
←詰丸背後の堀切
佐野山城は、この地の土豪桑原氏の居城と伝えられている。『諏訪御符礼之古書』などの史料によれば、桑原氏の活動は1459年から1479年にかけて確認できる。文明年間(1469~87年)の四宮庄の頭役桑原六郎次郎貞光が、1485年に塩崎貞光を名乗っており、以後桑原氏の名は史料から消える。これ以降は塩崎氏を称して活動したものと思われる。戦国時代に入ると、佐野山城は北信濃の戦略的要衝として歴史の表舞台に登場する。1553年、武田信玄が
葛尾城主村上義清を攻めた際、葛尾城の背後に位置するこの城の動向が重視された。同年4月、屋代政国と塩崎氏が村上氏に叛して武田方に付いた際、桑原で大岡方面の敵を押さえるために拠ったのが、この佐野山城と考えられている。1557年の第3次川中島合戦では、善光寺平に進出した上杉謙信が
飯山城に後退し、武田方の北信濃の国衆市川氏の攻略を進めたため、これに対抗して武田信玄は本陣を
塩田城から佐野山に進めており、この時信玄の本陣が佐野山城に置かれた可能性が高い。結局この時甲越両軍の直接の合戦はなかったが、10月まで信玄は佐野山に在陣していたと推測される。その後時代は下って武田氏滅亡後の1584年4月1日、上杉景勝の部将屋代秀正が上杉氏から離反し徳川方に転じて
荒砥城に籠城した時、屋代氏と共に離反した塩崎六郎次郎が拠った城として、直江兼続の書状に「逆徒居城」として佐野山城の名が記されている。これは同年3月に生起した小牧・長久手合戦に連動して、徳川家康が羽柴方の上杉氏を動揺させるために仕掛けたものと推測されている。しかし屋代氏・塩崎氏らは北信諸将の内応もなく、徳川方からの援軍も得られなかったため、上杉方の攻撃を受けて4月8日夜に城を捨てて逃亡し、
虚空蔵山城を占拠した。上杉方は虚空蔵山城を攻撃したが、激戦の末に撃退され、荒砥城・佐野山城等を境目の城として警固を厳重にして撤退したと見られる。その後、豊臣政権下で国分協定が行われ、この地方が上杉氏の支配下として確定すると廃城となったと思われる。
佐野山城は、佐野川に向かって突き出た山間の尾根上に築かれている。山上に長方形の主郭を置き、その前面に一段低くL字型の腰曲輪を築き、背後尾根の高台に細長い詰丸を配置している。主郭と詰丸との間は斜面だけで区画されているが、詰丸の背後には堀切が穿たれ、その後部に長円形の土壇がある。土壇の役割はよくわからない。また主郭の東下方には南北に長く伸びた腰曲輪があり、その北端の西上に根本をU字型の小堀切で区画された小郭がある。これらが城の中心部で、そこから東側に扇形に広がる斜面上にはおびただしい数の帯曲輪群が築かれている。この帯曲輪群の中を抜ける道があるが、後世の改変の可能性があり、城道とは俄には判断しがたい。ただ帯曲輪群の中段の北端部に舌状曲輪があり、そこに登ってくる道は曲輪に入ったところで枡形状に屈曲しているので、これは往時の城道であったと思われる。また下方の道の一部は横堀状を呈しており、これも遺構と思われる。以上の他に、主郭の北斜面・舌状曲輪の付け根の北斜面に竪堀が見られる。以上が佐野山城の遺構で、戦国末期まで使われた城にしては、縄張り面の技巧性はあまり感じられず、後部尾根の防御も小堀切1本だけと貧弱で、少々物足りなく感じる。
尚、『日本城郭大系』には石垣があると書かれているが、現地では確認できなかった。掲載されている縄張図も実態とは少々異なっているので、誤認であろうか。また現地解説板の縄張図も実態とかけ離れており、何を誤認したものか、不思議に思う。
東斜面の帯曲輪群→

↓MPI赤色立体図で見た佐野山城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:
https://maps.gsi.go.jp/#16/36.518059/138.062711/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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posted by アテンザ23Z at 13:13|
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古城めぐり(長野)
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