2026年05月26日

窪寺城(長野県長野市)

DSCN7907.JPG←城域を2分する堀切
 窪寺城は、この地を支配した土豪窪寺氏の詰城である。1400年に新守護小笠原長秀に信濃国人衆が反抗して生起した大塔合戦の時、大文字一揆が集まって相談したのがこの城であったと伝えられる。後に小田切氏に属したが、甲越両軍が川中島の領有を巡って争った際に、武田軍に攻められて落城したと言う。

 窪寺城は、富士ノ塔山の南東に伸びた尾根先端部の高台を利用して築かれている。背後に当たる北西の丘陵とは自然地形に手を加えた大空堀で分断されており、先端の高台に南西から北東に向かって曲輪群を展開した縄張りとなっている。主郭は南西の最高所にあり、長方形に近い形状の曲輪で、前後に前郭・後郭を伴っている。主郭とこれら前後の曲輪は、一応切岸と思しき斜面で区画されているが、緩い斜面になっていて、あまりしっかりした構築ではない。前郭の前面には堀切が穿たれ、城域を大きく2つに分断している。堀切の北にあるのが二ノ郭で、上下の平場に分かれているが、平場自体も傾斜しているし、間を区画する斜面も緩やかで明確な段差にはなっておらず、普請が不徹底な印象である。この他、二ノ郭の前面に3段、主郭後郭の後方に2段の腰曲輪が築かれている。窪寺城は、遺構はよく残っているが、全体的に普請が荒く、戦国期にはあまり積極的な活用はされていなかったように見受けられる。
背後の丘陵と分断する空堀→DSCN7918.JPG
↓MPI赤色立体図で見た窪寺城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-05-19 203929.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.637346/138.164826/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

検証 川中島の戦い (588) (歴史文化ライブラリー 588) - 村石 正行
検証 川中島の戦い (588) (歴史文化ライブラリー 588) - 村石 正行
ラベル:中世平山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年05月24日

吉窪城(長野県長野市)

DSCN7755.JPG←主郭~二ノ郭間の仕切り土塁
 吉窪城は、この地の豪族小田切氏の城と推測されている。現地解説板によれば、小田切氏は元々佐久郡臼田小田切郷を本拠としていたが、鎌倉時代に小市の地頭となって移住し、小市今里等に居館を構え、背後に詰城の小市城を築いたと伝えられる。小市城とは、この吉窪城のこととする説がある。戦国時代には、小田切駿河守幸長は当初東信の雄村上義清に属し、甲斐武田氏の侵攻を受けると、村上氏と共に越後上杉方に加わった。1557年3月15日、武田信玄が葛山城を攻撃した際、幸長は春日・朝日・長嶺・久保寺・平林・布施・横山等組下七騎衆を率いて城を守ったが、武田方の火攻めによって上杉軍の援軍到着寸前に落城し、幸長は討死した。数度の川中島合戦の結果、川中島地域は武田氏の制圧するところとなり、幸長の子民部少輔は一時武田氏に仕えて400貫の知行を受けた。しかし後に衰微し流転を重ね、末裔は高井郡に移ったと言う。

 吉窪城は、犀川北岸にそびえる標高620mの山上に築かれている。犀川が川中島平へ抜ける喉元を扼する要衝で、しかも川中島平を一望できる場所にある。山頂に紡錘形をした曲輪があり、郭内西寄りに曲輪を東西に仕切る一直線の長い土塁が築かれている。土塁の東が主郭と思われるが、郭内にいくつかの段差があり、しかも傾斜している平場もあって遺構なのか後世の改変なのか、よくわからない。また土塁西側の平場が二ノ郭と思われるが、石積みを伴った窪地が散在し、これもどういう構造であったのか判断が難しい。虎口を形成していたと思われる石積みも見られるが、そこから郭内に入った窪地の形状が虎口のようには見えないので、これも後世の改変の可能性がある。『信濃の山城と館』ではこれらを「竪穴式の小屋の遺構」としているが、採石場跡とか炭焼きの跡とか、城郭関連でない感じがする。二ノ郭の北西部は大きな段差で一段低くなっているが、ここにも郭内に段があり、北辺に空堀らしい地形も見られる。主郭・二ノ郭の外周には土塁が数ヶ所築かれ、特に主郭の北側から東面にかけては土塁が明瞭である。この他、主郭の南北に腰曲輪が築かれているが、北側の腰曲輪に対しては、主郭塁線が数ヶ所折れて横矢を掛けており、その内の1ヶ所は虎口を形成している。北の腰曲輪の北東部から2本の竪堀が落ちており、城に接近しやすいこの方面に防御構造が集中している。一方、南の腰曲輪の南端部にはL字型の土塁が築かれ、この部分だけ腰曲輪が空堀状を呈している。城の東西にも小型の段曲輪が築かれている。以上が吉窪城の遺構で、城の縄張りがはっきりしている所と不明瞭な所が混在している感じで、掴みどころのない城という印象を受けた。
南腰曲輪のL字型土塁→DSCN7821.JPG
↓MPI赤色立体図で見た吉窪城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-05-18 214546.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.625327/138.122791/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3) - 宮坂武男
宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3) - 宮坂武男
ラベル:中世山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年05月22日

上尾城(長野県長野市)

DSCN7620.JPG←主郭背後の堀切
 上尾城は、滋野系望月氏の子孫布施氏の一族平林氏の歴代の居城である。布施庄地頭職を相伝した布施氏は、応仁年間(1467~69年)に入ると更級郡西山地方に勢力を伸ばし、左衛門尉正直は山平林の上尾山上に居住して平林氏を称した。父の布施冠者直頼は、山布施城に居住したが、若くして隠遁生活に入り、長子正直が若年のため、弟直長に家督を譲り、正直が成人した暁には家督を譲るよう決めた。しかし、正直および弟正頼(平林蔵人佑)が成人しても家督は譲られなかったため、内訌が生じ、結局直長は敗れて出奔した。その頃、正直は上尾城、弟は有旅城にいたが、正直に子がないため、弟の正頼が上尾城に入って家を継いだ。その後平林氏は東信の雄村上氏に属し、村上氏が甲斐武田氏に逐われると、その後は武田氏に属して活躍した。政頼の孫正家は武田信玄の命で要衝牧之島城の副将となり、1569年の北条氏との戦いでは先鋒となって討死した。その子正恒は、当初上尾城に居住していたが、武田勝頼の命令で牧之島城に移り住んだ。1582年3月、織田信長の武田征伐で織田勢が進撃してくると、正恒は一旦上尾城に退いた。しかし同年6月、本能寺の変で信長が横死すると、武田遺領を制圧していた織田勢は瓦解し、森長可は本領の美濃金山城に逃れた。北信4郡には越後の上杉景勝が入って制圧し、平林氏は上杉勢の援助で牧之島城を奪還し、その後は上杉氏に仕えた。1598年に上杉氏が会津に移封となると、平林氏は2000石を給され、白河小峰城に移った。

 上尾城は、犀川東岸の段丘の上の高台に築かれている。犀川沿いの道路から見ると、まるで隠れ里のような集落の奥にある。その集落背後の高台の北端に城がある。台形状の主郭と、その北のやや丸みを帯びた形状の二ノ郭、先端に物見台らしき小郭を配置した縄張りとなっている。それぞれの曲輪は堀切で分断され、主郭の南辺と西辺、二ノ郭の南辺には土塁が築かれている。また主郭の南側中央には虎口がある。主郭背後には殿屋敷・蔵屋敷などの地名が残る平場があるが、廃屋があるだけで薮に埋もれている。ただ北東端に堀切の名残と思われる堀城地形が残っている。以上が主城部であるが、南東の丘陵部を登った先にも、遠堀と思われる空堀が2本確認できる。以上が上尾城の遺構で、一部耕作で改変されている部分もあるが、ほとんどの遺構は良く残っている。しかし現在はほとんどが耕作放棄地らしく、全体的に薮に覆われてしまっていて遺構の確認がしづらくなっているのは惜しい。
先端の堀切と物見台→DSCN7657.JPG
DSCN7694.JPG←南東の丘陵部にある遠堀
↓MPI赤色立体図で見た上尾城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z上尾城MPI赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.582500/138.059014/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優
武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優
ラベル:中世平山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年05月20日

牧之島城(長野県長野市)

DSCN7494.JPG←丸馬出しと三日月堀
 牧之島城は、甲斐武田氏が築いた更級郡の拠点城郭である。元々この地には香坂氏が勢力を張り、牧之島城の前身となる居城・牧城があった。1561年、武田信玄によって香坂氏は誅殺され、その名跡は同氏の娘婿春日弾正虎綱が継いだ。牧之島城の築城には諸説あり、1562年8月28日、信玄が馬場美濃守信房に命じて築かせたとも、1566年10月に信房が城代になったとも言われる。いずれにしても、1566年8月27日に牧之島城のある御供平にいた人々の屋敷を、新しい縄張りで築城するにあたり屋敷替えを命じた文書があるので、この頃まで継続して築城されていたと推測される。牧之島城は、深志城から川中島に進出する交通の要地であり、拠点として重視された。1575年、長篠合戦で馬場信房が討死すると、翌年、信房の子昌房が牧之島城の城将となり、地侍平林正恒も武田勝頼の命令で在城した。1582年3月、織田信長の武田征伐により深志城を守っていた昌房は殺され、平林正恒らは上尾城にいったん退き、更級郡を含む北信4郡は森長可が統治することとなった。しかし同年6月、本能寺の変で信長が横死すると、武田遺領を制圧していた織田勢は瓦解し、森長可は本領の美濃金山城に逃れた。北信4郡には越後の上杉景勝が入って制圧し、平林氏は上杉勢の援助で牧之島城を奪還した。北条・徳川・上杉3氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」とその後の信濃の抗争の中で、深志城を本拠として信濃北部への侵攻を図る小笠原貞慶に対抗するため、境目の城である牧之島城には芋川親正を置き、荒砥城と共に北信濃衆を集中配備して守らせた。1598年に豊臣秀吉の命で上杉氏が会津に移封となると、牧野島の地侍たちも会津に移転した。その後は、松代の領主が牧之島城を預かって城番を置いたらしい。1603年、徳川家康の6男松平忠輝が松代に入ると、牧之島城に家老を置いて統治した。1616年、忠輝が不行跡によって改易されると、元和の一国一城令によって牧之島城もまもなく廃城になったものと思われる。

 牧之島城は、犀川曲流部に東から突き出たスプーンのような形状の台地の括れて細くなった部分に築かれている。一部が道路建設や民家となって損壊しているが、概ねの遺構は良く残っている。大きな空堀を穿ち、枡形虎口と丸馬出しを設けた武田流築城法がよくわかる城である。近世初頭まで存続しているが、ほとんど武田氏時代のままの縄張りが維持されたようである。本丸は長方形に近い形状であるが、北西部に入隅があり、北中央と東中央に枡形虎口を築いている。枡形の形状は、躑躅ヶ崎館新府城のものと同形状のものである。本丸は断崖に面した南以外の三方に高土塁を築いて防御している。本丸北側に水堀を挟んで二ノ丸が置かれている。二ノ丸は道路が貫通しているので改変を受けているが、東側に本丸土塁と繋がる高土塁があり、稲荷社が建っている。この高土塁は本丸塁線より東に張り出していて、東側虎口に対する横矢掛りを意図している。本丸・二ノ丸の東西には深い空堀が穿たれている。西には帯曲輪を挟んでもう1本空堀がある。東側は、空堀の外にきれいな丸馬出しと三日月堀が残っている。古絵図を見ると、往時は2連の丸馬出しがあり、さらにその東側に大手枡形があったらしいが、北側の丸馬出しと大手枡形は湮滅している。以上が牧之島城の遺構で、集落のすぐそばによくこれだけの遺構が残ったものだと感心する。
本丸北側の枡形→DSCN7539.JPG
DSCN7584.JPG←本丸・二ノ丸西の空堀
↓MPI赤色立体図で見た牧之島城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-05-11 235822.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.561756/137.998748/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

天正壬午の乱 増補改訂版 - 平山 優
天正壬午の乱 増補改訂版 - 平山 優
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年05月18日

蟻ヶ城(長野県長野市)

DSCN7420.JPG
↑南斜面の畝状竪堀

 蟻ヶ城は、歴史不詳の城である。『日本城郭大系』では拠点城郭・牧之島城に属する物見砦と推測している。

 蟻ヶ城は、標高1028mの山上に築かれている。南麓の四阿山社の奥宮の石祠が城内にあるので、参道がついている。 ただこの参道、斜面直登のストレートの一本道でなかなかきつい。逃げ場のない一本道の登城路は女神岳城を思い出す。山頂に堀切で区画された主郭と二ノ郭を並べている。主郭は土塁のない小規模な曲輪で、南側半周に帯曲輪を廻らしている。二ノ郭は細長い曲輪で、東側に帯曲輪を伴い、北端に土壇を築いている。その北側は二重堀切で尾根筋を分断している。この城の最大の特徴は、主郭帯曲輪の下方に穿たれた畝状竪堀である。かなり浅いものだが、形状は割とはっきりわかった。主郭と二ノ郭を区画する堀切は、南東側に長い竪堀となって落ち、この畝状竪堀の東端を画している。また主郭の西尾根側方にも竪堀数本が確認できる。これらの他、二ノ郭の東尾根にも2本の堀切とその間に連なる段曲輪群がある。

 以上が蟻ヶ城の縄張りで、単なる物見砦にしてはかなりしっかりした普請がされている。この城を築いた勢力を推定する有力な手がかりが畝状竪堀である。実は武田系城郭では畝状竪堀の例は意外に少なく、武田の城で多いのは放射状竪堀群なのである。従って、蟻ヶ城を築いたのは上杉勢力ではないか、というのが私の見立ててである。稲荷山城の項でも記載したが、天正壬午の乱終結後の北信をめぐる抗争の中で、北信濃4郡を押さえた上杉景勝が、深志城を押さえて安曇・更級方面への侵攻を図る徳川方の小笠原貞慶に備えて各所の守りを固めている。更級郡の要衝牧之島城には芋川親正を城将として配置しており、この地方の防備の一環でこの蟻ヶ城を築いたのではないかと思われる。ただ、街道から少し奥まった山に築かれているのは、高所を利用した狼煙伝達を主任務としつつ、侵攻を受けた時には少数の兵で小笠原勢を足止めすることを企図した城だったのではないだろうか。
北尾根の二重堀切の内堀→DSCN7451.JPG

↓MPI赤色立体図で見た蟻ヶ城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-05-11 235604.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.523701/138.015992/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優
武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優
ラベル:中世山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年05月16日

砦山城(長野県長野市)

DSCN7312.JPG←北東の丸馬出しの土橋と堀
 砦山城は、古文書に現れる大岡城のことと考えられている。1558年、武田信玄が上杉謙信の川中島への進攻に備えて北信諸城の番手を決めた際、大岡籠城衆の中に市川梅隠斎・青柳近江守清長らを置いた。また天正壬午の乱終結後の北信をめぐる抗争の中で、1584年8月に小笠原貞慶は家臣の日岐盛武・細萱河内守に大岡城の仕置きを堅固にして上杉勢に備えることを命じている。

 砦山城は、天宗寺の南西の丘陵上に築かれている。1辺約40mの正方形の曲輪を空堀で囲繞した単郭の小城砦であるが、特徴的なのは三方に築かれた虎口で、北東と南西に丸馬出しを設け、南東には出枡形を築いている。特に南西の丸馬出しは斜面に向かって突き出た、城内最大の馬出しで外周の三日月堀と両側の土橋など、武田流築城術の特徴的な形態がはっきりと見て取れる。主郭とは空堀で分断され、木橋で連結していたと思われる。それに対して北東の丸馬出しは、主郭後部の土塁の外側に出枡形のように突き出ており、前面に三日月堀を穿ち、両側に土橋を架けて外部と連絡している。主郭後部に当たる北東辺には土塁が築かれ、北西辺と南東角付近にも土塁が築かれている。郭内は南西に向かって傾斜している。以上が砦山城の遺構で、武田氏系城郭の特徴的な構造がよく分かる好例である。
南西の丸馬出しに架かる土橋→DSCN7368.JPG
↓MPI赤色立体図で見た砦山城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-05-11 235345.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.501923/137.985951/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田三代の城 - 岩本 誠城
武田三代の城 - 岩本 誠城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年05月14日

船山守護所(長野県千曲市)

DSCN7305.JPG←南側の堀跡と思われる道
 船山守護所は、建武の新政期に信濃守護職に補せられた小笠原貞宗が、埴科郡船山郷内に置いた守護所(守護館)である。後に守護所は平芝に移転した。尚、鎌倉後期に執権北条氏の一族北条基時(後に13代執権を務めた)が信濃守護に補せられた折り、船山郷の中心地に館(守護所)を置いていた可能性があり、小笠原氏の船山守護所はその跡地に置かれた可能性も指摘されている。

 船山守護所は、その正確な所在地も不明であるが、現在の小船山地区にあったと考えられている。現在は完全に住宅地化していて遺構は完全に湮滅している。しかし『信濃の山城と館』では、堀跡が道路跡として残っている可能性を指摘している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.513546/138.122638/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

南北朝武将列伝 北朝編 - 亀田俊和, 杉山一弥
南北朝武将列伝 北朝編 - 亀田俊和, 杉山一弥
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年05月12日

稲荷山城(長野県千曲市)

DSCN7269.JPG←鉦山に残る城址碑
 稲荷山城は、上杉景勝が小笠原貞慶に備えて築いた城である。1582年3月に甲斐武田氏を滅ぼした織田信長であったが、わずか3ヶ月後に本能寺の変で横死し、織田領に併合されたばかりの旧武田領の甲斐・信濃両国は、権力の巨大な空白地帯となった。この機に乗じて北条・徳川・上杉が三方から甲斐・信濃に進撃し、周辺大名の草刈り場と化した(天正壬午の乱)。この直前、越後の上杉景勝は織田勢に三方から侵攻され、滅亡寸前の状況であったが、信長横死の報とともに織田勢が潮が引くように上杉領国から退いていったため息を吹き返し、北信濃4郡の経略に取り掛かった。景勝は、要衝の海津城に村上景国を配し、副将として屋代秀正を置いた。その翌年、深志城を押さえて徳川家康に与した小笠原貞慶が上杉方に付いた青柳城麻績城を攻撃していたため、景勝は松田民部助盛直(日岐盛直)・保科(綿内)豊後守に小笠原勢の川中島侵攻を阻む前線基地として、千曲川西岸に稲荷山城の築城を命じた。天正壬午の乱終結後も上杉氏は稲荷山城に城将を置いたらしく、1594年の上杉氏の目録には、稲荷山留守役衆として保科佐左衛門・小田切備前守・同金千代丸・須崎彦兵衛・同権助らの名が見える。1598年に上杉氏が会津に移封となると廃城になったとも、1615年の元和の一国一城令で廃城になったとも言われる。

 稲荷山城は、江戸時代には宿場町となり、現在は市街地となっている。移行はほとんど湮滅しているが、天正年間(1573~92年)の櫓台の跡と伝えられる鉦(どら)山がわずかに残っている。また城小路の井戸も車道脇に残っている。明確なのはこれぐらいで、その他は水路と道の配置とで城の痕跡を想像するしかない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.535442/138.105369/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優
武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年05月10日

和田城(長野県長野市)

DSCN7208.JPG←二ノ郭西側の二重空堀
 和田城は、地侍田野口氏の要害と伝えられている。戦国期には、田野口氏は上尾城主平林氏に属していたらしい。それ以外の詳細は不明である。

 和田城は、密蔵寺背後の丘陵南端部に築かれている。南端に菱形をした主郭を置き、その北から西にかけて二ノ郭をめぐらし、二ノ郭の北に三ノ郭を配置した縄張りとなっている。主郭の後部2辺には土類が築かれ、背後には幅のあるL字型の空堀が穿たれている。二ノ郭は北半の3辺に土塁が築かれている。二ノ郭の幅は一定ではなく、主郭北西角部が曲輪の奥まで入り込み、曲輪の幅が狭くなっている。これはおそらく当初は主郭から二ノ郭までのひろい範囲を旧主郭としていたものを、後から内部に堀を穿って2つの曲輪に分けて、防御性を増す改修をしたことによるのだろう。二ノ郭の北側には空堀が穿たれて三ノ郭と分断されている。見事なのは二ノ郭の西側の堀で、美しい二重空堀が穿たれている。途中で三ノ郭との間の空堀と直交しながら北側まで掘り切っている。この二重空堀は、三ノ郭の北側で東に向かって湾曲している。また三ノ郭の西側部分だけ、外堀の外にも土塁が築かれている。三ノ郭は、ほとんど地山のままで明確な普請の跡は見られない。この他、主郭の南斜面に2段の腰曲輪が築かれ、主郭先端から伸びる東尾根には小堀切と小郭がある。以上が和田城の遺構で、美しい二重空堀が特徴の城である。
主郭の空堀と切岸→DSCN7226.JPG
↓MPI赤色立体図で見た和田城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-05-08 003631.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.566843/138.078335/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3) - 宮坂武男
宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3) - 宮坂武男
ラベル:中世崖端城
posted by アテンザ23Z at 22:15| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年05月08日

塩崎城(長野県長野市)

DSCN7053.JPG←二ノ郭後部の石積みの壇
 塩崎城は、歴史に残る2つの合戦でその名を刻む城である。築城時期は不明だが、小笠原氏の一族赤沢氏が築いた要害であったと言われている。赤沢氏は、小笠原長清の孫清経が伊豆国赤沢に住んで赤沢氏を称したことに始まる一族で、建武年間(1334~38年)に北条時行に与した四野宮氏が幕府方の信濃守護小笠原貞宗に滅ぼされ、その所領を手中にした貞宗が一族の赤沢伊豆守経興にこの地を与え、塩崎赤沢氏となった。
 最初にこの城が歴史の表舞台に現れるのは、1400年の大塔合戦の時である。1399年に室町幕府より信濃守護に補任された小笠原長秀は、信濃入国後、守護権力を背景に有力国人衆に対して強権的な支配を推し進めた結果、1400年、信濃の有力国人衆(大文字一揆)が北信の雄村上満信を中心に反小笠原に立ち上がり、長秀と合戦となった。これが大塔合戦である。最初小笠原勢は横田城に入ったが、圧倒的な劣勢で、長秀は150騎の将士と共に塩崎城に逃げ込んだ。しかし寡兵により国人衆に抗しきれず、結局長秀は佐久の大井氏の仲介で京都に逃げ帰り、守護を罷免された。
 次に塩崎城が現れるのは、1564年の第5次川中島合戦の時である。7月29日に川中島に着陣した上杉謙信に対して、武田信玄は8月下旬に塩崎城に在陣し、両軍は川中島地域で対陣したことが知られる。しかし信玄は謙信と一戦する気は無かったらしく、すぐに転進して9月1日には小諸城に在陣した。そのまま両軍はしばらく在陣を続けたが、結局10月に両軍とも帰国した。

 塩崎城は、長谷寺の背後にそびえる標高560mの山上に築かれている。比較的コンパクトに纏められた、求心性の高い縄張りで、竪堀を多用し、更に曲輪群の各所に石積みが広範囲に散在した城である。主郭は方形の曲輪で、後部に櫓台を設けている。この櫓台と主郭北辺には崩れた石積みが残っている。主郭櫓台の後部には舌状曲輪があるが、面白いことに位置的に主郭より高い位置にある。主郭背後を防衛する防御陣地的な曲輪だったと推測される。この舌状曲輪の付け根には南北に長い竪堀が落ちている。舌状曲輪の先には大堀切が穿たれ、更に小郭を挟んで二重堀切が穿たれて背後の尾根筋を遮断している。これらの堀切から、両翼に竪堀が長く伸びている。一方、主郭前面には二ノ郭・三ノ郭がひな壇状に築かれ、更にその前面には10段の腰曲輪群が、また主郭の南北斜面にも腰曲輪が築かれている。二ノ郭の後部南寄りには見事な石積みが残る壇があるが、物見櫓か何かが建っていたものと思われる。また二ノ郭・三ノ郭・腰曲輪群には各所に石積み跡が残り、また腰曲輪群から北斜面に向かって合計5本の竪堀が落ちている。この内、西側2本の竪堀を連結するように、横堀も走っている。
 以上が主城部であるが、最後の堀切から西に100m程離れた円形の峰の背後に、土塁を伴った長い堀切が穿たれている。峰自体は自然地形であるが、後部の外郭もしくは出砦として機能していたと思われ、もしかしたら信玄在陣時に兵の駐屯地であったのかもしれない。
 城内は整備されていて以降の確認がし易く、非常に綺麗に遺構が残る城である。
主郭北側の竪堀→DSCN7077.JPG
DSCN6987.JPG←西の峰背後の長い堀切
↓MPI赤色立体図で見た塩崎城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-05-07 211751.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.549780/138.095441/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

駿甲相三国同盟 今川、武田、北条、覇権の攻防 (角川新書) - 黒田 基樹
駿甲相三国同盟 今川、武田、北条、覇権の攻防 (角川新書) - 黒田 基樹
posted by アテンザ23Z at 00:20| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年04月30日

赤沢城(長野県長野市)

DSCN6918.JPG←西側の畝状竪堀
 赤沢城は、同時代の軍忠状では塩崎新城と記載される城で、1400年の大塔合戦から3年後の再度の動乱の際に村上満信らの信濃国人一揆によって築かれた。大塔合戦で幕府が任命した信濃守護小笠原長秀が国人衆から拒絶されて京都に逃げ帰ると、幕府は長秀を罷免し、信濃国を幕府直轄領とした。幕府は細川慈忠を代官として派遣したが、1403年7月24日、村上満信・大井光矩・友野(伴野)・井上光頼・須田らの国人衆はこれに従わず、再び大乱となった。満信は、小笠原長秀が立て籠もった塩崎城とは別に塩崎新城(赤沢城)を築いて抵抗したが、慈忠率いる幕府軍は檀原合戦・生仁城攻撃に次いで、塩崎新城を攻撃して10月3日に攻め落としたことが、『市河氏貞軍忠状』(市河文書)に見える。その後の歴史は不明であるが、現在残る竪堀群は戦国期のものと推測され、川中島に進出した甲斐武田氏による改修があった可能性がある。

 赤沢城は、長野自動車道 城山トンネルの東にあり、北に向かって突き出た山稜上に築かれている。北から順に二ノ郭、繋ぎ郭・主郭・三ノ郭・外郭と並んでいる。二ノ郭~主郭の西側は採石で削られてしまっているが、ほとんどの遺構は残っているようである。二ノ郭は、北斜面に数段の腰曲輪を置いた縦長の曲輪で、後部に土塁を築いている。土塁の背後は浅い堀切を介して繋ぎ郭がある。繋ぎ郭の南東部には鉄塔が建っている。そこから帯曲輪のある斜面を登ると、小さな半円形の主郭がある。主郭後部には土塁が築かれているが、外側には石積みの痕跡が残っている。主郭背後には二重堀切があり、両側方に竪堀が長く伸びている。この竪堀は、東斜面では少し下方で1本加わって三重竪堀となり、西斜面では2本の竪堀が並走して4条の畝状竪堀となっている。非常にはっきりわかる規模の竪堀群なのだが、残念なことに、未整備の薮で覆われていてわかりにくい部分が多い。二重堀切の南に長方形の三ノ郭がある。三ノ郭の南には堀切が穿たれ、そこから両側方に竪堀が落ちている。西の竪堀は、前述の畝状竪堀が合流している。東の竪堀の先には、両側に腰曲輪を築いた虎口があり、外郭に通じる斜めの登道が付いている。外郭は薮だらけのため踏査できていない。大手道は、前述の虎口から東尾根に伸びており、その側方にも東曲輪群がある。東尾根の先端には、物見台と思われる小郭があり、基部を浅い堀切で穿っている。以上が赤沢城の遺構で、竪堀群を効果的に配置しているのが特徴である。しかし全体的に未整備の薮が多く、踏査できない曲輪が多いのは残念である。
主郭背後の堀切→DSCN6932.JPG
DSCN6940.JPG←主郭後部の石積み
↓MPI赤色立体図で見た赤沢城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z赤沢城(塩崎新城)MPI赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.540733/138.098608/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻) - 花岡康隆
信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻) - 花岡康隆
ラベル:中世山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年04月28日

小坂城(長野県千曲市)

DSCN6824.JPG←背後尾根遺構群の大堀切
 小坂城は、この地の土豪桑原氏が築いたとの伝承があるが、確証はない。現地解説板によれば、塩崎城の赤沢氏は村上氏に対抗するため、小坂城を築いて家老の桑原氏に守らせた。1553年、武田信玄は葛尾城主村上義清を追い出してこの地域を支配下に収めると、保科弾正義昌を小坂城に置いて守らせた。戦国末期の1583年、武田氏滅亡後に北信四郡を制圧した上杉景勝は、稲荷山に平城の稲荷山城を築き、保科備後守を置き、深志城を本拠とした小笠原貞慶の侵攻に備えるため、多数の猿ケ馬場衆を配置したと言う。猿ケ馬場衆は、小坂城・佐野山城龍王城に配置された兵卒と推測されている。この頃には、小坂城は稲荷山城の支城として機能していたと考えられる。いずれにしても当初は在地勢力が要害として築いたものが、戦国後期の戦乱の中で武田・上杉両勢力によって改修されたのであろう。

 小坂城は、龍洞院背後の山上に築かれている。城域は大きく2つに分かれており、標高574m地点の主郭を中心とした主城部と、標高610~20mにかけて南北に伸びる背後尾根の遺構群とがある。まず主城部は、ややひしゃげた長方形に近い形の広い主郭を中心に、南斜面に10段程の腰曲輪群、西と南東にも腰曲輪群を築いて前面の防御を固めている。主郭切岸や、腰曲輪群の切岸には多くの石積みが散在している。主郭の背後には堀切を挟んで小さな二ノ郭がある。二ノ郭は東から北面にかけて低土塁が築かれ、後部に浅い二重堀切が穿たれている。その北に小郭があり、更に堀切を穿って背後尾根を遮断している。ここから尾根筋を登った先に背後尾根の遺構群がある。ここには南端に水滴形の物見郭があり、更に南斜面に2段の小郭が置かれている。物見郭の後ろには合計6本の堀切群が穿たれている。最初は浅い二重堀切で、間の土塁には尾根の両側に岩があって門を形成していたと思われる。この二重堀切の先に土壇を挟んで規模の大きな二重堀切が穿たれ、小さな曲輪を挟んで大堀切、更に細尾根の曲輪が続いて、最後の堀切が穿たれて城域が終わっている。背後尾根の多重堀切は見応え十分で、多重堀切としての規模は山家城以来のものである。背後の備えを殊更重視しており、武田氏か上杉氏によって大きく改修された痕跡を示していると思われる。
腰曲輪の石積み→DSCN6856.JPG
DSCN6836.JPG←主郭背後の堀切
↓MPI赤色立体図で見た小坂城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z小坂城MPI赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.535978/138.089145/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

検証 川中島の戦い (588) (歴史文化ライブラリー 588) - 村石 正行
検証 川中島の戦い (588) (歴史文化ライブラリー 588) - 村石 正行
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年04月26日

佐野山城(長野県千曲市)

DSCN6605.JPG←詰丸背後の堀切
 佐野山城は、この地の土豪桑原氏の居城と伝えられている。『諏訪御符礼之古書』などの史料によれば、桑原氏の活動は1459年から1479年にかけて確認できる。文明年間(1469~87年)の四宮庄の頭役桑原六郎次郎貞光が、1485年に塩崎貞光を名乗っており、以後桑原氏の名は史料から消える。これ以降は塩崎氏を称して活動したものと思われる。戦国時代に入ると、佐野山城は北信濃の戦略的要衝として歴史の表舞台に登場する。1553年、武田信玄が葛尾城主村上義清を攻めた際、葛尾城の背後に位置するこの城の動向が重視された。同年4月、屋代政国と塩崎氏が村上氏に叛して武田方に付いた際、桑原で大岡方面の敵を押さえるために拠ったのが、この佐野山城と考えられている。1557年の第3次川中島合戦では、善光寺平に進出した上杉謙信が飯山城に後退し、武田方の北信濃の国衆市川氏の攻略を進めたため、これに対抗して武田信玄は本陣を塩田城から佐野山に進めており、この時信玄の本陣が佐野山城に置かれた可能性が高い。結局この時甲越両軍の直接の合戦はなかったが、10月まで信玄は佐野山に在陣していたと推測される。その後時代は下って武田氏滅亡後の1584年4月1日、上杉景勝の部将屋代秀正が上杉氏から離反し徳川方に転じて荒砥城に籠城した時、屋代氏と共に離反した塩崎六郎次郎が拠った城として、直江兼続の書状に「逆徒居城」として佐野山城の名が記されている。これは同年3月に生起した小牧・長久手合戦に連動して、徳川家康が羽柴方の上杉氏を動揺させるために仕掛けたものと推測されている。しかし屋代氏・塩崎氏らは北信諸将の内応もなく、徳川方からの援軍も得られなかったため、上杉方の攻撃を受けて4月8日夜に城を捨てて逃亡し、虚空蔵山城を占拠した。上杉方は虚空蔵山城を攻撃したが、激戦の末に撃退され、荒砥城・佐野山城等を境目の城として警固を厳重にして撤退したと見られる。その後、豊臣政権下で国分協定が行われ、この地方が上杉氏の支配下として確定すると廃城となったと思われる。

 佐野山城は、佐野川に向かって突き出た山間の尾根上に築かれている。山上に長方形の主郭を置き、その前面に一段低くL字型の腰曲輪を築き、背後尾根の高台に細長い詰丸を配置している。主郭と詰丸との間は斜面だけで区画されているが、詰丸の背後には堀切が穿たれ、その後部に長円形の土壇がある。土壇の役割はよくわからない。また主郭の東下方には南北に長く伸びた腰曲輪があり、その北端の西上に根本をU字型の小堀切で区画された小郭がある。これらが城の中心部で、そこから東側に扇形に広がる斜面上にはおびただしい数の帯曲輪群が築かれている。この帯曲輪群の中を抜ける道があるが、後世の改変の可能性があり、城道とは俄には判断しがたい。ただ帯曲輪群の中段の北端部に舌状曲輪があり、そこに登ってくる道は曲輪に入ったところで枡形状に屈曲しているので、これは往時の城道であったと思われる。また下方の道の一部は横堀状を呈しており、これも遺構と思われる。以上の他に、主郭の北斜面・舌状曲輪の付け根の北斜面に竪堀が見られる。以上が佐野山城の遺構で、戦国末期まで使われた城にしては、縄張り面の技巧性はあまり感じられず、後部尾根の防御も小堀切1本だけと貧弱で、少々物足りなく感じる。
 尚、『日本城郭大系』には石垣があると書かれているが、現地では確認できなかった。掲載されている縄張図も実態とは少々異なっているので、誤認であろうか。また現地解説板の縄張図も実態とかけ離れており、何を誤認したものか、不思議に思う。
東斜面の帯曲輪群→DSCN6542.JPG
↓MPI赤色立体図で見た佐野山城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-04-27 175554.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.518059/138.062711/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優
武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優
ラベル:中世山城
posted by アテンザ23Z at 13:13| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年09月20日

大草城(長野県中川村)

DSCN9606.JPG←切岸で囲まれた主郭
 大草城は、南北朝時代に後醍醐天皇の皇子宗良親王を庇護した大河原城主香坂高宗の城である。香坂氏は佐久の滋野氏の分流と言われ、大河原への進出は平安末期と推測されている。1336年、北朝(持明院統)を奉じる足利尊氏の元から吉野に逃れて南朝を打ち立てた後醍醐天皇であったが、南北朝分裂初期に南朝方の軍事力の柱石であった三木一草(楠木正成・名和長年(伯耆)・結城親光・千種忠顕)・北畠顕家・新田義貞を相次いで失い、各地の南朝勢力の再建が急務となった。そこで1338年、各地に自分の分身である皇子たちを派遣して、南朝勢力結集の核にしようと企てた。この時、宗良親王は伊勢から出港したが大風に遭って遠江に漂着し、井伊氏の庇護を受けて井伊谷に拠った。その後、北朝方の攻撃を受けたため、越後・越中を経由して1343年頃に信濃国大河原の地に入り、以来武蔵野合戦などに出陣しながら、30余年間この地を本拠とした。伊那谷では、香坂氏をはじめとする南朝勢力が天竜川東岸の地を押さえたが、西岸には北朝方の信濃守護小笠原貞宗や船山城の片切氏、飯島城の飯島氏らが勢力を有しており、大草城は北朝方諸豪と対峙する重要拠点だったとされる。南北朝期以後も高宗の子孫が大草郷を領有していた。戦国後期には伊那諸豪と同様に甲斐武田氏に属していたが、1582年織田信長による武田征伐の際、大草城主大草庄三郎入道休斎(香坂宗縁)は織田氏に降伏。その後の天正壬午の乱の中で、当初北条氏、後に徳川氏に帰属した。その後、香坂氏は慶長の頃まで代官となっていたらしい。

 大草城は、天竜川東岸の段丘が、深沢川とその支流による浸食谷で南北を削られた要害地形に築かれている。現在は城址公園となっている。大きく3つの曲輪で構成されており、中心に高台となった不整五角形の主郭を置き、西に舌状に突き出た二ノ郭、北に広い三ノ郭を配置している。また主郭と二ノ郭の南側には腰曲輪が築かれている。主郭と二ノ郭・三ノ郭との間には空堀が穿たれていたらしいが、現在はほとんど埋められてしまっており、二ノ郭堀切の南端部だけ地形に痕跡が残る。その他では、三ノ郭東側の空堀が往時の痕跡を留めている。以上が大草城の遺構で、全面が公園となっているが城の雰囲気はよく残っている。現在でも急峻な断崖の上に築かれたことがよく分かる。
腰曲輪と二ノ郭切岸→DSCN9602.JPG
DSCN9566.JPG←三ノ郭東側の空堀跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.628360/137.945874/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

南北朝武将列伝 南朝編 - 亀田俊和, 生駒孝臣
南北朝武将列伝 南朝編 - 亀田俊和, 生駒孝臣
ラベル:中世崖端城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年09月18日

北山城(長野県飯島町)

DSCN9500.JPG←南側の二重空堀
 北山城は、伝承では船山城主片切小八郎景重の家臣上沼氏が居住し、その子孫が1582年の織田氏による武田征伐の際に織田信忠によって城と共に滅亡したと伝えられる。しかしこの地が戦場になった史実は確認されておらず、明確な歴史は不明である。

 北山城は、千人塚公園南東の丘陵先端部に築かれている。公園内になるのかと思ったら結構離れていて、谷戸一つ隔てた南の丘陵にある。農耕地の中の道を東に進めば城に至る。単郭の城と思われ、周囲を二重空堀で囲んだだけの簡単な構造である。西側は農耕地に改変されていて空堀が消失しているが、往時は西側も二重空堀を穿っていたと推測されている。南から東に向かった二重空堀の内堀に、北側の二重空堀が接続し、内堀はそのまま竪堀となって少し下ったところで、外堀と合流して1本の竪堀となって落ちている。『信濃の山城と館』では、麓の根小屋と結ぶ大手筋の登城路となっていたものと推測している。主郭内は東に向かって傾斜している。以上が北山城で、二重空堀だけの城である。
主郭北東角の空堀接続部→DSCN9519.JPG
↓CS立体図で見た北山城(提供:長野県林業総合センター)
20250907144557.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.667722/137.898080/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館 5 上伊那編 - 宮坂 武男
縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館 5 上伊那編 - 宮坂 武男
ラベル:中世平山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年09月17日

岩間の狼煙台(長野県飯島町)

DSCN9482.JPG←狼煙台周囲の空堀
 岩間の狼煙台は、岩間城に付随する狼煙台と考えられている。岩間城からは300m程しか離れておらず、居館に近い低位置の狼煙台として珍しい遺構とされる。丘陵基部の果樹園を進んでいった先の山林内に遺構がある。北は本沢川に臨む急斜面で、それ以外の三方を空堀で囲んで防御している。内部は3段の平場に分かれ、後部に土塁を築いている。小さな城砦で要害性も低いが、狼煙場としてはこれで十分だったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.681757/137.907939/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館 5 上伊那編 - 宮坂 武男
縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館 5 上伊那編 - 宮坂 武男
ラベル:中世平山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年09月15日

岩間城(長野県飯島町)

DSCN9465.JPG←城跡の現況
 岩間城は、船山城主片切氏の庶流岩間氏の居城である。片切為基の孫の為綱が飯島町本郷に分封されて飯島氏初代となり、続く為光の子為弘が岩間に分封されて岩間氏の祖となったと伝わる。即ち岩間氏は飯島氏と同族で、飯島十騎に名を連ねた豪族である。1221年の承久の乱では、飯島太郎・片切六弥太らと共に岩間三郎父子・同七郎が参戦し、軍功を上げた。その後、合戦記には岩間氏の名は現れず、諏訪社の造営に関わっていたことがわかるだけである。時代は降って1582年、小太郎為遠の時に織田信長の武田征伐を受け、為遠は大島城で討死し、長子源太郎は帰農したと言う。尚、城の西方約300mの丘陵先端部には狼煙台があり、御嶽山には詰城が築かれている。

 岩間城は、一面の耕作地と一部が宅地に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。解説板が立っている場所は微高地となっているが、発掘調査の結果でもどこまでが城域だったのか判明していない。失われた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.682140/137.911720/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

中世武士団 (講談社学術文庫) - 石井進
中世武士団 (講談社学術文庫) - 石井進

ラベル:中世平城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年09月14日

唐沢城(長野県飯島町)

DSCN9461.JPG←東斜面の腰曲輪群
 唐沢城は、1534年、西箕輪中条の領主唐沢隼人助昌綱の子唐沢備前守義景がこの地に入部して居館を構えたことに始まると伝えられる。1556年、武田信玄の伊那侵攻によって唐沢氏は滅亡した。その後、武田氏の家臣小泉五郎左衛門が飯島に300貫文の地を与えられて30騎の将としてこの地を領し、居館を構えた。1582年、織田信長の武田征伐の際、小泉五郎左衛門・新左衛門父子は高遠城で討死したと言う。

 唐沢城は、天竜川西岸の河岸段丘先端部に築かれている。北は郷沢川によって削られた急崖となっており、要害の地である。城内は田畝開発でほとんど改変されており、明確な遺構はわずかである。主郭は東端に突き出た平場で、周囲に小さな腰曲輪が数ヶ所築かれている。主郭の先端に城の石碑があるが、この先の斜面は柵があって主郭から出ることはできない。主郭の北辺にはわずかに土塁跡が残存し、曲輪の根本の南北には堀切の名残である竪堀が見られる。主郭の西側には、二ノ郭・三ノ郭・南郭があったようだが、現在は改変されて段差以外はほとんど失われており、三ノ郭背後の空堀だけわずかに堀形を残しているに過ぎない。この城で一番遺構をよく残しているのは、主郭東斜面に築かれた階段状の腰曲輪群と、その側方に築かれた竪土塁・竪堀で、日曽利橋のたもとから斜面に取り付くとすぐに確認できる。以上が唐沢城の遺構で、一部を除いて遺構が失われてしまっているのが惜しまれる。
主郭北辺の残存土塁→DSCN9419.JPG
DSCN9457.JPG←東斜面の竪土塁・竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.682095/137.946460/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田氏滅亡 (角川選書) - 平山 優
武田氏滅亡 (角川選書) - 平山 優
ラベル:中世崖端城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年09月12日

吉瀬城(長野県駒ヶ根市)

DSCN9372.JPG←東尾根の堀切
 吉瀬(きせ)城は、吉瀬の城山とも言い、歴史不明ながら狼煙台の伝承が残る。南麓の吉瀬集落に根小屋があったことが想定され、『信濃の山城と館』ではそこに番士の居住区があり、城山を守り、狼煙台の見張りの任務についていたことが想像できるとしている。

 吉瀬城は、天竜川曲流部南岸にそびえる標高680m、比高80m程の山上に築かれている。南麓の谷沿いに登る道がある。山頂の主郭を中心に、四方に伸びる尾根上に曲輪群を展開した城である。主郭の西には一段低い二ノ郭が舌状に築かれている。二ノ郭の先には2段程の小郭が置かれ、その先は急峻な尾根となって落ち込んでいる。また主郭の東から南にかけての¼周に腰曲輪が築かれている。この腰曲輪の南の尾根に曲輪群が築かれている。腰曲輪下の舌状曲輪には鉄塔が立っているため改変を受けている。『信濃の山城と館』ではこの曲輪の根本に堀切が描かれているが、現在では側方の竪堀しか痕跡を留めていない。更にその先の尾根に細長い曲輪があり、段差部の東側に土塁を伸ばしている。先端に小郭4~5段を築いて終わっている。主郭腰曲輪の東には浅い堀切を介して尾根が伸び、その先に古道の貫通部が堀切を兼ねている。登道はここに通じている。以上が吉瀬城の遺構で、堀切は小さくささやかで、主郭も小さく物見レベルのものである。狼煙台であったとの伝承は事実であったと思われる。
南尾根の堀切の痕跡→DSCN9395.JPG
↓CS立体図で見た貝沼の吉瀬城(提供:長野県林業総合センター)
20250906150423.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.701004/137.961412/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館 5 上伊那編 - 宮坂 武男
縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館 5 上伊那編 - 宮坂 武男
ラベル:中世山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年09月10日

菅沼城(長野県駒ヶ根市)

DSCN9340.JPG←主郭背後の堀切
 菅沼城は、この地の有力土豪菅沼氏の城と伝えられる。菅沼氏は、中沢氏に縁のある一族と考えられ、1482年には菅沼有員が諏訪上社神使御頭を務めている。また菅沼城主としては菅沼阿波守の名が伝わっており、阿波守は1549年、上伊那を制圧した武田信玄に降伏せず切腹し、菅沼城は落城したと伝えられる。しかし残った一族の者は武田氏に属したらしく、武田氏麾下の中沢衆の中に菅沼久兵衛・同次右衛門の名がある。菅沼城主も中沢衆として武田軍団に組織されていた可能性が考えられると言う。

 菅沼城は、天竜川東岸の、南に下間川による浸食谷が入り込んだ河岸段丘の先端部に築かれている。先端に方形の広い主郭を置き、その西と南の二辺に幅のある腰曲輪が築かれている。南の腰曲輪には主郭南西角の下に段差が作られている。主郭背後は大きな箱堀状の堀切が穿たれ、その後ろに幅のある土塁が築かれている。武者溜まりだったと思われる。その後ろには更に堀切が穿たれて、台地基部と分断している。この他、南斜面の主郭背後の堀切の延長線上には竪堀が落ちている。以上が菅沼城の遺構で、畑に改変されているもののしっかりした遺構を残している。
尚、北にある常秀院には、1392年に地頭の中沢氏が菩提供養に建てた宝篋印塔が残っている。
腰曲輪から見た主郭→DSCN9332.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.725751/137.977170/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

甲信越の名城を歩く 長野編 - 中澤 克昭, 河西 克造
甲信越の名城を歩く 長野編 - 中澤 克昭, 河西 克造
ラベル:中世崖端城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年09月08日

高田城(長野県駒ヶ根市)

DSCN9286.JPG←北辺の土塁
 高田城は、中世後期に中沢郷の有力土豪高田氏に関係した城と考えられている。高田氏は、文明年間(1469~87年)には高田信景、武田氏支配時代には中沢衆に属した高田甚蔵・同与一郎の名が知られると言う。

 高田城は、天竜川東岸の段丘先端部に築かれている。単郭の館城で、郭内は現在畑となっており改変を受けているが、北辺部にはへの字に折れた土塁が残っている。東側の車道は堀切跡とされ、この堀沿いの曲輪北東端は一段高くなっていて、ここに「古城址」と刻まれた小さな石碑が立っている。曲輪の西端部は根本がやや括れており、往時はここに堀があったと推測されている。以上が高田城の遺構で、改変が進んでいるものの城跡の雰囲気は感じられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.749347/137.969562/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城 - 香川元太郎
ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城 - 香川元太郎
ラベル:中世崖端城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年09月06日

塩田城(長野県駒ヶ根市)

DSCN9192.JPG←主郭南の土橋が架かった堀切
 塩田城は、明確な歴史は不明であるが、近くにあった青木城には牛山道賢と言う武士が居城していたと言われ、牛山氏に関連した城との説がある。尚、道賢は、1574年頃に武田氏に属して青木城にいたが、火山峠を越えて南福知に移り、牛ヶ城を築いたと伝えられる。また1582年7月、武田氏・織田信長滅亡後の天正壬午の乱の際、伊那衆が徳川家康に提出した起請文の中に汐田左近・牛山左衛門の名があり、塩田城は両人が関係した城と考えられている。

 塩田城は、塩田川北方にある比高70m程の小山に築かれている。西麓の上塩田集落から東の山中に入っていく林道があるのでそれを途中まで進み、右手に見える尾根に取り付きやすいところから登り、あとは尾根筋を辿れば城に至る。南から城に近づくと、最初に現れるのが中央に土橋が架かった堀切で、その上に小郭があり、小郭の上に主郭が築かれている。主郭は土塁で囲まれた長円形の曲輪で、前述の小郭に向いた南西辺に大手虎口、後部東端部に搦手虎口をそれぞれ築いている。主郭の後部にも土塁を伴った小郭があり、その先を堀切で分断している。この堀切から西に向かって落ちる竪堀の横に、もう1本小竪堀が穿たれて並走して落ちている。堀切の北にまた小郭があり、その先に土橋がかかった堀切が穿たれている。その先の尾根から西に向かって横堀が伸びており、西端で堀切から落ちた竪堀と合流している。この横堀は、竪堀との合流点付近で消失している。一方、主郭の北から西にかけて2段の帯曲輪が築かれており、主郭背後1本目の堀切から落ちる竪堀は斜めに降って、一旦ここの下段の帯曲輪に繋がった所で、もう1回角度を変えた竪堀に変化して落としている。下段の帯曲輪は、中間付近で竪堀が穿たれている。その西側では帯曲輪が浅い横堀に変化して伸びており、主郭南側の堀切から落ちる竪堀に突き当たって終わっている。この他、南に伸びた尾根の少し先に浅い二重堀切が穿たれている。以上が塩田城の遺構で、コンパクトにまとめられた城で、要所を土塁・堀切・竪堀で防御した構造となっている。
並走して落ちる2本の竪堀→DSCN9214.JPG
DSCN9267.JPG←南尾根の浅い二重堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.763640/137.982945/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田三代の城 - 岩本 誠城
武田三代の城 - 岩本 誠城
ラベル:中世山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年09月04日

貝沼の物見ヤ城(長野県伊那市)

DSCN9149.JPG←主郭背後の二重堀切
 貝沼の物見ヤ城は、武田信玄の5男で高遠城主であった仁科五郎盛信が、物見ヤ城と言ったという伝説が残る城である。しかし具体的な城歴は不明で、『信濃の山城と館』では在地土豪層の要害と推測している。

 貝沼の物見ヤ城は、標高1019.2mの山上に築かれている。登りのルートはいくつかあるようだが、私は桜井城を経由して北の尾根を辿るルートを選択した。城は山頂に主郭を置き、その北西に二ノ郭、その西に3郭が置かれている。主郭は土塁で全周を囲んだ縦長の長円形の曲輪で、東西中央に虎口を築いている。主郭の前面には小郭1段と堀切を築いて、二ノ郭との間を分断している。更にこの堀切は、西斜面に竪堀1本を伴っている。主郭背後には二重堀切が穿たれて南尾根を分断しており、内堀の主郭側には石積が残っている。また主郭の東斜面には2段の帯曲輪が築かれている。二ノ郭は3段の平場に分かれていて、東西に段差があり、更に西側の平場は南北2段に分かれている。一番高いのが南東の平場で、細長く土塁で囲まれている。二ノ郭の下段曲輪の南に帯曲輪が築かれ、中段曲輪の北にも腰曲輪が築かれている。前述の北尾根を辿ってくるとこの腰曲輪に至るので、北尾根の城道に対する虎口郭の機能を有していたと思われる。二ノ郭の西には浅い堀切が穿たれているが、この堀切の南側はしっかり掘り込まれた竪堀となって落ちている。3郭はやや削平の甘い曲輪であるが、先端部には切岸で尾根と区画している。その下方の尾根には片側だけ竪堀が穿たれている。以上が貝沼の物見ヤ城の遺構で、物見レベルではなく普請がしっかりされていて、高遠城の防衛網の一翼を担う城であった可能性が考えられる。仁科盛信が関係した城との伝説も、あながち作り話ではないように思われる。
土塁で囲まれた主郭→DSCN9144.JPG
DSCN9088.JPG←3郭の先に穿たれた竪堀
↓CS立体図で見た貝沼の物見ヤ城(提供:長野県林業総合センター)
z貝沼の物見ヤ城CS立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.815139/138.014715/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館 5 上伊那編 - 宮坂 武男
縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館 5 上伊那編 - 宮坂 武男
ラベル:中世山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年09月01日

桜井城〔仮称〕(長野県伊那市)

DSCN9031.JPG←主郭虎口
 桜井城は、登山をしているとらネコさんが発見した城である。貝沼の物見ヤ城への登道を調べていたら、たまたまYAMAPにとらネコさんが掲載していた記事を見つけた。ここでは地名を取って桜井城として紹介する。

 桜井城は、三峰川南方の標高787m、比高80m程の小ピークに築かれている。なんでこの城がこれまで見つかっていなかったのかと言うぐらい、普請のはっきりした城である。南北2郭から構成された小型の城である。やや傾斜のある北西の尾根を登っていくと、きれいに削平された二ノ郭に至る。二ノ郭は舌状に細長い曲輪で、東側には土塁を築き、西側には2段の帯曲輪を置いて防御している。二ノ郭の付け根は、東側は短い竪堀を穿ち、西側は帯曲輪に通じる虎口を築いている。帯曲輪の上段は、主郭西側まで伸びている。主郭は二ノ郭より1段高く築かれた五角形の曲輪で、土塁が全周し、二ノ郭側の中央に虎口を開いている。主郭の背後に小型の腰曲輪を1段築き、その裏に浅い堀切を穿っている。そこから背後の尾根を少し登ったところにも中央を削り残して両側に竪堀を穿った堀切がある。以上が桜井城の遺構で、土塁・虎口など明確な城郭構造がしっかりと残っているが、構造は比較的単純であり、武田氏支配時代以前に機能していた城のように思われる。
二ノ郭の土塁→DSCN9019.JPG
DSCN9172.JPG←尾根上方の堀切
↓CS立体図で見た桜井城(提供:長野県林業総合センター)
z桜井城CS立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.828372/138.012584/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

城館調査の手引き - 中井 均
城館調査の手引き - 中井 均
ラベル:中世山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年08月31日

前沢城(長野県中川村)

DSCN8925.JPG←主郭背後の堀切
 前沢城は、船山城主片切氏の庶流前沢氏の居城である。承久の乱で活躍した片切源太長頼の弟源三郎盛友がこの地に分封されて前沢氏を称し、前沢城を築いたと伝えられる。前沢氏のその後の事績は明確ではないが、戦国時代に甲斐武田氏が伊那を制圧すると、片切氏は武田氏に属し、春近衆として秋山虎繁(信友)の配下にいたので、前沢氏も秋山氏に従って転戦したと思われる。

 前沢城は、天竜川西岸の、北に小河川による浸食谷が入り込んだ河岸段丘の先端部に築かれている。先端に横長の長円形をした主郭を築き、背後を堀切で分断している。主郭は後部に土塁を築いている。主郭内は薮だらけで内部に建っている祠も辛うじて分かる程度で酷い状態である。主郭の北東と南東には堀切が穿たれ、それぞれの前面に小郭が置かれて防御を固めているが、どちらの小郭も薮が酷い。しかし堀切から落ちる竪堀はしっかりしていてわかりやすい。南東から南に落ちる竪堀は、主郭背後の堀切から落ちる竪堀とY字型に合流している。また北東の堀切から東に落ちる竪堀と、南東の堀切から北東に落ちる竪堀もY字型に合流している。この他、主郭西の台地基部は平地になっていて、二ノ郭が置かれていたと思われるが、二ノ郭西端を区画する堀切は浅い溝状で、ほとんど防御性を持っておらず、実際に曲輪として機能したのかよくわからない。ニノ郭南東下方には物見の小郭があり、その側方に竪堀が落ちている。以上が前沢城で、小規模な城であり、遺構はよく残っているが薮が酷くて見劣りする。
Y字型に合流する竪堀→DSCN8956.JPG
↓CS立体図で見た前沢城(提供:長野県林業総合センター)
zCS立体図_前沢城.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.625855/137.916705/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

「城取り」の軍事学: 築城者の視点から考える戦国の城 - 西股 総生
「城取り」の軍事学: 築城者の視点から考える戦国の城 - 西股 総生
ラベル:中世崖端城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年08月29日

船山城(長野県松川町)

DSCN8859.JPG←郭地区先端の堀切・竪堀
 船山城は、平安末期から戦国時代まで春近領片切郷を領した豪族片切氏の居城である。片切氏は清和源氏為公流で、為公の子為基が信濃国伊那郡片桐に住んで片桐氏を称したことに始まる。この地を本拠として、岩間氏・名子氏・大島氏らの分流を輩出した。片切氏は平安末期から鎌倉時代にかけて、清和源氏の一族として源氏の嫡流に従って数々の合戦に出陣した。為基の孫為重は1156年の保元の乱の際、源為義に属して討死し、その弟景重は保元の乱・平治の乱で源義朝に従って活躍した。源氏の没落によって平氏に領地を没収されたが、源頼朝が鎌倉幕府を興すと本領を安堵され鎌倉幕府御家人に名を連ねた。頼朝の上洛に際しては、大島・名子氏など片切氏一族27名が随伴し、1221年の承久の乱では片切三郎が小笠原・武田氏らの東山道軍に加わったほか、片切源太夫・源太・小太郎らも従軍したことが知られる。室町時代には信濃守護小笠原氏に属して大塔合戦や結城合戦に参陣した。1554年、甲斐の武田信玄が下伊那に侵攻すると、鈴岡城主小笠原信定の下で武田氏に抵抗したが、結局抗しきれずに片切・飯島・上穂・赤須・大島の春近五人衆は武田氏に降り、5人合わせて50騎の軍役に服し、春近衆として秋山虎繁(信友)の配下に組み込まれた。1582年、織田信長が武田征伐を開始すると、船山城は落城し、武田氏滅亡により片切氏も没落した。尚、豊臣政権下で重臣となった片桐且元は、信濃国から近江国に本拠を移した片切氏の一族の後裔である。

 船山城は、天竜川西岸の、南に南沢という浸食谷が入り込んだ河岸段丘の先端部に築かれている。東西に伸びた城域は、大きく2つの区域に分かれている。西側は台地上に広く広がった本城地区、東側は段丘先端の細尾根上に構築され、出丸と呼ばれる郭地区となっている。本城地区は中世後期に作られた部分と推測されており、堀切で東西2郭に分かれ、東が主郭、西が二ノ郭とされている。二ノ郭は大半が畑であるが、北西角に御射山神社が建っている。二ノ郭の西側にも堀切が穿たれて台地との間を隔絶している。主郭と二ノ郭の間の堀切は、北半分はほとんど埋められて湮滅しているが、南半分は堀形を残している。主郭の東側には郭地区との間を穿つ堀切がある。郭地区は中世前期に築かれた古い部分と推測されており、こちらも堀切で3つの曲輪に分かれている。『信濃の山城と館』に従って東から順に1郭・2郭・3郭と呼称すると、東先端の1郭が初期の主郭と思われ、曲輪の東下方にも堀切が穿たれ、その前面に物見の小郭が置かれている。またこの堀切からもう1本竪堀が東に向かって落ちている。1郭の西には堀切を挟んで2郭があるが、2郭は削平の甘い細尾根の曲輪で、東端部が1段高くなっている。1郭・2郭の南斜面には帯曲輪が築かれている。2郭の西側に堀切を挟んで3郭があるが、3郭は尾根上の曲輪にしてはかなりの広さがあり、後部にしっかりとした土塁が築かれている。3郭の北側下方には小道が通っていて、往時の武者走りであった可能性があり、ここに竪堀群が穿たれている。以上が船山城の遺構で、県の史跡に指定されているだけあって、よく遺構を残している。ただ、『信濃の山城と館』の縄張図は、帯曲輪が書かれていなかったり、先端部の堀配置も少々異なっていて、注意が必要である。
二ノ郭西の堀切→DSCN8789.JPG
↓CS立体図で見た船山城(提供:長野県林業総合センター)
z船山城CS立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.614475/137.916070/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館 5 上伊那編 - 宮坂 武男
縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館 5 上伊那編 - 宮坂 武男
ラベル:中世崖端城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年08月27日

名子城(長野県松川町)

DSCN8763.JPG←主郭の土塁
 名子城は、船山城主片切氏の庶流名子氏が、有事の場合に備えて築いた詰城と推測されている。名子氏の事績は名子氏館の項に記載する。

 名子城は、比高50m程の河岸段丘先端に築かれている。城のある台地は北に唐沢川、南に大名川による浸食谷が天然の堀となっており、東は段丘崖に面した要害地形となっている。この城は、段丘崖に「城山」の植木文字が書かれているので、遠目にもよく分かる。場内は公園化されて整備されている。城はほぼ単郭の構造で、背後の台地基部を堀切で分断した東側に縦長台形の主郭を置き、主郭周囲に腰曲輪をめぐらしただけの単純な構造である。腰曲輪は東側だけ2段築かれている。また主郭内も東辺部だけ一段低くなっている。主郭は外周に土塁を廻らして防御を固めている。南側中央に大手虎口が築かれている。背後の堀切は幅があるが浅く、かなり埋まってしまっていると思われる。西の台地基部は老人福祉センターが建設されて大きく改変されているので、往時の形状は現在ではわからなくなってしまっている。以上が名子城の遺構で、古い形態をそのまま残した城である。
北側の腰曲輪と主郭切岸→DSCN8723.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.599797/137.903051/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

吾妻鏡―鎌倉幕府「正史」の虚実 (中公新書) - 藪本勝治
吾妻鏡―鎌倉幕府「正史」の虚実 (中公新書) - 藪本勝治
ラベル:中世崖端城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年08月26日

名子氏館(長野県松川町)

DSCN8707.JPG←東側の土塁
 名子氏は、船山城主片切氏の庶流で、平安末期に片切兵庫助為行の6男景重がこの地に分封されて名子氏を称したとされる。以後、鎌倉時代には春近領名子郷の地頭代として領民を支配した。『吾妻鏡』には、1241年に名子氏が先の承久の乱の際の恩賞に漏れていたため、鎌倉幕府は名子氏を追賞したことが記されている。室町時代には信濃守護小笠原氏に属して大塔合戦や結城合戦に参陣した。後には大島城主大島氏に属し、更に武田氏進出後は武田氏に属した。近世初頭、14代為忠の時に帰農したと言う。尚、名子氏は、北方の山上に詰城として名子城を築いて有事の場合に備えていたと推測されている。

 名子氏の館は、小さな段丘の縁に築かれた単郭方形居館で、現在は一面の果樹園・畑となっている。東辺にわずかに土塁が残っているのと、北側の堀の名残が一部残っているが、その他の遺構は湮滅している。往時は空堀で囲まれていたと推測されている。遺構はわずかだが町の史跡に指定され、標柱と解説板が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.592580/137.906161/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

中世武士団 (講談社学術文庫) - 石井進
中世武士団 (講談社学術文庫) - 石井進
ラベル:居館
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年08月24日

原城(長野県高森町)

DSCN8648.JPG←三ノ郭南の二重竪堀
 原城は、松岡城主松岡氏の家臣龍口氏が築いた城と伝えられる。龍口氏は松岡氏の庶流で、1418年に龍口藤三郎が初めてこの地に居館を構えたとされ、松岡氏領の北端の押さえの機能を持っていたと推測されている。尚、大沢川の谷を挟んで対岸には「南方の城山城」が築かれているが、両者の関係は不明である。

 原城は、大沢川によって削られた谷に面した段丘辺縁部に築かれている。東端に長円形の主郭を置き、その北西に二ノ郭、南西に三ノ郭を配置している。二ノ郭・三ノ郭の間から主郭南側にかけては県道428号線が建設されて破壊を受けている。これらの曲輪の外周には空堀が穿たれ、防御を固めている。空堀は二ノ郭・三ノ郭の外堀の一部が宅地化で埋められているが、それ以外の部分は概ね良好に残っている。三ノ郭南の空堀だけは二重横堀となっていて、そのまま東側に二重竪堀となって降っている。主郭の北から二ノ郭北東にかけては、横堀のネットワークが構築されており、合流・分岐をしながら東斜面に竪堀となって落ちている。二ノ郭東側では横堀外周の土塁上に独立堡塁や武者溜まりが設けられている。以上が原城の遺構で、一部破壊を受けているものの全体的には遺構が良好に残っている。
二ノ郭北東の横堀と武者溜まり→DSCN8682.JPG
↓CS立体図で見た原城(提供:長野県林業総合センター)
CS立体図_原城.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.582550/137.903562/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

描かれた中世城郭: 城絵図・屏風・絵巻物 - 竹井 英文, 中澤 克昭, 新谷 和之
描かれた中世城郭: 城絵図・屏風・絵巻物 - 竹井 英文, 中澤 克昭, 新谷 和之
ラベル:中世崖端城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年08月23日

天伯城(長野県高森町)

DSCN8600.JPG←土橋が架かった主郭堀切
 天伯城は、松岡城主松岡氏の支城と推測されている。伝承等は不明であるが、城域内に松岡八十騎の一人、清水氏の墓があることから清水氏に関わる城との説がある。いずれにしても松岡氏の支配領域であり、松岡氏に属する人物が守っていたものと考えられている。

 天伯城は、天竜川西岸の河岸段丘が寺沢川によって岬状に削り出された先端部に築かれている。台地上の外郭は広大な畑地に変貌しており、明確な遺構は少ないが、城の主要部は概ねよく残っている。外郭部の南端に、中央に土橋が架かった大堀切を穿って分断した主郭がある。主郭内にはいくつもの祠が祀られている。主郭は縦長の台形をした曲輪で、南端に堀切を兼ねた鞍部の平場を置き、その先に物見台状の土壇を築いている。物見台の南下方には三角形の二ノ郭があり、現在は畑となっている。二ノ郭の先にわずかな段差で区画され、低土塁で囲まれた3郭、更にその先に小さな4郭がある。一方、外郭の北側には車道が東西に通っているが、東端と西端は切通し状になっていて、空堀の跡と推測されている。以上が天伯城の遺構で、伴野古城と似たような小城砦であるが、薮も比較的少なく、遺構がよく残っているのがわかる。
二ノ郭から見た3郭→DSCN8622.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.576683/137.896691/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

甲信越の名城を歩く 長野編 - 中澤 克昭, 河西 克造
甲信越の名城を歩く 長野編 - 中澤 克昭, 河西 克造

ラベル:中世崖端城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする