2026年02月27日

大谷山城〔仮称〕(岐阜県川辺町)

DSCN6524.JPG←二ノ郭から見た主郭
 大谷山城は、八坂山城の詳細地形をCS立体図で確認していた際に見つけた城である。新発見かどうかわからないが、文化財総覧WebGISの遺跡地図には載っておらず、ネットにもこの城の情報が見当たらなかったので、新発見としておく。現認日は2026年2月23日。

 大谷山城は、八坂山城の西隣りにある大谷山の、北西の峰続きにある。大谷山には秋葉神社が祀られ、隣の矢坂山と合わせてトレッキングコースが整備されているが、城があるのはこのコースから北に外れた未整備の山中である。城内には数ヶ所地籍調査の表示杭があるほか、踏み跡のある道(獣道?)が尾根に残っているので、人跡未踏というわけではない。城の遺構は、主郭を中心として、南北の主尾根に曲輪を連ね、更に西・北西の支尾根と、北尾根が湾曲して東に向かっている部分に段曲輪群が構築されている。主郭は縦長の台形状の曲輪で、土塁はないが北西に内枡形虎口が築かれていて、北にある二ノ郭に繋がっている。二ノ郭は馬蹄形の曲輪で、更に北東に湾曲する尾根に沿って4段の曲輪が連なっている。主郭の南には三ノ郭があり、その下にも1段腰曲輪が廻らされている。主郭の西には段曲輪群が4段ほどあるが、上から2段目の曲輪の後部に土塁と堀切が構築され、三ノ郭から通じる武者走りはこの堀切に接続しており、堀切が城内通路を兼ねていたことがわかる。またこの堀切から北西尾根の曲輪群にも武者走りが繋がっている。北西尾根の曲輪群は、他の尾根の曲輪と比べると小規模で、曲輪の数も3段と少ない。

 以上が大谷山城の主城部の遺構であるが、トレッキングコースのある大谷山(秋葉神社)の少し北の平坦面の中に、お地蔵さんが祀られた横長の土盛りがあり、その裏にクランクした浅い堀地形がある。堀がクランクしていることから見て、大谷山城の前衛となる土塁と空堀遺構であった可能性がある。川辺町教育委員会生涯学習課には、この城が地元では認識されていないのか、近日中に問い合わせようと思っている。

 大谷山城はその位置関係からして、八坂山城の出城もしくは詰城として築かれた可能性がある。また大谷山と八坂山の間には谷があるが、現地で見るとまるで堀切のようであり、両城を分断防御していたようにも思われる。
主郭の内枡形虎口→DSCN6527.JPG
DSCN6558.JPG←西尾根曲輪群の堀切と土塁
大谷山平坦面の堀と土塁の遺構→DSCN6596.JPG
↓八坂山城・大谷山城周辺地形図(提供:岐阜県森林研究所)
z八坂山城・大谷山城周辺地形図.jpg
↓大谷山城CS立体図(提供:岐阜県森林研究所)
z大谷山城CS立体図.jpg

〔2026年3月23日補足〕
 先日、川辺町の生涯学習課のご担当者から問合せ結果の回答を頂いた。大谷山・八坂山を整備している団体の関係者にわざわざヒアリングしていただいたらしく、その結果では地元でも城との認識は全く無いようであった。従って大谷山城は新発見城郭と見てよい様である。但し、これらの山一帯は山岳宗教の関係で、石積が築かれたり地形の改変が多いらしいので、秋葉神社の少し北の平坦面の土盛りと堀地形は、城郭遺構でなかった可能性が捨てきれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.493112/137.055583/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世山城
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2025年10月05日

東野陣屋(岐阜県恵那市)

DSCN0462.JPG←南側の空堀と土塁
 東野陣屋は、歴史不詳の城砦である。『恵那市史』では、1572年に武田氏が岩村城を攻撃した際、織田・遠山氏がこれに対抗して各地に出城や砦を築いたが、東野陣屋もその一つと言い伝えられている、と言うが、確かなことはわかっていないらしい。

 東野陣屋は、阿木川東岸の低い段丘辺縁部に築かれている。一応、「陣屋の跡地」などの標柱が設置されているが、城内はかなりの薮に覆われた薮城である。単郭の城で、台形の主郭を置き、西側以外の三方に土塁をめぐらしている。土塁の外には空堀が穿たれているが、明確なのは南側のものだけで、北東部は薮がひどいのと、民家の裏であるため、踏査できず。また北側は車道が通っていて改変されているため、堀跡の雰囲気を残しているだけである。せっかく標柱を設置しているのだから、地域で薮を整備してくれるとありがたいのだが・・・。
↓CS立体図で見た東野陣屋(提供:岐阜県森林研究所)
z東野陣屋CS立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.442788/137.422923/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編 - 宮坂武男
信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編 - 宮坂武男
ラベル:中世崖端城
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2025年10月03日

飯羽間城(岐阜県恵那市)

DSCN0422.JPG←二ノ郭から見た主郭
 飯羽間城は、東濃の有力国衆美濃遠山氏の一流飯羽間遠山氏の居城である。遠山氏の一族は、岩村遠山氏を惣領として、明照・明知・飯羽間・串原・苗木・安木の「遠山七家」が恵那郡一帯に勢力を張っていた。この中にあって飯羽間城は岩村城に最も近い位置にあり、一族の中でも重視された城で、織田氏との関係も深く、城主は織田信長の信任を得ていた。時の城主遠山右衛門友勝は織田信長の命によって苗木城へと移り、子の友忠が城主となった。その後、友忠も後に阿寺城へ移り、飯羽間城を庶長子友信に譲った。友信は1574年の武田勝頼による東濃侵攻の際に、明知城内で謀反を起こし、落城に導いた。その後、1575年の長篠合戦を経て、織田氏が東濃を奪還すると、友信は甲斐に逃れた。城主不在となった飯羽間城は、この頃に廃城になったと推測されている。1582年、織田信長の武田征伐によって武田氏が滅亡した際、友信は織田方に捕らえられて処刑されたと言う。

 飯羽間城は、飯羽間川沿いの比高30m程の低丘陵に築かれている。東西に長い丘陵は、西端部に向山と呼ばれる小山があり、その間の谷戸が天然の堀切となっていて、ここに大手が置かれていた。城の中心はこの谷戸の東側で、頂部に主郭を置き、東に舌状に伸びた丘陵上に、段差だけで区画した二ノ郭・三ノ郭を配置している。その周囲には腰曲輪・帯曲輪をめぐらしている。また大手から主郭までの斜面には何段もの腰曲輪群を築いているが、一部を除いて薮が多く、形状が捉えにくい。城内の主要部は薮払いされて整備されている。主郭には新しい解説板の他、飯羽間城諸将士の供養塔が建っている。また城内の各所には、手書きの看板がたくさん落ちており、一部は字が消えかかっていて読みづらいものも多かったのは残念である。この他、大手西側の向山も出曲輪が築かれていたらしいが、未整備の猛薮に阻まれて進入できない。以上が飯羽間城の遺構で、規模も大きくはなく、要害性もそれほど高いようには見えず、重視された城にしてはあっさりした印象である。
主郭西側の腰曲輪群→DSCN0389.JPG
↓CS立体図で見た飯羽間城(提供:岐阜県森林研究所)
z飯羽間城CS立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.374417/137.411169/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

東海の名城を歩く 岐阜編 - 均, 中井, 信雄, 内堀
東海の名城を歩く 岐阜編 - 均, 中井, 信雄, 内堀
ラベル:中世平山城
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2025年10月01日

城山砦(岐阜県恵那市)

DSCN0337.JPG←土橋で連結した二ノ郭
 城山砦は、1570年に東濃に侵攻した秋山虎繁(信友)率いる武田勢と遠山一族を中心とする東濃・東三河の軍勢が戦った上村合戦の際に、遠山勢の拠点となった砦の一つとされ、苗木城主遠山友勝が拠ったと伝えられる。上村合戦後の砦の歴史は不明だが、武田氏によって改修された可能性が指摘されている。

 城山砦は、上村川が直角に蛇行する場所にそびえる小山に築かれている。砦の南を通る城山トンネルの脇から登道がついているので迷うことなく登ることができる。主郭・二ノ郭とその周囲を廻る腰曲輪から構成された小規模な城砦である。主郭は長円形に近い形状の曲輪で、北西に二重堀切を穿ち、南東の二ノ郭との間にも堀切を穿っている。この堀切の北側は長い竪堀となって落ちている。主郭と二ノ郭とは細い土橋で連結され、現地解説板では二ノ郭を馬出しと推定しているが、これはちょっと違うと思う。主郭の南側には幅広の腰曲輪が築かれ、この腰曲輪の西端は前述の二重堀切の内堀と繋がっている。二ノ郭は長方形の小さな曲輪で、中央部北寄りが少し窪んでいる。二ノ郭の外周には帯曲輪が築かれているが、東側は横堀となっていて途中から竪堀を落としている。以上が城山砦の遺構で、前田砦ほど規模は大きくないが、ここも普請がしっかりされており、要衝として重視されたことがうかがわれる。
尚、この城では一つ不愉快なことがあった。主郭に稲荷社があるのだが、その近くで焚火がくすぶっていたのである。近くに人はなく、冬季の山中で火を消さずに放置していた。時に大船渡など各地で大きな山火事が多発している時期でもあり、焚火から炎も上がっていたので、急いで手持ちの水をかけ、靴で何度も踏んで火を消した。冬季の山中で焚き火を放置するなど、まったく軽率な行為だ。
二重堀切→DSCN0348.JPG
↓CS立体図で見た城山砦(提供:岐阜県森林研究所)
z城山砦CS立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.288094/137.476589/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編 - 宮坂武男
信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編 - 宮坂武男
ラベル:中世山城
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2025年09月29日

前田砦(岐阜県恵那市)

DSCN0213.JPG←二ノ郭裏から落ちる長大な竪堀
 前田(ぜんだ)砦は、上村城ともいい、1570年上村合戦で激戦地となった城砦である。明知城主遠山景行の家臣門野兄弟が一千余の兵で拠守したと伝えられる。1570年12月、高遠城主秋山虎繁(信友)が美濃に侵攻した。これに対して明知遠山景行、苗木城主遠山友勝、飯羽間城主遠山友忠、串原城主串原弥左衛門、高山城主平井光行、小里城主小里光次ら東濃の遠山一族の軍勢、及び徳川氏傘下の東三河の軍勢が上村で秋山軍を迎撃した。しかし激戦の末に大敗し、遠山景行を始め守将の門野兄弟ら多くの将士が討死した。この時、前田砦も落城したと見られる。後に秋山虎繁が岩村城を奪取して東濃を支配すると、前田砦には秋山麾下の原弾正が居城したらしい。

 前田砦は、上村川と飯田洞川の合流点に突き出た山尾根の先端部に築かれている。この地は信濃や奥三河に通じる街道を押さえる要衝であった。尾根先端から登道が整備されているので、簡単に登ることができる。連郭式の縄張りに、大型の堀切群で要所を分断した城で、かなり本格的な普請がされており、遺構の質・規模ともに砦のレベルではない。先端に3段の平場で構成された曲輪群があり、その背後に幅の広い箱堀を穿ち、その上に三ノ郭を置いている。この箱堀の左右には大きな縦堀が落ちている。三ノ郭背後にも幅広の箱堀があり、北斜面に大きな竪堀が落ちている。箱堀の上にあるのが二ノ郭で、中央は前後2段、その左右に一段低い帯曲輪を付随させた、やや複雑な段差で区画された曲輪となっている。二ノ郭の背後には薬研堀が穿たれ、この左右も大きな竪堀が落ちている。特に北側のものは長大で、北側下方に広がる平坦地まで貫通している。平坦地の堀の西側には土塁が築かれている。二ノ郭背後の堀切の上には主郭がある。主郭はやや細長い曲輪で、後部に櫓台を築き、その背後も薬研堀で分断している。この堀切は北側で主郭北側に回り込んで、下りながら横堀から腰曲輪に変化している。主郭背後の堀切の後部にある尾根も削平されており、外郭として使用されたことがうかがわれる。この他、二ノ郭・三ノ郭の南北斜面には帯曲輪が築かれている。以上が前田砦の遺構で、重要街道を押さえる要害として重要視されたことがよく分かる。
三ノ郭前面の箱堀→DSCN0155.JPG
↓CS立体図で見た前田砦(提供:岐阜県森林研究所)
z前田砦CS立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.301656/137.501810/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

東海の名城を歩く 岐阜編 - 均, 中井, 信雄, 内堀
東海の名城を歩く 岐阜編 - 均, 中井, 信雄, 内堀
ラベル:中世平山城
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2025年09月27日

水晶山陣所(岐阜県恵那市)

DSCN0120.JPG←主郭
 水晶山陣所は、岩村城攻撃の際に織田軍が構えた陣所の一つである。岩村城攻撃の顛末は大将陣の項に記載する。『信濃をめぐる境目の山城と館』によれば、岩村城への補給路が水晶山越えにもあったと考えられ、この補給路を断ち退路を押さえるために、織田軍はこの山を制圧する必要があったと推測している。

 水晶山陣所は、岩村城の東の尾根続きにある標高958mにある水晶山を中心に築かれている。『信濃をめぐる境目の山城と館』では山頂部の他、西の尾根筋の2ヶ所について遺構の候補として取り上げている。明確な陣城遺構は山頂部で、円形に近い主郭と、その東西に2つの曲輪がある。西側には虎口らしい地形も確認できる。かなり小さな砦である。西の尾根筋は、岩村城東の車道から尾根に入ってすぐのところと、そこからかなり東に登ったところにあり、それぞれいくつかの平場が確認できる。また竪堀状地形や堀切のような地形もいくつか散見される。ただ陣城遺構として捉えるにはやや明確さに欠ける。いずれにしても細尾根であり、大軍は配置できない地形である。補給路と退路の遮断のほか、遠見張りと武田勢の後詰めに備えたものであったと思われる。
虎口状地形→DSCN0105.JPG
DSCN0072.JPG←尾根筋の竪堀状地形

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.358431/137.470345/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編 - 宮坂武男
信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編 - 宮坂武男
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2025年09月25日

大将陣(岐阜県恵那市)

DSCN9987.JPG←丘陵上の平場
 大将陣は、岩村城攻撃の際の織田軍の大将織田信忠の本陣である。1575年5月の長篠の戦いで武田勝頼に大勝した織田信長は、同年6月、東濃で反攻に転じ、長男信忠に3万の大軍をさずけて要衝岩村城を攻撃した。信忠はここに本陣を置いて岩村城包囲軍を指揮した。そのためこの丘を大将陣と呼ぶようになったと言う。岩村城将秋山虎繁(信友)は、配下の信濃勢・遠山勢を率いて頑強に抵抗して容易に落ちなかったが、織田勢は武器食料などの輸送ルートを遮断し、5ヶ月余りにわたって包囲攻撃を続けた。冬迫る同年11月、援軍の望みを絶たれた虎繁は、遂に城兵の助命を条件に開城降伏した。しかし信長は、叔母である前城主遠山景任未亡人おつやの方が信長を裏切って武田の重臣秋山と結婚し、岩村城を武田側へ渡したこと、また景任の養子となっていた5男御坊丸(織田勝長)が人質として甲府の武田信玄のもとへと送られたことに激怒していたため、約束を破ってこの丘で秋山夫婦、大島杢之助・座光寺為清ら計5人を逆磔にして誅殺した。5人の首を葬った塚は大将塚と呼ばれる。また助命を約束された城兵3000人(婦女子を含む)は信州を目指して城を出たが、木の実峠にかかったとき、前後左右から織田の伏兵に攻められて全滅した。この件に限らず、信長は度々助命の約束を破って皆殺しにしたり、敵対勢力を大軍で包囲して虐殺することを繰り返しており、本能寺で自滅に至ったのも当然である。私が織田信長を好きではない所以である。

 大将陣は、岩村城の北西にある南北に長い小丘陵で、現在は大将陣公園となっている。公園化による改変の他、太平洋戦争中には防空監視哨も置かれていたそうなので、全てが遺構というわけではなさそうであるが、丘陵の北端近くに最高所となる平場があり、南に段状に平場群があり、また東側には腰曲輪状の平場群が見られる。南の平場上には大将塚が残っており、悲しい歴史を今に伝えている。
大将塚→DSCN9973.JPG
↓CS立体図で見た大将陣(提供:岐阜県森林研究所)
z大将陣CS立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.369494/137.443591/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

織田信長 〈天下人〉の実像 (講談社現代新書) - 金子拓
織田信長 〈天下人〉の実像 (講談社現代新書) - 金子拓
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2025年09月23日

阿木城(岐阜県中津川市)

DSCN9793.JPG←大手虎口
 阿木城は、1573年に織田信長が武田氏の侵攻に対抗するため、重要拠点岩村城の押さえのために築いた遠山十八砦の一つと言われ、城主としては戸田甚左衛門、大藤権允、堀田某などの名が伝わるが、明確ではない。1574年2月、武田勝頼は大軍を率いて東濃に侵攻し、明知城・飯羽間城の他、信長の十八砦の多くも落城して武田方の手に落ちた。従って阿木城も武田氏の支配するところとなり、岩村城防衛線の一環として改修された可能性がある。翌75年5月、長篠合戦で武田氏が織田・徳川連合軍に大敗すると、同年6月、信長は東濃で反攻に転じ、岩村城を包囲した。この時信長は、岩村城への武器食料などの輸送ルートを遮断するため、主要道の各地に城砦を配置して包囲作戦を実施した。阿木城もこの時に織田方に使用されたと考えられている。岩村城が攻略され、武田氏の勢力が東濃から駆逐されると、阿木城は役目を終えたと推測されている。
 尚、美濃遠山氏の一族の中に安木遠山氏があるが、阿木城とは関係がなかった様である。

 阿木城は、阿木地区の北方にある標高532mの丘陵上に築かれている。登道が数ヶ所整備されているが、南麓からの道が大手に当たる。これを登っていくと大手虎口に至る。両側に腰曲輪を置き、その間を切通し状に城道が登り、入ったところで左に道が折れている。その上の腰曲輪に登っていく手前には側方に動線制約する竪堀が落ちている。更に腰曲輪・帯曲輪をジグザグに登って、最後に主郭に至る。主郭は円形の広い曲輪で、土塁はなく、南北に虎口を築いている。主郭の外周には、西半分に帯曲輪、東半分には広いニノ郭とそれに繋がる帯曲輪が築かれている。腰曲輪群は南、西、東の三方に築かれているが、前述の曲輪群は南の大手筋を守る曲輪群で、防備が最も厳重である。西尾根は、帯曲輪の下に小郭数個と舌状曲輪を築き、先端を小堀切で区画している。東尾根は、二ノ郭の下に腰曲輪群が3段築かれているが、北側の竪土塁の側方に堀切を穿っている。この堀切はL字型に折れた形状で、北東尾根を頂点にして北と西に竪堀となって落ちている。北東尾根にはその先にも切通し道があり、これも堀切として機能していたと思われる。以上が阿木城の遺構で、まん丸の主郭というのは珍しく、大手と背後尾根の防御に力点を置いたことがわかりやすい城である。
L字型の堀切→DSCN9909.JPG
↓CS立体図で見た阿木城(提供:岐阜県森林研究所)
z阿木城CS立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.401724/137.462907/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー 382) - 平山 優
検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー 382) - 平山 優
ラベル:中世平山城
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2025年09月21日

阿寺城(岐阜県中津川市)

DSCN9660.JPG←二ノ郭後方の片堀切
 阿寺城は、東濃の有力国衆美濃遠山氏の一流明照(あてら)遠山氏の居城である。遠山氏の一族は、岩村遠山氏を惣領として、明照・明知・飯羽間・串原・苗木・安木の「遠山七家」が恵那郡一帯に勢力を張っていた。明照遠山氏の初代は、岩村城主遠山景前の3男直廉(景任の弟)で、阿寺城を築いて居城とした。しかし苗木城主の兄武景が亡くなると、直廉が苗木遠山氏を嗣ぐこととなり、明照遠山氏は一時断絶した。しかし1569年、飯羽間城主遠山友忠は、飯羽間城を庶長子友信に譲り、自身は次男友重・3男友政らを連れて阿寺城に移ったと言う。1570年に苗木城主遠山直廉が没すると、織田信長は友忠に苗木城主を継がせ、友忠は友重に阿寺城を守らせた。1574年、武田勝頼が東濃に侵攻した際には武田方の木曽義昌が阿寺城を攻撃し、友重は討死、阿寺城は落城となり、明照遠山氏は断絶した。この他、織田方の戸田甚左衛門・渡辺新右衛門の両名が木曽の押さえの番頭として阿寺城に在城したとも、また武田氏重臣秋山虎繁(信友)が岩村城主となっていた時には織田方の鳴瀬某が城主であったともいい、武田・織田両勢力の境目の城として機能したと思われる。

 阿寺城は、中津川西岸の根の上高原から北に伸びた山尾根の末端部に築かれている。南北に長い細尾根で、両側は急峻な斜面となった地勢である。現在主郭には御嶽神社が建っているので、西麓から参道(登山道)が整備されている。この道を登り、最初に到達する尾根上の平場が4郭で、扇形をしており、東に細尾根が突き出ている。この先の北東の尾根筋と4郭の北尾根に小郭群が築かれている。4郭後ろの尾根を少し登ると三ノ郭がある。三ノ郭は西側中央部に虎口を築いているが、虎口の両側には門として利用されたと思われる石が残っている。三ノ郭内部は4段の平場に分かれ、虎口の南北にやや高くなった平場を置き、北東部に低い平場を置いている。三ノ郭後方には片堀切が穿たれて二ノ郭前面の防御としている。三ノ郭から帯曲輪を経由して二ノ郭に至る。二ノ郭は2段に区画された平坦な曲輪で、この後方にも片堀切が穿たれ、土橋が架かっている。土橋側方には石積みが見られる。これらの後方に主郭がある。主郭は内部が階段状に4段に分かれ、一番後ろの高台に御嶽神社が建っている。主郭背後の尾根には三重堀切が穿たれているが、外堀はかなりささやかで実質二重に近い感じである。この先に伸びる南尾根には所々竪堀状地形が見られ、城から少し離れたところに西に向かって斜めに落ちる大きな竪堀がある。この他、主郭の東の支尾根に小郭群がある。ところで、三ノ郭から南東に城道が伸びていて、その先に腰曲輪が置かれている。なぜこんなところに腰曲輪を置いているかといえば、実はこの先の東尾根に搦手道が明瞭に残存しているのである。前述の城道が三ノ郭に入る部分には場内最大の石積みが残っていて、重要な登城路であったことをうかがわせる。また搦手道の下方には堀切が穿たれ、その前面に独立堡塁が築かれて防御を固めている。以上が阿寺城の遺構で、遺構がよく残っており、大きな城ではないが境目の城として防備を固めていたことがわかる。
三ノ郭虎口の石→DSCN9633.JPG
DSCN9758.JPG←搦手の堀切と独立堡塁
↓CS立体図で見た阿寺城(提供:岐阜県森林研究所)
z阿寺城CS立体図2.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.464648/137.504252/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編 - 宮坂武男
信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編 - 宮坂武男
ラベル:中世山城
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2024年03月27日

苗木城(岐阜県中津川市)

DSCN5614.JPG←高森神社の砦から見た本丸
 苗木城は、岩村城主遠山氏の庶流苗木遠山氏の居城である。苗木北方の植苗木(うわなぎ)にあった広恵寺城を本拠としていた苗木遠山氏の一雲入道が、1526年に高森山頂に苗木城を築いて居城を移したと考えられている。これ以前、東濃の恵那中部は信濃の小笠原氏が占領しており、遠山一族は逼塞を余儀なくされていた。これは応仁の乱の余波であった。即ち、西軍の重鎮であった美濃守護土岐成頼の守護代斎藤妙椿が1473年3月に京都に入ると、東軍はこの美濃勢を牽制するため、信濃松尾城主小笠原家長に木曽福島の木曽家豊と共に東美濃へ出兵するよう催促した。同年11月中旬、小笠原・木曽両軍は大井城・荻之島城を攻略し、以後、天文年間(1532~55年)まで小笠原氏が恵那中部を占領していた。しかし大永~天分年間(1521~55年)頃に小笠原氏に内紛が起き、その勢力が弱わったため、遠山一族が旧領を回復する一端を担って苗木遠山氏は苗木城に本拠を移したと思われる。その後、岩村遠山氏を惣領として、明照・明知・飯羽間・串原・苗木・安木の「遠山七家」が東濃の恵那郡一帯に勢力を張り、特に岩村遠山氏、明知遠山氏、苗木遠山氏は三人衆と呼ばれた。永禄年間(1558~70年)の当主直廉は織田信長の妹を娶り、信長が岐阜に入ると岩村城守護の一翼として中山道を押さえた。1570年に直廉が没すると、信長は飯羽間城主城右衛門佐友勝の子、久兵衛尉友忠に苗木城主を継がせた。友忠は、長子を飯羽間城に、次子を阿寺(明照)城に配して武田勢への押さえとした。武田信玄は、重臣で高遠城主であった秋山虎繁(信友)を東濃に侵攻させ、1572年に飯羽間城・岩村城は落城して武田方となったが、苗木城は織田方として持ちこたえた。1575年、長篠の戦いで武田勝頼が徳川・織田連合軍に大敗すると信長は反攻に転じ、信忠を大将とする2万の大軍で東濃奪還を図った。織田軍は武田軍に占拠されていた諸城を次々に奪回し、東濃一円は織田氏の支配下となった。1582年の武田氏滅亡・織田信長横死後、翌83年には友忠・友政父子は豊臣秀吉方の金山城主森長可と争った末、苗木城を放棄して徳川家康を頼って浜松に逃れた。以後、苗木城はしばらく森氏の支配下となった。1599年に森氏が信濃川中島に移封となると、苗木城は河尻直次が領有し、関治兵衛が城代となった。1600年の関ヶ原合戦の際、直次は西軍に付く気色を見せたため、家康は友政に苗木城奪還を命じ、友政は同年7月に苗木城を攻略し、そのまま家康から旧領を安堵され、10500余石を領して苗木藩を立藩した。以後、苗木遠山氏は12代に渡って苗木藩主として続き、幕末まで存続した。しかし江戸300藩中で最小の城持ち大名という小藩であったにもかかわらず、若年寄や大坂警備を任されたため、江戸時代を通して財政は常に破綻寸前であった。

 苗木城は、木曽川北岸にそびえる岩山に築かれている。同じ近世城郭として存続した岩村城と比べるとその規模は驚くほど小さいが、岩村城が県指定史跡なのに対して、こちらは国指定史跡である。そのため遺構はよく整備されている。城は、岩山の上に置かれた狭小な本丸、その周囲を巡る腰曲輪、西側下方の腰曲輪状の二の丸、北に突き出た三の丸から構成されている。いずれの曲輪も近世城郭としてはかなり小さいが、江戸時代の絵図によるとそこに所狭しと建物が建てられていたらしい。曲輪の面積が狭いため、石垣の外に柱を立てた懸造りの建物も多数あったらしい。現在でも礎石が多数残っている。北西にある駐車場から城に向かうと、まず石垣の枡形通路があり、これが竹御門跡である。そのすぐ南には足軽長屋跡の平場がある。その南の台地続きは龍王院跡で、井戸跡や石積みが残っている。その南には高森神社が祀られた小山があるが、腰曲輪を有する往時の砦跡である。ここから眺める苗木城本丸は素晴らしい。腰曲輪群の幾重もの石垣の上に本丸がそびえている。一方、前述の竹御門から散策路を進むと風吹門跡に至る。ここからが主城域である。風吹門の先が三の丸で、大矢倉の石垣がそびえている。三の丸内にも石積みが散見され、北端には北門跡、東側には駈門の枡形がある。三の丸の東には腰曲輪が張り出し、その脇を駈門から東に降る道があり、これが往時の大手道である。腰曲輪の石垣の角部にもう一つの竹門がある。三の丸の南に大門跡があり、それを抜けるとやや広めの腰曲輪があり、御朱印蔵の石垣がある。腰曲輪の西側には二の丸が奥まで広がっていて、ここに城内最多の礎石がある。ここからつづら折れに城道を登っていくと、やがて千石井戸を手前に置いた本丸石垣が眼前にそびえてくる。更に登った先がようやく本丸である。往時は大岩の上に天守があったが、現在は2階床面までの天守骨格の木組みが復元されている。この他、本丸周囲の腰曲輪にも石垣が各所に残っているが、通行禁止になっている腰曲輪もある。南端の不明門や清水門方面も立入禁止になっている。
 苗木城は小城とはいえ、多数の石垣の他、礎石も各所にあり、往時の雰囲気がそこはかとなく感じられる。
三の丸の大矢倉跡→DSCN5685.JPG
DSCN5709.JPG←駈門の枡形
二の丸の石垣→DSCN5920.JPG
DSCN5865.JPG←天守の復元木組み骨格

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.513147/137.485271/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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ラベル:近世山城
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2024年03月25日

大井城(岐阜県恵那市)

DSCN5545.JPG←城趾の小学校
 大井城は、大井遠江守行秀が城主であったと推測されている。行秀は原蜂屋氏の祖定親の玄孫で、定親の弟頼貞の玄孫は美濃守護土岐持益に当たる。応仁の乱の際、西軍の重鎮であった美濃守護土岐成頼の守護代斎藤妙椿が1473年3月に京都に入ると、東軍はこの美濃勢を牽制するため、信濃松尾城主小笠原家長に木曽福島の木曽家豊と共に東美濃へ出兵するよう催促した。同年11月中旬、小笠原・木曽両軍は大井城・荻之島城を攻略したと言う。以後、天文年間(1532~55年)まで小笠原氏が恵那中部を占領したと伝えられる。但し、小笠原氏が攻略した大井城が、この城のことであったかどうかは明証はない。

 大井城は、中山道大井宿の東端にある台地上にあったらしい。現在は大井小学校の校地となり、地勢以外に明確な遺構は残っていない。ちなみに中山道は、この地から東が木曽路、西が美濃路と呼ばれ美濃・信濃両勢力の接点であったと言う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.455191/137.416027/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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ラベル:中世崖端城
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2024年03月23日

岩村城(岐阜県恵那市)

DSCN5003.JPG←岩村城のシンボル、六段壁の石垣
 岩村城は、東濃の有力国衆岩村遠山氏の歴代の居城である。遠山氏の祖は、源頼朝に伊豆の挙兵時より仕えてその重臣となった加藤景廉で、1185年に軍功によって遠山荘の地頭職を与えられ、その長子景朝がこの地に入部して遠山氏を称し、岩村城を築いた。以後、鎌倉・南北朝・室町時代を通して遠山氏は恵那郡全体に勢力を扶植し、東濃の一大豪族となった。戦国時代には、岩村遠山氏を惣領として、明照・明知・飯羽間・串原・苗木・安木の「遠山七家」が恵那郡一帯に勢力を張り、特に岩村遠山氏、明知遠山氏、苗木遠山氏は三人衆と呼ばれた。弘治・永禄年間(1555~70年)になると、遠山氏は南信の伊那谷全域を制圧した武田信玄と、尾張から美濃へ大きく勢力を伸ばし始めた織田信長との間に挟まれることとなった。まずこの地に影響を及ぼし始めたのは東濃への進出を目論む武田氏で、岩村城主遠山景前は武田氏に誼を通じて勢力の安泰を図った。その子景任は武田・織田と両属関係となり、後には信長の叔母おつやの方を正室に迎えるなど徐々に織田方への傾斜を深めた。そして遂に遠山一族は武田氏から離反し、武田氏の攻撃を受けることとなった。1570年、高遠城主秋山虎繁(信友)が美濃に侵攻し、遠山一族と徳川氏傘下の三河衆の連合軍が恵那郡上村で迎え撃って大敗した。敗報を受けた信長は直ちに援軍を派遣し、虎繁は信濃へ撤退した。1572年8月、岩村遠山景任が嗣子なく没すると、信長は自身の5男御坊丸を遠山氏の養嗣子とし、おつやの方を後見人として東濃を支配下に置いた。同年10月、信玄は西上作戦を開始し、秋山虎繁は伊那衆を率いて岩村城を攻囲した。御坊丸の養育と城兵を助命するかわりにおつやの方が虎繁と再婚し、岩村城を開城させて虎繁が城主となった。信玄は翌73年4月、志半ばで陣没し、勝頼が後を継いだ。1574年1月、勝頼は代替わりの緒戦として東濃攻略を企図して岩村城に進出し、周辺の遠山一族の諸城を攻略しつつ明知城を囲んだ。信長は、嫡男信忠と共に鶴岡山に本陣を構えて武田勢と対峙したが、2月6日に飯羽間友信の裏切りによって明知城が落城したため、神篦城に河尻秀隆を、小里城に池田恒興を配置し、2月24日に岐阜に撤退した。1575年、長篠の戦いで武田勝頼が徳川・織田連合軍に大敗すると、信長は反攻に転じ、信忠を大将とする2万の大軍で東濃奪還を図った。織田軍は武田軍に占拠されていた諸城を次々に奪回し、半年の籠城戦の末に岩村城を攻略した。降伏した秋山虎繁以下の下伊那の将兵は、助命の約束を反故にされて惨殺され、城内にいた遠山氏の将兵も皆殺しにされ、岩村遠山氏は滅亡した。こうして東濃は完全に織田方の支配下に入り、岩村城には織田氏の部将河尻秀隆が入って、対武田の最前線の城となった。1582年3月、武田征伐を開始した信長は、明智光秀等錚々たる面々を引き連れて岩村城に着陣し、岩村城滞在中の13日頃に武田勝頼滅亡の一報を受けた。武田氏が滅亡すると、秀隆は甲斐一国を与えられて甲府に移り、岩村城は信長の寵臣森蘭丸に与えられた。しかし蘭丸は信長に近侍していたため、留守代として森氏の家老各務兵庫が在城した。同年6月に本能寺の変で織田信長と共に蘭丸も討死した後、東濃地域は羽柴秀吉に服属した美濃金山城主森長可(蘭丸の兄)の勢力下に入ることとなり、岩村城もその領国に組み込まれた。1584年、小牧・長久手の戦いで長可が討死すると、長可の末弟忠政がその後を継いだが、1599年に信濃川中島に転封となった。森氏3代の間は各務兵庫が継続して岩村城を預かった。森氏の跡には川中島から田丸具安が入ったが、翌年の関ヶ原合戦の際に石田三成の西軍に与し、戦後除封された。1601年大給松平家乗が2万石で入封し、近世岩村藩が成立した。以後、丹羽氏・松平(大給石川)氏が藩主となり、幕末まで存続した。

 岩村城は、標高720mの城山に築かれている。中世の根古屋式山城の遺構をベースに、近世の石垣技術を上乗せしたような城となっている。県の史跡に指定されており、主要部の遺構は山麓から山頂までよく整備されている。北西麓の台地上には藩主邸(御殿)跡の広大な平場があり、現在は片隅に岩村歴史資料館が建っている他、太鼓櫓、表御門、平重門などが復元されている。そこから山上の本丸まで大手道が伸び、大手道沿いに主要な曲輪群と城門が構築されている。初門・一之門を抜けて進むと、両側に石垣のある平場群が現れる。これらの平場群の北西にも曲輪群が展開している。これらを登った先に枡形を形成する土岐門があり、ここで登城路は大きく右に旋回する。その先に大堀切があり、往時は畳橋というL字型の木橋が架かっていた。その先には石垣で囲まれた曲輪がそびえており、追手門と三重櫓の跡がある。更に進むと、緩傾斜地に広い屋敷地跡の曲輪群が登城路両側に広がっており、霧ヶ井などの井戸跡や、八幡神社が鎮座した八幡曲輪がある。それらの上にあるのが城の中心部である。城の中心部はほぼ総石垣となっており、長方形の本丸を山頂に置き、北に二ノ丸、東に東曲輪、またこれらの外周には帯曲輪を廻らしている。更に帯曲輪の外側には南に南曲輪、南西に出丸を築いている。本丸の北東部には、岩村城のシンボルでもある六段壁と呼ばれる石垣がある。二ノ丸は山林に覆われているが、内部に四角い大穴があり、穴の中心に石垣で囲まれた方形の壇がある。庭園か何かの跡であろうか?二ノ丸は東西2段に分かれていて、上段曲輪の東辺中央に石垣の虎口が形成されている。下段曲輪の北東部には菱櫓があったらしい。これらが中心的な遺構であるが、周囲に派生する尾根には中世山城そのままの段曲輪群が築かれ、堀切や物見曲輪も山林内に残っている。これらの支尾根曲輪群の中では、南曲輪と出丸の先の曲輪群は堀切まできれいに整備されている。
 さすがは有名な城だけあって、遺構群はいずれも素晴らしく、見応えがある。各所には解説板も設置されていて、往時の形態も想像しやすい。城だけでなく、城下町にも古い町並みの風情が残り、町家も含めて探訪すべき貴重な遺産である。
土岐門の枡形→DSCN4843.JPG
DSCN4907.JPG←中段の屋敷地曲輪群
南曲輪の支尾根の土橋・堀切→DSCN5029.JPG
DSCN5083.JPG←出丸の支尾根の堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.359840/137.451292/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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ラベル:近世山城
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2024年03月21日

馬籠城(岐阜県中津川市)

DSCN4663.JPG←城址の丘陵の現況
 馬籠城は、馬籠丸山城とも言い、木曽氏の支城として戦国末期の戦いの舞台となった。創築時期は不明だが、室町後期には東濃の国人領主岩村遠山氏の一族馬籠遠山氏の所領であり、遠山氏によって築かれていた。戦国中期に甲斐の武田信玄が信濃に侵攻して木曽義昌が武田氏に降ると、東濃にも武田氏の勢威が及ぶようになった。永禄・元亀年間(1558~73年)には岩村氏の勢力圏は、西から勢力を拡大した織田信長と、東の武田信玄との接壌地帯となった。遠山氏が織田方になると、1572年に信玄は重臣の秋山虎繁(信友)を東濃に侵攻させて岩村遠山氏を降し、1574年には武田勝頼が東濃に侵攻して遠山18支城を攻略したとされる。この時馬籠城も武田氏の支配下に入った。1582年に武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に信長も本能寺で横死すると、北条・徳川・上杉による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が生起し、信濃木曽谷を支配する木曽義昌は紆余曲折を経て徳川家康に与し、馬籠城は木曽氏の支配下となった。1584年3月、小牧・長久手の戦いが生起し、濃尾平野を挟んで豊臣秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が対峙した。この時義昌は徳川氏から離反して豊臣方に付き、秀吉は信濃の徳川勢の進路を塞ぐため、義昌に木曽路防衛を命じた。義昌は、妻籠城に重臣の山村良勝を、馬籠城に島崎重通(文豪島崎藤村の祖先)を入れて守らせた。同年9月、家康は飯田城将菅沼定利・高遠城将保科正直・諏訪高島城将諏訪頼忠らに木曽攻略を命じた。徳川勢は妻籠城を攻撃するとともに、一軍を割いて馬籠城攻撃に向かわせた。馬籠城攻撃の徳川勢は馬籠宿の北に陣所を構えた。重通は大軍襲来に恐れをなし、夜陰に紛れて妻籠城へと逃れた。結局徳川勢は妻籠城攻略に失敗して敗退し、小牧・長久手の戦いも秀吉の政治工作によって講和が成立した。後に家康が秀吉に服従すると、秀吉は信濃諸将の管轄を家康に一任し、木曽氏は再び徳川傘下となった。1590年、徳川氏が関東に移封となると、木曽氏は下総網戸に移された。1600年の関ヶ原の戦いで徳川氏が覇権を握ると、木曽は徳川氏の直轄領となった。1615年、木曽は尾張徳川藩の領地となり、馬籠城は廃城となった。

 馬籠城は、馬籠宿南西の緩傾斜地にある小さな独立丘陵に築かれている。旧中山道沿いには城の解説板が立っている。主郭があったと思われる丘陵頂部は竹林になっているが、削平が甘く、ほとんど地山のままの様である。その南西には広い平場と堀切状の農道、また西側には腰曲輪らしい平場郡が見られるが、耕地化されているのでどこまで往時の形態を留めているのか、よくわからない。結局、遺構を見る限り大規模な普請は行われなかった模様で、小規模な砦であった様だ。この程度の城砦では、島崎氏が戦わずして脱出するのも無理からぬところである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.521932/137.561735/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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ラベル:中世平山城
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2023年10月02日

一夜城(岐阜県恵那市)

DSCN4797.JPG←主郭
 一夜城は、1574年の武田勝頼の東濃侵攻の際、勝頼が本陣を置いた陣城と伝えられる。一夜城の名は、明知城攻めの際に武田方の将秋山伯耆守が戸障子を立てて白壁の城のように見せかけたという伝承から名付けられたと言う。

 一夜城は、標高720.4mの山上に築かれている。北東尾根の林道脇に昨年の山城サミットで設置された誘導標識と幟があり、そこから登道が整備されている。この道を進んでいくと、最初に現れるのが小ピーク上にある北出曲輪で、本城との間を堀切で区画している。しかしこの出曲輪が置かれている意味がよくわからない。かつての大手道がこの尾根にあったのであれば、城の前衛の曲輪と言うことになる。この南西の山上には主郭がある。主郭はほとんど地山に近く、あまり削平されていない。南側に一段低く腰曲輪が見られる他、主郭中央部が鞍部となっていて堀切のようにも見えるが、いずれも普請の痕跡はわずかである。また北斜面には明確な武者走りが築かれ、主郭外周下方を廻っている。遺構としてはこれだけで、織田信長が本陣を置いた諏訪ヶ峯砦よりも更に簡素な陣城である。
北出曲輪と堀切→DSCN4788.JPG
DSCN4791.JPG←北斜面の武者走り

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.323503/137.407207/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

武田三代の城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
  • メディア: 単行本
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2023年09月30日

明智陣屋敷(岐阜県恵那市)

DSCN4714.JPG←主城の腰曲輪と主郭
 明智陣屋敷は、陣屋敷砦とも言い、歴史不詳の城砦である。東2.1kmに武田勝頼本陣の一夜城、西南西1.7kmに織田信長本陣の諏訪ヶ峯砦があり、両者の中間地点にあることから、どちらかの勢力が他方の軍勢に備えて築いた可能性が指摘されている。

 明智陣屋敷は、野志地区にある比高40m程の低丘陵に築かれている。東西に並ぶ2つの細尾根に築かれた曲輪群で構成されている。主城は西尾根の方で、北側を貫通する車道脇から尾根を辿ると、最初に平場があり、その先に高台となった主郭がある。主郭は櫓台程度の小さな長円形の曲輪で、北に虎口郭と思われる一段低い平場を伴っている。主郭の周囲には腰曲輪が廻らされている。主郭の南側にも2段の腰曲輪があり、その先は土橋の架かった堀切で区画されている。他方、出曲輪に当たるのが東尾根で、細長い尾根と平行に土塁状の土盛りが続いている。先端には一騎駆土橋のような地形が見られるが、遺構かどうかは判然としない。西尾根の主城は、小規模とはいえ普請がしっかりしており、曲輪群が明瞭であるが、東尾根の出曲輪は遺構がやや判然としない。少人数しか置けない砦であるが、国道脇にあることから考えて、街道筋を押さえる目的で兵を置いた砦であったのかもしれない。
主城の堀切・土橋→DSCN4746.JPG
DSCN4757.JPG←出曲輪の土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.327092/137.384527/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田勝頼 (中世から近世へ)

武田勝頼 (中世から近世へ)

  • 作者: 丸島 和洋
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2017/09/20
  • メディア: Kindle版
ラベル:中世平山城
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2023年09月28日

諏訪ヶ峯砦(岐阜県恵那市)

DSCN4655.JPG←山頂の主郭
 諏訪ヶ峯(すわがね)砦は、鶴岡山陣城とも言い、1574年に東濃に侵攻した武田勝頼が明知城を攻撃した際、後詰めとして出陣した織田信長が本陣を置いた場所と伝えられる。『明知年譜』によれば、信長が3万騎を引き具して鶴岡山に進出したが、武田氏の猛将山県昌景のの攻撃を受けて織田方の先陣が崩れ、信長はやむを得ず数里引き退いたと言う。しかし『信長公記』には信長の鶴岡山在陣の記載はないらしい。

 諏訪ヶ峯砦は、明知城の北西3kmの位置にある。標高732.1mの諏訪ヶ峯山頂に築かれており、山頂の西側を通る市道脇から登山道が整備されている。山頂の地山を中心にして、北北東・北・西の3方の尾根に出曲輪・堡塁を築いている。前述の山道を登っていくと最初に現れるのが北尾根の堡塁で、小高い峰の周囲に帯曲輪を廻らしている。そこから土塁が築かれた尾根を南に進むと山頂の主郭に至る。主郭はほとんど自然地形の地山であり、なだらかなお椀状の広い峰であるが、南以外の外周に切岸を設け、その外側に帯曲輪を築いている。ここから北北東に伸びる尾根はほとんど自然地形のまま伸び、先端に小高く堡塁を置いている。しかしこの堡塁は、前述の北尾根の堡塁と異なり、帯曲輪もなく、ほとんど普請の痕跡が見られない。主郭の西には堀切が穿たれ、その先に西の堡塁が築かれている。ここには小規模ながら土塁と腰曲輪が見られる。以上が諏訪ヶ峯砦の遺構で、いかにも急拵えの陣城という趣である。この砦からは眼下に明知城と周辺城砦群がよく見え、後詰めの陣所として適地であったことがわかる。
主郭周囲の帯曲輪→DSCN4699.JPG
DSCN4626.JPG←西側の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.319546/137.368498/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

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2023年09月26日

釜屋大洞城(岐阜県恵那市)

DSCN4597.JPG←主郭南の堀切
 釜屋大洞城は、高田徹氏が2020年に発表した新発見の山城である。これを受けて恵那市教育委員会は『恵那市の新発見城館跡』として調査結果をまとめている。恵那市は新発見城館の調査に非常に積極的で、今後更なる新城の調査が待たれる。

 釜屋大洞城は、標高660mの山上に築かれている。城の南約250mの所に市道が通っており、その脇から城まで小道が通じている。小道の入り口には昨年の山城サミットで案内板がせっちされているので、わかりやすくてたいへん助かる。こんな新発見城郭にまで案内板を設置する恵那市の努力には頭が下がる思いである。案内板には「この先約800m」と書かれているが、実際には前述の通り250m程しかなく、背後の尾根から行く感じなので大した高低差もなく、気軽に行くことができる。主郭を中心に、北東の尾根に曲輪群を連ね、更に北西に伸びる尾根にも出曲輪を築かれている。主郭の南東部には枡形虎口が築かれ、下方の腰曲輪に繋がっている。この腰曲輪から主郭の南側にかけて堀切が穿たれているが、両端を曲げて竪堀を落としており、全体として開いたコの字型をしている。更に南尾根に腰曲輪数段を築き、先端を円弧状横堀を穿って防御している。主郭の西には張り出した小郭が築かれ、その周りにある城道に対する防衛陣地となっている。北東尾根の曲輪群の側方には腰曲輪が築かれている。かなり普請の痕跡がはっきりした城で、城跡であることは疑いない。位置的に信長本陣であった諏訪ヶ峯砦(鶴岡山陣城)の後方にあることから、東濃を巡る天正の騒乱期に織田軍の後方警備の陣城として築かれた可能性が考えられる。
主郭の枡形虎口→DSCN4519.JPG
DSCN4496.JPG←南の円弧状横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.329893/137.372746/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学

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ラベル:中世山城
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2023年09月24日

釜屋城(岐阜県恵那市)

DSCN4383.JPG←西斜面の帯曲輪群
 釜屋城は、歴史不詳の城である。北東尾根の下部に「おやしき」の地名があり、上手向城主勝氏の一族が屋敷の主と伝えられていることから、勝氏の持ち城と考えられている。

 釜屋城は、標高600m、比高100m程の山上に築かれている。登り口は北東麓にあり、水田の奥の溜め池の右手に案内板と多数の幟が立っている。昨年の山城サミットで整備されているので、登り口がわかりやすくなっている。主郭はL字型をした曲輪で、後部に三角形の櫓台を築き、西に張り出した部分は3段に傾斜し、ここの南辺にだけ低土塁が築かれている。主郭の北西には、段差で区画された二ノ郭が張り出し、その東に帯曲輪が続いている。この城で特徴的なのは、主郭外周に築かれた帯曲輪群で、北面から西面にかけて幾重にも段が築かれ重厚な防御構造となっている。この内、西の帯曲輪群は谷地形に沿って内側に湾曲して構築され、浅い竪堀群を穿っている。この谷地形の斜面を竪堀で防御する構造は、規模は違うものの明知城と同じ構造と考えられる。城の大手は北東尾根にあったと考えられ、北東に舌状の大手曲輪が築かれ、その脇に腰曲輪を経由して登る虎口が築かれている。大手曲輪の周囲にも帯曲輪が数段築かれている。二ノ郭の下方の北尾根にも、帯曲輪群から降った先に堀切が穿たれ、前面に物見台が置かれている。この堀切は東半分だけ中間に土塁が築かれた変則的な二重堀切となっている。主郭の西の張出し部の先には、西尾根とその脇の北西尾根に段曲輪群が築かれている。主郭南斜面にも腰曲輪があり、西尾根段曲輪群から武者走りが繋がっていて、腰曲輪の西半分が横堀となっており、横堀の両脇は竪堀となって落ちている。主郭背後の南東の尾根には堀切があるが、ほとんど自然地形の尾根鞍部である。以上が釜屋城の遺構で、帯曲輪群による重厚な防御構造は、東濃地域の度々の戦乱の中で改修を受け続けてきたことが伺える。
大手虎口→DSCN4320.JPG
DSCN4362.JPG←北尾根の変則的な二重堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.334724/137.380182/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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ラベル:中世山城
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2023年09月20日

山田城(岐阜県恵那市)

DSCN4252.JPG←東辺の櫓台と空堀
 山田城は、伝承では和田馬場という武士の居館と伝えられる。室町中期の室町幕府奉公衆に遠山馬場孫六の名があり、遠山一族の遠山馬場氏がここに居住したと考えられている。

 山田城は、小里川南岸の低丘陵先端部に築かれている。北西端は明知鉄道が通っていて破壊を受けているようだが、全体的な遺構はよく残っている。北から南に向かって2~3段の平場が階段状に構築され、東西に一直線の土塁が築かれている。これらの土塁は、いずれも櫓台状の張り出しが設けられており、東辺の土塁は外側に向かって2ヶ所、西側の土塁は中央部に1ヶ所の櫓台がある。特に東辺のものは外側に空堀も穿たれて、防御を固めている。西の土塁の外側にも2段の平場が構築されている。城内の平場群は、いずれも宅地の裏にあって畑などになっていたようなので、どこまで往時の形態を残しているかわかりにくい。また普通に考えれば南側には水堀などがあっても良さそうだが、宅地化されているので、現状からはわからない。いずれにしても簡素な構造の館城である。尚、直線型の土塁に張出し櫓台を設けた構造は、栃木にある飛山城の小型版といった趣である。
西側の土塁に築かれた櫓台→DSCN4275.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.353330/137.397680/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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ラベル:居館
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2023年09月18日

下手向城(岐阜県恵那市)

DSCN4202.JPG←主郭西側の横堀
 下手向(しもとうげ)城は、串原遠山氏の御内衆・渡辺権七郎の居城と伝えられる。山岡町史では、椋実城の出城として1399年頃に築かれたと推測している。しかし現在残る遺構から考えて、武田・織田両勢力が激突した元亀天正の争乱の中で構えられた陣城の可能性が高いとされる。

 下手向城は、上手向城の西方約1.6kmに位置し、比高60m程の丘陵末端にある。南麓集落の最上段にある民家の右手に登道があり、普通ならわかりにくい登り口だが、昨秋恵那で山城サミットが開催された関係でたくさんの幟が立っているので、今なら全く迷うことなく行くことができる。小道を登っていくと、最初に井戸跡らしい窪みのある腰曲輪に至る。そこから登道は左手に折れ、大手の虎口郭に至る。この上に主郭の大手虎口が開かれ、虎口郭の西端は竪土塁で遮断している。虎口郭の下には腰曲輪があり、更にその下方に堀切がある。主郭は大きく平坦であるが、内部に段差がある。また主郭の北東部にL字型の土塁が築かれている。主郭の東側以外の三方には、延々と横堀が穿たれている。しかし横堀は比較的小さく、薮払いもされていない部分が多いので、少々見劣りする。しかし西の横堀の中間付近に築かれた竪堀・竪土塁は比較的大きい。また横堀と繋がって穿たれた北の堀切も比較的大きい。主郭南西角には小さな枡形虎口と虎口郭があり、横堀に通じる搦手虎口となっている。この他、主郭の東下方の支尾根先端には、下方を分断する円弧状横堀が穿たれている。また前述の横堀の南端には、大手虎口郭下の腰曲輪との間に二重竪堀もある。以上が下手向城の遺構で、ほとんど単郭の城であるが整った防御構造を有しており、築城思想は上手向城とは全く異なっている。元亀天正の争乱時の陣城という見解も首肯できる。
主郭北の堀切→DSCN4142.JPG
DSCN4147.JPG←東の円弧状横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.352857/137.367296/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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ラベル:中世平山城
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2023年09月16日

上手向城(岐阜県恵那市)

DSCN4001.JPG←二ノ郭の上にある主郭
 上手向(かみとうげ)城は、岩村城主遠山氏の家臣勝氏の居城である。1564年には、遠山左衛門尉景任の家臣勝内蔵助義重が城主であった。江戸時代初頭の中山道大井宿の有力者勝義実は、元は「峠城主」で木曽義昌・松平忠吉に仕え、辞して大井宿に住したと伝えられる。

 上手向城は、山岡農村環境改善センターの北東にある宅地背後の丘陵上に築かれている。2つの城域に分かれており、主城となる城ヶ峯と、出城となる隠居峯とがある。最初登り口が分からず西の山から登城したが、城ヶ峯南の宅地の奥に登道と解説板が立っているのが後でわかった。こちらから登るのが正しいルートである。
 城ヶ峯は、主郭・二ノ郭・三ノ郭と3段の平場が階段状に築かれている。最大の曲輪は三ノ郭で、その外周には帯曲輪が築かれている。主郭・二ノ郭は小さく、特に主郭は物見台に毛が生えた程度の広さしかない台形の高台である。二ノ郭は主郭の周りを腰曲輪状に全周している。主郭の北西尾根には四ノ郭が築かれ、曲輪頂部は傾斜し、周りに腰曲輪が付随している。城ヶ峯には堀切がなく、切岸・段差だけで区画されている。特に四ノ郭の形態は、私が見つけた石平新城と似ており、築城主体が同じであった可能性を示している。
 隠居峰は、城ヶ峯よりも面積が広く、居住性のある作りとなっているが、郭内は未整備で薮が多く、遺構の確認がし辛い。2段の平場に分かれており、北東の尾根上の曲輪は一段高くなっており、後部に土塁が築かれ、堀切で北東尾根の基部を遮断している。またこの上段曲輪の南東下方には横堀が構築されている。この横堀は途中で屈曲し、南端部も屈曲しながら降っている。下には帯曲輪があり、横堀道に通じる枡形虎口が構築されていた様である。
 以上が上手向城の遺構で、高台にある居館地の背後を防御する簡素な城砦であった様である。
三ノ郭→DSCN4006.JPG
DSCN4052.JPG←隠居峯の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【城ヶ峯】https://maps.gsi.go.jp/#16/35.354835/137.384505/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
【隠居峯】
https://maps.gsi.go.jp/#16/35.354135/137.386179/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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ラベル:中世平山城
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2023年06月13日

和田城(岐阜県恵那市)

DSCN0662.JPG←東の段曲輪群
 和田城は、歴史不詳の城である。山田城の支城との説もあるが、確証はない。

 和田城は、国道363号線と国道418号線との交差点の北西にある、比高40mの丘陵上に築かれている。特に標柱などはないが、東麓から作業林道があり、城域のすぐ北まで林道で行くことができる。小規模な城砦で、中心に長円形の主郭を置き、6方向に派生する尾根に段曲輪・腰曲輪を配置している。この内、北西にあった二ノ郭と思われる曲輪は、前述の林道開削によって破壊を受けている。この二ノ郭と主郭切岸の間には、北に向かって穿たれた横堀(堀切?)がある。その北側下方に腰曲輪があるが、木が生い茂っている。この腰曲輪の先には武者走りが伸びていて、主郭の北から東まで通じている。主郭の南東には虎口が開かれ、その下方に東尾根の段曲輪3段が築かれている。この他の尾根にも、前述の通り腰曲輪があるが、いずれも小規模である。和田城は、街道が交差する要地にあって、物見や烽火台を主任務とした小城砦だったと推測される。
主郭の虎口→DSCN0661.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.355185/137.393861/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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ラベル:中世平山城
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2023年06月11日

石平城〔仮称〕(岐阜県恵那市)

DSCN0549.JPG←二ノ郭から見た主郭群
 石平城は、私が発見した城である。岐阜県のCS立体図を見ていて城跡ではないかと思い、現地を踏査したところ、平場群の配置や切岸が城と考えるのが自然であり、その一方で背後の西尾根には全く平場の造作が見られないことから、おそらく城郭遺構と考えてよいと思う。

 東西2つの郭群から構成され、高所にある東の曲輪が主郭、西が二ノ郭と考えられる。二ノ郭は「く」の字形をした長い曲輪で、背後の尾根とは高さ1.5m程の切岸で明確に区画されているが、堀切は見られない。二ノ郭の東には腰曲輪群・段曲輪で囲まれた主郭がある。頂部の主郭は地山に近い自然地形で、面積も狭小で、物見程度の役割であったと考えられる。しかし周りに巡らされた腰曲輪群は明瞭で、頂部の小さな主郭の周りに1~2段の腰曲輪を廻らし、更に南東に4段(先端近くには祠と墓地がある)、南に3段ほどの段曲輪を配している。これらはいずれもしっかりした切岸で区画されている。また主郭群の北斜面にも、谷に向かって腰曲輪が2段築かれている。以上が石平城の遺構であるが、全体的に薮が多く、段曲輪群など全て踏査できてはいないと思う。

 石平城は、上手向城と和田城の間に位置しているが、城の造りは上手向城の西郭群と似ているので、上手向城主の勝氏が築いた出城であった可能性も考えられる。

 尚、この城については既に恵那市の生涯学習課に連絡済みで、2023年度の城館跡調査の日程に組み込んで現地確認していただけるとのことである。
主郭西側の腰曲輪群→DSCN0550.JPG
DSCN0609.JPG←主郭北側の腰曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.354712/137.390792/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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ラベル:中世平山城
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2023年06月09日

落合砦(岐阜県恵那市)

DSCN0428.JPG←三ノ郭井戸と主郭群
 落合砦は、明知遠山氏の一族串原遠山五郎経景が居城したと伝えられる。串原遠山氏は、その本拠地串原に串原城や大平城があるが、戦国後期の天正年間(1573~92年)に武田氏の勢力が強く及んでくると、明知遠山氏の本拠明知城周辺に移り、その防衛に当たっていたことが推測される。

 尚、三ノ郭に明智光秀産湯の井戸があるなど、光秀生誕地とされ、城砦の名も土岐明智城とか多羅砦などとも称されるが、明知城の項に記載した通り、全く史実に基づかないものと考えてよい。

 落合砦は、比高60m程の落合山に築かれている。鞍部の尾根によって隔てられた2つの曲輪が南北にあり、より高所にある南の曲輪が主郭、北の曲輪が二ノ郭、鞍部の西下にある平場が三ノ郭と考えられている。城跡一帯は千畳敷公園となって整備されており、かなり改変を受けている。その中では主郭とその周辺は最も旧状を残していると考えられる。主郭は東西2段で構成され、周囲に腰曲輪群を築いている。また大手道が南東に残る他、南斜面に竪堀も確認できる。二ノ郭は、完全に公園化されている上、腰曲輪と思われる平場には電波塔が建っており、かなり改変が進んでいる。しかしここからの眺望は素晴らしく、眼前に明知城が見えるだけでなく、織田信長が本陣を置いた鶴岡山や、武田勝頼が本陣を置いた一夜城などが一望でき、この地の当時の緊張状態をまざまざと見せつけている。三ノ郭は台地上の平場で、前述の通り明智光秀産湯の井戸が残るが、改変されているので、どこまで旧状を残しているのか判断し難い。いずれにしても、落合砦は遺構を見る限り、現地解説板の縄張図や宮坂先生の縄張図よりも腰曲輪の数が多いようで、簡素な城砦の割には主郭・二ノ郭共に広めで、単なる物見や烽火台以上の役割を負っていた様だ。
南斜面の竪堀→DSCN0513.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.298936/137.387713/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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2023年06月07日

仲深山砦(岐阜県恵那市)

DSCN0262.JPG←二ノ郭西側の曲輪群
 仲深山砦は、歴史不詳の城砦である。明知城との間にある万ヶ洞には信州からの街道が通り、関ヶ原合戦の後、近世明知遠山氏3代長景の庶兄遠山与惣左衛門が万ヶ洞に屋敷を構えたと伝えられるが、その屋敷というのがこの砦を指すのかは不明。ただ明知城とは縄張り面の共通点が多く、明知城の攻防に関連する城砦として、明知城を築いた勢力がこの砦を構築した可能性が考えられる。

 仲深山砦は、谷を挟んで南に隣接する丘陵西端部に築かれている。両者の間はわずか400m弱に過ぎない。恵那市は昨秋、山城サミットが開催されたばかりなので、各所の城砦は登道が整備され、薮払いもされている。おかげで仲深山砦も、南麓から登山道が整備され、城内も全域薮払いされているので見通しがよい。ただ伐採された幹や枝葉がそのまま散乱しているので、竪堀などの一部の遺構はやや確認しづらい状況である。砦は東西2郭で構成され、更にその周囲に腰曲輪・段曲輪・帯曲輪を築いて防御を固めている。東にあるのが主郭で、後部に低土塁を築き、郭内部は西に向かって傾斜している。背後の尾根には二重堀切を穿って分断している。主郭北東の帯曲輪には。等間隔で竪堀が3本穿たれている。主郭と二ノ郭の間は鞍部の堀切となっている。ここから南の斜面にも竪堀群が構築されているが、散乱した伐採木でややわかりにくい。二ノ郭の外周には腰曲輪が巡らされ、西と南西に段曲輪があり、小堀切が穿たれている。北側の帯曲輪にも竪堀が3本、間隔を空けて穿たれているが、城内最大の竪堀は薮に埋もれてしまっている。以上が仲深山砦の遺構で、竪堀群を活用した以外はそれほど技巧的な縄張りでもなく、あくまで補完的な城砦であったと考えられる。仮に武田氏による構築であると考えた場合、高遠城に対する的場城の縄張りと対比させると、この砦の性格を考える上で示唆されるものがあるだろう。
主郭北東の竪堀群→DSCN0347.JPG
DSCN0353.JPG←背後の二重堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.300197/137.394075/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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2023年06月05日

明知城(岐阜県恵那市)

DSCN0847.JPG←北東斜面の畝状竪堀
 明知城は、白鷹城とも言い、岩村城主遠山氏の庶流明知遠山氏の居城である。遠山氏の祖は、藤原利仁の後裔加藤氏とされる。加藤景廉は、源頼朝が伊豆石橋山で挙兵した時より仕えて、鎌倉幕府創業の功臣の一人となった。1185年、頼朝は景廉を美濃国遠山庄の地頭とし、景廉は嫡男左衛門尉景朝を遠山庄に入部させ、岩村城を築いた。この景朝が遠山氏を称し、美濃遠山氏となった。1247年、景朝の子三郎兵衛尉景重が明知城を築いて明知遠山氏の祖となったとされる。戦国時代には、岩村遠山氏を惣領として、明照・明知・飯羽間・串原・苗木・安木の「遠山七家」が東濃の恵那郡一帯に勢力を張り、特に岩村遠山氏、明知遠山氏、苗木遠山氏は三人衆と呼ばれた。弘治・永禄年間(1555~70年)になると、遠山氏は南信の伊那谷全域を制圧した武田信玄と、尾張から美濃へ大きく勢力を伸ばし始めた織田信長との間に挟まれることとなった。まずこの地に影響を及ぼし始めたのは東濃への進出を目論む武田氏で、岩村城主遠山景前は武田氏に誼を通じて勢力の安泰を図った。その子景任は武田・織田と両属関係となり、後には信長の叔母おつやの方を正室に迎えるなど徐々に織田方への傾斜を深めた。そして遂に遠山一族は武田氏から離反し、武田氏の攻撃を受けることとなった。1570年、高遠城主秋山虎繁(信友)が美濃に侵攻し、遠山一族と徳川氏傘下の三河衆の連合軍が恵那郡上村で迎え撃って大敗した。この上村合戦で明知遠山景行は討死した。敗報を受けた信長は直ちに援軍を派遣し、虎繁は信濃へ撤退した。明知遠山氏は、景行の嫡男景玄も討死したため、孫の一行が継いだ。1572年8月、岩村遠山景任が嗣子なく没すると、信長は自身の5男御坊丸を遠山氏の養嗣子とし、おつやの方を後見人として東濃を支配下に置いた。同年10月、信玄は西上作戦を開始し、秋山虎繁は伊那衆を率いて岩村城を攻囲した。御坊丸の養育と城兵を助命するかわりにおつやの方が虎繁と再婚し、岩村城を開城させて虎繁が城主となった。信玄は翌73年4月、志半ばで陣没し、勝頼が後を継いだ。1574年1月、勝頼は代替わりの緒戦として東濃攻略を企図して岩村城に進出し、周辺の遠山一族の諸城を攻略しつつ明知城を囲んだ。この時、勝頼は一夜城に陣を構えたと伝えられる。信長は、嫡男信忠と共に鶴岡山に本陣を構えて武田勢と対峙したが、2月6日に飯羽間友信の裏切りによって明知城が落城したため、神篦城に河尻秀隆を、小里城に池田恒興を配置し、2月24日に岐阜に撤退した。明知城主遠山一行は城から脱出した。1575年、長篠の戦いで武田勝頼が徳川・織田連合軍に大敗すると、信長は反攻に転じ、信忠を大将とする2万の大軍で東濃奪還を図った。織田軍は武田軍に占拠されていた諸城を次々に奪回し、明知城も再び織田方の城となった。一行と叔父の遠山利景は、この戦いの中で武田軍が占拠していた小里城を攻め落とした。織田軍が明知城を奪回すると、一行・利景は明知城に帰還した。また半年の籠城戦の末に恵那郡の重要拠点・岩村城も陥落し、東濃は完全に織田方の支配下に入った。1582年の本能寺の変後、東濃地域は羽柴秀吉に服属した美濃金山城主森長可の勢力下に入ることとなり、1583年に一行・利景は徳川家康を頼って三河に落ち延びた。1584年3月、羽柴秀吉と徳川家康の間で小牧・長久手の戦いが起きると、一行は家康の命を受けて舅の延友佐渡守と共に緒戦で明知城を攻略した。しかし合戦後、東濃は森領とされ、明知城は森氏に明け渡された。1600年の関ヶ原合戦の際には、明知城は岩村城主田丸直昌の支城となっており、その家臣山川佐之助・原土佐守が守っていたが、家康の命を受けた遠山利景・方景父子は明知城を攻略し、更に岩村城も落城させた。この戦功により、利景は明知城主に復帰した。1615年の元和の一国一城令で明知城は廃城となり、新たな支配拠点として山麓に明知陣屋が造営された。

 尚、現在地元では明知城を明智光秀にまつわる城として紹介している。これは、遠山景行が実は明智光秀の叔父光安と同一人物で、光安が遠山景成に入嗣したとする説による。その説によれば、元々明知遠山氏は景成の兄弟の直景が家督を継いでいたが、直景は室町幕府奉公衆で、堀越公方が成立するとその奉公衆に転出していたが、伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)の伊豆計略の中で、同じ幕府奉公衆出身であった宗瑞に仕えてその重臣となった(小田原北条氏の重臣、家老遠山氏の成立)。そのため直景は本領の明知城を親族に引き渡して伊豆に移ったので、その後を継いで明知遠山氏の当主となったのが土岐明智家から入った景行であるとするものである。これに関しては現時点では明証がないため、史実かどうかは明確にできない。

 明知城は、岩村城などとともに何度も争奪の場となった城だけあって、守りが極めて厳重な、屈指の縄張りを有している。本丸を中心にして周囲に腰曲輪を廻らし、南東に二ノ郭、西に三ノ郭を張り出させ、更に二ノ郭の南西に出丸を突出させている。これが城の中心部で、これらを取り巻く様に北~東~南の外周に横堀が穿たれている。この横堀の防御線には要所に竪堀が穿たれ、また外側には腰曲輪群も構築されている。竪堀は配置が巧妙で、いずれも竪堀を上った先には上の曲輪の塁線がそびえており、侵入してきた敵を迎撃できるように効果的に配置されている。殊に東の搦手駐車場からの登道は、横矢掛かりと正面櫓台による防御が厳重であり、大手から搦手まで寸分の隙もない。出色なのは、主郭北東から北西の斜面にかけて穿たれた畝状竪堀ある。ここの畝状竪堀は、他の城で見られるものと構造が異なり、竪堀間に構築された中間土塁は、単なる土塁ではなく物見台または独立堡塁として機能するように高く盛られている。一部の中間土塁には腰曲輪まで築かれていて、兵を置くことを前提として築かれている。ここの畝状竪堀は、傾斜の緩い斜面を防御するために集中配置されている。この畝状竪堀を上から見下ろす位置に主郭腰曲輪が配置され、より防御性を増している。出丸の南東側にも畝状竪堀が穿たれているが、二重横堀の間の土塁に竪堀を穿っていて、初めて見る特殊な形態をしている。三ノ郭の西側には、深い堀切で区画された独立堡塁が2つそびえて周囲を睥睨している。更にこの他にも北・東・西・北西に張り出した尾根に曲輪群を築き、基部を堀切で分断している。北の曲輪群では、先端近くにL字形土塁による坂土橋の通路が築かれている。二ノ郭の南下方の腰曲輪には、2槽構造の大きな貯水池もあり、これも非常に珍しい遺構である。明知城は、度重なる攻防の中で、武田氏による縄張りの改修増強を受けたものと思われ、必見の城である。
別角度から見た、同じ畝状竪堀→DSCN1015.JPG
DSCN0820.JPG←堀切と独立堡塁
貯水池跡→DSCN0917.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.303577/137.394633/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編

信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編

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2023年05月28日

明知陣屋(岐阜県恵那市)

DSCN9786.JPG←陣屋前面の水堀・切岸
 明知陣屋は、江戸時代に交代寄合の旗本であった明知遠山氏が築いた陣屋である。遠山利景は1600年の関ヶ原合戦で旧領の明知城を奪還し、1603年に恵那・土岐郡内で6531石を拝領した。1615年の元和の一国一城令で明知城は廃城となり、新たな支配拠点として明知陣屋が造営された。交代寄合となった遠山氏は、当初は領内と江戸の間を参勤交代していたが、1678年以降は江戸定府となった。これ以後、陣屋は代官村上氏によって管理されて、そのまま明治維新を迎えた。

 明知陣屋は、明知城の北西麓の台地上に築かれている。現在陣屋内には民家や大正ロマン館が建っている。しかし陣屋前面には切岸がそびえ、その前には水堀が往時の形を留めている。また陣屋内に通じる小道は往時の大手道で、通路が屈曲する枡形の形態を留めている。陣屋内の宅地の中には、代官村上家の現在の居宅があり、古い武家屋敷の面影を残し、古い形の土蔵も残っている。全体的に往時の面影を残しており、なかなか興味深い。
陣屋跡の全景→DSCN0798.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.304348/137.392144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸の旗本事典 (角川ソフィア文庫)

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  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川学芸出版
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ラベル:陣屋
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2012年02月16日

大垣城(岐阜県大垣市)

IMG_6623.JPG
(2004年9月訪城)
 大垣城は、美濃の守護大名土岐氏の一族宮川吉左衛門尉安定により、1535年に築城されたと言われている。しかしそれ以前の応仁年間(1467~68年)から、在地領主の大垣氏が東大寺城を築いていたらしい。戦国後期の1556年には、美濃の戦国大名斎藤道三配下の美濃三人衆の一人氏家卜全が改修を加えた。1585年、豊臣秀吉は一柳直末を大垣城主として、近世城郭に改修させた。大垣城は東海道を抑える交通の要衝であったため、1600年の関ケ原の戦いでは西軍を実質的に率いた石田三成が本拠とした。江戸時代に入ると、徳川家康は譜代大名の石川康通を城主とし、その後の変遷を経て、1635年から戸田氏が10万石の城主となって入封し、幕末まで存続した。

 大垣城は、関ヶ原合戦でも登場する重要な城で、かつては広大な水堀に囲まれた優美な城であったというが、現在はほとんど全ての水堀は埋め立てられて旧状を失い、国宝とされた天守も昭和20年に戦災で消失し、現在は戦後に復元された天守が建っている。本丸周辺の石垣は残っているが、市街化の只中にあってかつての名城の面影を失っていることでは、宇都宮城に匹敵する無残さと言える。(ちなみに近世宇都宮城の城主も同じ戸田氏。)国土変遷アーカイブにある昭和20年代の航空写真では、三ノ丸西側の水堀がかなり明瞭に残っており、今から思えば、余計にその後の乱開発が恨めしく思える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.361896/136.616052/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
ラベル:近世平城
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2012年02月01日

向牧戸城(岐阜県高山市)

IMG_6595.JPG←堀切とニノ郭
(2004年9月訪城)
 向牧戸城は、帰雲城主内ヶ島氏の支城である。内ヶ島上野介為氏が寛正・文明年間(1460~87年)頃に8代将軍義政の命で白川郷に入部し、最初に築いたのが向牧戸城であったと言われる。その後、為氏が帰雲城を築いて居城を移すと、その家臣川尻備中守氏信を城主として守らせたと言う。1585年、織田信長の天下統一事業を継いだ羽柴秀吉の命により飛騨に侵攻した越前大野城主金森長近は、向牧戸城を攻撃し、大きな損害を出しつつ落城させたと言う。その後の大地震で内ヶ島氏の一族郎党が帰雲城と共に埋没すると、向牧戸城も廃城になったと思われる。
 向牧戸城は、庄川と御手洗川の合流点に突き出した断崖上に築かれた城である。現在、城址は公園として整備されているが、遺構は比較的よく残っている。頂部には小さな主郭を置き、その周囲に腰曲輪や、堀切を挟んで二ノ郭と思われる曲輪を連ねている。素朴な作りで技巧性はあまり見られなかったと記憶している。全体的にはこじんまりした城であり、砦という方が相応しいように思う。支城を有するとは言え、内ヶ島氏の勢力がそれ程大きなものでなかったことが伺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.049463/136.944977/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
ラベル:中世崖端城
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2012年01月16日

帰雲城(岐阜県白川村)

IMG_Scan_005.JPG←城址碑と帰雲山の崩落跡
(2004年9月訪城)
 帰雲城は、謎の一族内ヶ島氏の居城である。何故謎かといえば、内ヶ島氏は1585年の大地震で、一族郎党がその居城もろとも山体崩壊した大量の土石流に巻き込まれ、全てが闇の中に埋もれてしまったからである。内ヶ島氏は、元々足利将軍に奉仕した奉公衆であったと言われ、内ヶ島上野介為氏が寛正・文明年間(1460~87年)頃に8代将軍義政の命で白川郷に入部したとされる。為氏は、帰雲山に帰雲城を築いて歴代の居城とした。為氏以後、雅氏・氏理と3代に渡って白川郷を支配した内ヶ島氏は、一向衆などとの抗争を生き抜いて戦国大名化し、向牧戸城・萩町城などの支城を築いた。しかし1585年、織田信長の天下統一事業を継いだ羽柴秀吉の命により、越前大野城主金森長近が飛騨に侵攻すると、内ヶ島氏理は抵抗を試みるが向牧戸城を落とされ、結局氏理は長近に降服し、辛くも本領を安堵された。氏理が居城に戻って本領安堵の祝宴を開いた11月29日の夜、北陸に大地震が起こった。帰雲山は山崩れを起こし、内ヶ島一族郎党数百人が城諸共飲み込まれ、埋没して地上から一瞬にして消え失せたと言う。

 帰雲城は、大量の土砂に埋没したとされる為、その正確な位置も判明していない。一般には帰雲山の中腹にあったと推測されている。現在はその庄川対岸の国道156号線沿いに「帰雲城埋没地」の大きな看板と、城址碑・菩薩像等が建てられている。その背後に見える帰雲山には、現在でもポッカリと大きな口を開けた崩落跡が不気味に残っている。不思議なのは、400年以上も経っているのにこの崩落跡にはほとんど草木が生えていないのである。埋蔵金伝説まで残る帰雲城は、すべてが謎に包まれている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.210052/136.892813/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
ラベル:中世山城
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