年11月下旬〕
 田代楯(田代館)は、この地の土豪田代氏の居城である。築城年代は不明だが、南北朝期頃の築城と推測されている。田代氏は閉伊氏の一族と伝えられ、鎌倉末期の閉伊氏の所領の中に田代の名が見られないことから、田代氏はそれ以前に分立して田代川流域の領主となっていたと考えられている。『大久保昔書遺翰』によれば、南北朝期の文和・延文(1352〜61)頃に、宮古松山館主白根判官正忠の時、北方の海辺に臼鬼岩力という荒猛の者がいて、田代主馬と争いを起こした。主馬は武備も整い、智慮深い士であったが、臼鬼氏を落しかねて正忠に加勢を要望してきたので、正忠は主馬と協力して計略をもってこれを攻め落としたとある。時代は下って戦国末期になると、田代氏は南部氏の家臣となった。1601年の『岩崎御出陣人数定』には「赤幌御足軽大将1騎、300石、田代清五郎、此下12人」とあるので、岩崎一揆の際に南部利直に従う精鋭部隊の赤母衣足軽勢の大将として出陣していたらしい。

 田代楯は、田代川の曲流部北側にある広やかな丘陵上に築かれている。東西に西郭・東郭と2つの曲輪を並べ、間を堀切で分断している。西郭・東郭共にほぼ同じ高度なので、どちらが主郭とも判じ難いが、東郭の東端の神社が建っている場所が一段高い櫓台状となっているので、こちらが主郭であろうか。東郭内は畑となっているほか、前述の通り東端部に神社が建っている。西郭は耕作放棄地となっていて、かなり草が繁茂してきているので、あと数年で薮に埋もれるしまうだろう。西郭・東郭共に土塁はなく、平坦に削平されているが、耕地化による改変の可能性もある。そして、西郭は2段、東郭は1段の帯曲輪が廻らされている。更に東郭の北側では帯曲輪の一部が舌状に北東に突き出ており、西郭の北には東西に長いナイフのような形状の北郭が西に向かって突き出ている。尚、帯曲輪は車道で改変されており、どこまで往時の形状のまま残っているのかはわからない。以上が田代楯の遺構で、居住性を有した館城であったことがよくわかる。ちなみに、田代楯があるのは山中の集落であり、宮古市中心部から田代楯に向かう途中の山道では道路上に若い鹿がいたし、楯内にも熊の爪痕とクマ棚らしいものも見られたので、野生動物に対しては厳重な警戒が必要である。
東郭の櫓台状の神社→DSCN0952.JPG
↓MPI赤色立体図で見た田代楯(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-08-11 214737.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.706256/141.913336/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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2026年08月08日

近内楯(岩手県宮古市)

DSCN0873.JPG←主郭堀切と物見砦
〔訪城日:2025年11月下旬〕
 近内楯(近内館)は、閉伊氏の庶流近内氏の居城である。閉伊氏の事績は笠間楯田鎖城の項に記載する。南部氏がこの地域を支配すると近内氏は南部氏に仕えた。近内長左衛門為如は南部利直に召し出され、旧知の間柄であったことから閉伊郡近内に70石を賜わり、閉伊48郷の総奉行を勤めたと伝えられる。

 近内楯は、地下内集落の北側にそびえる標高76mの丘陵上に築かれている。明確な登道が見つからなかったので、西側の谷を通る車道脇の取り付きやすいところから山林に入り、斜面を直登した。東西に長い大きな主郭を持った城で、ほぼ単郭に近い縄張りとなっている。主郭は、西側は幅が広く、東に行くほど幅が狭くなるが高度が高くなっていて、東端部には物見台や櫓台が置かれていた可能性がある。主郭の西側には段曲輪が2段築かれ、その西側から主郭北側にかけて長い帯曲輪が築かれている。この帯曲輪の西端部は横堀となっている。横堀の少し北には竪堀が落ち、また帯曲輪の中程には竪堀道が下っており、その脇に櫓台の土壇が築かれている。主郭の南側にも腰曲輪がある他、主郭東端の南東には堀切が穿たれ、その先に物見砦の小郭が築かれ、更にその南に堀切が穿たれている。その先の南尾根は平坦になっており、物見曲輪になっていたと思われる。以上が近内楯の遺構で、館城の趣がよく残っている。
帯曲輪の竪堀道と櫓台→DSCN0812.JPG
↓MPI赤色立体図で見た近内楯(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-07-25 083702.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.650112/141.916816/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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2026年08月06日

鱒沢楯(岩手県宮古市)

DSCN0628.JPG←大手道から見た右翼の曲輪群
〔訪城日:2025年11月下旬〕
 鱒沢楯(鱒沢館)は、歴史不詳の城である。長沢川を挟んで対岸には花輪楯があるので、関連した城だった可能性がある。

 鱒沢楯は、長沢川とその支流の合流点に向かって南から突き出た標高84mの山上に築かれている。東麓集落にある、畑と資材置き場の間のから小道が山に向かって伸びており、ここから登ることができる。奥に進むと竪堀道があり、これが大手道である。これを登っていくと、谷間を登る大手道の両翼に曲輪群が段状に築かれているのがはっきり見え、大手道を防衛する構造がよくわかる。これらの曲輪群の内、左翼(北側)の曲輪群の中段は円弧状横堀となっている。大手道を登っていくと、眼の前に切岸でそびえる小郭があり、大手を防衛する堡塁となっている。この堡塁を横に見ながら左翼曲輪群の最上段を経由してジグザグに登る城道があり、主郭に至る。主郭は後部に向かって上り勾配となった平場で、東側が一段低くなっていて大手方面に対する防御を固めている。主郭の北と西に帯曲輪が築かれ、背後には堀切が穿たれている。この他、主郭北の帯曲輪の西端部から西に向かって竪堀が落ち、またこの曲輪と左翼曲輪群最上段との間も動線を制約する竪堀が落ちている。以上が鱒沢楯の遺構で、薮が少ないので主郭と東の大手筋を防衛する曲輪群がはっきりわかり、谷の大手道の他にも城内通路や虎口などほぼ完存している。これが全く無名の城とは信じがたいほど、良好な遺構である。
北帯曲輪から落ちる竪堀→DSCN0688.JPG
DSCN0721.JPG←主郭背後の堀切
↓MPI赤色立体図で見た鱒沢楯(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-08-04 233743.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.606657/141.902118/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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2026年08月04日

赤前楯(岩手県宮古市)

DSCN0499.JPG←東出城の二重堀切
〔訪城日:2025年11月下旬〕
 赤前楯(赤前館)は、閉伊氏の庶流赤前氏の居城である。閉伊氏の事績は笠間楯田鎖城の項に記載する。南北朝初期に閉伊一族は北畠顕家の軍勢に従って西上し、1338年和泉国石津の戦いで北畠軍が敗滅した後、赤前の地が一族の治郎左衛門為義に与えられ、赤前楯を築かせて南の守りとした。戦国末期には赤前四郎右衛門は南部利直に仕え、以後は南部藩氏となった。

 赤前楯(赤前館)は、宮古湾最奥の津軽石川河口の南東にある、山裾の丘陵先端部に築かれている。城域は大きく2箇所に分かれていて、主城部がある丘陵本体と、その東の出城がある小さな独立丘陵とがある。主城部は、南北に連なる2つの大きな曲輪があり、『日本城郭大系』では北のものを二ノ郭、南のものを主郭としているが、私は北が主郭、南が二ノ郭と判断した。理由は、わずか1m程だが北の方が標高が高いことと、北の方が周囲に堀切や腰曲輪が築かれて防備が堅いからである。まず主郭は、長方形に近い綺麗に削平された曲輪で土塁がなく、4つの角部が突出した形になっている。主郭の西側には2段の腰曲輪が築かれており、下段曲輪の西端に物見台と堀切が築かれ、堀切前面も物見台があり、その西下に小郭が築かれている。また下段曲輪の北は横堀に変化し、そのまま円弧状堀切となって尾根を掘り切り、北西の尾根の先端には物見台が置かれている。一方、主郭の北東には舌状の東郭築かれ、その北側下方に2段の円弧状帯曲輪が築かれている。ここには竪堀状登城路と枡形虎口が構築されており、竪堀道はそのまま下の道にある鳥居脇に出るので、これが大手道だった可能性がある。尚、円弧状帯曲輪の下段は横堀状を呈し、竪堀道を防衛する塹壕線になっている。主郭の背後には堀切を介して二ノ郭があるが、堀切も二ノ郭も薮に埋もれている。二ノ郭の南東には腰曲輪があり、物見台らしい土壇が築かれている。腰曲輪の東に堀切を挟んで東の出城がそびえている。『大系』では詰城としているが、どちらかといえば主城部から独立した曲輪と見た方が良さそうである。出城は切岸だけで囲まれた単郭の曲輪で、赤前八幡神社が建っている。その東側は二重堀切で分断されている。また内堀は90度西に折れて出城北側の横堀となっている。以上が赤前楯の遺構で、堀の配置などに工夫をした縄張りである。
腰曲輪下段の横堀部→DSCN0562.JPG
DSCN0594.JPG←円弧状帯曲輪の竪堀道
↓MPI赤色立体図で見た赤前楯(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-07-25 083358.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.577532/141.953363/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

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2026年08月02日

坊主山楯(岩手県山田町)

DSCN0402.JPG←主郭内の一段高い平場
〔訪城日:2025年11月下旬〕
 坊主山楯(坊主山館)は、織笠館とも呼ばれ、この地の土豪田村氏の居城と伝えられている。登間根家の『阿部家伝』によれば、閉伊氏が鎌倉時代のはじめ船越に移住してきた時、織笠守護田村八左衛門が81人の家来とともに挨拶に参上したと伝えられている。この伝承が正しいとすると、奥州藤原氏の時代からこの地で勢力を持った豪族だった様である。ちなみに西方1.3kmにも立神館の別称がある織笠館があって紛らわしい。

 坊主山楯は、新田川の東岸にある標高42mの丘陵上に築かれている。東の鞍部に車道があり、その脇から斜面に取り付いて訪城した。への字型に折れ曲がった丘陵地に曲輪を展開しており、への字の真ん中の折れ曲がった部分が平坦で広くなっており、そこに主郭とそれを取り巻く腰曲輪がある。主郭は北西部に一段高い平場があり、櫓台か主殿があったように思われる。主郭の南東部は一段低い平場があり、虎口郭があった可能性があるが、現状を見る限りでは明確な動線(城道)は見えてこない。主郭周囲の腰曲輪は西に向かって長く伸び、その先端部に楕円形の二ノ郭があり、物見曲輪の機能を兼ねていたと思われる。主郭の南東には腰曲輪1段を挟んで舌状の三ノ郭がある。これら以外に主郭の北東斜面や三ノ郭の南北の斜面には多数の帯曲輪状の平場が確認できるが、植林などのために後世に改変された可能性があり、城郭遺構とは断定できない。以上が坊主山楯の遺構で、全体的に下草が少なく歩きやすく、お陰で遺構も確認しやすい。構造としては堀も土塁もなく、簡素で技巧性があまりなく、古い形態の城だったと思われる。
楕円形の二ノ郭→DSCN0452.JPG
↓MPI赤色立体図で見た坊主山楯(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-07-25 082846.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.443349/141.949908/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

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2026年07月31日

長部城(岩手県平泉町)

DSCN0030.JPG←主郭北側の横堀
〔訪城日:2025年11月下旬〕
 長部城は、長部中館とも呼ばれ、葛西氏の家臣長部氏の居城である。城主の名は、『安永風土記』には長部兵部太夫、『葛西真記録』には葛西御家臣衆座列に詰衆一家として長部長門守とある。1581年7月、磐井郡狐禅寺郷(岩手県一関市)において長部城主長部孫八郎忠俊が葛西氏の有力家臣・下黒沢城主黒沢豊前守信道と合戦した狐禅寺騒動が生起した。衝突の原因は不明だが、西磐井の上黒沢城主小岩越中守信明・栗原三迫片馬合の上吉目木城主千葉出羽守胤朝の長男式部大輔胤成・次男掃部助胤広、磐井郡小島西館主小島山城守、磐井郡松川内館主松川常陸介らが黒沢信道に加勢し、小岩信明が長部忠俊を討ち取ったと伝えられる。1590年の奥州仕置きによる葛西氏改易後に生起した葛西大崎一揆では、1591年8月に長部中館城主千葉式部大夫胤資が猪岡隼人とともに出兵し、伊達氏により桃生郡須江山で謀殺されたという。

 長部城は、北上川東方の丘陵上に築かれている。ほぼ方形の主郭を頂部に置き、その西側に2段の曲輪(二ノ郭・三ノ郭)を築き、更に南西にもう1段の腰曲輪を築いている。主郭はリンゴの果樹園となっていて、ちょうど収穫作業をされていたので許可をもらって内部に立ち入らせてもらった。主郭の北側には一直線の高土塁が築かれ、主郭後部にも一部土塁が残っている。主郭の北から東にかけて、横堀・堀切がL字型に穿たれている。但し、堀切の一部は果樹園に通じる車道で改変されている。二ノ郭以降は耕作放棄薮となっている。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』によれば、北の横堀の北側にも2本の横堀が穿たれて、合計三重の空堀が穿たれているとされるが、現状見える限りではほとんど帯曲輪状で、堀の形態を成していない。以上が長部城の遺構で、思った以上に良く遺構が残っている。北の横堀も薮が切り払われていて見やすくなっていたが、皆伐なので数年で深い薮に埋もれてしまうだろう。
主郭後部の堀切→DSCN0021.JPG
DSCN0022.JPG←主郭と北側の土塁
↓MPI赤色立体図で見た長部城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-07-25 082657.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#17/39.006316/141.144561/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
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2026年07月29日

中里城(岩手県一関市)

DSCN0007.JPG←主郭背後の堀切
〔訪城日:2025年11月下旬〕
 中里城は、『安永風土記』によれば、葛西氏の家臣小野寺式部丞胤勝が築城したと言われる。小野寺氏は、下野国下都賀郡小野寺村を本貫地とする小野寺氏の一族と思われ、源氏に従って奥州に下向したと見られる。源頼朝の奥州合戦の後、葛西清重が奥州総奉行に任じられたが、この時期より小野寺氏が中里の地に居て葛西氏の家臣となったとされており、以来中里の地にあったらしい。尚、城主の名として小野寺修理、佐藤紀伊守の名も伝わっているらしい。

 中里城は、永泉寺の裏山に築かれている。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』によれば、城の南側は土砂崩れによって一部は旧状を失っているとされる。永泉寺門前に城の解説板があり、墓地から登道が付いているので、城に簡単に行けると思ったが、墓地最上部でその期待は無残に砕け散ってしまった。結局薮城で、曲輪群の切岸しかわからない状況だった。1mメッシュのMPI赤色立体図を見ると、縄張りは頂部に広い主郭を置き、背後に堀切を穿って尾根筋を分断し、東側に6段の曲輪群を連ねている。主郭は北側に張り出しが設けられており、北斜面に対する櫓台が置かれていたと思われる。主郭及び曲輪群の各曲輪は切岸だけで区画されている。この他、主郭の南東斜面に緩斜面が広がっていて、現地解説板の図ではこれを二ノ郭としているが、あまり明確な普請はされていないようである。いずれにしても、一応東の曲輪群から主郭まで行き、堀切も何とか確認したが、激薮でどの曲輪も形状は全くわからなかった。非常に残念な状況である。
東の曲輪群→DSCN9978.JPG
↓MPI赤色立体図で見た城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-07-026.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(薮で☆一つ減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.947885/141.125110/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

中世城郭の新論点――石垣・障子堀・畝状空堀群・海城・陣城・城郭類似遺構 - 髙田 徹
中世城郭の新論点――石垣・障子堀・畝状空堀群・海城・陣城・城郭類似遺構 - 髙田 徹
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2026年07月27日

若宮楯(岩手県一関市)

DSCN9925.JPG←大手曲輪群西端の土塁
〔訪城日:2025年11月下旬〕
 若宮楯(若宮館)は、伝承では源頼義の陣所と伝えられる。東北道一関ICの北東にある標高118mの山上に築かれている。1mメッシュのMPI赤色立体図を見ると、大型の不整四角形をした主郭を中心に外周に腰曲輪を廻らし、そこから南に大手曲輪群を設け、その南端中央部に虎口を設け、左の塁線を張り出させて左袖の横矢掛かりを設けている。しかし実際に現地を踏査すると、激しい薮だらけで遺構がほとんどわからない。特に大手曲輪群は東西両端の土塁が何とか確認できた程度で、形状は全く把握できない。それでも藪漕ぎをして何とか上まで登ると、主郭腰曲輪には山道が通っていて、道だけは薮がないが、それ以外は主郭も腰曲輪も激薮に覆われている。主郭周囲を囲む切岸は少し傾斜が緩く、鋭く切り立った感じには見られなかった。この他、主郭北側には腰曲輪間を繋ぐ城内通路を兼ねた堀切があるが、これも主郭の縁から見てようやく堀があるのがわかる程度で、やはり薮で覆われている。以上が若宮楯の遺構で、横矢の掛かった大手曲輪群に期待して行ったが、薮で非常に残念な状況だった。尚、この構造を見る限り、戦国期にも改修を受けて使用されたことは間違いないと思う。
主郭切岸と腰曲輪→DSCN9943.JPG
DSCN9954.JPG←主郭北側の堀切
↓MPI赤色立体図で見た若宮楯(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-07-24 001935.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(薮で☆一つ減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.941857/141.110785/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。

よみがえる東北の城: 考古学からみた中世城館 (歴史文化ライブラリー 612) - 飯村 均
よみがえる東北の城: 考古学からみた中世城館 (歴史文化ライブラリー 612) - 飯村 均
ラベル:中世山城
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2026年07月25日

滝沢城(岩手県一関市)

DSCN9796.JPG←南端の堀切
〔訪城日:2025年11月下旬〕
 滝沢城は、『仙台領古城書上』『安永風土記』によれば天正年間(1573~92年)に蜂谷隠岐または滝澤三郎左衛門の居城であったと伝えられる。いずれにしても葛西氏の支配領域なので、葛西氏の家臣だったのだろう。その他の歴史は伝わっていない。

 滝沢城は、JR真滝駅の南西に隣接する標高94m、比高40mの丘陵先端部に築かれている。登道はないので、南東麓の民家の間の取り付きやすそうなところから山林に入り、斜面を直登して背後の尾根からアプローチした。縦長で中央東側が抉れた形の不定形な主郭を最上段に置き、その西から南にかけて二ノ郭、更にこれらの東西斜面に腰曲輪を配置した、比較的簡素な縄張りとなっている。二ノ郭の南端に堀切を穿っているのが唯一の尾根筋の防御構造で、それ以外は切岸だけで区画している。主郭北半の東にある腰曲輪から、北東に向かって数段の小郭群が築かれているが、一番上の小郭は横堀形状を呈している。二ノ郭の西腰曲輪の堀切沿いには櫓台と虎口が構築されており、どうも堀切に木橋を架けていたようである。その西下にも虎口のように見える小郭がある。また東側腰曲輪には櫓台・虎口は見られないが、堀切を挟んで南側に小郭があるので、ここにも木橋が架かっていたと思われる。以上が滝沢城の遺構で、いずれの曲輪も綺麗に削平されており、広さもあるので、それなりの居住性をもった館城であったと思われる。尚、主郭は綺麗で見やすいが、二ノ郭南半やその東にある腰曲輪は竹薮地獄となっていて、踏査が大変である。
主郭東の腰曲輪→DSCN9858.JPG
DSCN9906.JPG←西腰曲輪の櫓台土壇と虎口
↓MPI赤色立体図で見た滝沢城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-07-23 223401.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.907295/141.176595/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

東北中世の城 - 竹井英文, 齋藤慎一, 中井均
東北中世の城 - 竹井英文, 齋藤慎一, 中井均
ラベル:中世平山城
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2026年07月23日

鬼死骸要害城(岩手県一関市)

DSCN9757.JPG←北2郭外周の横堀
〔訪城日:2025年11月下旬〕
 鬼死骸要害城は、葛西氏麾下で西磐井郡西部を守備した小岩氏一族の支城である。『仙台領古城書上』『安永風土記』によれば小岩伊賀守の居城とされる。しかし城についてそれ以上の事績は伝わっていない。小岩氏の事績は上黒沢城の項に記載する。尚、史跡名称としては単に要害城と呼ばれるが、この名称の城は県内に多数あり、どこの要害城だかわからないので、ここでは鬼死骸要害城と呼称する。

 鬼死骸要害城は、新山川とその支流の合流点に向かって南から突き出た標高110mの山上に築かれている。東麓の内ノ目地区に、東西に民家が立ち並ぶ一番奥からその南にある尾根に取り付く小道があり、それを辿って尾根上まで行くと、そのまま城まで至る小道があるのでそれを辿れば城まで簡単に行ける。山頂に楕円形の主郭を置き、その北・東・南の三方を囲むように二ノ郭を廻らしている。主郭と二ノ郭は切岸だけで区画されている。主郭には鉄塔が建っているが、主郭・二ノ郭共に冬でも薮が多く、形状が確認しづらい。二ノ郭の南から東を通って北東部までの外周には横堀が穿たれて防御している。この横堀が南の堀切を兼ねており、南尾根に三ノ郭がある。三ノ郭の南側には二重堀切が穿たれて、尾根筋を分断している。二ノ郭・三ノ郭の東側には内部が傾斜した東郭がある。東郭は長方形をした広い曲輪で、コの字型に横堀で囲まれているが、曲輪の北半分は激薮となっていて踏査できない。この横堀の付け根に当たる南西端部には外に通じる土橋が架けられている。一方、二ノ郭の北西には長方形の北1郭が突き出ている。その先端には浅い堀切が穿たれ、そこから尾根上の繋ぎの曲輪があって、先端に北2郭が置かれている。北2郭の西から北面にかけて横堀が穿たれ、北東には堀切が穿たれて城域が終わっている。これらの北1郭~北2郭付近は薮が少なく遺構が見やすい。特にうねる様に走る横堀は見応えがある。北東端の堀切から北郭群の東側には帯曲輪が築かれ、城内通路を兼ねている。この帯曲輪の南端部は横堀に変化し、二ノ郭に突き当たって東に向きを変え、二ノ郭東までうねる様に伸びている。また横堀が二ノ郭に突き当たって東に向きを変える部分の西上方には、鋭角に折れた竪堀状虎口が築かれている。以上が鬼死骸要害城の遺構で、横堀主体で防御を固めた要害である。
南の二重堀切の外堀→DSCN9702.JPG
DSCN9700.JPG←東郭南側の横堀
↓MPI赤色立体図で見た鬼死骸要害城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-07-21 230022.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.893738/141.128560/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

奥州管領斯波大崎氏 難敵に挑み続けた名族 (中世武士選書) - 佐々木慶市
奥州管領斯波大崎氏 難敵に挑み続けた名族 (中世武士選書) - 佐々木慶市
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2025年12月30日

平田城(岩手県大船渡市)

DSCN3900.JPG←主郭後部の高台
 平田城は、越喜来の土豪本丸城主多田氏の支城である。多田氏の事績は本丸城の項に記載する。多田氏は戦国時代頃に只野氏を称したらしく、天正年間(1573~92年)には葛西氏の家臣只野民部が平田城主であったらしく、葛西氏が遠野阿曽沼氏を攻撃した際には、気仙郡から只野民部が参陣して討死したと言う。

 平田城は、越喜来湾に突き出た、その名も「舘崎」に築かれている。地名も「舘」である。地続きとなっている南西以外の三方を断崖で囲まれた要害の地で、現在は東北大の三陸地震観測所が建っている。入口に関係者以外立入禁止のバリケードがあるので、内部探索はできず遠目に見ただけだが、主郭内は平坦地で、後部が高台となっている。東に突き出た尾根の基部に堀切があるのだけ、薮の中に確認できた。尚、城の西には市の天然記念物である株椿がある。
東尾根の堀切→DSCN3914.JPG
↓MPI赤色立体図で見た平田城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z平田城MPI赤色立体地図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.106837/141.813592/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

描かれた中世城郭: 城絵図・屏風・絵巻物 - 竹井 英文, 中澤 克昭, 新谷 和之
描かれた中世城郭: 城絵図・屏風・絵巻物 - 竹井 英文, 中澤 克昭, 新谷 和之
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2025年12月28日

本丸城(岩手県大船渡市)

DSCN3875.JPG←ニノ郭と主郭切岸
 本丸城は、越喜来の土豪多田氏惣領家の居城である。多田氏は、系図によれば多田源氏の末流とされ、鎌倉前期の建保年間(1213~19年)頃に越喜来へ来住したらしく、多田満仲より8代の裔多田蔵人行綱の3男三郎定綱が初代であったようである。以後100年以上にわたって勢力を伸ばし、本丸城を軸に、周囲に平田城・高森城・小出城・吉浜城などの支城を配して、越喜来から吉浜一帯を支配する国人領主となった。南北朝期の康永年間(1342~45年)には、多田左近将監が城主であったと見られ、南朝方の鎮守府将軍北畠顕信の命を奉じて側近五辻民部権少輔清顕が多田左近将監に宛てた軍勢催促状2通が、また観応年間(1350~52年)には奥州管領吉良貞家の弟貞経が多田三郎左衛門尉に宛てた軍勢催促状が残っており、南朝・北朝の両陣営から注目される地域の実力者であったことが伺える。その中で多田氏は一貫して南朝方に属し、北畠顕信を支援した。しかし奥州南朝方が敗退すると、多田氏は北朝方に下った。その後は中世を通じて気仙郡を支配した葛西氏の配下に組み込まれ、戦国期頃から只野氏を称した様である。

 本丸城は、標高40mに満たない丘の上に築かれている。主郭南東の腰曲輪に八幡神社が建っていて、参道が整備されているので、訪城は容易である。南北に長い主郭を中心にして、全周を取り巻く様に二ノ郭が廻らされた環郭式の縄張りとなっている。二ノ郭の北と南には更に腰曲輪が築かれている。主郭・二ノ郭ともに後部に小さな土塁が築かれているが、それ以外には土塁も堀もなく、簡素な構造の館城である。尚、主郭・二ノ郭共に南半分は矢竹の薮に覆われている。八幡神社の裏手に解説板が立っている。
主郭後部の土塁→DSCN3858.JPG
↓赤色立体図で見た本丸城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z本丸城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.118421/141.815319/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

南北朝武将列伝 南朝編 - 亀田俊和, 生駒孝臣
南北朝武将列伝 南朝編 - 亀田俊和, 生駒孝臣
ラベル:中世平山城
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2025年12月26日

小田の御所(岩手県山田町)

DSCN3823.JPG←腰曲輪と二ノ郭切岸
 小田の御所は、南北朝時代に奥州南朝方の総帥であった鎮守府大将軍北畠顕家の嫡子顕成が拠った城との伝承が残る。顕成は、実在はほぼ認められるが具体的事績は伝承の域を出ない人物であり、不明点が多い。小田の御所は船越御所と同様、船越氏が北畠顕成一行庇護のために造ったものとして伝えられている。山城であるので、特に戦時に備えた臨時の館、即ち船越御所に対して詰城としての機能を持っていたと推測されている。

 小田の御所は、船越半島の南西端に位置する、船越湾に突き出した標高80mの山上に築かれている。城の東側には古道が通る峠があり、この古道を押さえていた城だったと思われる。国土地理院1/25000地形図に破線で記載されている古道は現存していて、これを北麓から入って峠まで登れば、西側にそびえているのが小田の御所である。形態としては純然たる山上の館城で、「へ」の字型をした大型のニノ郭と、その東端部に一段高くそびえる長円形の主郭、そしてこれらの外周を取り巻く幅のある腰曲輪で構成されている。主郭の南端部には虎口郭と思われる土壇があり、その切岸にわずかに石積らしい跡が見られる。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』によれば、「二ノ郭が主郭と接する箇所には土盛りした壇があり、10個の礎石が残されている」と書かれているが、この石積のことであろうか。主郭はやや削平が甘い曲輪で、郭内は南に向かってやや下り勾配となっている。前述の報告書に「主郭のほぼ中央に8個の磯石が遺存」とあるが、埋もれているのか見つからなかった。主郭北西角から二ノ郭北辺に向かって坂土橋を兼ねたと思われる土塁が伸びている。二ノ郭は南側中央部が内側に向かって折れており、下の腰曲輪に対して横矢を掛けられるようになっている。西に向かって下り勾配となっているが、郭内に明確な段差は見られない。二ノ郭西端の先の腰曲輪には文化八年の年号が刻まれた宝篋印塔があり、「小田之御所海上恩」と刻まれている。この他、外周の腰曲輪から北に伸びる尾根の根本に、浅い堀切が穿たれている。腰曲輪の南や東にも帯曲輪らしい平場が数段見られるが、この付近の山は近世以降の耕作でどこも段々になっているので、どこまでが城の遺構なのかよくわからない。以上が小田の御所の遺構で、大きな二ノ郭を持った城である。

 尚、『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の縄張図と城の構造の記載であるが、東西南北の方向も城全体の形状も実態とかけ離れており、鵜呑みにしてはいけない。
石積らしい跡→DSCN3767.JPG
DSCN3813.JPG←腰曲輪に残る宝篋印塔
北尾根付け根の堀切→DSCN3737.JPG
↓赤色立体図で見た小田の御所(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z小田の御所赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.414006/141.985459/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

南朝の真実: 忠臣という幻想 (歴史文化ライブラリー 378) - 亀田 俊和
南朝の真実: 忠臣という幻想 (歴史文化ライブラリー 378) - 亀田 俊和
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2025年12月24日

織笠楯(岩手県山田町)

DSCN3639.JPG←大手郭群にある大手道
 織笠楯(織笠館)は、立神館とも呼ばれる(現地のバス停の名前は「舘神」なので、舘神館と書くべきか)。楯主は織笠氏で、1439年に福士床次郎安定(保定?)が南部氏14代義政より織笠村等4ヶ村を賜って織笠氏を称したとされる。安定の事績はよくわからないが、信仰心の厚い人であったと言われ、立神楯の近隣に竜泉寺を開基したほか、先祖を祀るために八幡宮を建立したと伝えられている。ちなみに東方1.3kmにある坊主山館も織笠館の別称があって紛らわしい。

 織笠楯は、織笠川北方に連なる丘陵の内、北側に沢が入り込み、東に向かって突き出た丘陵に築かれている。東麓の舘神バス停の脇から奥に登っていく道があるので、これを登っていけばよいが、途中で道が薮に埋もれてしまっているので、薮漕ぎしながら奥へと進むほかはない。この道筋は2つの尾根に挟まれた間の谷戸地形に当たるが、実はこれが大手道らしく上下2段の平場に分かれ、上段曲輪に登る道は往時の大手道の形を留めていると思われる。この大手郭群を挟むように南北に三角形をした舌状曲輪が張り出している。その上に、中央部分が傾斜した広い腰曲輪が広がり、腰曲輪の北寄りに台形状の三ノ郭、南側に大型の二ノ郭がそびえている。三ノ郭~二ノ郭間は腰曲輪が堀切を兼ねて分断している。三ノ郭の北には堀切が穿たれて支尾根を分断しており、堀切は前述の舌状曲輪に繋がった通路となっている。二ノ郭の後部には土塁が築かれ、ここに立神様が祀られている。二ノ郭の背後には深い堀切が穿たれ、堀切の西側に細尾根の曲輪が伸び、その先に主郭がある。主郭の周囲にも数段の腰曲輪があるようだが、笹薮が酷くて形状が全くわからないし進入も困難である。主郭の背後には二重堀切が穿たれて、背後の尾根を遮断している。以上が織笠楯の構造で、遺構はよく残っているが一部を除いて薮が酷く、曲輪内への進入・踏査が容易ではない。1mメッシュ赤色立体図などの詳細地形図を持っていない限り、訪城はやめた方が良いと思う。
二ノ郭背後の堀切→DSCN3699.JPG
DSCN3682.JPG←主郭背後の二重堀切の内堀
↓MPI赤色立体図で見た織笠楯(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z立神楯MPI赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.443581/141.933806/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。

図解 戦国の城がいちばんよくわかる本 - 西股 総生
図解 戦国の城がいちばんよくわかる本 - 西股 総生
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2025年12月22日

沢田楯(岩手県山田町)

DSCN3606.JPG←堀切
 沢田楯(沢田館)は、竹の御所とも呼ばれる。伝承では、建武の新政期の1334年、この地の土豪山田六郎は大沢御牧の牧馬の殺害や狼藉のかどで追放され、その所領は飯岡村は南部又次郎に、山田村は藤原朝臣某にと分割されて管理されたと言う。藤原某の詳細は不明であるが、「朝臣」とあることから後醍醐天皇の命で鎮守府将軍として奥州多賀国府に派遣された北畠顕家と共に奥州に下向した京都の公家であった可能性がある。この山田村の管理のために構築されたのが沢田楯で、藤原某の代官として派遣されてきたのが山田関屋丸だったと伝えられる。

 沢田楯は、道の駅やまだのすぐ後ろにある丘陵上に築かれている。主城部と詰城部の2つで構成されていたが、詰城部は三陸道山田ICの建設で破壊されており、現在残っているのは主城部だけである。主城部は、南東に向かって突き出た細長い丘陵の上に広大な主郭が築かれ、その北に堀切を挟んで副郭が築かれている。更にそれらの外周に1~2段の腰曲輪が築かれている。主郭には八幡神社が建っており、神社への参道が西麓から付いている。この参道が西の腰曲輪に登りつく箇所は虎口のような形状をしているので、往時の登城路を参道にしていると思われる。主郭外周の腰曲輪には、主郭先端部近くの左右に竪堀が落ちており、腰曲輪内の移動を分断している。おそらく往時は竪堀に木橋を架けていたのだろう。また前述の堀切は、東側が円弧状に曲がっている。この他、主郭南の2段の腰曲輪の先に尾根が続いており、先端に物見郭が置かれている。この物見郭では、道の駅の真裏なのにカモシカ2頭が現れた。以上が沢田楯の遺構で、詰城部は失われているが、主城部は遺構がよく残っている。
腰曲輪から落ちる竪堀→DSCN3571.JPG
↓赤色立体図で見た沢田楯(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z沢田楯赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.479251/141.951687/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。

北畠顕家: 奥州を席捲した南朝の貴族将軍 (中世武士選書 第 22巻) - 大島 延次郎
北畠顕家: 奥州を席捲した南朝の貴族将軍 (中世武士選書 第 22巻) - 大島 延次郎
ラベル:中世平山城
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2025年12月20日

高館城(岩手県大船渡市)

DSCN3465.JPG←東側の2段の腰曲輪と山火事跡
 高館城は、葛西氏の家臣千田大学の居城と伝えられる。千田大学は、伊達勢が葛西大崎一揆にとどめを刺した桃生郡深谷の戦いで討死した。

 高館城は、標高93.3mの山上に築かれている。綾里湾を眼下に望み、槻館城と相対峙する位置にあった。この綾里地区では本年2月に大規模な山火事が発生しており、訪城した時は高館城周辺でも山火事の痕跡が生々しく残っていた。城のすぐ脇を車道が通っているので、簡単に訪城できる。山頂の主郭は段差で南北2段に別れていて、上段は縦長の台形をした小さな曲輪で、その南にやや幅のある下段平場があり、その北東には上段曲輪から土塁が伸びている。主郭の北西に二ノ郭が突き出ており、主郭西側まで腰曲輪状に廻っている。これら城の中心部を取り巻くように1~2段の腰曲輪が廻らされている。堀切・横堀はなく、平場群だけで構成された簡素な構造の城である。尚、城内ではシカが2頭ダッシュで逃げていった。
主郭から見た二ノ郭→DSCN3478.JPG
↓赤色立体図で見た高館城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z高館城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.043406/141.800170/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

中世城郭の新論点――石垣・障子堀・畝状空堀群・海城・陣城・城郭類似遺構 - 髙田 徹
中世城郭の新論点――石垣・障子堀・畝状空堀群・海城・陣城・城郭類似遺構 - 髙田 徹
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2025年12月18日

矢作内館城(岩手県陸前高田市)

DSCN3412.JPG←主郭後部の櫓台
 矢作内館城は、別名を鶴崎城、或いは単に内館とも言い、奥州千葉氏の一流矢作千葉氏の居城である。1315年に本吉郡馬籠城主千葉六郎左衛門忠広の二男次郎太夫広胤が気仙郡矢作村に所領を与えられて矢作千葉氏の祖となった。南北朝期の1336年に勃発した馬籠合戦では、本家筋の馬籠千葉氏が北朝側であったにも関わらず、矢作氏は南朝側の葛西氏に従って参陣し、戦後葛西氏より所領を安堵された。以後、矢作千葉氏の子孫は広田湾周辺に分封されて勢力を広げ、小友千葉氏・高田千葉氏・長部千葉氏・浜田千葉氏などを分出した。天正年間には千葉玄蕃・因幡父子が城主で、1590年の葛西氏改易の後、没落した。

 矢作内館城は、気仙川南岸に北に向かって突き出た半島状台地に築かれている。城の南側を通る市道脇から丘陵上を北に向かえば城域に入る。城は主要な曲輪が3つあり、その周囲に腰曲輪群を廻らした構造となっている。前述の通り丘陵上の山林を北上すると、台地の上に最初に現れるのが三ノ郭である。周囲の腰曲輪とは段差で区画された長方形の小さい曲輪で、北の二ノ郭とは堀切で分断されているが、二ノ郭南東角と土橋で繋がっている。三ノ郭南側の切岸は東に行くほど不明瞭な斜面となっているが、大きさと配置から推測して三ノ郭は馬出しとして築かれたものかもしれない。その北にあるのが二ノ郭で、内部の一部は竹薮が酷い。詳細地形図を見ると東側に突出部があるが、薮がひどく踏査できていない。また北東角に虎口が築かれ、北下の腰曲輪に通じている。二ノ郭の北から西には、三ノ郭周囲から続く腰曲輪が展開している。腰曲輪の北には1段低く主郭周囲の腰曲輪が広がっているが、眼前には主郭切岸がそびえており、主郭腰曲輪は箱堀状の堀切を兼ねた形態となっている。主郭は南北に長い曲輪で、後部に土壇が築かれ、そこに八幡神社が鎮座している。往時の櫓台であろう。主郭外周には腰曲輪が廻らされているが、傾斜の緩い西側だけ3段の腰曲輪が築かれている。2段目の腰曲輪の北端には、竪堀状の地形が斜面を落ちており、船着き場に通じる通路があった可能性がある。この他、主郭の東側には東側腰曲輪の北端を遮るように土塁が突き出ている。以上が矢作内館城の遺構で、主郭とその周辺は薮が少なく、遺構の確認がしやすい。
堀切状の主郭腰曲輪→DSCN3374.JPG
DSCN3376.JPG←二ノ郭北の腰曲輪と二ノ郭
↓赤色立体図で見た矢作内館城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z矢作内館城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.029026/141.608212/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
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2025年12月16日

小梨城(岩手県一関市)

DSCN3291.JPG←城域北西端にある土橋と搦手虎口
 小梨城は、『日本城郭大系』では北小梨館と記載され、葛西氏の家臣小梨氏の居城と伝えられる。城主としては小梨右馬允(右馬之丞)の名が伝わる。葛西氏改易後、小梨氏は伊達政宗に仕えたと言う。

 小梨城は、洞雲寺の南の丘陵上に築かれている。尾根の南東端に突き出た、幅のある丘陵地を切り開いて築城している。北麓の洞雲寺参道脇に城址標柱があり、そこから登道が付いているので、簡単に登ることができる。腰曲輪を経由して登り切るとニノ郭と思われる平場に出るが、あまりにきれいに平坦化されており、どうも近代の改変があったと思われる。この平場の東に切岸で囲まれた主郭が築かれている。主郭は東西に長く、中央南側がやや内側に窪んだ形をしており、西端部には土塁と櫓台が築かれ、2基の祠が立っている。主郭の南側には数段の腰曲輪が築かれ、内側に折れた主郭塁線から横矢が掛かるようになっている。主郭の東や南東にも舌状の曲輪がある。一方、二ノ郭の西側にも高台となった西郭がある。西郭はY字型をした曲輪で、北西端に土塁と堀切を設けている。堀切の北西にも小郭があり、先端に土橋を架けた堀切が穿たれ、土橋に向かって搦手虎口を設けている。以上が小梨城の遺構で、全体的には遺構がよく残っているが、主郭周囲の腰曲輪群は未整備の薮に覆われていて、踏査できない部分がほとんどである。
主郭後部の櫓台→DSCN3253.JPG
DSCN3249.JPG←主郭から見た南の腰曲輪群
↓赤色立体図で見た小梨城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z小梨城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.904166/141.371298/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城 - 香川元太郎
ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城 - 香川元太郎
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2025年12月14日

寺沢城(岩手県一関市)

DSCN3165.JPG←主郭背後の堀切
 寺沢城は、中館とも呼ばれ、寺沢氏の居城である。寺沢氏は本姓佐々木氏で、史料には笹木新右衛門、佐々木右近などの名が伝わる。寺沢佐々木氏の出自には2説あり、摺沢城の岩淵氏(摺沢氏)と同祖で、1337年に佐々木宮内忠光がこの地に分封されて寺沢城を築いたとも、或いは1579年に佐々木貞綱は下河原玄蕃と争い、胆沢郡永沢から寺沢邑に移され、寺沢城に拠って佐々木氏を称したとも伝えられる。詳細は不明であるが、寺沢佐々木氏には2系統あった可能性もある。1590年、寺沢胤長(宮内少輔)は豊臣秀吉の奥州仕置軍に敗れて没落し、帰農したとも伝えられているらしい。

 寺沢城は、千厩町磐清水地区の谷戸の奥に東に向かって突き出た丘陵上に築かれている。南側から二ノ郭に登る道が付いている。西端に主郭を置き、その東に細長い形状の広い二ノ郭を置き、更にその東に1段低く舌状の三ノ郭を配置している。これらの曲輪間は切岸だけで区画され、二ノ郭先端には櫓台と思われる幅のある土壇が築かれており、その下に八幡神社の社殿が建っている。二ノ郭の中程には塚のような大きな土盛りがあるが、何のものか、遺構かどうかも含めて情報がなくわからない。また二ノ郭の南側には帯曲輪らしい平場が2段ある。主郭は四角形に近い長円形の曲輪で、後部に土塁が築かれ、背後に堀切を穿っている。この堀切の西側には少し間隔を開けて、もう1本堀切が穿たれて城域が終わっている。これら2本の堀切の北側は谷地の広い平坦地が広がっており、近代の耕地化で改変されているようだ。以上が寺沢城の遺構で、技巧性はないが、この地域では割とよくある形態の館城である。尚、城の北側、永沢寺の参道近くの車道脇に、城の古びた解説板が立っている。
二ノ郭→DSCN3152.JPG
DSCN3203.JPG←主郭後部の土塁
↓MPI赤色立体図で見た寺沢城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z寺沢城MPI赤色立体図.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.943299/141.310708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
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2025年12月12日

牛生蓮楯(岩手県一関市)

DSCN3109.JPG←台地基部の堀切
 牛生蓮(ごしょうれん)楯(牛生蓮館)は、楿城(現地解説板では「かおるぎ城」と振り仮名が振られる)とも呼ばれ、後朱雀天皇(在位1036〜45年)の朝臣楿(かおるぎ)氏の居館と伝えられるが、詳細は不明。時代は降って鎌倉前期の1220年、胆沢郡百岡の初代城主千葉胤広の孫勝光がこの城に移り住んで城主となったと言われる。1324年、7代目の千葉隼人胤仲は、中日向に居館を移したが、この時京都八幡宮より御分霊を請けて旧居館の牛生蓮楯と新居館の新館に祀って守護神とした。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で葛西氏が改易となると、時の城主胤徳は帰農したと言う。尚、『日本城郭大系』では城主を二階堂氏としている。

 牛生蓮楯は、千厩川北側の丘陵先端部に築かれている。城の西中腹に牛生蓮八幡神社があり、その裏手から城に入ることができる。丘陵南端に長円形の主郭を置き、それを取り巻くように築かれた二ノ郭は北側に舌状に伸び、西側中央部が大きく内側に窪んだ形をしている。更にその外周に腰曲輪が廻らされ、その北端から北と西に舌状曲輪が築かれている。西の舌状曲輪の付け根には、小郭を挟んで2つの堀切が穿たれている。一応、城内はある程度薮払いされていて、二ノ丸跡地・本丸跡地と書かれた標柱が立っている。腰曲輪東側の台地基部には堀切が穿たれている。その北東にも外郭があったらしく、物見台状の高台があるが、薮が酷いうえに改変を受けている様である。その東側に二重堀切が穿たれ、北に向かって長く降っているが、ここも薮が多くて形状がよくわからない。以上が牛生蓮楯の遺構で、広やかな丘陵に展開した館城の構造をよく残している。
主郭→DSCN3090.JPG
DSCN3083.JPG←二ノ郭
↓赤色立体図で見た牛生蓮楯(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z牛生蓮楯赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.955314/141.384456/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。

土の城指南 - 西股 総生
土の城指南 - 西股 総生
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2025年12月10日

鵜住居西城〔仮称〕(岩手県釜石市)

DSCN0267.JPG←城塁手前の堀切
 鵜住居西城は、アプリ「スーパー地形」で5月に公開された1mメッシュデータから発見した城である。現認は2025年11月下旬。室町・戦国時代には、この地は大槌城主大槌氏の支配地域であったので、大槌氏の支城であった可能性がある。尚、この城の北東の峰続きにも鵜住居東城があり、両城一体となって機能していたと推測される。

 鵜住居西城は、標高113mの峰に築かれている。鵜住居東城から尾根伝いに近づくと、城塁の手前にしっかりと穿たれた堀切が現れる。単発でそれほど大きなものではないが、西城・東城の中では最も深い堀切である。堀切の上に3段の腰曲輪があり、その上に主郭がある。主郭は「へ」の字をした細長い曲輪で、南に行くほど高さを増し、南端が最も高くなっている。この城の特徴は主郭の西斜面に築かれた重厚な腰曲輪群で、全部で5段程構築されており、主郭西側を厳重に防御している。また主郭の南東下方に堀切を兼ねた腰曲輪が築かれている。これらの腰曲輪の間の移動を制約するため、竪堀3本が腰曲輪の端に落とされているのもこの城の特徴である。鵜住居西城はコンパクトに纏められた求心性の高い城で、防御も東城より厳重である。位置的には西城の方が低い位置にあるが、峠道との位置関係や守りの堅さから、西城が本城で、東城は峠道を押さえる出城であったと推測される。元々鵜住居東城・西城を地形図で見つけた時は、チャシレベルの大した城でない可能性もあると想像していたが、実際の遺構を見ると堀切に竪堀3本まで穿たれた、知られざる中世城郭であった。
主郭→DSCN0282.JPG
DSCN0338.JPG←西斜面の腰曲輪群
腰曲輪横の竪堀→DSCN0308.JPG
↓赤色立体図で見た鵜住居西城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z鵜住居西城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.321530/141.891408/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

戦国の城 (歴史群像シリーズ特別編集)
戦国の城 (歴史群像シリーズ特別編集)
ラベル:中世山城
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2025年12月08日

鵜住居東城〔仮称〕(岩手県釜石市)

DSCN0163.JPG←峠のすぐ南に二重堀切
 鵜住居東城は、アプリ「スーパー地形」で5月に公開された1mメッシュデータから発見した城である。現認は2025年11月下旬。室町・戦国時代には、この地は大槌城主大槌氏の支配地域であったので、大槌氏の支城であった可能性がある。尚、この城の南西の峰続きにも鵜住居西城があり、両城一体となって機能していたと推測される。

 鵜住居東城は、標高136mの峰に築かれている。西麓から作業用林道がありこれを辿って尾根上に至り、尾根を南に登ればすぐ城域に入る。この林道は尾根付近ではつづら折れの小道になっており、尾根上は溝状の道となっていて、どうも峠道の古道があったらしく、古道を押さえる役目も持った城だった様である。この峠のすぐ南に二重堀切があり、その上に北出郭が築かれている。北出郭は縦長の三角形をした曲輪で、北端に物見台状の土壇がある。北側に2段の帯曲輪が築かれていて、ここから峠の古道を迎撃できるようになっている。帯曲輪は東にも2段、西には1段構築されている。これら北郭群の西端に当たる西尾根にも二重堀切が穿たれている。北出郭は南東に向かって平坦な細尾根となり、その先に主郭がそびえている。主郭も北端部が一段高くなっており、南に細長く平場が伸びている。外周には1~2段の帯曲輪が築かれている。主郭北端から東に伸びる尾根には小郭と堀切がある。また主郭の南端から西に伸びる尾根には帯曲輪と繋がった二重堀切が構築されている。この帯曲輪は南尾根まで繋がっているが、南尾根だけは堀切がない。前述の主郭から伸びる西尾根は鵜住居西城に繋がっているが、この尾根に西城との連絡路を塞ぐように単発の堀切があり、東城・西城が一体となって機能していたことはほぼ確実である。元々鵜住居東城・西城を地形図で見つけた時は、チャシレベルの大した城でない可能性もあると想像していたが、実際の遺構を見るとしっかり堀切が穿たれた、知られざる中世城郭であった。
北出郭の物見台→DSCN0189.JPG
DSCN0221.JPG←主郭
主郭西の二重堀切→DSCN0231.JPG
↓赤色立体図で見た鵜住居東城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z鵜住居東城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.322666/141.893125/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※岩手県の「いわてデジタルマップ」の文化財地図に記載されていないため、新発見城郭として記載しています。もし地元ではかねてより城跡として認識されている場合は、コメントいただけると幸いです。

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
ラベル:中世山城
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2025年12月06日

釜石平田城〔仮称〕(岩手県釜石市)

DSCN0129.JPG←主郭背後の堀切(内堀)
 釜石平田城は、アプリ「スーパー地形」で5月に公開された1mメッシュデータから発見した城である。現認は2025年11月下旬。狐崎城から南方約3kmの位置にあり、江戸時代に南部藩が伊達藩との藩境に番所を置いた平田地区の北側に当たる。現在は眼下に水産技術センターなどが建つ平地が広がっているが、これは全て埋立地で、埋め立て以前は眼下に海が迫っていた。つまり平田城は、釜石中心部に通じる海沿いの街道を扼する位置にある。この地域では、1601年に葛西氏旧臣らが狐崎城で蜂起した釜石一揆が起こり、伊達軍に討伐されている。このことから平田城は、釜石一揆の一揆勢が伊達軍の接近を阻止するために築いた城砦だった可能性がある。尚、城名であるが、大船渡市三陸町にも平田城があることから、区別するために釜石平田城と命名した。

 平田城は、標高98mの山上に築かれている。現在城の北側に釜石斎場が建っており、駐車場脇から山裾に取り付いて東側の斜面を登れば城に行ける。山頂に狭小な主郭を置き、背後の尾根に二重堀切を穿っている。二重堀切の外堀は小さいが、内堀はしっかりした規模で背後を分断している。内堀から左右に落ちる竪堀の脇には、主郭の南北両方の下方に竪土塁を挟んで横堀が始まり、そのまま北東と南東の尾根に向かって長大な空堀となって落ちている。特に南側の空堀が始まる横堀部分の土塁には多数の石があり、石積があった可能性がある。主郭の東と北東の尾根には腰曲輪が何段も築かれているが、東尾根に大きな一郭があり、ニノ郭と思われる。この他、主郭の北東側の腰曲輪群には虎口らしい跡があり、そこにも石が多数あって、石積の虎口が築かれていた可能性がある。
主郭から見た二重堀切→DSCN0116.JPG
DSCN0135.JPG←横堀土塁の石積らしい跡
二ノ郭→DSCN0098.JPG
DSCN0141.JPG←北東尾根の空堀
↓赤色立体図で見た釜石平田城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z平田城赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.250813/141.886750/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※岩手県の「いわてデジタルマップ」の文化財地図に記載されていないため、新発見城郭として記載しています。もし地元ではかねてより城跡として認識されている場合は、コメントいただけると幸いです。

城館調査の手引き - 中井 均
城館調査の手引き - 中井 均
ラベル:中世山城
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2025年11月06日

毒沢城(岩手県花巻市)

DSCN1336.JPG←幅広のニノ郭と主郭
 毒沢城は、和賀氏の庶流で重臣である毒沢氏の居城である。毒沢氏は、和賀氏18代政義の3男盛義が1366年に独沢郷に2百余町を賜って入部したことに始まるとされる。以後、1590年の豊臣秀吉の奥州仕置で主家和賀氏が改易されたことに伴い、毒沢氏が追放されるまで歴代の居城となった。追放された毒沢義森は、1600年の和賀一揆(岩崎一揆)に加担したが敗れ、主君和賀忠親と共に仙台で自刃した。義森の子毒沢伊賀守一忠は伊達政宗に仕え、その娘勝子姫は政宗の側室となって伊達兵部少輔宗勝(後の一関藩主)を産んだ。

 毒沢城は、標高約250mの山上に築かれている。城域は大きく2つに分かれ、南の主城部と北の出丸である北郭群とがある。城への登道は複数整備されているが、全体の遺構の周りやすさから、北の谷戸の奥にある搦手の登り口から登城した。
 主城部は公園化されて薮払いされているので、遺構が見やすくなっている。中心に高台となった主郭を置き、その外周に輪郭式に二ノ郭を廻らしている。主郭は土塁のない平坦な曲輪で、東西でわずかな段差で区画されている。南東に一段低く虎口郭が置かれている。二ノ郭は幅広で、ある程度の居住性のある曲輪である。更にその外周に1~2段の帯曲輪が築かれているが、いずれも幅が広めである。また帯曲輪の北西に舌状の曲輪が築かれ、二ノ郭の南西には半島状に突き出た西郭が構築されている。西郭は、中央がやや高くなってスロープ状に降っており、北西辺と南端に低土塁が築かれ、外周に帯曲輪が廻らされている。南端の先には浅い堀切を介して物見台的な小郭が築かれている。
 北郭群は、主城部のすぐ北東の尾根にあるが、未整備で、冬場は枯れ木に覆われている。ほぼ自然地形の地山の周囲に帯曲輪群を数段廻らしただけの簡素な構造で、いかにも付属の出城という趣である。
 以上が毒沢城の遺構で、整備された主城部は城の構造がわかりやすい。

 尚、『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の縄張図であるが、毒沢城のものと車館のものとが入れ替わってしまっているので、注意が必要である。
西郭先端の堀切→DSCN1366.JPG
DSCN1448.JPG←北郭群の帯曲輪
↓スーパー地形で見た毒沢城
z毒沢城_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.344447/141.232085/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
ラベル:中世山城
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2025年11月04日

野手崎城(岩手県奥州市)

DSCN1201.JPG←本丸から見た曲輪群
野手崎城は、小梁川館とも呼ばれ、藩政時代に伊達家の家臣大立目氏、後に小梁川氏の居館である。伊達家の藩制で言う「野手崎所」(「所」は「要害」の下のランク)である。葛西大崎一揆の鎮圧後、旧葛西・大崎領を与えられた伊達政宗は、領内各地に家臣を配したが、野手崎には大立目内匠・中村九平治らを置いて統治させた。大立目氏は高屋敷館と呼ばれる平坦地に居館を置き、古館には中村九平治らが入り、野手崎城を構築して対立する盛岡南部藩領和賀郡境の治安警備に当たらせた。1644年、小梁川氏6代中務宗影がこの地に移封となり、そのまま幕末まで居住した。

野手崎城は、烏帽子山(館山)の東北東に伸びた尾根が末広がりとなった先端部を利用して築かれている。基本的には切岸だけで区画されたひな壇状の曲輪群で構成された城で、背後に明確な堀切はないが、本丸後部に土壇があり、その裏は堀切状となっている。最上段に本丸があり、その下には表記はないが二の丸と思われる平場が広がっている。両者には建物の礎石跡と思われる石が散在している。二の丸の北東には大手門跡があり、大手門から大手小路に繋がる通路は大きく屈曲し、実質的な枡形を形成している。また南北に通じる通路部は横に土塁が築かれて横堀状を呈している。この通路の東に広がる曲輪が高屋敷館で、わずかな段差で区画された2段の平場で構成されている。一方、二の丸の南東に張り出した曲輪は御蔵・厩舎跡である。これらの下方にも段々に平場があり、これらは家臣団屋敷跡である。この屋敷群の中央を貫通するように大手小路が東に下っている。その先には枡形が形成されている。この他、城からやや南に離れた山上に小梁川氏の廟所がある。以上が野手崎城の遺構で、一応の防御構造と要害性は持ち合わせているが、近世城郭らしく政庁機能を主体とした城である。
大手門跡→DSCN1172.JPG
DSCN1142.JPG←最下方にある枡形
↓スーパー地形で見た野手崎城
z野手崎城_com.kashmir3d.superdem.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.285397/141.259033/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

伊達の国の物語 政宗からはじまる仙台藩二七〇年 - 菅野正道
伊達の国の物語 政宗からはじまる仙台藩二七〇年 - 菅野正道
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2025年11月02日

浮牛城(岩手県北上市)

DSCN1092.JPG←二の丸から見た城跡
 浮牛城は、藩政時代には上口内要害と呼ばれ、伊達氏が領内に置いた21要害(城の一つ下のランク)の一である。元々は、葛西氏の家臣江刺氏の一族口内帯刀の居城であった。伝承では最初の構築は安倍貞任によると言われるが、もとより伝説の域を出ない。戦国末期の天正年間(1573~92年)に岩谷堂城主江刺兵庫頭重恒が修築し、その子である口内帯刀が居住したと伝えられる。1590年に主家葛西氏が豊臣秀吉の奥州仕置によって改易となると、江刺氏一族は南部氏に仕えた。葛西大崎一揆を経て旧葛西・大崎領が伊達政宗に与えられると、口内の地は伊達・南部両藩の藩境に接する伊達藩北方の重要拠点であったため、上口内要害として取り立てられ、瀬上氏・小梁川氏・藤田氏・田手氏らの重臣が相次いで配された。1659年には古内氏が上口内要害に封じられ、その後1695年に中島氏がこの地を拝領すると、明治の廃藩置県まで続いた。
 尚、浮牛城という城名は5代藩主伊達吉村による命名であるらしく、中世にこの城が何と呼ばれていたのかは文献がなくよくわからない。元の名は、口内城とでも呼ぶべきであろうか。

 浮牛城は、口内川の東岸にある比高20m程の独立丘に築かれている。現在城跡は公園化されており、かなり改変を受けているものの概ねの形態は残っているようである。本丸は中心にあり、切岸で囲まれた三角形の曲輪で、南端には本丸門の内枡形跡が、また本丸内には梵字池跡が残っている。本丸の周囲には、周囲より一段高い腰曲輪が廻らされている。この腰曲輪は、西側は二の平、東側は的場と呼ばれていたようである。腰曲輪の北西から北辺にかけては横堀が穿たれ、北東の台地基部では折れ曲がってクランクし、横矢掛りを意識している。腰曲輪の東側には二の丸や要害屋敷の曲輪が広がっていたらしいが、ただの空き地に変貌しており、外周を囲んでいた水堀も現在は湮滅している。以上が浮牛城の遺構で、かなり改変を受けているものの城らしい形態は残っている。
本丸門跡の内枡形→DSCN1076.JPG
↓スーパー地形で見た浮牛城
z浮牛城_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.298386/141.203947/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

伊達家: 仙台藩 (家からみる江戸大名) - J・F・モリス
伊達家: 仙台藩 (家からみる江戸大名) - J・F・モリス
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2025年10月31日

枛ノ木田古楯(岩手県北上市)

DSCN0956.JPG←主郭横堀、奥は二ノ郭
 枛ノ木田(はのきだ)古楯(枛ノ木田古館)は、枛ノ木田城の詰城と考えられている。城主については枛ノ木田城の項に記載する。

 枛ノ木田古楯は、枛ノ木田城の東方約400mの位置にあり、谷を挟んで相対している。城へは、北西から林道が城のすぐ後ろまで通っているのでそれを辿り、城のある尾根まで来たところ(左手に「県行造林 舘沢事業区」という表示板が出ている)で林道から南西の山林に入って訪城した。城は東西に大きく2つの曲輪群で構成されている。東の主郭は、南西部が一段低く腰曲輪状となった平坦な曲輪で、後部に堀切を穿ち、この堀切はそのまま南に竪堀となって落ちている。また堀切は主郭北側で横堀に変化し、外側に大土塁を築いて、二ノ郭との間の堀切に繋がっている。主郭~二ノ郭間はこの堀切で分断され、堀切北端は横堀と合流し、更に合流点から北に竪堀となって落ちている。この堀切の南端も竪堀となって南に落ちている。西の曲輪群は切岸で区画されたニノ郭・三ノ郭・四ノ郭が段状に配列され、その先に先端郭が築かれている。二ノ郭後部にだけ土塁が築かれ、主郭との間の分断を強化している。ニノ郭~四ノ郭の外周には更に腰曲輪が廻らされ、先端郭の下方には片堀切と城道が通じている。この他、三ノ郭の東端部に枡形虎口らしい構造も見られる。枡形虎口があるということは設計が新しい城と思われるが、なぜ古楯(館)と呼ばれているのだろうか?以上が枛ノ木田古楯の構造で、比較的薮が少なくて歩きやすく、遺構もよく残っている。
堀の合流点から落ちる竪堀→DSCN0958.JPG
DSCN0959.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
↓スーパー地形で見た枛ノ木田古楯
z枛ノ木田古楯_com.kashmir3d.superdem.jpg
↓枛ノ木田城と枛ノ木田古楯の位置関係
z枛ノ木田2城_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.278972/141.180376/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。

パーツから考える戦国期城郭論 - 西股総生
パーツから考える戦国期城郭論 - 西股総生
ラベル:中世平山城
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2025年10月29日

枛ノ木田城(岩手県北上市)

DSCN0912.JPG←背後の堀切
 枛ノ木田(はのきだ)城は、城主として枛ノ木田大和、枛ノ木田大炊の名が伝わっているが、詳細は不明。『日本城郭大系』によれば、枛ノ木田氏は及川氏の一族であるらしい。詰城として枛ノ木田古楯があり、両城一体となって機能したと見られる。

 枛ノ木田城は、現在民家の敷地となっている。民家に入る南側の登道が大手とされる。敷地の外側から確認したが、主郭の北角と北東角に堀状の出入り口らしいものがあった。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』には北角のものは西門と書かれているが、北東角のものは具体名が書かれていない。裏門跡であろうか。また背後に堀切があるが、明確なのは東部分だけだった。
裏門跡?→DSCN0911.JPG
↓スーパー地形で見た枛ノ木田城
zはの木田城_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.279700/141.176080/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世崖端城
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2025年10月27日

立花高楯(岩手県北上市)

DSCN0871.JPG←主郭外周を廻る横堀
 立花高楯(立花高館)は、本来の城名を単に高館と言う。しかし「高館」では県内だけでも各地にあるため、ここでは地名を冠して立花高楯と呼称する。伝承では源満仲の家臣藤原仲光の居城とされるが、もとより伝説に過ぎない。実際には、戦国時代に和賀氏によって築かれたものと推測されている。但し、『岩手県中世城館跡分布調査報告書』では、一部の発掘調査で遺構も遺物も全く発見されなかったこと、また各曲輪の連絡や堀の規模が一定していないことなどから、未完成のまま放棄した可能性を指摘している。

 立花高楯は、北上川東方の東から西に伸びた細長い丘陵先端付近に築かれている。大きく5つの平場で構成された連郭式の城である。最後部に主郭を置き、そこから西に向かって二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭・五ノ郭と配置し、更に外周斜面に腰曲輪を配置している。五ノ郭腰曲輪には妙見社が建っている。妙見社といえば千葉氏と言うぐらい、関東では下総の名族千葉氏との所縁の深い神社であるので、この城も奥州千葉氏に連なる一族が関連したものだろうか?五ノ郭の背後にだけ堀切が穿たれて、四ノ郭との間を分断している。四ノ郭は城内最大の曲輪で、全体がくの字に折れた形状をしている。四ノ郭から主郭までは切岸だけで区画されている。いずれの曲輪にも土塁は築かれていない。主郭南には虎口郭があり、二ノ郭と繋がっている。またニノ郭と虎口郭との接続部には、竪堀状の城道があって南腰曲輪に繋がっている。一方、主郭後部には横堀が穿たれ、この横堀は南西に向かって下っており、前述の南腰曲輪の横に落ちてきている。横堀の外周は帯曲輪状の平場となっているが、周りの丘陵部との区画は明確でなく、どこまで城域となっていたのかははっきりしない。横堀は、主郭の北側から四ノ郭北側まで、城の中枢部北側を囲むように伸びていたと思われるが、四ノ郭北側以外はほとんど埋もれてしまっている。以上が立花高楯の遺構で、堀切・横堀や曲輪群がよく残っており、未完成の城という感じはなかった。
五ノ郭背後の堀切→DSCN0771.JPG
DSCN0896.JPG←城の中枢部北側の横堀跡
↓スーパー地形で見た立花高楯
z立花高楯_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.283712/141.149065/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
ラベル:中世平山城
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