2026年04月18日

仏坂古戦場(静岡県浜松市)

DSCN6302.JPG←古戦場跡
 仏坂の戦いは、武田信玄の西上作戦の際、三方ヶ原の戦いの前哨戦に当たる戦いである。1572年10月22日、遠江に侵攻した武田勢の内、重臣の山県三郎兵衛昌景の率いる別働隊は東三河から山吉田に侵入し、鈴木岩見守重好が守る柿本城を攻撃した。満光寺朝堂玄賀和尚が斡旋した和議により、重好は柿本城を開城して一族と共に三遠国境を越え、鈴木出雲守の守る小屋の砦(井平城)に引退いた。しかしこれを追って来た山県勢と仏坂で激戦となった。小勢の井平・鈴木方は壊滅し、井平飛騨守直成や岩見守一族の鈴木権蔵重俊ら88名が討死にした。この戦いの後、昌景は井平城を攻撃して落城させた。

 仏坂古戦場は、井平城の北北西600m程の位置にある。国道257号線から北に向かって分岐した山道を登っていくと、車道の脇に古戦場の標柱と解説板が立っている。狭い間道での戦いであり、戦いようによっては小勢でも敵を押し留めるぐらいはできたかもしれないが、西上作戦は武田氏の総力を結集した作戦であり、中でも戦巧者の山県昌景の軍団には抗する術はなかったかもしれない。
 尚、古戦場近くに「ふろんぼ様」と呼ばれる井平・鈴木方88人の将士を供養した墓がある。
ふろんぼ様→DSCN6299.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.873000/137.657425/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

新説 家康と三方原合戦 生涯唯一の大敗を読み解く (NHK出版新書) - 平山 優
新説 家康と三方原合戦 生涯唯一の大敗を読み解く (NHK出版新書) - 平山 優
ラベル:古戦場
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2026年04月02日

富士川古戦場(静岡県富士市)

DSCN5794.JPG←平家越の石碑
 富士川古戦場は、治承・寿永の内乱(いわゆる源平合戦)の際に、坂東を制圧した源頼朝に対して、平維盛が率いる平家軍が討伐に向かったが、夜間に水鳥の群れ立つ羽音を源氏軍の夜襲と思い込んで、戦わずして敗走したという史上有名な合戦である。1180年10月20日、頼朝は平家の討伐軍を迎撃するため軍勢を率いて出陣し、平家軍と富士川を挟んで対陣した。その夜半、甲斐源氏武田信義の軍が密かに平家軍の背後に回って夜襲をかけようとしたその時、あたりに眠る幾万かの水鳥が不意に羽音を立てて飛び立った。これを敵襲と誤った平家軍は、陣を乱して西に敗走し、一戦にも及ばず源氏軍の大勝利となったと伝えられる。

 富士川古戦場は、現在は平家越と呼ばれ、和田川に架かる橋の東のたもとに大きな石碑が建っている。この石碑付近が戦場であったと伝えられる。付近は完全に市街化し、工場も多く立ち並んでいて、往時の面影は微塵も感じられない。それにしても「富士川」の戦いとは言うので、てっきり現在の富士川付近が戦場なのかと思っていたが、伝承地は富士川よりずっーと東にある小さな川だった。これは後に富士川の流路が変わったためであろうか?

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.158695/138.696333/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

源平の争乱 (戦争の日本史6) - 上杉 和彦
源平の争乱 (戦争の日本史6) - 上杉 和彦
ラベル:古戦場
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2026年01月14日

竹広表古戦場(愛知県新城市)

DSCN4329.JPG←解説板が立つ古戦場付近
 竹広表(たけひろおもて)古戦場は、野田方三人衆と呼ばれる野田菅沼氏・西郷氏・設楽氏が武田氏の重臣秋山虎繁(信友)の軍勢と戦った場所である。1570年12月に東濃に侵攻した秋山虎繁率いる武田勢と遠山一族を中心とする東濃・東三河の軍勢が戦った上村合戦の際、山家三方衆の作手奥平氏・田峯菅沼氏・長篠菅沼氏らは徳川方として出陣したが、明知遠山氏らが惨敗したため、ほとんど戦わずして退却した。その後、山家三方衆は武田氏の調略を受けて皆武田氏に服属したが、設楽氏は武田氏の誘いに乗らなかったため、1571年春、武田方の秋山氏の軍勢が竹広に攻め込んだ。独力で武田勢に対抗できない設楽氏は、野田方三人衆として結束して抗戦し、秋山勢を撤退させたと言う。

 竹広表古戦場は、国道151号線の「設楽原歴史資料館南」交差点のすぐ脇に解説板が立っている。この付近では、長篠合戦の際にも竹広激戦地と呼ばれる激戦が繰り広げられている。現在はのどかな田園地域である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.915074/137.525491/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田家臣団: 信玄を支えた24将と息子たち (学研M文庫 こ 9-2) - 近衛 龍春
武田家臣団: 信玄を支えた24将と息子たち (学研M文庫 こ 9-2) - 近衛 龍春
ラベル:古戦場
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2026年01月06日

長篠設楽原古戦場(愛知県新城市)

DSCN4186.JPG
↑古戦場の全景パノラマ
 長篠設楽原古戦場は、あまりにも有名な、織田・徳川連合軍が武田軍を鉄砲戦で粉砕した歴史的な古戦場である。1575年5月、武田勝頼は1万5千の大軍を率いて長篠城を攻撃した。しかし長篠城の守将奥平信昌は若年ながら寡兵で以って城を堅守し、鳥居強右衛門を徳川家康のもとに走らせ、救援を要請した。織田・徳川連合軍が後詰めのため設楽原に布陣した。織田・徳川連合軍の着陣を知った武田方は勝頼の本陣で軍議を開いた。武田方の重臣たちは兵数の寡多などから撤退を主張したが、勝頼は反対論を押し切って決戦を決断した。勝頼は長篠城の監視と牽制のため、鳶ヶ巣山砦などに3千の兵を残し、残り1万2千の軍勢を設楽原に前進させて布陣した。武田勢と対峙した信長は、家康の重臣酒井忠次に武田方の鳶ヶ巣山砦への奇襲を命じた。酒井奇襲隊は、夜間、豊川を渡河して南の山岳地帯を迂回して背後に回り、翌朝鳶ヶ巣山砦を中心とする乗本五砦(姥ヶ懐砦君ヶ伏床砦・鳶ヶ巣山砦・中山砦久間山砦)を攻撃して全て陥落させた。これにより退路を脅かされることになった武田勢は、正面に展開する敵軍の陣営を強攻するしかなくなった。しかし圧倒的な物量による火力の集中運用を徹底した織田・徳川連合軍の前に、武田勢は多くの武将と兵を失い、大敗した。

 現在では、これまで定説とされてきた鉄砲の三段打ちは後世の創作であろうこと、また武田の騎馬軍団の存在も実態は異なっていた可能性が高いことなどが判明してきている。そして、先年NHKスペシャル『戦国~激動の世界と日本~』で紹介された最新研究成果では、織田・徳川連合軍の勝因は、畿内の経済圏を掌握したことによってもたらされた財力を背景に、スペイン・ポルトガルなどから大量調達した硝石(火薬の原料)と鉛(弾丸の原料)であった可能性が指摘されている。対する武田方は、鉛玉の調達にも苦労していらしいことも判明してきている。

 それと、実際に古戦場の地に立つとわかるのは、両軍の対峙した場所が連吾川という小河川を挟んだ、幅わずか数百mの平地であったことである。この平地の東西にはそれぞれ南北に丘陵が連なり、両軍はそこに陣所を幅広く展開して戦線を構築していた。戦線の幅は、伝承から考えると南北2km以上に及ぶ。これだけの長さの戦線に兵を配置すると、多勢の織田・徳川連合軍といえども縦深性はないので、武田軍が兵力を集中して1点突破し、後方から敵陣内を撹乱すれば、たちまち戦線は崩壊するだろう。おそらく勝頼が狙ったのは、この作戦だったのだろう。逆に言えば、敵に鳶ヶ巣山砦を落とされたことで、勝頼はこの強攻策を取らざるを得なくなったということだろう。

 しかしここでの大敗にもかかわらず、勝頼は7年もの間勢力を保ち続けた。越後上杉氏の内訌「御館の乱」を巡る外交上の失策が響いて、結局滅亡することとなったので、勝頼を名将ということはできないが、少なくとも並の武将ではなかったことは間違いない。
復元された名和式鉄砲構え→DSCN4202.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.920395/137.525107/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

長篠合戦と武田勝頼 (敗者の日本史 9) - 平山 優
長篠合戦と武田勝頼 (敗者の日本史 9) - 平山 優
ラベル:古戦場
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2025年02月13日

高見原古戦場(埼玉県寄居町)

DSCN0199.JPG←古戦場にある首塚稲荷
 高見原合戦は、山内・扇谷両上杉氏が戦った長享の乱の際の古戦場である。1486年に声望の高かった扇谷上杉氏の家宰太田道灌は、主君扇谷上杉定正の糟屋館で謀殺され、道灌死後の翌年、関東管領山内上杉氏と扇谷両上杉氏との間に対立が生じ、長享の乱と呼ばれる動乱となった。1488年2月、扇谷上杉定正の本拠糟谷館を襲撃しようとして実蒔原で敗北した山内上杉顕定は、同年6月に定正の重要拠点河越城を攻撃しようと出陣した。しかし定正は、顕定に反逆していた長尾景春と古河公方足利成氏の子政氏の援軍と共に須賀谷原で迎え撃った。この須賀谷原の合戦で扇谷上杉氏は再び勝利した。11月には高見原で三度目の合戦があり、これにも定正は勝利し、山内上杉氏は3タテを食うこととなった。これら3つの合戦を総称して、俗に長享三戦と言う。尚、ここから南方1.5kmの位置にある高見城は、高見原合戦の際に山内上杉方の陣の背後を守る城として機能したと推測されている。

 高見原古戦場は、現在、県道296号線の今市地区に首塚稲荷が祀られている。以前は古戦場の標柱が立っていたらしいが、現在はなくなっている。この付近には鎌倉街道上道が通っており、南北朝期以後の合戦に多い、街道沿いで両軍が激突した戦いである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.103864/139.266862/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:古戦場
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2024年12月23日

島河原古戦場(神奈川県平塚市)

DSCN8976.JPG←古戦場付近の現況
 島河原合戦は、関東の戦国時代の幕開けとなった享徳の大乱の初戦である。1454年12月27日夜、鎌倉公方足利成氏はかねてより対立していた関東管領山内上杉憲忠やその家宰長尾実景・景住父子らを西御門御所で謀殺し、享徳の乱と呼ばれる関東全域を巻き込む大乱が発生した。実景の前任者であった白井城主長尾昌賢(景仲)が家宰に返り咲き、山内上杉方は直ちに軍事行動を開始した。対する成氏も直ちに上杉勢討伐を開始した。翌正月5日、糟屋庄から進軍してきた扇谷上杉道朝(持朝)の軍勢に対して、御一家・一色直清と奉公衆・武田信長を大将とした軍勢を迎撃に向かわせ、翌6日に両軍は島河原で合戦となった。この初戦で成氏方が勝利し、敗れた上杉勢は伊豆三島に後退した。これが戦乱の幕開けとなり、鎌倉公方足利成氏と室町幕府を味方に付けた上杉氏との、関東を二分した全面抗争が開始された。以後、1482年11月に都鄙和睦と呼ばれる室町幕府・足利成氏両者の和睦が成立するまでの約30年にわたる長い抗争が展開されることとなった。

 島河原合戦は、現在の大島・下島・小鍋島の一帯で行われたらしい。付近はいくつかの川が流れる低地帯で、現在は田畑が広がっている。北西方面には扇谷上杉氏の本拠地糟屋館があり、扇谷上杉勢が糟屋館から鎌倉に向かう途上を迎撃したと思われる。相模川で迎撃する手もあったはずだが、一色・武田勢は機先を制するために川を越えて進軍して迎撃したのだろう。石碑も何もないが、重要な歴史の一場面となった地である。

 撮影場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.374652/139.340093/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 享徳の乱

図説 享徳の乱

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/03/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
ラベル:古戦場
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2024年12月17日

長野原古戦場(群馬県長野原市)

DSCN8380.JPG←古戦場碑
 長野原合戦は、甲斐武田氏の部将真田幸隆による岩櫃城攻撃の前哨戦となった戦いである。1560年に鎌原城主鎌原幸重が武田信玄に通じて以降、信玄による吾妻郡侵攻が始まった。1562年、武田勢は岩櫃城主斎藤憲広の支城長野原城を攻略し、真田幸隆の弟常田俊綱(隆永)を入れて守らせた。翌63年9月、憲広は反撃に出て、長野原城を攻撃した。即ち、重臣の元羽根尾城主羽尾幸全・海野能登守輝幸兄弟に500騎を、甥の斎藤弥三郎には300騎を与え、更に白井城主白井長尾氏の援軍を受け、長野城に攻め寄せた。俊綱は兵を出して防戦し、諏訪明神の社前で激戦が展開された。しかし多勢に無勢の俊綱は敗退し、長野原城は攻略され、斎藤氏は羽尾・海野兄弟を城将として置いた。これが長野原合戦で、一説には、俊綱はこの戦いで討死したとも言われる。しかし信玄は直ちに反撃に転じ、大将の真田幸隆は斎藤方の海野兄弟・斎藤弥三郎を調略して味方に付けた上で岩櫃城を攻撃した。抗戦虚しく岩櫃城は落城し、憲広は上杉謙信を頼って越後に逃れ、子の城虎丸を嵩山城に立て籠もらせて抵抗を続けていくことになる。

 長野原古戦場の碑は、長野原諏訪神社の境内にある。前述の通りこの社前が長野原合戦最大の激戦地となった。ここは吾妻川・白砂川の合流点の北側に当たり、城に向かって登り道となっており、渡河してきた敵兵から城を守る最終防衛線であった事がわかる。境内から北西には長野原城がよく見える。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.549483/138.644189/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


真田氏三代:真田は日本一の兵 (ミネルヴァ日本評伝選)

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  • 作者: 笹本正治
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2009/05/10
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ラベル:古戦場
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2024年11月03日

宗良親王髪塚(富山県氷見市)

DSCN6299.JPG←髪塚の石碑
 灘浦小学校の近くの林の中に髪塚という石碑が建てられている。伝承では、南北朝時代に後醍醐天皇の皇子宗良親王が石動山を頼ってこの地へ赴いた折、大栄寺で剃髪し、その髪を埋めたと伝えられている。しかし石碑に刻まれた年号は「貞和三年(1347年)」と北朝方の年号であり、南朝方の宗良親王の遺蹟としては事実が合わない。しかしこの付近の板碑では珍しく種子「バク」が刻まれ、石動山信仰との関係などが注目される貴重な史跡である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.920151/137.024188/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


南北朝武将列伝 南朝編

南北朝武将列伝 南朝編

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/02/12
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2024年08月17日

太閤台(栃木県那須町)

DSCN2856.JPG←太閤台付近
 太閤台は、1590年に小田原北条氏を滅ぼした後、宇都宮城に入城して奥州仕置を行った豊臣秀吉が、会津黒川城(現在の会津若松城)に向かう途上、大田原から白河に向かう途中で芦野城主芦野氏16代盛泰が用意した茶屋でもてなしを受けた場所と伝えられている。現在の県道72号線沿いで、西黒公民館の南側にあったらしい。ここは丘陵を越えた道の眼前が開けて、八溝山系をバックに芦野宿方面が一望できる景勝地である。往時とは景観も変わってしまっているだろうが、日本が中世から近世に移り変わっていく中での歴史の一コマである。
 尚、芦野宿の旧家に秀吉の饗応に用いた水を汲んだ太閤清水という井戸が残っていると言う。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.986057/140.153317/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


奥大道: 中世の関東と陸奥を結んだ道

奥大道: 中世の関東と陸奥を結んだ道

  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2021/05/25
  • メディア: 単行本
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2024年06月08日

黄海古戦場(岩手県一関市)

DSCN8388.JPG←古戦場の現況
 黄海の戦いは、前九年の役の際の激戦地である。1057年11月、陸奥守・鎮守府将軍源頼義は、嫡子義家と共に安倍氏討伐のため1800の兵を率いて国府多賀城から北に向かった。一方、奥6郡を支配する俘囚長・安倍貞任は一門の精兵4000を率いて黄海に迎え撃った。風雪・寒気の厳しい中、安倍勢の猛攻を受けた国府軍は数百の戦死者を出す大敗を喫し、頼義・義家父子はわずか7騎で逃げ帰ったと言う。

 黄海の戦いは、黄海小学校の南に広がる田園地帯で行われたらしい。黄海川を挟んで、南西に安倍勢が布陣した熊館があり、黄海小学校の裏手には国府軍陣地の白幡岡が控えており、正に両軍が激突する平地であった。現在は黄海農村公園の一角に合戦の解説板が立っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.848440/141.293535/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


蝦夷の末裔: 前九年・後三年の役の実像 (中公新書 1041)

蝦夷の末裔: 前九年・後三年の役の実像 (中公新書 1041)

  • 作者: 高橋 崇
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 1991/09/01
  • メディア: 新書
ラベル:古戦場
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2024年03月29日

鉄砲池古戦場(岐阜県中津川市)

DSCN5978.JPG←鉄砲池と解説板
 鉄砲池古戦場は、1583年に苗木城主苗木遠山氏と金山(兼山)城主森氏との激戦地である。1582年の武田氏滅亡・織田信長横死後、織田氏配下の諸将による勢力争いが激しく行われた。翌83年、豊臣秀吉方に付いた金山城主森長可は東濃に勢力を伸ばそうと、配下の岩村城代各務兵庫を大将として遠山友忠・友政父子の拠る苗木城攻略を図った。これは法泉寺坂の戦いと呼ばれ、中でも「遠の巣」付近は両軍の最も激しい攻防が繰り広げられた。森勢はこの合戦で敗退したが、体制を整えて同年5月に再度侵攻した。この再戦で苗木城は落城したが、両軍ともに多数の戦死者が出て、多くの屍がこの池に沈められたと伝えられる。戦乱が収まった後、池の中から多数の鉄砲玉が出てきたことから、この池は「鉄砲池」と呼ばれるようになったと言う。城を攻略された友忠・友政父子は、徳川家康を頼って浜松に逃れた。

 鉄砲池古戦場は、苗木城西方の丘陵地帯の只中にある。現在は小さなため池しかないが、道路改良等で池の範囲が著しく狭められてしまったらしい。他の地域ではおそらく全く知られていない合戦だが、苗木遠山氏の命運に関わる重要な合戦であった。しかし苗木遠山氏は居城を奪われて没落したかに見えたが、徳川家康を頼ったことで運が開け、関ヶ原合戦の一連の動きの中で苗木城の奪還に成功して近世大名に返り咲き、そのうえ江戸時代を通して一度も移封とならずに若年寄まで務めるほど幕府の信任を受ける家柄となった。何がどう転ぶかわからない、歴史の不思議がここにはある。

場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.531502/137.431390/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関ヶ原合戦全史 1582-1615

関ヶ原合戦全史 1582-1615

  • 作者: 渡邊 大門
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2021/01/25
  • メディア: 単行本
ラベル:古戦場
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2024年03月13日

女沼古戦場(埼玉県熊谷市)

DSCN4053.JPG←古戦場の標柱付近
 女沼の戦いは、南北朝時代に第2次畿内遠征を敢行した鎮守府大将軍北畠顕家と、足利義詮を奉じた上杉憲顕・高重茂らの鎌倉府の軍勢の戦いである。『太平記』第19巻によれば、1337年8月、義良親王を奉じて霊山城を出立した顕家率いる奥州軍が下野国に入ると、この報を聞いた鎌倉府の上杉憲顕らは武蔵・相模の軍勢を率いて出陣し、利根川に防衛線を敷いた。両軍は12月13日に時雨で増水した利根川を挟んで対峙した。この時、源平合戦の加賀篠原の戦いで名高い斎藤別当実盛の後裔・斎藤別当実長は、「敵より先に渡河した方が勝つ」と顕家に進言して先陣を許された。しかし実長が打立つのを見た閉伊十郎・高木三郎はいつも先陣を争っていた者達だったので、実長を出し抜いて先に渡河しようと、利根川に馬を打ち入れた。これを見た実長は、「このままみすみす渡河させては、どうして高名を立てることができよう」と舎弟実季(太平記では実季は「豊後次郎」と記載される)と共に腹を立て、3町ほど上流を2騎で渡ろうとした。しかし実長・実季兄弟は、逆巻く激流に馬ごと飲まれて帰らぬ人となったと言う。これを見た武士達は、「さすがは鬢髭を染めて討死した実盛の末裔だ」と感嘆したと言う。これを機に両軍は川中に討ち入って戦い、結局顕家軍が勝利した。この後16日に、顕家軍は武蔵国安保原でも鎌倉府軍を撃破し、義詮を三浦半島へ追いやり、関東執事斯波家長を討ち取って23日に鎌倉を占領した。

 女沼の戦いは、『太平記』には「戸祢川(利根川のこと)」とだけ書かれていて、具体的な場所は書かれていない。標柱が立っているが民家近くの畑に標柱が立っているので、何か根拠があるのだろう。河川改修で周囲の景観は変わっているが、近くの妻沼聖天山やその周辺には斎藤塚など斎藤氏に所縁のある史跡がある。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.227286/139.387579/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太平記(三) (岩波文庫)

太平記(三) (岩波文庫)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/04/17
  • メディア: 文庫
ラベル:古戦場
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2024年02月24日

板櫃川古戦場(福岡県北九州市)

DSCN3525.JPG←古戦場付近の現況
 板櫃川の戦いは、大宰少弐・藤原広嗣の乱の時に広嗣軍と朝廷軍が激突した戦いである。『続日本紀』によると、740年、太宰府に左遷されていた広嗣は、全国で相次ぐ伝染病の流行や天災の発生を朝廷の失政が原因であるとして、政敵の僧玄昉・吉備真備を朝廷から排斥するため挙兵した。朝廷は、大野東人を大将軍に任命し追討軍1万7千人を派遣した。両軍は板櫃川で対峙し、広嗣軍は舟筏で渡河しようとしたが、朝廷軍から弓を激しく射掛けられ、渡河に失敗した。更に朝廷軍からの呼びかけで広嗣軍から投降者が相次ぎ、戦列が崩壊、広嗣軍は大敗した。敗走した広嗣は後に肥前で捕らえられて処刑されたと言う。この乱により、朝廷は政治・軍事が集中した太宰府のあり方を再考することとなり、一時大宰府は廃止された。

 板櫃川古戦場は、小倉市街地の南西方にある。古戦場付近は市街化されており、かつての古戦場の雰囲気は全く残っていない。わずかに八幡橋の袂に解説板が立っているだけである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.876874/130.855021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

  • 作者: 宇治谷 孟
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1992/06/05
  • メディア: 文庫
ラベル:古戦場
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2024年02月11日

須賀谷原古戦場(埼玉県嵐山町)

DSCN2343.JPG←出土した五輪塔群の覆屋
 須賀谷原古戦場は、山内・扇谷両上杉氏が戦った長享の乱の際の古戦場である。1486年に声望の高かった扇谷上杉氏の家宰太田道灌は、主君扇谷上杉定正の糟屋館で謀殺され、道灌死後の翌年、関東管領山内上杉氏と扇谷両上杉氏との間に対立が生じ、長享の乱と呼ばれる動乱となった。1488年2月、扇谷上杉定正の本拠糟谷館を襲撃しようとして実蒔原で敗北した山内上杉顕定は、同年6月に定正の重要拠点河越城を攻撃しようと出陣した。しかし定正は、顕定に反逆していた長尾景春と古河公方足利成氏の子政氏の援軍と共に須賀谷原で迎え撃った。この須賀谷原の合戦で扇谷上杉氏は再び勝利した。この後、11月には高見原で三度目の合戦があり、これにも定正は勝利し、山内上杉氏は3タテを食うこととなった。これら3つの合戦を総称して、俗に長享三戦と言う。

 須賀谷原の合戦は、菅谷館北東の丘陵地で行われたらしい。埼玉の古城巡りで有名なブログ「そこに城があるから」の記事を参考に古戦場推定地を訪問した。住宅団地の只中にある空き地(公園?)の丘の上に覆屋があり、五輪塔数基が建っている。ここでは平成12年に行われた発掘調査の結果、戦国時代の塚や墓壙群が発見され、15世紀後半から16世紀前半にかけての遺跡と考えられており、遺跡の年代と位置関係から須賀谷原合戦と関係する遺跡と推測されているらしい。五輪塔はこの時出土したものという。残念ながら、現地には遺跡についての解説板や石碑はなく、あるのは土地区画整理組合の石碑だけである。歴史を後世に伝えるために、遺跡についての解説板などを是非設置してもらいたいものである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.038802/139.327809/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


もうひとつの応仁の乱 享徳の乱・長享の乱 関東の戦国動乱を読む

もうひとつの応仁の乱 享徳の乱・長享の乱 関東の戦国動乱を読む

  • 作者: 水野大樹
  • 出版社/メーカー: 徳間書店
  • 発売日: 2018/05/18
  • メディア: Kindle版
ラベル:古戦場
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2024年02月01日

浦賀奉行所(神奈川県横須賀市)

DSCN2006.JPG←周囲に残る石垣と水路
 浦賀奉行所は、江戸中期の1720年10月に伊豆の下田奉行所を移転し、新たに開設された奉行所である。全国各地から江戸に様々な物資が船で運搬されていたため、江戸に近く、検査をほぼ完ぺきにできる場所として浦賀が選ばれたとされている。浦賀奉行所では、船の積み荷と乗組員の検査をする「船改め」を行う「船番所」が開設され、江戸を往来する全ての船は浦賀で検査を受けることが義務付けられた。船改めは廻船問屋105軒に委託され、生活必需品11品目について3ヶ月毎に集計された数字が江戸町奉行へ報告された。また現在で言う税務署・裁判所・警察署・海上保安庁などの仕事も行っていた。浦賀奉行所開設から100年を過ぎた頃から江戸近海に異国船が来航するようになると、江戸を異国船から守る最前線の基地の役目も持つようになった。1853年6月にアメリカ合衆国のペリー艦隊が浦賀に来航すると、中島三郎助や香山栄左衛門らの浦賀奉行所の役人達が交渉などに大いに活躍した。1859年6月に神奈川奉行所が開設されると、異国船関係の仕事は神奈川奉行所に移されたが、浦賀奉行所は1868年閏4月に新政府に接収されるまで続き、更に船改めの業務だけは、1872年(明治5)3月まで続けられた。

 浦賀奉行所は、浦賀港西方の山に挟まれた平地の奥に築かれている。以前は会社の社宅が建っていたが、現在は跡地が横須賀市に寄贈され、更地となっている。しかし周囲には低い石垣が残り、水路が廻らされている。また2021年設置の真新しい解説板も立っている。2020年に奉行所開設300周年を迎えたが、ちょうど新型コロナのパンデミックと重なってしまい、話題になることはほとんどなかったようだ。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.236497/139.719186/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


開国への布石: 評伝・老中首座阿部正弘

開国への布石: 評伝・老中首座阿部正弘

  • 作者: 土居 良三
  • 出版社/メーカー: 未来社
  • 発売日: 2000/08/18
  • メディア: ハードカバー
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2023年08月25日

小山芳姫の墓(栃木県栃木市)

DSCN3072.JPG
 小山芳姫は、下野の名族小山義政の正室である。義政は、宇都宮基綱と下野守護職を巡って長年対立しており、1380年に遂に宇都宮領に軍勢を率いて進軍し、裳原で両軍は激突した。この戦いで宇都宮基綱は討死した。義政のこの行為を、勝手に戦を始めたとして咎めた2代鎌倉公方足利氏満は、関東の諸武家に催促状を発し、大軍で小山氏討伐を開始した。所謂「小山義政の乱」で、その経緯は鷲城の項に記載する。芳姫は、侍女一人を連れて最後の拠点粕尾城に立て籠もった夫義政の元に向かう途中、大事に持っていた乾飯の袋を宝の袋と間違われ、案内役の者に山中で殺されたと伝えられる。

 小山芳姫の墓は、谷倉山から西に伸びる尾根の南の谷にある。芳姫が殺された場所と言われ、標高340m程の場所で、麓から山道(寒沢林道)を30分程かけて登った先にある。5~6年ほど前に台風だか豪雨だかで山道が崩れて登れなくなったと聞いていたが、Google Mapの口コミでここ1~2年で登っている人がいたので、今回意を決して登った。山道は途中に何回も案内板が出ているので、あまり迷わずに登ることができる。ただ、途中道が崩れてる場所が数ヶ所あり、荒れている所もあるが、さほど困難ではない。墓は刻文によれば享保8年(1723年)に建てられたもので、脇には墓塔上部の残欠2基と小祠もある。こんな山奥の高所なのに、結構人が来ているらしく、真新しい花とお供物が飾られていた。麓には小山芳姫を祀った御堂があり、そこには以前に訪れているが、山中のお墓には7年越しでようやく登ることができ感慨深い。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.487307/139.632121/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東公方足利氏四代―基氏・氏満・満兼・持氏

関東公方足利氏四代―基氏・氏満・満兼・持氏

  • 作者: 田辺 久子
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2002/08/01
  • メディア: 単行本
ラベル:墓所
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2023年07月03日

妙吉塚(栃木県宇都宮市)

DSCN1829.JPG←妙吉塚
 妙吉塚は、南北朝末期の1387年に築かれた高塚である。塚の上には宝篋印塔が建ち、「至徳四丁卯八月七日 聖金剛仏子妙言(吉?)貞禅」と刻まれている。また塚の東側には、妙吉安産子育高地蔵尊がある。宝篋印塔の碑文は妙言貞禅と読めそうだが、見様によっては妙吉貞禅とも読める。南北朝時代で妙吉と言えば、初期の室町幕府を主導した足利直義から絶大な信任を得ていた謎の禅僧に思い至る。妙吉は、元々尊氏・直義兄弟が深く帰依した夢窓国師の兄弟弟子で、夢窓の斡旋で直義に近侍してその信任を受け、絶大な権勢を振るったらしい。そして直義の側近上杉重能・畠山直宗と結んで、将軍尊氏の執事高師直の暗殺を目論んだが、失敗した。逃れた師直は京に大軍を集めて直義邸、次いで直義が逃れた将軍御所(尊氏邸)を囲み(「御所巻」という)、上杉重能・畠山直宗・妙吉3人の引き渡しを要求した。数度の交渉の結果、直義は政務から身を引き、上杉・畠山両名は配流となったが、妙吉だけはこの混乱の最中に逐電し、その後行方知れずとなり、歴史からその姿を消した。妙吉は、軍記物の『太平記』だけでなく、第1級の同時代資料である『園太暦』にもその名があるので、実在したことは間違いない。観応の擾乱の導火線となった大事件の当事者であった。妙吉塚はこの僧妙吉の供養塚の可能性がある。おそらく全国でも妙吉にまつわる史跡はここにしかなく、もし本当に妙吉のものだとしたら、晩年は宇都宮氏の庇護を受けていたのかもしれない。

 妙吉塚は、日光街道の西に並走する脇道沿いにある。高龗(たかお)神社境内の西端にあり、脇の市道はこの塚を避けるためやや屈曲している。想像していたよりも大きい立派な塚である。南北朝フリークにとっては貴重な史跡である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.588371/139.863338/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

  • 作者: 亀田俊和
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2019/02/08
  • メディア: Kindle版
ラベル:墓所
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2023年06月19日

宗円塚(栃木県宇都宮市)

DSCN1302.JPG←宗円塚と呼ばれる古墳
 宗円塚は、下野の名族宇都宮氏の初代とされる藤原(宇都宮)宗円の墓と言われている。但し、藤原宗円は実在が証明されておらず(宇都宮氏で実在が確認されているのは、2代宗綱からである)、半ば伝説上の人物であることは注意しなければならない。また宗円塚は古墳であるので、宗円が死んだ平安後期(1111年に没したと伝わる)とは築造の年代が大きく隔たっており、宗円の墓でないことは明らかとされる。

 宗円塚は、宗円塚古墳群という丘陵上の小さな円墳群の一角にある。この古墳群の中で最も南東にあり、規模も最大の円墳である。前述の通り藤原宗円の墓とする伝承は後世の仮託に過ぎないが、宗円塚と同じ丘陵の北西には藤原宗円・宗綱父子が居住したとされる羽下城があるので、宗円伝説を色濃く残す地であることは間違いないようだ。

 尚、宇都宮市内には宗円の墓と言われている場所が2ヶ所あり、一つがこの宗円塚で、もう一つは新里町の日枝神社南方にあるオカザキ山と言う小山である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.583253/139.817451/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の名門 宇都宮氏

中世の名門 宇都宮氏

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2018/06/14
  • メディア: 単行本
ラベル:墓所
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2023年02月22日

神戸古戦場(長野県富士見町)

DSCN3633.JPG←古戦場の五輪塔と解説板
 神戸古戦場は、1528年に諏訪攻略を狙う武田信虎が諏訪頼満と戦った古戦場である。甲斐国内を統一した信虎は、1528年8月22日、蘿木(つたき)郷の小東に先鋒隊を進出させたが、これに対して頼満は8月26日に木舟の白ザレ山に軍を進めて布陣した。両軍は8月30日に激突した。朝、武田勢の進撃を諏訪勢が迎え撃つ形で戦いが始まり、神戸付近一帯が戦場となった。この戦闘では諏訪勢が敗れ、部将千野孫四郎などが討死した。しかし夜になって諏訪勢が勢いを盛り返して境川付近で武田勢を攻撃し、武田方の部将萩原備中守などを討ち取って勝利したと言う。この後、数年間は両軍で交戦が続いたが、1535年に両軍は和睦した。

 神戸古戦場は、神戸地区北端の旧甲州街道沿いの丘陵地に石碑が立っている。場所が非常にわかりにくいが、民家裏の高台に解説板が立ち、その近くに戦死者の供養塔と伝えられる五輪塔4基が立っている。一応町の史跡になっているので、解説板がある場所までの誘導標識などを設置してくれるとありがたいのだが・・・。


 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.930578/138.206184/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田信虎 (中世武士選書42)

武田信虎 (中世武士選書42)

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
ラベル:古戦場
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2023年02月21日

瀬沢古戦場・九ッ塚(長野県富士見町)

DSCN3617.JPG←瀬沢古戦場の石碑
 瀬沢の戦いは、『甲陽軍鑑』だけに記され、同時代史料には現れない謎の多い合戦である。1542年2月、信濃の小笠原・諏訪・村上・木曽の4大将は甲斐の武田信玄を攻撃しようと合議し、甲信境の瀬川に陣取った。しかしこの動きを察知していた信玄は密かに軍勢を発し、3月9日朝、信濃勢の不意を衝いて攻撃した。武田軍は信濃兵1621を討ち取って大勝したが、味方にも多数の死傷者を出したと言う。以上が軍鑑の記述であるが、実際の年次と合わないなど不自然な事が多い。しかしその一方で地元にはその伝承を裏付ける史跡や地名も存在している。
 九ッ塚はそうした史跡の一つで、戦死者の屍を9つの穴に埋めて塚を作ったと伝えられる。

 瀬沢古戦場は、国道20号線が大きくカーブする地点の内側道沿いに石碑と解説板が立っている。このカーブはかなり急である上、内側に丘があって視界を遮っているので完全なブラインドコーナになっており、車通りも多く横断するのは大変危険である。近くで農作業をしていた方の話では過去に何度も事故があったとのことで、そのため古戦場碑の東側に地下通路が作られている。訪問の際はこの地下通路を使って道路を横断した方が良い。
 また九ッ塚は、瀬沢古戦場碑から1.2km程西方の横吹地区の町道脇にある。ここにも石碑と解説板が立ち、謎の多い歴史を伝えている。
九ツ塚の石碑→DSCN3626.JPG

 場所:【瀬沢古戦場】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.896047/138.244550/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【九ツ塚】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.893578/138.231740/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲陽軍鑑 (ちくま学芸文庫)

甲陽軍鑑 (ちくま学芸文庫)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2006/12/01
  • メディア: 文庫
ラベル:古戦場
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2023年02月20日

乙事陣場(長野県富士見町)

DSCN3612.JPG←現在の乙事原
 乙事陣場は、1582年の天正壬午の乱の際、徳川方の七手衆が迫りくる北条勢に対して布陣した陣場である。武田征伐で短時日で武田氏を滅ぼし、その領国を併呑して得意の絶頂にあった織田信長であったが、そのわずか3ヶ月後の6月2日早暁、信長が本能寺で横死すると、甲斐・信濃を支配していた織田氏の勢力は瓦解し、北条・徳川・上杉3氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が勃発した。北条氏直は、神流川の戦いで滝川一益を破った後、服属した上野国衆を加えた大軍を率いて碓氷峠を越え、信濃に侵攻した。そして川中島での上杉景勝との対陣を経た後、7月29日、甲斐制圧に矛先を変えて南下を始めた。一方、信長の招待で堺遊覧中だった徳川家康は、本能寺の変の報を受けて決死の伊賀越えを敢行して、6月4日、命からがら岡崎城に戻った。その後、家臣や庇護していた武田旧臣達を甲信攻略のため先発させた。6月27日には重臣の酒井忠次に命じて、3000人余の軍勢を率いて奥三河から伊那口を通って信濃に侵攻させた。忠次は、伊那衆を服属させつつ北上し、諏訪を目指した。家康自身は、駿河から中道往還を経て甲斐に入り、7月9日に甲府に着陣した。この頃、諏訪郡に到達した忠次は、信長滅亡後に旧領を回復して高島城(茶臼山城)で自立した諏訪頼忠を服属させるため、開城交渉を開始した。しかし頼忠は、忠次の高圧的な態度に反発して返って北条方への服属を決めてしまい、徳川方との交渉は遅々として進まなかった。家康は、頼忠を味方につけるため軍事的圧力を強めるべく、甲斐から大久保忠世・大須賀康高ら七手衆を諏訪に派遣した。忠世らは7月18日に諏訪に着陣し、乙事村名主の五味太郎左衛門を使者に立てて数度の交渉を行ったが、頼忠の北条氏服属の意志は決しており、7月22日に徳川七手衆と諏訪氏との交渉は決裂し、徳川軍は高島城への攻撃を開始した。しかしそんな最中の7月29日、北条軍4万3千の大軍が諏訪を目指して南下を始めたとの知らせを受けた七手衆は、29日夜、撤退を開始した。3千の兵を率いて乙事まで退いて布陣したが、北条の大軍は一里近くまで迫り、両軍は乙事原で衝突しようとする寸前にあった。この時、太郎左衛門はつぶさに北条軍の動静を探り適切な助言をしたので、徳川軍は上の棒道を進んでくる北条軍の先鋒隊を牽制しつつ、中の棒道を通って一兵も損なうことなく新府に退くことができた。これを乙事の退陣と言い、徳川軍が布陣した乙事原の地を陣場と呼ぶようになった。この後の乱の経緯は、御坂城の項に記載がある。天正壬午の乱終結後、太郎左衛門はその功績により十貫文の知行を拝領し、更に後になって家康に召し出され、姓を乙骨と改め、その旗本に取り立てられた。

 乙事陣場は、矢の沢川と母沢川に挟まれた丘陵地帯にあったらしい。現在はなだらかに傾斜した丘陵地であるが、現地解説板によれば以前はなだらかな尾根となっていたらしい。しかし戦後の土地改良区整理事業で切り取られ、改変されてしまっている。市道の脇に解説板が立ち、そこから北北西90m程の高台に「史跡 陣場」と刻まれた石碑が立っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.907240/138.266523/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
ラベル:古戦場
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2022年10月29日

桔梗ヶ原合戦 宗良親王本陣(長野県岡谷市)

DSCN4966.JPG←東堀正八幡宮境内の石碑
 桔梗ヶ原合戦は、南北朝期の1355年に南朝の宗良親王が結集した信濃南朝方と北朝方の信濃守護小笠原氏率いる軍勢との戦いである。これに先立つ1351年12月、観応の擾乱で足利方が尊氏党と直義党に二分して抗争した隙に乗じ、南朝方は一時京都を制圧(正平一統)、更に関東では宗良親王が新田一族と共に碓氷峠を越えて関東に進撃し、足利尊氏を攻撃した(武蔵野合戦)。一旦は足利勢を破って鎌倉を制圧したものの、体勢を立て直した尊氏勢の逆襲にあって敗退し、新田一族は四散、宗良親王も越後に逃れた。その後、宗良親王は再び信濃に戻っていたが、1355年に諏訪氏・仁科氏ら信濃南朝方を結集して挙兵し、北朝方の信濃守護小笠原長基の軍勢と桔梗ヶ原で合戦した。これは、同年に故直義の養子直冬の元に結集した旧直義党が南朝と組んで京都争奪戦を行っており、これに呼応して宗良親王も挙兵したものと考えられる。しかしこの桔梗ヶ原合戦については『太平記』にも記述がなく、史料も少ないため実情はよくわかっていないが、南朝方の大敗となり、信濃南朝方は大きく衰退した。

 この桔梗ヶ原合戦の際に、宗良親王が本陣を置いたと伝えられるのが東堀正八幡宮の境内である。ここには柴宮の地名が残っているが、これは宗良親王がこの地に来た時、諏訪社の社人が仮の御所を柴で造り御座所としたことから柴宮の名が付いたと伝えられる。現在はただの神社であるが、境内に宗良親王御舊蹟地と刻まれた石碑が立っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.075248/138.064435/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


南北朝武将列伝 南朝編

南北朝武将列伝 南朝編

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/02/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
ラベル:陣所
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2022年09月27日

安国寺門前古戦場(長野県茅野市)

DSCN1896.JPG←安国寺の山門
 安国寺門前古戦場は、甲斐の武田信玄が高遠頼継を破った戦いである。1542年、信玄は諏訪氏の家督を狙う高遠頼継や下社勢と結んで諏訪氏惣領の諏訪頼重を攻撃して降し、甲府で自刃させた。これにより諏訪惣領家の直系は滅亡した。その後、諏訪は武田氏と高遠氏に二分されたが、西側を領した高遠氏は間もなく甲州兵の守る上原城を攻め落し、さらに下社を占領して諏訪全域を手中におさめた。しかしすぐに信玄は頼重の遺言と称して頼重の遺児寅王を擁して出陣し、高遠勢を攻撃した。9月25日、安国寺門前の一帯で両軍の激戦があり、700余人の戦死者を出して高遠勢は大敗し、頼継は敗走したと言う。この結果、諏訪郡全域は武田氏の支配下となった。

 安国寺門前古戦場は、その名の通り安国寺の周辺で行われた。安国寺は、南北朝時代の小康時期の1345年、足利尊氏・直義兄弟が夢窓国師の勧めに従って元弘以来の戦乱による戦死者を弔うため、全国66ヶ国に造立した寺院である。信濃安国寺は、現在も茅野市宮川に残っている。門前を通る車道の脇の生垣に古戦場の解説板が立っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.989093/138.140802/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

  • 作者: 鈴木 将典
  • 出版社/メーカー: 星海社
  • 発売日: 2016/07/26
  • メディア: 新書
ラベル:古戦場
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2022年05月03日

長尾能景塚(富山県砺波市)

DSCN0490.JPG←能景塚
 長尾能景は、上杉謙信の祖父に当たる。越中守護畠山氏の勢力が減退し、射水・婦負郡守護代神保慶宗が越中一向一揆と手を結んで自立の動きを見せると、1506年、畠山尚順は越後守護代の能景に支援を求め、これが越後長尾氏が越中の騒乱に関わるきっかけとなった。能景は、越後に一向一揆の勢力が広まるのを恐れて尚順の要請に応じ、7月に軍勢を率いて越中に侵攻した。そして同年9月、礪波郡盤若野で一揆勢と交戦したが敗れ、討死した【般若野の戦い、または芹谷のの戦いとも言う】。

 長尾能景塚は、市の史跡となっている伝長尾為景塚の東方180mの位置にある。民家の屋敷地の中に円墳の様な塚があり、その頂上近くに石造りの墓塔が立っている。ネット上には能景塚の情報がないので、為景塚の解説板に書かれている「東方180mの屋敷にある」という情報だけを頼りに場所を推測し、そのお屋敷の住人の方に敷地内に能景塚がありますかと訊いたら、家の裏手にあると教えていただけた。一般の民家であるので、詳細な場所を記載するのは差し控えさせていただく。
塚に立てられた墓塔→DSCN0491.JPG


上杉謙信 人物叢書

上杉謙信 人物叢書

  • 作者: 山田邦明
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/11/01
  • メディア: Kindle版
ラベル:墓所
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2022年01月07日

巣伏古戦場(岩手県奥州市)

DSCN5250.JPG←古戦場碑
 巣伏の戦いは、蝦夷の族長アテルイ(阿弖流為)が征東将軍紀古佐美率いる朝廷の大軍を撃破した戦いである。『続日本紀』によれば、桓武天皇は789年、蝦夷勢力の拠点を制圧するため、紀古佐美を征東将軍に任じ、大軍をもって胆沢地方に侵攻させた。古佐美は征東軍を3軍(前中後)に分け、北上川を渡ってアテルイ率いる蝦夷軍を攻撃した。中後軍から各々2千人を選んで渡河し、アテルイの居所に着く頃に蝦夷軍300余人と迎撃戦となった。戦闘は征東軍が優勢で、村々を焼き払いながら進軍した。巣伏村で前軍と合流する予定であったが、前軍は蝦夷の別働隊に阻まれ、渡河できずにいた。そうした中、中後軍に蝦夷軍800人程が次々と来襲し、その激しい攻勢に征東軍は後方へと押し戻された。更に東の山上の蝦夷の伏兵400人程が征東軍の横・後方から急襲して挟み撃ちにし、征東軍は退路を断たれ総崩れとなった。結局征東軍は、戦死者25人、矢に当たった負傷者245人、川での溺死者1036人、裸で泳ぎ生還した者1257人の損害を出して大敗したと言う。小軍が巧みな戦術で大軍を討ち破った、日本古代史上稀有な戦いであった。

 巣伏古戦場は、県道251号線の四丑橋付近で行われたとされる。「四丑」(しうし)の地名は、古代の「巣伏」(すふし)であったとされる。墓地の前に石碑と解説板が立っている。またここから南南西1.4kmの北上川対岸には、物見やぐらが立つ巣伏古戦場跡公園がある。現在ではのどかな田園地帯が広がっているだけだが、蝦夷の時代から前九年の役・後三年の役に至るまで、朝廷に翻弄された東北の歴史の重要な一コマである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.156962/141.173930/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


阿弖流為: 夷俘と号すること莫かるべし (ミネルヴァ日本評伝選)

阿弖流為: 夷俘と号すること莫かるべし (ミネルヴァ日本評伝選)

  • 作者: 樋口 知志
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2013/10/10
  • メディア: 単行本
ラベル:古戦場
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2021年12月07日

瀬原古戦場(岩手県奥州市)

DSCN4273.JPG
↑古戦場付近の景観
 瀬原古戦場は、前九年の役の際の古戦場である。安倍軍の本陣は、北は鵜ノ木の稜線、南は毛越寺の稜線の間の衣川の全域であったとされる。1057年9月、安倍軍はこの本陣の中に源頼義軍を誘い込む作戦を展開した。源氏軍の主力は北上川東岸の長島から渡河して衣川に攻め込んだが、陣場山に密かに待機していた安倍軍は、源氏軍を充分に引き寄せてから攻撃を加え、大損害を与えるとともにその退路を絶ったと伝えられる。

 瀬原古戦場は、衣川地区の東端付近にある。民家の横に解説板が立っているだけで、周囲にはのどかな田園風景が広がっている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.011523/141.107862/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


蝦夷の末裔―前九年・後三年の役の実像 (中公新書)

蝦夷の末裔―前九年・後三年の役の実像 (中公新書)

  • 作者: 高橋 崇
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 1991/09/01
  • メディア: 新書
ラベル:古戦場
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2021年11月25日

将門の首塚(栃木県宇都宮市)

DSCN3953.JPG←首塚
 宇都宮市の旧河内町の下ケ橋地区には、平将門の首塚と伝えられる供養碑がある。将門縁故の者がこの地に遁れ、将門の怨霊を弔うために建てたものと伝わる。

 将門の首塚は、県道125号線と239号線が交わる東下ケ橋交差点の南東にある。馬頭観音堂の裏手にあり、覆屋のある供養碑が立ち、その脇に将門の事績を伝える石碑が建てられている。将門にまつわる史跡は関東各地にあるが、将門討伐で功のあった藤原秀郷の本拠があった下野国内では将門の史跡は珍しく、希少である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.651352/139.943032/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


平将門と天慶の乱 (講談社現代新書)

平将門と天慶の乱 (講談社現代新書)

  • 作者: 乃至政彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/04/10
  • メディア: Kindle版
ラベル:墓所
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2021年11月07日

大島古戦場(山梨県身延町)

DSCN3583.JPG←柵で囲われた古戦場の一角
 大島古戦場は、甲斐に侵攻した駿河今川氏の部将福島正成率いる今川勢と、甲斐の武田勢が戦った古戦場である。1521年、今川氏親の家臣で遠州土方城(高天神城)主福島正成は1万5千の大軍を率いて甲斐へ侵攻した。甲州河内に駐留していた所、8月28日に武田信虎は総攻撃を掛けて今川勢を敗走させた。しかし今川勢は態勢を立て直して逆襲に転じ、9月6日に富士川左岸の大島で武田勢を迎え撃ち、これを撃破した。今川勢は敗走する武田勢を追って富士川沿いを遡り、9月16日に甲府盆地の入口にある富田城を攻略し、この城を前進基地とした。その後、今川勢は甲斐府中の武田信虎の館(躑躅ヶ崎館)を目指して進撃を開始した。一方、武田信虎は大井夫人を要害城に避難させ、2千の兵を率いて荒川左岸の飯田河原に布陣した。正成率いる今川勢は、登美の龍地台に布陣して荒川を挟んで信虎の軍勢と対峙した。10月16日に飯田河原で両軍は激突し、武田勢が勝利した。今川勢は態勢を立て直し、再び11月23日に上条河原で武田勢と激戦を交えたが、信虎は再び今川勢に大勝した。大敗した今川勢は総大将の福島正成を始め多くの部将を失い、富田城へ敗走した。そのまま越年し、1月14日に駿河に引き上げたと言う。この戦いで今川勢に味方した波木井城主波木井義実は、1527年に信虎に攻められ、峯の城(波木井城)で滅ぼされたと言う。

 大島古戦場の場所は非常にわかりにくい。場所は大島集落の南端で、県道10号線から少し東に入ったところにある柵で囲まれた空き地が大島古戦場に指定されており、解説板が設置されている。空き地の中には東西に離れて2つの五輪塔がポツンと立っている。この今川勢侵攻に関する史跡は複数あり、戦国甲斐の歴史にとって非常に重要な事件であったことが伺われる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.332379/138.450587/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


今川氏親 (中世関東武士の研究26)

今川氏親 (中世関東武士の研究26)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/03/30
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ラベル:古戦場
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2021年10月26日

飯田河原古戦場(山梨県甲府市・甲斐市)

DSCN3269.JPG←飯田河原古戦場慰霊碑
 飯田河原合戦は、甲斐に侵攻した駿河今川氏の部将福島正成率いる今川勢を、武田信虎が撃ち破った戦いである。1521年9月、今川氏親の家臣で遠州土方城(高天神城)主福島正成は1万5千の大軍を率いて甲斐へ侵攻した。このとき富田城は9月16日に落城し、今川勢の前進基地となった。その後、今川勢は甲斐府中の武田信虎の館(躑躅ヶ崎館)を目指して進撃を開始した。一方、武田信虎は大井夫人を要害城に避難させ、2千の兵を率いて荒川左岸の飯田河原に布陣した。正成率いる今川勢は、登美の龍地台に布陣して荒川を挟んで信虎の軍勢と対峙した。10月16日に飯田河原で両軍は激突し、武田勢は勝利した。今川勢は態勢を立て直し、再び11月23日に上条河原で武田勢と激戦を交えたが、信虎は再び今川勢に大勝した。大敗した今川勢は総大将の福島正成を始め多くの部将を失い、富田城へ敗走した。そのまま越年し、1月14日に駿河に引き上げたと言う。

 飯田河原古戦場は2ヶ所に石碑があり、一つは県立中央病院西側の荒川東岸に慰霊碑が建ち、もう一つは甲斐市島上条にある八幡神社境内に供養板碑が建てられている。供養板碑の方は、大永年間(1521~28年)に建てられた可能性がある古い板碑で、市の有形文化財となっている。甲斐の戦国時代の歴史を今に伝える貴重な碑である。
飯田河原合戦供養板碑→DSCN3260.JPG

 場所:【飯田河原古戦場慰霊碑】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.671095/138.548863/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【飯田河原合戦供養板碑】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.683592/138.528650/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田信虎 (中世武士選書42)

武田信虎 (中世武士選書42)

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
ラベル:古戦場
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2021年10月09日

裳原古戦場(栃木県宇都宮市)

DSCN2474.JPG←古戦場付近の現況
 裳原古戦場は、1380年に行われた小山義政と宇都宮基綱の戦いである。小山・宇都宮両氏は、いずれも劣らぬ下野の名族であり、下野守護職を巡って長年対立していた。そしてついに1380年5月、義政は軍勢を率いて宇都宮氏の支配地域に進撃した。基綱はこれを迎え撃ち、両軍は裳原で激突した。激戦の末、宇都宮勢は当主基綱を始め80名余りが討死にした。しかし一方の小山勢も、一族30名余り、家臣200名余りが討死するという大難戦であった。義政の攻撃による基綱戦死の報は、かねてから小山氏の勢力削減を狙っていた鎌倉公方足利氏満に格好の口実を与え、氏満は鎌倉府を挙げた小山氏討伐を開始した。こうして始まったのが小山義政の乱と呼ばれる動乱で、裳原合戦は関東中世史の大きな画期となる戦いであった。

 裳原古戦場の伝承地はいくつかあるが、そのうちの一つが宇都宮市茂原2丁目の国道4号線付近と言われている。南北朝期の戦いでは、街道筋の要地での合戦が数多くあった様に、裳原合戦も現在は国道4号線に変貌した、古の奥州街道沿いの戦いであった。裳原古戦場は、現在は幹線国道の途中なので、周囲は完全に市街化し、往時の面影は微塵も見られない。しかしいつの日か、古戦場碑が建てられる日を望みたい。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.473177/139.870956/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
ラベル:古戦場
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