
←主城部の二ノ郭・主郭
倉ヶ崎城は、佐竹義重と同盟を結ぶ宇都宮氏と、小田原北条氏に服属した壬生氏・日光山勢力とが鋭く対立していた中で、佐竹・宇都宮連合軍が構えた城と伝えられている。城主は、
鹿沼城主壬生氏の庶流大門氏の一族大門(壬生)弥二郎で、宇都宮氏に従ってこの城を守っていたらしい。この頃は前述の通り鹿沼城主壬生義雄は北条方に付いて、宇都宮氏と激しい攻防を繰り広げていた。一方、大門氏は、1562年に義雄の父綱雄がを謀殺された後、鹿沼城に入って壬生氏の実権を奪った叔父周長の重臣であり、親宇都宮派であった。そのため、1579年に義雄が周長を倒して鹿沼城に入ると、大門資忠・弥二郎父子は本拠の
村井城を離れて宇都宮氏のもとに寄寓していたらしい。1584年の沼尻合戦の後、北条氏の北関東攻略は激しさを増し、佐竹・宇都宮勢は次第に追い詰められていた。1587年10月(9月説あり)、壬生義雄は北条氏直に援軍を要請し、氏直は北条勢の下野攻略の軍団長であった北条氏照を大将とする軍勢を派遣した。対する宇都宮氏も倉ヶ崎城救援のため、近隣の
大宮城の在番衆を派遣したが衆寡敵せず、北条方の日光山僧兵が佐竹・宇都宮勢の拠る倉ヶ崎城を10月20日に攻め落とし、城主大門弥二郎を生け捕って斬り捨てたと言う。佐竹・宇都宮連合軍は反撃に転じて、同月25日に
小倉城を攻め落としたが、当日の内に北条方の壬生氏・日光山勢によって奪還され、宇都宮方の守将今泉・戸祭両氏は討死した。尚、倉ヶ崎城から平地を挟んで西の愛宕山には
瀬尾愛宕山城があり、位置関係から推測して日光山勢力が倉ヶ崎城攻撃のために築いた向城(付城)だったのではないかと私は考えている。
倉ヶ崎城は、茶臼山の南東の尾根筋に築かれている。茶臼山にはハイキングコースが整備されており、南東麓の倉ヶ崎登山口から迷うことなく登ることができる。城は2つの峰に分かれて築かれており、防御構造から考えて南の495m峰(見晴台)が主城、北の506m峰が詰城と考えられる。斜度のある登山路を西に向かって登っていくと、10分程で尾根道に至る。尾根に着いて、すぐの東支尾根には2つの小郭が築かれているのがわかる。尾根をそのまま暫く進むと堀切があり、この堀切から北に向かって山腹を横断するように横堀が伸びている。この横堀は少し先で帯曲輪となって主郭の東尾根曲輪群に繋がっている。東尾根曲輪群については後述する。堀切の上に小郭があり、その背後に片堀切が穿たれて、上の三ノ郭に至る。三ノ郭はやや幅のある尾根先端部に築かれている。更に登っていくと三角形の二ノ郭があり、その上に主郭がある。主郭は小規模な長円形の曲輪で、眺望に優れており見晴台と書かれた表示板がある。主郭の北には2段の腰曲輪があり、その先に2本の堀切が穿たれている。2本目は西側の竪堀が下方に長く伸びている。また堀切は両方ともS字型に湾曲した土橋を架けている。一方、主郭の東尾根には、前述の通り東尾根曲輪群が築かれている。上から数えると4段の曲輪の先に堀切が穿たれている。4段の内の一番下の曲輪だけ土塁が築かれ、坂土橋状に上段の曲輪と繋がっている。またここに穿たれた堀切は、前述の通り南東尾根の堀切から伸びる帯曲輪と繋がっていて、側方に縦堀を落としている。堀切の前面には物見台の土壇が築かれ、更に2段の曲輪がある。その先に堀切が穿たれ、更に2段の曲輪が築かれている。
ここまでが主城部で、前述の北尾根の堀切2本の先に詰城部がある。上り尾根の途中に2段の段曲輪があり、山頂に詰城の主郭がある。主郭は南端がやや幅の広い南北に長い曲輪であるが削平が甘い。東側に2段の腰曲輪を伴っている。北には細尾根の曲輪が続くが、わずかな段差で区切られているだけで、主郭との境はあまり明瞭ではない。その先に小堀切が穿たれている。主郭の東の支尾根には、段曲輪と堀切があり、その下には竪堀状のみちが尾根に沿って降っている。北の堀切と東の堀切の間は、作業林道で繋がっているが、それ以前から武者走りで繋がっていた可能性がある。
以上が倉ヶ崎城の遺構で、戦国末期に戦場となった城にしては遺構の規模が小さい。宇都宮氏としては、北条勢による南からの攻撃に備える必要があり、領国北西の境目に避ける兵力は限定的だったのだろう。
東尾根曲輪群の堀切→


←主上部北尾根の堀切
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:
https://maps.gsi.go.jp/#16/36.740526/139.695218/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
posted by アテンザ23Z at 02:00|
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古城めぐり(栃木)
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