大草城は、南北朝時代に後醍醐天皇の皇子宗良親王を庇護した大河原城主香坂高宗の城である。香坂氏は佐久の滋野氏の分流と言われ、大河原への進出は平安末期と推測されている。1336年、北朝(持明院統)を奉じる足利尊氏の元から吉野に逃れて南朝を打ち立てた後醍醐天皇であったが、南北朝分裂初期に南朝方の軍事力の柱石であった三木一草(楠木正成・名和長年(伯耆)・結城親光・千種忠顕)・北畠顕家・新田義貞を相次いで失い、各地の南朝勢力の再建が急務となった。そこで1338年、各地に自分の分身である皇子たちを派遣して、南朝勢力結集の核にしようと企てた。この時、宗良親王は伊勢から出港したが大風に遭って遠江に漂着し、井伊氏の庇護を受けて井伊谷に拠った。その後、北朝方の攻撃を受けたため、越後・越中を経由して1343年頃に信濃国大河原の地に入り、以来武蔵野合戦などに出陣しながら、30余年間この地を本拠とした。伊那谷では、香坂氏をはじめとする南朝勢力が天竜川東岸の地を押さえたが、西岸には北朝方の信濃守護小笠原貞宗や船山城の片切氏、飯島城の飯島氏らが勢力を有しており、大草城は北朝方諸豪と対峙する重要拠点だったとされる。南北朝期以後も高宗の子孫が大草郷を領有していた。戦国後期には伊那諸豪と同様に甲斐武田氏に属していたが、1582年織田信長による武田征伐の際、大草城主大草庄三郎入道休斎(香坂宗縁)は織田氏に降伏。その後の天正壬午の乱の中で、当初北条氏、後に徳川氏に帰属した。その後、香坂氏は慶長の頃まで代官となっていたらしい。
大草城は、天竜川東岸の段丘が、深沢川とその支流による浸食谷で南北を削られた要害地形に築かれている。現在は城址公園となっている。大きく3つの曲輪で構成されており、中心に高台となった不整五角形の主郭を置き、西に舌状に突き出た二ノ郭、北に広い三ノ郭を配置している。また主郭と二ノ郭の南側には腰曲輪が築かれている。主郭と二ノ郭・三ノ郭との間には空堀が穿たれていたらしいが、現在はほとんど埋められてしまっており、二ノ郭堀切の南端部だけ地形に痕跡が残る。その他では、三ノ郭東側の空堀が往時の痕跡を留めている。以上が大草城の遺構で、全面が公園となっているが城の雰囲気はよく残っている。現在でも急峻な断崖の上に築かれたことがよく分かる。
腰曲輪と二ノ郭切岸→
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.628360/137.945874/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

南北朝武将列伝 南朝編 - 亀田俊和, 生駒孝臣
ラベル:中世崖端城


















