2025年09月20日

大草城(長野県中川村)

DSCN9606.JPG←切岸で囲まれた主郭
 大草城は、南北朝時代に後醍醐天皇の皇子宗良親王を庇護した大河原城主香坂高宗の城である。香坂氏は佐久の滋野氏の分流と言われ、大河原への進出は平安末期と推測されている。1336年、北朝(持明院統)を奉じる足利尊氏の元から吉野に逃れて南朝を打ち立てた後醍醐天皇であったが、南北朝分裂初期に南朝方の軍事力の柱石であった三木一草(楠木正成・名和長年(伯耆)・結城親光・千種忠顕)・北畠顕家・新田義貞を相次いで失い、各地の南朝勢力の再建が急務となった。そこで1338年、各地に自分の分身である皇子たちを派遣して、南朝勢力結集の核にしようと企てた。この時、宗良親王は伊勢から出港したが大風に遭って遠江に漂着し、井伊氏の庇護を受けて井伊谷に拠った。その後、北朝方の攻撃を受けたため、越後・越中を経由して1343年頃に信濃国大河原の地に入り、以来武蔵野合戦などに出陣しながら、30余年間この地を本拠とした。伊那谷では、香坂氏をはじめとする南朝勢力が天竜川東岸の地を押さえたが、西岸には北朝方の信濃守護小笠原貞宗や船山城の片切氏、飯島城の飯島氏らが勢力を有しており、大草城は北朝方諸豪と対峙する重要拠点だったとされる。南北朝期以後も高宗の子孫が大草郷を領有していた。戦国後期には伊那諸豪と同様に甲斐武田氏に属していたが、1582年織田信長による武田征伐の際、大草城主大草庄三郎入道休斎(香坂宗縁)は織田氏に降伏。その後の天正壬午の乱の中で、当初北条氏、後に徳川氏に帰属した。その後、香坂氏は慶長の頃まで代官となっていたらしい。

 大草城は、天竜川東岸の段丘が、深沢川とその支流による浸食谷で南北を削られた要害地形に築かれている。現在は城址公園となっている。大きく3つの曲輪で構成されており、中心に高台となった不整五角形の主郭を置き、西に舌状に突き出た二ノ郭、北に広い三ノ郭を配置している。また主郭と二ノ郭の南側には腰曲輪が築かれている。主郭と二ノ郭・三ノ郭との間には空堀が穿たれていたらしいが、現在はほとんど埋められてしまっており、二ノ郭堀切の南端部だけ地形に痕跡が残る。その他では、三ノ郭東側の空堀が往時の痕跡を留めている。以上が大草城の遺構で、全面が公園となっているが城の雰囲気はよく残っている。現在でも急峻な断崖の上に築かれたことがよく分かる。
腰曲輪と二ノ郭切岸→DSCN9602.JPG
DSCN9566.JPG←三ノ郭東側の空堀跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.628360/137.945874/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

南北朝武将列伝 南朝編 - 亀田俊和, 生駒孝臣
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ラベル:中世崖端城
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2025年09月18日

北山城(長野県飯島町)

DSCN9500.JPG←南側の二重空堀
 北山城は、伝承では船山城主片切小八郎景重の家臣上沼氏が居住し、その子孫が1582年の織田氏による武田征伐の際に織田信忠によって城と共に滅亡したと伝えられる。しかしこの地が戦場になった史実は確認されておらず、明確な歴史は不明である。

 北山城は、千人塚公園南東の丘陵先端部に築かれている。公園内になるのかと思ったら結構離れていて、谷戸一つ隔てた南の丘陵にある。農耕地の中の道を東に進めば城に至る。単郭の城と思われ、周囲を二重空堀で囲んだだけの簡単な構造である。西側は農耕地に改変されていて空堀が消失しているが、往時は西側も二重空堀を穿っていたと推測されている。南から東に向かった二重空堀の内堀に、北側の二重空堀が接続し、内堀はそのまま竪堀となって少し下ったところで、外堀と合流して1本の竪堀となって落ちている。『信濃の山城と館』では、麓の根小屋と結ぶ大手筋の登城路となっていたものと推測している。主郭内は東に向かって傾斜している。以上が北山城で、二重空堀だけの城である。
主郭北東角の空堀接続部→DSCN9519.JPG
↓CS立体図で見た北山城(提供:長野県林業総合センター)
20250907144557.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.667722/137.898080/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館 5 上伊那編 - 宮坂 武男
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ラベル:中世平山城
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2025年09月17日

岩間の狼煙台(長野県飯島町)

DSCN9482.JPG←狼煙台周囲の空堀
 岩間の狼煙台は、岩間城に付随する狼煙台と考えられている。岩間城からは300m程しか離れておらず、居館に近い低位置の狼煙台として珍しい遺構とされる。丘陵基部の果樹園を進んでいった先の山林内に遺構がある。北は本沢川に臨む急斜面で、それ以外の三方を空堀で囲んで防御している。内部は3段の平場に分かれ、後部に土塁を築いている。小さな城砦で要害性も低いが、狼煙場としてはこれで十分だったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.681757/137.907939/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館 5 上伊那編 - 宮坂 武男
縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館 5 上伊那編 - 宮坂 武男
ラベル:中世平山城
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2025年09月15日

岩間城(長野県飯島町)

DSCN9465.JPG←城跡の現況
 岩間城は、船山城主片切氏の庶流岩間氏の居城である。片切為基の孫の為綱が飯島町本郷に分封されて飯島氏初代となり、続く為光の子為弘が岩間に分封されて岩間氏の祖となったと伝わる。即ち岩間氏は飯島氏と同族で、飯島十騎に名を連ねた豪族である。1221年の承久の乱では、飯島太郎・片切六弥太らと共に岩間三郎父子・同七郎が参戦し、軍功を上げた。その後、合戦記には岩間氏の名は現れず、諏訪社の造営に関わっていたことがわかるだけである。時代は降って1582年、小太郎為遠の時に織田信長の武田征伐を受け、為遠は大島城で討死し、長子源太郎は帰農したと言う。尚、城の西方約300mの丘陵先端部には狼煙台があり、御嶽山には詰城が築かれている。

 岩間城は、一面の耕作地と一部が宅地に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。解説板が立っている場所は微高地となっているが、発掘調査の結果でもどこまでが城域だったのか判明していない。失われた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.682140/137.911720/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

中世武士団 (講談社学術文庫) - 石井進
中世武士団 (講談社学術文庫) - 石井進

ラベル:中世平城
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2025年09月14日

唐沢城(長野県飯島町)

DSCN9461.JPG←東斜面の腰曲輪群
 唐沢城は、1534年、西箕輪中条の領主唐沢隼人助昌綱の子唐沢備前守義景がこの地に入部して居館を構えたことに始まると伝えられる。1556年、武田信玄の伊那侵攻によって唐沢氏は滅亡した。その後、武田氏の家臣小泉五郎左衛門が飯島に300貫文の地を与えられて30騎の将としてこの地を領し、居館を構えた。1582年、織田信長の武田征伐の際、小泉五郎左衛門・新左衛門父子は高遠城で討死したと言う。

 唐沢城は、天竜川西岸の河岸段丘先端部に築かれている。北は郷沢川によって削られた急崖となっており、要害の地である。城内は田畝開発でほとんど改変されており、明確な遺構はわずかである。主郭は東端に突き出た平場で、周囲に小さな腰曲輪が数ヶ所築かれている。主郭の先端に城の石碑があるが、この先の斜面は柵があって主郭から出ることはできない。主郭の北辺にはわずかに土塁跡が残存し、曲輪の根本の南北には堀切の名残である竪堀が見られる。主郭の西側には、二ノ郭・三ノ郭・南郭があったようだが、現在は改変されて段差以外はほとんど失われており、三ノ郭背後の空堀だけわずかに堀形を残しているに過ぎない。この城で一番遺構をよく残しているのは、主郭東斜面に築かれた階段状の腰曲輪群と、その側方に築かれた竪土塁・竪堀で、日曽利橋のたもとから斜面に取り付くとすぐに確認できる。以上が唐沢城の遺構で、一部を除いて遺構が失われてしまっているのが惜しまれる。
主郭北辺の残存土塁→DSCN9419.JPG
DSCN9457.JPG←東斜面の竪土塁・竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.682095/137.946460/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田氏滅亡 (角川選書) - 平山 優
武田氏滅亡 (角川選書) - 平山 優
ラベル:中世崖端城
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2025年09月12日

吉瀬城(長野県駒ヶ根市)

DSCN9372.JPG←東尾根の堀切
 吉瀬(きせ)城は、吉瀬の城山とも言い、歴史不明ながら狼煙台の伝承が残る。南麓の吉瀬集落に根小屋があったことが想定され、『信濃の山城と館』ではそこに番士の居住区があり、城山を守り、狼煙台の見張りの任務についていたことが想像できるとしている。

 吉瀬城は、天竜川曲流部南岸にそびえる標高680m、比高80m程の山上に築かれている。南麓の谷沿いに登る道がある。山頂の主郭を中心に、四方に伸びる尾根上に曲輪群を展開した城である。主郭の西には一段低い二ノ郭が舌状に築かれている。二ノ郭の先には2段程の小郭が置かれ、その先は急峻な尾根となって落ち込んでいる。また主郭の東から南にかけての¼周に腰曲輪が築かれている。この腰曲輪の南の尾根に曲輪群が築かれている。腰曲輪下の舌状曲輪には鉄塔が立っているため改変を受けている。『信濃の山城と館』ではこの曲輪の根本に堀切が描かれているが、現在では側方の竪堀しか痕跡を留めていない。更にその先の尾根に細長い曲輪があり、段差部の東側に土塁を伸ばしている。先端に小郭4~5段を築いて終わっている。主郭腰曲輪の東には浅い堀切を介して尾根が伸び、その先に古道の貫通部が堀切を兼ねている。登道はここに通じている。以上が吉瀬城の遺構で、堀切は小さくささやかで、主郭も小さく物見レベルのものである。狼煙台であったとの伝承は事実であったと思われる。
南尾根の堀切の痕跡→DSCN9395.JPG
↓CS立体図で見た貝沼の吉瀬城(提供:長野県林業総合センター)
20250906150423.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.701004/137.961412/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館 5 上伊那編 - 宮坂 武男
縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館 5 上伊那編 - 宮坂 武男
ラベル:中世山城
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2025年09月10日

菅沼城(長野県駒ヶ根市)

DSCN9340.JPG←主郭背後の堀切
 菅沼城は、この地の有力土豪菅沼氏の城と伝えられる。菅沼氏は、中沢氏に縁のある一族と考えられ、1482年には菅沼有員が諏訪上社神使御頭を務めている。また菅沼城主としては菅沼阿波守の名が伝わっており、阿波守は1549年、上伊那を制圧した武田信玄に降伏せず切腹し、菅沼城は落城したと伝えられる。しかし残った一族の者は武田氏に属したらしく、武田氏麾下の中沢衆の中に菅沼久兵衛・同次右衛門の名がある。菅沼城主も中沢衆として武田軍団に組織されていた可能性が考えられると言う。

 菅沼城は、天竜川東岸の、南に下間川による浸食谷が入り込んだ河岸段丘の先端部に築かれている。先端に方形の広い主郭を置き、その西と南の二辺に幅のある腰曲輪が築かれている。南の腰曲輪には主郭南西角の下に段差が作られている。主郭背後は大きな箱堀状の堀切が穿たれ、その後ろに幅のある土塁が築かれている。武者溜まりだったと思われる。その後ろには更に堀切が穿たれて、台地基部と分断している。この他、南斜面の主郭背後の堀切の延長線上には竪堀が落ちている。以上が菅沼城の遺構で、畑に改変されているもののしっかりした遺構を残している。
尚、北にある常秀院には、1392年に地頭の中沢氏が菩提供養に建てた宝篋印塔が残っている。
腰曲輪から見た主郭→DSCN9332.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.725751/137.977170/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

甲信越の名城を歩く 長野編 - 中澤 克昭, 河西 克造
甲信越の名城を歩く 長野編 - 中澤 克昭, 河西 克造
ラベル:中世崖端城
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2025年09月08日

高田城(長野県駒ヶ根市)

DSCN9286.JPG←北辺の土塁
 高田城は、中世後期に中沢郷の有力土豪高田氏に関係した城と考えられている。高田氏は、文明年間(1469~87年)には高田信景、武田氏支配時代には中沢衆に属した高田甚蔵・同与一郎の名が知られると言う。

 高田城は、天竜川東岸の段丘先端部に築かれている。単郭の館城で、郭内は現在畑となっており改変を受けているが、北辺部にはへの字に折れた土塁が残っている。東側の車道は堀切跡とされ、この堀沿いの曲輪北東端は一段高くなっていて、ここに「古城址」と刻まれた小さな石碑が立っている。曲輪の西端部は根本がやや括れており、往時はここに堀があったと推測されている。以上が高田城の遺構で、改変が進んでいるものの城跡の雰囲気は感じられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.749347/137.969562/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城 - 香川元太郎
ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城 - 香川元太郎
ラベル:中世崖端城
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2025年09月06日

塩田城(長野県駒ヶ根市)

DSCN9192.JPG←主郭南の土橋が架かった堀切
 塩田城は、明確な歴史は不明であるが、近くにあった青木城には牛山道賢と言う武士が居城していたと言われ、牛山氏に関連した城との説がある。尚、道賢は、1574年頃に武田氏に属して青木城にいたが、火山峠を越えて南福知に移り、牛ヶ城を築いたと伝えられる。また1582年7月、武田氏・織田信長滅亡後の天正壬午の乱の際、伊那衆が徳川家康に提出した起請文の中に汐田左近・牛山左衛門の名があり、塩田城は両人が関係した城と考えられている。

 塩田城は、塩田川北方にある比高70m程の小山に築かれている。西麓の上塩田集落から東の山中に入っていく林道があるのでそれを途中まで進み、右手に見える尾根に取り付きやすいところから登り、あとは尾根筋を辿れば城に至る。南から城に近づくと、最初に現れるのが中央に土橋が架かった堀切で、その上に小郭があり、小郭の上に主郭が築かれている。主郭は土塁で囲まれた長円形の曲輪で、前述の小郭に向いた南西辺に大手虎口、後部東端部に搦手虎口をそれぞれ築いている。主郭の後部にも土塁を伴った小郭があり、その先を堀切で分断している。この堀切から西に向かって落ちる竪堀の横に、もう1本小竪堀が穿たれて並走して落ちている。堀切の北にまた小郭があり、その先に土橋がかかった堀切が穿たれている。その先の尾根から西に向かって横堀が伸びており、西端で堀切から落ちた竪堀と合流している。この横堀は、竪堀との合流点付近で消失している。一方、主郭の北から西にかけて2段の帯曲輪が築かれており、主郭背後1本目の堀切から落ちる竪堀は斜めに降って、一旦ここの下段の帯曲輪に繋がった所で、もう1回角度を変えた竪堀に変化して落としている。下段の帯曲輪は、中間付近で竪堀が穿たれている。その西側では帯曲輪が浅い横堀に変化して伸びており、主郭南側の堀切から落ちる竪堀に突き当たって終わっている。この他、南に伸びた尾根の少し先に浅い二重堀切が穿たれている。以上が塩田城の遺構で、コンパクトにまとめられた城で、要所を土塁・堀切・竪堀で防御した構造となっている。
並走して落ちる2本の竪堀→DSCN9214.JPG
DSCN9267.JPG←南尾根の浅い二重堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.763640/137.982945/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田三代の城 - 岩本 誠城
武田三代の城 - 岩本 誠城
ラベル:中世山城
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2025年09月04日

貝沼の物見ヤ城(長野県伊那市)

DSCN9149.JPG←主郭背後の二重堀切
 貝沼の物見ヤ城は、武田信玄の5男で高遠城主であった仁科五郎盛信が、物見ヤ城と言ったという伝説が残る城である。しかし具体的な城歴は不明で、『信濃の山城と館』では在地土豪層の要害と推測している。

 貝沼の物見ヤ城は、標高1019.2mの山上に築かれている。登りのルートはいくつかあるようだが、私は桜井城を経由して北の尾根を辿るルートを選択した。城は山頂に主郭を置き、その北西に二ノ郭、その西に3郭が置かれている。主郭は土塁で全周を囲んだ縦長の長円形の曲輪で、東西中央に虎口を築いている。主郭の前面には小郭1段と堀切を築いて、二ノ郭との間を分断している。更にこの堀切は、西斜面に竪堀1本を伴っている。主郭背後には二重堀切が穿たれて南尾根を分断しており、内堀の主郭側には石積が残っている。また主郭の東斜面には2段の帯曲輪が築かれている。二ノ郭は3段の平場に分かれていて、東西に段差があり、更に西側の平場は南北2段に分かれている。一番高いのが南東の平場で、細長く土塁で囲まれている。二ノ郭の下段曲輪の南に帯曲輪が築かれ、中段曲輪の北にも腰曲輪が築かれている。前述の北尾根を辿ってくるとこの腰曲輪に至るので、北尾根の城道に対する虎口郭の機能を有していたと思われる。二ノ郭の西には浅い堀切が穿たれているが、この堀切の南側はしっかり掘り込まれた竪堀となって落ちている。3郭はやや削平の甘い曲輪であるが、先端部には切岸で尾根と区画している。その下方の尾根には片側だけ竪堀が穿たれている。以上が貝沼の物見ヤ城の遺構で、物見レベルではなく普請がしっかりされていて、高遠城の防衛網の一翼を担う城であった可能性が考えられる。仁科盛信が関係した城との伝説も、あながち作り話ではないように思われる。
土塁で囲まれた主郭→DSCN9144.JPG
DSCN9088.JPG←3郭の先に穿たれた竪堀
↓CS立体図で見た貝沼の物見ヤ城(提供:長野県林業総合センター)
z貝沼の物見ヤ城CS立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.815139/138.014715/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館 5 上伊那編 - 宮坂 武男
縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館 5 上伊那編 - 宮坂 武男
ラベル:中世山城
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2025年09月01日

桜井城〔仮称〕(長野県伊那市)

DSCN9031.JPG←主郭虎口
 桜井城は、登山をしているとらネコさんが発見した城である。貝沼の物見ヤ城への登道を調べていたら、たまたまYAMAPにとらネコさんが掲載していた記事を見つけた。ここでは地名を取って桜井城として紹介する。

 桜井城は、三峰川南方の標高787m、比高80m程の小ピークに築かれている。なんでこの城がこれまで見つかっていなかったのかと言うぐらい、普請のはっきりした城である。南北2郭から構成された小型の城である。やや傾斜のある北西の尾根を登っていくと、きれいに削平された二ノ郭に至る。二ノ郭は舌状に細長い曲輪で、東側には土塁を築き、西側には2段の帯曲輪を置いて防御している。二ノ郭の付け根は、東側は短い竪堀を穿ち、西側は帯曲輪に通じる虎口を築いている。帯曲輪の上段は、主郭西側まで伸びている。主郭は二ノ郭より1段高く築かれた五角形の曲輪で、土塁が全周し、二ノ郭側の中央に虎口を開いている。主郭の背後に小型の腰曲輪を1段築き、その裏に浅い堀切を穿っている。そこから背後の尾根を少し登ったところにも中央を削り残して両側に竪堀を穿った堀切がある。以上が桜井城の遺構で、土塁・虎口など明確な城郭構造がしっかりと残っているが、構造は比較的単純であり、武田氏支配時代以前に機能していた城のように思われる。
二ノ郭の土塁→DSCN9019.JPG
DSCN9172.JPG←尾根上方の堀切
↓CS立体図で見た桜井城(提供:長野県林業総合センター)
z桜井城CS立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.828372/138.012584/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

城館調査の手引き - 中井 均
城館調査の手引き - 中井 均
ラベル:中世山城
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2025年08月31日

前沢城(長野県中川村)

DSCN8925.JPG←主郭背後の堀切
 前沢城は、船山城主片切氏の庶流前沢氏の居城である。承久の乱で活躍した片切源太長頼の弟源三郎盛友がこの地に分封されて前沢氏を称し、前沢城を築いたと伝えられる。前沢氏のその後の事績は明確ではないが、戦国時代に甲斐武田氏が伊那を制圧すると、片切氏は武田氏に属し、春近衆として秋山虎繁(信友)の配下にいたので、前沢氏も秋山氏に従って転戦したと思われる。

 前沢城は、天竜川西岸の、北に小河川による浸食谷が入り込んだ河岸段丘の先端部に築かれている。先端に横長の長円形をした主郭を築き、背後を堀切で分断している。主郭は後部に土塁を築いている。主郭内は薮だらけで内部に建っている祠も辛うじて分かる程度で酷い状態である。主郭の北東と南東には堀切が穿たれ、それぞれの前面に小郭が置かれて防御を固めているが、どちらの小郭も薮が酷い。しかし堀切から落ちる竪堀はしっかりしていてわかりやすい。南東から南に落ちる竪堀は、主郭背後の堀切から落ちる竪堀とY字型に合流している。また北東の堀切から東に落ちる竪堀と、南東の堀切から北東に落ちる竪堀もY字型に合流している。この他、主郭西の台地基部は平地になっていて、二ノ郭が置かれていたと思われるが、二ノ郭西端を区画する堀切は浅い溝状で、ほとんど防御性を持っておらず、実際に曲輪として機能したのかよくわからない。ニノ郭南東下方には物見の小郭があり、その側方に竪堀が落ちている。以上が前沢城で、小規模な城であり、遺構はよく残っているが薮が酷くて見劣りする。
Y字型に合流する竪堀→DSCN8956.JPG
↓CS立体図で見た前沢城(提供:長野県林業総合センター)
zCS立体図_前沢城.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.625855/137.916705/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

「城取り」の軍事学: 築城者の視点から考える戦国の城 - 西股 総生
「城取り」の軍事学: 築城者の視点から考える戦国の城 - 西股 総生
ラベル:中世崖端城
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2025年08月29日

船山城(長野県松川町)

DSCN8859.JPG←郭地区先端の堀切・竪堀
 船山城は、平安末期から戦国時代まで春近領片切郷を領した豪族片切氏の居城である。片切氏は清和源氏為公流で、為公の子為基が信濃国伊那郡片桐に住んで片桐氏を称したことに始まる。この地を本拠として、岩間氏・名子氏・大島氏らの分流を輩出した。片切氏は平安末期から鎌倉時代にかけて、清和源氏の一族として源氏の嫡流に従って数々の合戦に出陣した。為基の孫為重は1156年の保元の乱の際、源為義に属して討死し、その弟景重は保元の乱・平治の乱で源義朝に従って活躍した。源氏の没落によって平氏に領地を没収されたが、源頼朝が鎌倉幕府を興すと本領を安堵され鎌倉幕府御家人に名を連ねた。頼朝の上洛に際しては、大島・名子氏など片切氏一族27名が随伴し、1221年の承久の乱では片切三郎が小笠原・武田氏らの東山道軍に加わったほか、片切源太夫・源太・小太郎らも従軍したことが知られる。室町時代には信濃守護小笠原氏に属して大塔合戦や結城合戦に参陣した。1554年、甲斐の武田信玄が下伊那に侵攻すると、鈴岡城主小笠原信定の下で武田氏に抵抗したが、結局抗しきれずに片切・飯島・上穂・赤須・大島の春近五人衆は武田氏に降り、5人合わせて50騎の軍役に服し、春近衆として秋山虎繁(信友)の配下に組み込まれた。1582年、織田信長が武田征伐を開始すると、船山城は落城し、武田氏滅亡により片切氏も没落した。尚、豊臣政権下で重臣となった片桐且元は、信濃国から近江国に本拠を移した片切氏の一族の後裔である。

 船山城は、天竜川西岸の、南に南沢という浸食谷が入り込んだ河岸段丘の先端部に築かれている。東西に伸びた城域は、大きく2つの区域に分かれている。西側は台地上に広く広がった本城地区、東側は段丘先端の細尾根上に構築され、出丸と呼ばれる郭地区となっている。本城地区は中世後期に作られた部分と推測されており、堀切で東西2郭に分かれ、東が主郭、西が二ノ郭とされている。二ノ郭は大半が畑であるが、北西角に御射山神社が建っている。二ノ郭の西側にも堀切が穿たれて台地との間を隔絶している。主郭と二ノ郭の間の堀切は、北半分はほとんど埋められて湮滅しているが、南半分は堀形を残している。主郭の東側には郭地区との間を穿つ堀切がある。郭地区は中世前期に築かれた古い部分と推測されており、こちらも堀切で3つの曲輪に分かれている。『信濃の山城と館』に従って東から順に1郭・2郭・3郭と呼称すると、東先端の1郭が初期の主郭と思われ、曲輪の東下方にも堀切が穿たれ、その前面に物見の小郭が置かれている。またこの堀切からもう1本竪堀が東に向かって落ちている。1郭の西には堀切を挟んで2郭があるが、2郭は削平の甘い細尾根の曲輪で、東端部が1段高くなっている。1郭・2郭の南斜面には帯曲輪が築かれている。2郭の西側に堀切を挟んで3郭があるが、3郭は尾根上の曲輪にしてはかなりの広さがあり、後部にしっかりとした土塁が築かれている。3郭の北側下方には小道が通っていて、往時の武者走りであった可能性があり、ここに竪堀群が穿たれている。以上が船山城の遺構で、県の史跡に指定されているだけあって、よく遺構を残している。ただ、『信濃の山城と館』の縄張図は、帯曲輪が書かれていなかったり、先端部の堀配置も少々異なっていて、注意が必要である。
二ノ郭西の堀切→DSCN8789.JPG
↓CS立体図で見た船山城(提供:長野県林業総合センター)
z船山城CS立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.614475/137.916070/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館 5 上伊那編 - 宮坂 武男
縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館 5 上伊那編 - 宮坂 武男
ラベル:中世崖端城
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2025年08月27日

名子城(長野県松川町)

DSCN8763.JPG←主郭の土塁
 名子城は、船山城主片切氏の庶流名子氏が、有事の場合に備えて築いた詰城と推測されている。名子氏の事績は名子氏館の項に記載する。

 名子城は、比高50m程の河岸段丘先端に築かれている。城のある台地は北に唐沢川、南に大名川による浸食谷が天然の堀となっており、東は段丘崖に面した要害地形となっている。この城は、段丘崖に「城山」の植木文字が書かれているので、遠目にもよく分かる。場内は公園化されて整備されている。城はほぼ単郭の構造で、背後の台地基部を堀切で分断した東側に縦長台形の主郭を置き、主郭周囲に腰曲輪をめぐらしただけの単純な構造である。腰曲輪は東側だけ2段築かれている。また主郭内も東辺部だけ一段低くなっている。主郭は外周に土塁を廻らして防御を固めている。南側中央に大手虎口が築かれている。背後の堀切は幅があるが浅く、かなり埋まってしまっていると思われる。西の台地基部は老人福祉センターが建設されて大きく改変されているので、往時の形状は現在ではわからなくなってしまっている。以上が名子城の遺構で、古い形態をそのまま残した城である。
北側の腰曲輪と主郭切岸→DSCN8723.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.599797/137.903051/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

吾妻鏡―鎌倉幕府「正史」の虚実 (中公新書) - 藪本勝治
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ラベル:中世崖端城
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2025年08月26日

名子氏館(長野県松川町)

DSCN8707.JPG←東側の土塁
 名子氏は、船山城主片切氏の庶流で、平安末期に片切兵庫助為行の6男景重がこの地に分封されて名子氏を称したとされる。以後、鎌倉時代には春近領名子郷の地頭代として領民を支配した。『吾妻鏡』には、1241年に名子氏が先の承久の乱の際の恩賞に漏れていたため、鎌倉幕府は名子氏を追賞したことが記されている。室町時代には信濃守護小笠原氏に属して大塔合戦や結城合戦に参陣した。後には大島城主大島氏に属し、更に武田氏進出後は武田氏に属した。近世初頭、14代為忠の時に帰農したと言う。尚、名子氏は、北方の山上に詰城として名子城を築いて有事の場合に備えていたと推測されている。

 名子氏の館は、小さな段丘の縁に築かれた単郭方形居館で、現在は一面の果樹園・畑となっている。東辺にわずかに土塁が残っているのと、北側の堀の名残が一部残っているが、その他の遺構は湮滅している。往時は空堀で囲まれていたと推測されている。遺構はわずかだが町の史跡に指定され、標柱と解説板が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.592580/137.906161/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

中世武士団 (講談社学術文庫) - 石井進
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ラベル:居館
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2025年08月24日

原城(長野県高森町)

DSCN8648.JPG←三ノ郭南の二重竪堀
 原城は、松岡城主松岡氏の家臣龍口氏が築いた城と伝えられる。龍口氏は松岡氏の庶流で、1418年に龍口藤三郎が初めてこの地に居館を構えたとされ、松岡氏領の北端の押さえの機能を持っていたと推測されている。尚、大沢川の谷を挟んで対岸には「南方の城山城」が築かれているが、両者の関係は不明である。

 原城は、大沢川によって削られた谷に面した段丘辺縁部に築かれている。東端に長円形の主郭を置き、その北西に二ノ郭、南西に三ノ郭を配置している。二ノ郭・三ノ郭の間から主郭南側にかけては県道428号線が建設されて破壊を受けている。これらの曲輪の外周には空堀が穿たれ、防御を固めている。空堀は二ノ郭・三ノ郭の外堀の一部が宅地化で埋められているが、それ以外の部分は概ね良好に残っている。三ノ郭南の空堀だけは二重横堀となっていて、そのまま東側に二重竪堀となって降っている。主郭の北から二ノ郭北東にかけては、横堀のネットワークが構築されており、合流・分岐をしながら東斜面に竪堀となって落ちている。二ノ郭東側では横堀外周の土塁上に独立堡塁や武者溜まりが設けられている。以上が原城の遺構で、一部破壊を受けているものの全体的には遺構が良好に残っている。
二ノ郭北東の横堀と武者溜まり→DSCN8682.JPG
↓CS立体図で見た原城(提供:長野県林業総合センター)
CS立体図_原城.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.582550/137.903562/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

描かれた中世城郭: 城絵図・屏風・絵巻物 - 竹井 英文, 中澤 克昭, 新谷 和之
描かれた中世城郭: 城絵図・屏風・絵巻物 - 竹井 英文, 中澤 克昭, 新谷 和之
ラベル:中世崖端城
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2025年08月23日

天伯城(長野県高森町)

DSCN8600.JPG←土橋が架かった主郭堀切
 天伯城は、松岡城主松岡氏の支城と推測されている。伝承等は不明であるが、城域内に松岡八十騎の一人、清水氏の墓があることから清水氏に関わる城との説がある。いずれにしても松岡氏の支配領域であり、松岡氏に属する人物が守っていたものと考えられている。

 天伯城は、天竜川西岸の河岸段丘が寺沢川によって岬状に削り出された先端部に築かれている。台地上の外郭は広大な畑地に変貌しており、明確な遺構は少ないが、城の主要部は概ねよく残っている。外郭部の南端に、中央に土橋が架かった大堀切を穿って分断した主郭がある。主郭内にはいくつもの祠が祀られている。主郭は縦長の台形をした曲輪で、南端に堀切を兼ねた鞍部の平場を置き、その先に物見台状の土壇を築いている。物見台の南下方には三角形の二ノ郭があり、現在は畑となっている。二ノ郭の先にわずかな段差で区画され、低土塁で囲まれた3郭、更にその先に小さな4郭がある。一方、外郭の北側には車道が東西に通っているが、東端と西端は切通し状になっていて、空堀の跡と推測されている。以上が天伯城の遺構で、伴野古城と似たような小城砦であるが、薮も比較的少なく、遺構がよく残っているのがわかる。
二ノ郭から見た3郭→DSCN8622.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.576683/137.896691/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

甲信越の名城を歩く 長野編 - 中澤 克昭, 河西 克造
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ラベル:中世崖端城
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2025年08月21日

吉田城山城(長野県高森町)

DSCN8574.JPG←二の堀跡の参道
 吉田城山城は、松岡城主松岡氏の家臣吉村氏の居城と伝えられる。吉村次郎が知行三十貫文を領し、その後、中務・平六・治右衛門を経て、永禄年間(1558~70年)には吉村小次郎元貞が城主となった。松岡氏が徳川氏によって改易されて没落すると、吉村氏も没落した。

 吉田城山城は、天竜川西方の河岸段丘の只中にある小高い丘にあり、現在は公園や畑となっている。明治時代に小学校が主郭に建設され、その後も南麓の民家建設で南側が削られるなど、かなり改変が進んでいる。しかし地勢はよく残っており、公園内に城址標柱が立っている。『信濃の山城と館』の縄張図によれば、東端に主郭、中央に二ノ郭、西側に三ノ郭を置いた連郭式の縄張りで、曲輪間には堀切が穿たれていた。しかし主郭~二ノ郭間の一の堀は公園化で原型を留めておらず、二ノ郭~三ノ郭間の二の堀がわずかに神社の参道となって名残を留めているだけである。また三ノ郭の畑には土塁らしい土盛りが残るが、形状がやや不自然で、どこまで原型を留めているかはっきりしない。以上が吉田城山城の遺構で、かなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.558230/137.873302/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

信濃の山城と館: 縄張図・断面図・鳥瞰図で見る (第6巻(諏訪・下伊那編)) - 宮坂 武男
信濃の山城と館: 縄張図・断面図・鳥瞰図で見る (第6巻(諏訪・下伊那編)) - 宮坂 武男
ラベル:中世平山城
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2025年08月20日

大下砦(長野県高森町)

DSCN8530.JPG←南斜面の土塁と空堀
 大下砦は、明確な歴史は不明であるが、松岡城や松岡氏関連城砦群に近いことから松岡氏の境目を守った砦と考えられている。

 大下砦は、南大島川北岸の段丘が、2つの小河川によって岬状に削り出された先端部に築かれている。現在は城の中心部に広域農道が建設されており、かなり破壊を受けている。平成7年の発掘調査の結果では、堀切で区画された主郭・二ノ郭が確認され、先端の主郭では建物と柵列の跡が見つかっている。二ノ郭は畑と墓地になっており、道路建設前の姿を残している様である。それに比べると、主郭に当たる平坦地はかなり低い位置にあるが、以前は二ノ郭とほぼ同じ高さにあったと想像され、そこから推測すると、主郭部はかなり表面が削られてしまったらしい。この砦で唯一原型を留めているのが、主郭の南下方の空堀で、弧を描いて南東に降っており、その外側に土塁が築かれている。土塁から南西に下る竪堀が2つあり、竪堀間の土塁は堡塁状を呈していて、南西下方に対する物見台であったと思われる。以上が大下砦の遺構で、南斜面の遺構だけが往時の姿を留めている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.545671/137.853733/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

戦国の城 (学研新書) - 小和田哲男
戦国の城 (学研新書) - 小和田哲男
ラベル:中世崖端城
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2025年08月18日

桃井城(長野県松川町)

DSCN8514.JPG←主郭から見た空堀
 桃井城は、南北朝期に信濃大河原城に潜伏していた後醍醐天皇の皇子宗良親王を擁護するため、桃井氏の一族が築いた城と伝えられている。桃井氏といえば、足利一門の桃井播磨守直常が有名である。直常は熱烈な直義党で、観応の擾乱では終始足利直義(将軍尊氏の弟)に従って反尊氏派の急先鋒として戦い、直義が鎌倉で没した後も反幕活動を続けた闘将である。その桃井氏の一族が南朝方に付いて信濃に蟠踞していたということだが、『尊卑分脈』などの系図の上では確認できない。しかし『太平記』には尊氏討伐のために後醍醐の命を受けて東下する新田義貞の軍勢の中に桃井遠江守という名があり、他にも後醍醐方の武将の中に桃井兵庫助顕氏・駿河守義繁が見え、桃井一族の中に南朝方に与した武将がいた可能性は排除できない。また直常も、主君の直義没後に南朝方に身を投じているので、その際に南朝方に付いた一族がいた可能性もある。城内にある御建神社の社伝では、後醍醐の皇女厳子内親王に仕えたお建姫は部奈城(桃井城?)主桃井六郎貞頼の娘とされている。一方、『浪合記』には桃井宗綱なる人物が南朝の忠臣と宗良親王の子尹良親王を奉じて活動しているが、浪合記は偽書とされており信ずるに足らない。いずれにしても明証はなく、桃井城の城主については不明という他はない。

 桃井城は、天竜川東岸の段丘先端部に築かれている。南北を沢による浸食谷で挟まれており、台地基部を一直線の空堀で分断した要害地形である。単郭の城で、主郭内には御建神社が祀られている。主郭後部には空堀に沿って土塁が築かれている。主郭の西側は断崖となっているが、長い間に崩落を繰り返したため、現在はかなり削れて狭くなってしまっているらしい。西に細尾根が伸びており、誘導表示には「井戸跡 5分」と書かれていて、尾根を降ってみたが、どこのことかわからなかった。以上が桃井城の遺構で、単純で小規模な城である。尚、城付近にサル3頭が歩いていた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.596981/137.937847/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

太平記 全6巻: 美装ケースセット (岩波文庫) - 兵藤 裕己
太平記 全6巻: 美装ケースセット (岩波文庫) - 兵藤 裕己
ラベル:中世崖端城
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2025年08月17日

福与城(長野県松川町)

DSCN8491.JPG←主郭北側の空堀
 福与城は、歴史不詳の城である。大島城主大島氏に属する土豪の福与氏の館城との説がある。また江戸初期の一時期、福与に置かれたと見られる宮崎氏の代官所跡であった可能性も指摘されている。

 福与城は、福與三柱神社のすぐ北にある段丘南西角部に築かれている。台形状の主郭の東から北にかけてL字型に空堀を穿ち、台地から分断した縄張りとなっている。『信濃の山城と館』の縄張図によれば、主郭の西から南にかけての斜面にL字型の帯曲輪が以前はあったらしいが、現在は急斜面の崩落防止のために擁壁が作られたため、帯曲輪はほとんど削られてしまっている。主郭内部は耕作放棄地の薮に覆われているが、南から東面にかけてわずかに土塁が築かれている。主郭周囲の空堀は幅が広く、往時は現在よりも堀が深かったと推測されるため、かなり防御性を持った堀であったことが想像できる。空堀の周囲は現在は畑や民家となっているが、北には堀状の地形が見られるので、東側に堀の痕跡は残っていないが、往時は外郭も空堀で囲んでいた可能性がある。以上が福与城の遺構で、主郭からは大島城が見え、また天竜川沿いの平地が一望でき、物見としても重要な位置にあったことがうかがえる。尚、主郭に登ったら、イノシシ2頭が慌てて逃げていった。
↓CS立体図で見た福与城(提供:長野県林業総合センター)
CS立体図_福与城.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.585353/137.926760/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

信濃の山城と館: 縄張図・断面図・鳥瞰図で見る (第6巻(諏訪・下伊那編)) - 宮坂 武男
信濃の山城と館: 縄張図・断面図・鳥瞰図で見る (第6巻(諏訪・下伊那編)) - 宮坂 武男
ラベル:中世崖端城
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2025年08月15日

本城(長野県豊丘村)

DSCN8410.JPG←主郭東の堀切
 本城は、歴史不詳の城である。城の遺構から戦国期のものと推測されている。また北東の丘陵地は「勝負平」と呼ばれ、一帯で合戦があったと伝えられる。

 本城は、河野地区の段丘先端部の尾根に築かれている。先端に築かれた主郭は、東側の尾根基部を堀切で穿った不整四角形の曲輪で、後部には土塁が築かれている。しかし郭内はひどい薮となっていて、踏査が大変である。主郭の北側には帯曲輪が1段築かれ、帯曲輪東端の堀切沿いには虎口が築かれている。虎口横には石積が見られる。この帯曲輪は主郭西側では円弧状の堀切に変化して南斜面まで掘り切っている。この堀切内にも堀と直行する方向に石積がある。堀切の西には三日月型の小郭がある。また主郭南側にも腰曲輪が築かれている。主郭東の堀切の先には平坦な二ノ郭があり、その先にもう1本、堀切が穿たれている。この堀切は城のすぐ近くを通る林道脇にあるので、林道からもその形がよく分かる。以上が本城の遺構で、簡素な構造の城砦であるが、主郭は比較的大きく、堀切もいずれも大きさがあり、しっかりと防御を意識した縄張りとなっている。
二ノ郭東の堀切→DSCN8468.JPG
↓CS立体図で見た本城(提供:長野県林業総合センター)
CS立体図_本城.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.559703/137.911800/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

中世城郭の新論点――石垣・障子堀・畝状空堀群・海城・陣城・城郭類似遺構 - 髙田 徹
中世城郭の新論点――石垣・障子堀・畝状空堀群・海城・陣城・城郭類似遺構 - 髙田 徹
ラベル:中世平山城
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2025年08月14日

巻ヶ城(長野県豊丘村)

DSCN8368.JPG←北腰曲輪から見た本城の主郭
 巻ヶ城は、歴史不詳の城である。戸中城山城と同様に、南北朝期に後醍醐天皇の皇子宗良親王が拠った大河原城の前衛の要害の一つではないかと推測されている。

 巻ヶ城は、山田集落東方の山上に築かれている。谷を挟んで南北2つの峰があり、北に本城、南に支城が築かれている。城へは、支城の南を通る県道455号線のヘアピンカーブのところからアプローチするのが手っ取り早い。
 本城は標高665mの峰にあり、東西に長い主郭を頂部に置き、北に1段、南に2段の腰曲輪を築き、更に下に腰曲輪と竪堀を配置し、西の尾根上にも2郭・3郭などの曲輪を連ねている。主郭の中央後方寄りに土壇があり、祠が建っている。元々信仰上の土壇があったのだろう。2郭の南辺には土塁が築かれ、虎口が開かれている。ここから南の腰曲輪を経由して城道が降っており、これが大手と考えられている。動線が屈曲していて、小規模な枡形虎口を形成している。2郭と3郭はわずかな段差だけで区画されている。3郭の西には大きな鞍部があり、堀切と解されているが、あまり普請の手を加えた形跡は感じられない。その先にほとんど自然地形に近い曲輪があって城域が終わっている。この他、北の腰曲輪には北の支尾根に段曲輪2段と側方に竪堀、北東の支尾根には堀切と段曲輪2段が築かれている。主郭背後は急斜面となっているので、堀切は穿たれていない。
 支城は標高657mの峰にあり、腰曲輪で囲まれた小さな主郭を持ち、北西尾根に堀切を穿ち、その先にほぼ自然地形の長い曲輪を置いている。明確な遺構はこれだけで、本城と比べると極めて簡素な砦である。
 以上が巻ヶ城で、本城の構造は戦国時代のものと思われ、歴史は伝わっていないが武田氏支配時代頃まで下る城かもしれない。
本城2郭の虎口→DSCN8304.JPG
DSCN8258.JPG←支城の堀切と主郭

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【本城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.544917/137.915894/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【支城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.543289/137.916025/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

信濃の山城と館: 縄張図・断面図・鳥瞰図で見る (第6巻(諏訪・下伊那編)) - 宮坂 武男
信濃の山城と館: 縄張図・断面図・鳥瞰図で見る (第6巻(諏訪・下伊那編)) - 宮坂 武男
ラベル:中世山城
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2025年08月12日

戸中城山城(長野県豊丘村)

DSCN8202.JPG←主郭北側の堀切
 戸中城山城は、南北朝期に後醍醐天皇の皇子宗良親王が拠った大河原城の前衛の要害の一つと伝えられている。宗良親王が大河原城に入るまでの経過を略述すると、宗良は吉野で南朝を開いた父後醍醐の命により、1338年9月に伊勢国大湊を出航し、東国を目指したものの大風によって遠江に漂着し、井伊氏の庇護を受けて井伊城(三岳城)に入った。その後、北朝方の攻撃を受けて落城すると、宗良は越後に逃れ、その後越中国名子の浦(放生津)に移り、遅くとも1344年には信濃の香坂高宗を頼って大河原城に移った。宗良は信濃国での活動が最も長く、そのため信濃宮とも呼ばれた。

 戸中城山城は、虻川北岸にそびえる標高761mの山上に築かれている。北尾根を通る車道脇に城山城と書かれた誘導標識があり、そこから登山道が整備されている。搦手と思われるこの道を5分ほど歩くと、一騎駆けの土橋があり、その上に監視の小郭が築かれている。道はここで城の東側を迂回して、外周の帯曲輪につながっている。城は、主郭を中心に西に2郭、南に3郭を配置し、北には堀切を挟みながら小型の曲輪群を築いている。主郭は西以外の三方に土塁を築いており、南北に堀切を穿っている。この内、北の堀切は東側で屈曲しながら竪堀となって落ちている。主郭だけ普請がしっかりされているが、主郭以外は傾斜した曲輪で、殊に3郭はほとんど地山のままである。主郭の北は、自然地形の尾根の先にわずかな堀切が穿たれ、その前面の尾根の下に堀切が穿たれ、北郭がある。北郭の下方には腰曲輪が1段築かれて城域が終わっている。以上が戸中城山城の遺構で、普請が不徹底な部分はあるが、堀切と土塁はしっかり構築されていて、南北朝期よりも時代が下る遺構と思われる。
主郭南側の堀切→DSCN8172.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.530571/137.927380/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

南北朝武将列伝 南朝編 - 亀田俊和, 生駒孝臣
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2025年08月11日

伴野古城(長野県豊丘村)

DSCN8120.JPG←細尾根の先の堀切
 伴野古城は、知久氏の重臣伴野氏が築いた城と推測されている。知久氏は、鎌倉中期に知久郷の地頭となり、知久平城を築いて居城とした。すると、伴野庄の地頭代をしていた伴野氏は、知久氏に対抗してこの城を強化した。以後、結城合戦などの戦いの際には、伴野氏は知久氏と肩を並べて出陣したと言う。後に知久氏が勢力を増すと、知久氏に属し、その重臣となったらしい。尚、伴野古城がある同じ台地の南端には南城があるが、古城に対して南城を本城と言っていることから、ある時期に南城を築いて本城としたとも考えられる。

 伴野古城は、天竜川東岸の伴野原と呼ばれる河岸段丘が北西に突き出た先端に築かれている。車道脇に墓地があるがそこが主郭で、道路脇に城址石碑と解説板が立っている。墓地の奥に進むと、祠が祀られた土盛りがあり、これが二ノ郭の土塁である。土塁は横に伸びているが薮が多くて形状があまりよくわからない。この土塁に沿って主郭との間に堀切もあったようだが、わずかな窪みだけでほとんど埋もれてしまっている。しかし東側の塁線近くまで行くと、堀形がはっきり残っている。二ノ郭は先端が尖った三角形の曲輪となっている。二ノ郭の西辺中央に虎口があり、尾根筋に降っていく道がついている。道の横に腰曲輪があるほか、二ノ郭先端の下には2段の段曲輪がある。その先には細尾根小郭があり、小郭の先に堀切が穿たれている。この堀切は西側に長く落ちている。以上が伴野古城の遺構で、規模の小さな城である上、全体的に薮が多くて遺構の確認がしづらい。それでも土塁と堀が薮の中に残っている。
二ノ郭の土塁→DSCN8094.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.537454/137.893526/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

戦国の城の一生 歴史文化ライブラリー - 竹井英文
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ラベル:中世崖端城
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2025年08月09日

南城(長野県豊丘村)

DSCN8036.JPG←緩斜面を下る主郭背後の堀切
 南城は、歴史不詳の城である。南城がある伴野郷は神之峰城主知久氏の支配下にあり、知久氏の重臣として伴野氏がいた。こうした背景から、南城は神之峰城を防衛する支城網の一つとして築かれたものと推測されている。尚、南城がある同じ台地の北端には伴野古城があるが、古城に対してこの南城を本城と言っていることから、ある時期にこの城を築いて本城としたとも考えられる。

 南城は、天竜川東岸の伴野原と呼ばれる河岸段丘が南に突き出た部分に築かれている。急崖に面した東側が高台となり、西に向かって傾斜した台地上に築かれた城である。城内は畑・果樹園や耕作放棄地、竹薮等となっている。主郭は東の高台の南端部分と思われ、南北に長い郭内には3段程の平場と後部に物見台があったらしいが、南部以外は耕作放棄薮でほとんど遺構の確認ができない。主郭の背後には堀切が穿たれ、その北には高台の2郭がある。2郭の北にも堀切を挟んで3郭があり、3郭背後にも堀切がある。主郭・2郭・3郭の西側には畑となった広大な緩斜面が広がっていて、これらも城域と思われ、前述の3本の堀切は、この緩斜面を貫通して降っている。この緩斜面の南西端には堀切を穿って独立堡塁とした小郭がある。かなり城内の改変が進んでいるが、堀はよく残っている。
南西端の独立堡塁を区切る堀切→DSCN8048.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.529967/137.892760/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

信濃の山城と館: 縄張図・断面図・鳥瞰図で見る (第6巻(諏訪・下伊那編)) - 宮坂 武男
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ラベル:中世崖端城
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2025年08月08日

阿島陣屋(長野県喬木村)

DSCN8030.JPG←現存茶室の曙月庵
 阿島陣屋は、徳川家の旗本知久氏の陣屋である。知久氏は元々神之峰城を本拠とする豪族であったが、甲斐武田氏の侵攻に抵抗して本家は没落した。その後、本家の知久大和守頼氏は徳川家康の元に身を寄せていたが、1582年に武田氏が滅ぼされると、織田信長の後援により旧領に復帰した。その後、信長滅亡とそれに続く北条・徳川・上杉三氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が生起すると、頼氏は徳川方として戦った。しかし1584年、頼氏は浜松城の家康の元に召喚され、同年11月頃突如切腹させられた。その跡は嫡男万亀が継ぎ、後に則直と名乗り、関ヶ原の戦いの後、1601年に阿島3千石を与えられた。 この時、阿島陣屋が造営され、以後代を重ね、12代頼温の時に明治維新を迎えた。1869年の版籍奉還と共に陣屋は廃止され、建物は取り壊された。

 阿島陣屋は、現在は老人ホームや幼稚園の敷地となっている。入口に雁木門が復元され、その脇に石碑と解説板が立っている。周囲に石垣が残るほか、曙月庵と言う茶室が現存している。旗本造営の茶室が残る稀有な例である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.520316/137.884048/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

城郭移築建造物大全 西日本編 - 髙田徹
城郭移築建造物大全 西日本編 - 髙田徹
ラベル:陣屋
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2025年08月06日

氏乗城山城(長野県喬木村)

DSCN7934.JPG←城域東端の堀切
 氏乗城山城は、神之峰城主知久氏の支城である。城主は羽生氏であったと伝えられる。小川川と胡桃沢の合流点に東から突き出た山稜上に築かれており、主郭に神社があるため南麓の下氏乗集落から登山道が整備されている。この道を登ると城域東端を区切る切通しの堀切に至る。ここを西に登っていくと数段の腰曲輪群を経由して神社が建つ主郭に至る。主郭は、ほとんど物見台のような狭小な曲輪である。主郭の北西に鞍部の堀切があり、その先に二ノ郭がある。二ノ郭も狭い曲輪で、壊れた木製の祠の跡が残っている。二ノ郭も南西や南東に腰曲輪を伴っている。二ノ郭南西の腰曲輪の下に堀切があり、細尾根の曲輪(3郭)が西に続いている。細尾根がしばらく続いた先に片側だけ二重となった変則的な堀切が穿たれ、その上に細長い4郭が築かれている。4郭が一番まとまった広さがあるが、ここも先端に築かれた物見台的な曲輪である。4郭の西下方に細尾根曲輪、南斜面に腰曲輪が築かれている。以上が氏乗城山城の遺構で、ほとんど居住性がなく、普請の規模も小さく、物見台や狼煙台としての役目が主体の城だったと思われる。薮は比較的少なめである。
主郭群→DSCN7940.JPG
DSCN7982.JPG←4郭背後の変則的な二重堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.485669/137.908045/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

中世城郭の新論点――石垣・障子堀・畝状空堀群・海城・陣城・城郭類似遺構 - 髙田 徹
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ラベル:中世山城
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2025年08月05日

富田城(長野県喬木村)

DSCN7915.JPG←主郭
 富田城は、知久氏の家臣塩沢氏が守った城と推測されている。知久平に本拠を置いていた知久氏は、文亀・永正年間(1501~21年)頃に神之峰城を築いて本拠を移したが、その際領内各所に支城を設け、富田城もこの時に築かれたと考えられている。1554年に武田信玄が伊那を攻略した際、神之峰城が落城して知久氏宗家が没落すると、塩沢氏は武田氏に降った。1582年に武田氏・織田信長が相次いで滅亡し、天正壬午の乱後に伊那谷が徳川領となると、1583年に徳川氏の家臣菅沼小大膳定利が伊那郡司となり、塩沢氏は菅沼氏に属した。1590年に徳川氏が関東に移封となると、菅沼氏も上州吉井に移ったが、塩沢氏はこれに随行せず帰農したと言う。

 富田城は、富田盆地の西端にそびえる標高595mの城山に築かれている。東の眼下に富田盆地を一望し、西には飯田盆地を眼下に収める要衝の地である。現在は城山公園となって整備されている。中央に主郭を置き、西に登る尾根に二ノ郭、北に伸びる尾根に三ノ郭を配置し、切岸だけで区画しただけの簡素な構造である。ニノ郭の切岸の先にも曲輪っぽい尾根があるが、城域かどうかはよくわからない。その他に縄張り面で目立った特徴はない。公園化で改変されているので、往時の形状がよくわからない部分もあるが、基本的には物見や狼煙台としての機能が主体だった城と思われる。
三ノ郭→DSCN7927.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.486966/137.876637/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

信濃の山城と館: 縄張図・断面図・鳥瞰図で見る (第6巻(諏訪・下伊那編)) - 宮坂 武男
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ラベル:中世平山城
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2025年08月03日

竹松城(長野県伊那市)

DSCN7880.JPG←主郭南の堀切
 竹松城は、この地の土豪竹松氏の城である。高遠城の仁科氏に属した竹松外記が、元は橋場城を本拠としていたが、後に竹松城に移ったと言われている。

 竹松城は、竹松地区の田園地帯の中にある比高10mにも満たない低丘陵に築かれている。南北に長い丘で、堀切で分断して各曲輪を区画している。丘の中央に諏訪神社があり、その境内が主郭と思われる。南の堀切の先が2郭とされ、畑と民家になっているが、往時はこの平場も堀切で南北に分割されていたらしい。主郭の北にも堀切があり、その北に3郭、更に二重堀切が穿たれて、北端の5郭がある。二重堀切の中間土塁は、東に行くほど広くなっていて武者溜まり的な曲輪を兼ねていたようである。以上が竹松城の遺構で、どこにでもあるような丘に、堀切がよく残っている。
二重堀切の内堀→DSCN7834.JPG
↓CS立体図で見た竹松城(提供:長野県林業総合センター)
CS立体図_竹松城.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.798180/137.987395/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

「城取り」の軍事学 - 西股総生
「城取り」の軍事学 - 西股総生
ラベル:中世平山城
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