2025年05月24日

高岡北城〔仮称〕(栃木県茂木町)

DSCN4065.JPG←主郭北側の2段の帯曲輪
 高岡北城は、アプリ「スーパー地形」で最近公開された1mメッシュデータから発見した城である。2025年5月24日に現地踏査で城であることを確認した。現地での聞き取りができなかったので、地元で城と認識されているかどうかは確認できていない。想像するに、茂木氏が高岡城と共に、南西の益子氏に備えて逆川沿いの街道を防衛するために築いたものだろうか?

 高岡北城は、高岡城の北西約900mの位置にある。比高40m程の丘陵上にあり、大きな主郭を持ったほぼ単郭の城である。丘陵東端にお地蔵さんが祀られており、その脇から尾根伝いに踏み跡があるので、それを登って訪城した。主郭は「へ」の字型に曲がったような形状をしており、郭内は綺麗に削平されている。主郭の北側には2段、南側に1段の帯曲輪が廻らされ、帯曲輪は東側で馬蹄形に張り出している。その先端は浅い堀切状の地形となっているが、古道の跡であった可能性があり、遺構かどうか判断が難しい。主郭の南東端には小さな枡形虎口が築かれ、帯曲輪から屈曲した進入路が敷設されている。この城で特徴的なのは、主郭の西側に穿たれた二重堀切で、やや浅いが堀形ははっきりしており、主郭と帯曲輪には堀切に沿って土塁が築かれている。この帯曲輪にも竪土塁を築いた構造が、ここが城郭遺構であると判断する決め手となった。全体的には単純な構造の城である。
二重堀切の内堀→DSCN4067.JPG
DSCN4089.JPG←二重堀切の外堀
スーパー地形で見た高岡北城↓
1748095331793.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.517562/140.160780/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世平山城
posted by アテンザ23Z at 23:14| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今宮城〔仮称〕(栃木県茂木町)

DSCN3958.JPG←東郭先端の堀切
 今宮城は、アプリ「スーパー地形」で最近公開された1mメッシュデータから発見した城である。2025年5月24日に現地踏査で城であることを確認した。麓でお散歩中の方にお聞きした限りでは城の伝承はなく(話を伺った方は付近にある飯村城根古屋城のことはご存知だった)、この山にはお宮さんが祀られているだけとのことであった。お宮さんがあるので、この地区は今宮と言い、山の中に平場がいくつかあるので昔の住居跡かなぁという話は地元で出ていたとのことだった。位置的には飯村城の鬼門の位置にあるので、飯村城を防衛する出城兼詰城だったのではないかと個人的に想像している。

 今宮城は、標高220m、比高約100mの山上に築かれている。南西麓から沢沿いに小道が山中に向かって伸びており、奥で左右に道が分かれるので右に行けばお宮さんのある山頂まで行けると地元の方に教えていただいたが、右に行って少し登ったところで道が消えてしまったので、そのまま尾根上まで登って、尾根伝いに登って訪城した。コンパクトにまとめられた縄張りの城で、山頂に主郭を置き、西側に3段の腰曲輪を廻らしている。主郭の中央部は少し高くなっていて、昔はお宮さんがあったところと思われるが現在は何も無い。主郭の南東端には土塁が築かれ、その先に浅い堀切が穿たれて、舌状の二ノ郭が築かれている。二ノ郭の先端は切岸で遮断されており、切岸付け根の左右に竪堀が落ちて、左(北)のものは北側外周を巡る横堀・帯曲輪に通じ、右(南)のものは南支尾根の段曲輪群に繋がる武者走り繋がっている。南支尾根には数段の段曲輪群が築かれている。また二ノ郭の東尾根の先には、周りに土塁を築いた摺鉢状の東郭があり、その先端を堀切で遮断している。主郭と二ノ郭の北側には、前述の通り一部が横堀となった帯曲輪が廻らされていて、主郭の北尾根のところで円弧状の横堀となって掘り切っている。その下方に大きな堀切があり、その東端部は北側に折れて短い竪堀となって落ちている。また主郭西側の腰曲輪群の西端も堀切を穿って遮断している。この他、大手と思われる南西尾根の途中にもいくつかの小郭らしい平場が見られる。以上が今宮城の遺構で、有事の際の詰城的な縄張りの城と感じられた。
中央が少し高くなった主郭→DSCN3929.JPG
DSCN3953.JPG←摺鉢状の東郭
二ノ郭北側の横堀→DSCN3978.JPG
DSCN3986.JPG←北尾根の円弧状横堀
北尾根の大堀切→DSCN3999.JPG
DSCN4037.JPG←西端の堀切
スーパー地形で見た今宮城↓
Screenshot_2025-05-13-20-28-58-993_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.479669/140.175144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世山城
posted by アテンザ23Z at 22:26| Comment(6) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年05月03日

唐沢山城 根小屋屋敷跡特別公開(栃木県佐野市)

スクリーンショット 2024-12-01 104001.jpg
↑CS立体図の根小屋屋敷跡(提供:栃木県森林整備課)

 随分前の話になるが、昨年12月1日に唐沢山城の西麓にある根小屋屋敷跡の特別公開があった。これは、佐野市郷土博物館で開催されている企画展「戦国時代を生き抜いた佐野氏と唐沢山城」に連携したもの。普段は入れないところに大手を振って入れるので、企画展参観と合わせて参加した。発掘調査説明会なんかだと、参加者をいくつかの班に分けて、それぞれに案内者がついて引率するのが普通だが、今回の特別公開では受付だけ済ませたら、あとは各自で勝手に見て回ってよいというもので、キャッスラーとしては非常にありがたい方式だった。

 根小屋屋敷は、谷戸地形に段々に曲輪群が築かれている。中段付近が過去に採石場か何かがあって改変されているが、上段の「御台所(城主居館)」や下段の「隼人屋敷」は原型を留めている。御台所は上下2段の平場に分かれており、発掘調査により上段平場には庭園跡が検出されている。御台所の周囲には土塁が築かれ、その背後には横堀、側方には竪堀が穿たれている。
中段は前述の通り改変を受けているが、推定大手道が検出されているらしい。
隼人屋敷は、ほぼ方形の曲輪で、北と東に堀が穿たれている。この内、東のものは水堀になっているが、これは往時からのものだろうか?それとも改変されているのだろうか?北の堀は空堀で、こちらは往時のままと思われる。

 今回は特別限定の公開だったが、いつの日か史跡公園として整備されて公開される日を望みたい。
御台所→DSCN3430.JPG
DSCN3457.JPG←御台所の土塁と竪堀
隼人屋敷の空堀→DSCN3493.JPG


 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.355138/139.594912/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫) - 黒田 基樹
関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫) - 黒田 基樹
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年12月19日

要害館(栃木県栃木市)

IMG20240713165339.jpg←館跡の標柱と現況
 要害館は、細井城(光明寺城)の出城と伝えられる。『都賀町史』によれば胡桃沢左衛門尉、現地標柱の刻文では来宮田左衛門尉の館とし、弘治年間(1555~58年)に築城され、1560年に落城したと言う。細井城は、1560年に壬生城主壬生義雄によって攻め落とされているので、同じ時に壬生氏に攻略されたと思われる。

 要害館は、合戦場バイパス(県道3号線)の脇に標柱が立っている。周辺は、一部工場が建っているほかは一面の水田地帯で、遺構は全く残っていない。1940年代後半の航空写真を確認しても、既に水田地帯となっていて遺構は全くわからなくなっている。何を根拠にここが館跡だと特定したのかは不明であるが、おそらく古い明治時代の地籍図などにその痕跡があったのだろう。今となっては石碑以外に館跡を物語るものはない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.423941/139.751501/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(2) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月28日

山口城(栃木県大田原市)

DSCN2961.JPG←段丘上の平場
 山口城は、歴史不詳の城である。正確な場所も不明で、『栃木県の中世城館跡』によれば、野上川南岸の丘陵端段丘上にあり、宅地となったために遺構が痕跡的になったとある。

 山口城の位置については、『那須の戦国時代』の地図やCS立体図を見比べて、おそらくここではないかという場所を踏査してみた。北と西が急斜面で囲まれた台地で、現在は杉林となっている。内部は平坦に削平されており、西側には腰曲輪っぽく見える一段低い平場も見られる。しかしあるのはそれだけで、背後の薮との間にはわずかな段差があるだけである。結局、ここが山口城との確信は持てなかったが、人の手が加えられて平らに削平されているのは間違いない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.864335/140.163982/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書「地域の中世」 19)

中世の下野那須氏 (岩田選書「地域の中世」 19)

  • 作者: 那須 義定
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本
ラベル:中世平山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月26日

久保館(栃木県大田原市)

DSCN2937.JPG←土塁
 久保館は、この地に入部した久保氏の居館である。久保氏のご子孫に伝わる伝承によれば、1381年に宇都宮資近がこの地に入部して館を築き、久保氏を称したと言う。その後1416年、2代城主久保資治の時、上杉禅秀の乱に応じて出陣し、相模国で今川範政の軍に敗れて自刃。翌年資治の夫人和姫も自害し、その際にこの館を焼いたとされる。しかしこの伝承には不自然さが残る。まず第一に、那須氏の勢力圏であるこの地に宇都宮氏の一族が城館を築いたこと。第二に、資近・資治の「資」は那須氏の通字であり、宇都宮氏の一族ならば「綱」が名乗りに入るのが自然であることである。しかし私はそれ以上の知識は持ち合わせていないので、ここでは疑問を呈するだけに留めたい。

 久保館は、東西に沢が入り込んだ舌状丘陵の上に築かれている。しかしこの丘陵上は、一部が林となって残っている以外は、耕地化されており遺構はほとんど湮滅している。『那須の戦国時代』の遺構略図によれば、単郭方形居館だったらしい。わずかに残った林の中に土塁の一部が残っているが、どの部分に相当するのかも判然とせず、かなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.918135/140.065373/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の名門 宇都宮氏

中世の名門 宇都宮氏

  • 作者: 下野新聞社編集局
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2018/06/14
  • メディア: 単行本
ラベル:居館
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月25日

藤形輪館(栃木県大田原市)

DSCN2929.JPG←館跡付近の現況
 藤形輪館は、下野の名族那須氏の庶流羽田(はんだ)氏の室町・戦国時代の居館である。羽田氏の事績については柿木内館の項に記載する。羽田氏初代資茂が応永年間(1394~1428年)にこの地に入部した時に藤形輪館を築き、以後羽田氏の居館として続いた。江戸前期の1646年に新たに柿木内館を築いて居館を移したと言う。

 藤形輪館は、鎌足城の西にある民家付近にあったらしい。宅地と畑地となっており、明確な遺構は確認できない。土塁の一部が残るとされるが、どこのことかわからなかった。どうも羽田氏の城館は、柿木内館といい鎌足城といい、遺構も場所も明確でなくて、消化不良になる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.919971/140.080984/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


『日本の城年表』古代から現代まで城の変遷や進化が劇的にわかる (朝日年表シリーズ)

『日本の城年表』古代から現代まで城の変遷や進化が劇的にわかる (朝日年表シリーズ)

  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2024/02/20
  • メディア: 単行本
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月23日

鎌足城(栃木県大田原市)

DSCN2911.JPG←帯曲輪らしい平場
 鎌足城は、歴史不詳の城である。その名前から、藤原鎌足による築城伝説があるが、もとより信ずるに足らない。羽田氏の居館である藤形輪館に隣接しており、藤形輪館の要害であったと推測されている。

 鎌足城は、八龍神社がある丘陵の北西部の峰に築かれている。西と南には民家があってアプローチできないので、北西の薮を突っ切って訪城した。丘陵頂部の周囲に帯曲輪を廻らしただけの、全体の形状が長円形(というかゾウリムシ形状)をした単郭の城である。しかし主郭となる曲輪はほとんど地山のままで、明確な削平はされていない。帯曲輪も、城ならば東西の尾根筋を貫通する部分は明確な堀形状をしていても良さそうなものだが、それも見られない。CS立体図を見て「城ではないか?」と考えて現地踏査したが、削平されていない丘の周りを帯曲輪状の平場が廻っているだけで結局城とは認定できなかった地形があったが、この鎌足城の状況もそれに近い。城郭本に載っているくらいなので、城の伝承はあるのだろうが、現地の状況からは城とは断定しかねる状況だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.919885/140.082690/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 栃木の城郭

図説 栃木の城郭

  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2024/04/27
  • メディア: 単行本
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月22日

木須館(栃木県大田原市)

DSCN2898.JPG←山林内の溝地形
 木須館は、下野の名族那須氏の庶流木須氏の戦国後期の居館である。木須氏は大木須城を本拠としていたが、1551年に木須康実が千本城で主君那須高資と共に謀殺され、一旦滅亡した。康実の遺児与九郎・与八郎兄弟は母方の羽田氏に引き取られて藤形輪館に移った。その後、与九郎・与八郎兄弟は1560年の小田倉の戦いに那須資胤に属して軍功を上げ、大関高増の援助を受けるようになった。与九郎は羽田氏を継いで遠江貞明を名乗り、与八郎は越前資業を名乗って羽田に300石の地を大関氏より賜り、木須館を築いて木須氏を再興したと言う。その後、2人は大関氏に仕えて忠節を尽くした。資業は大関氏の家老まで昇進し、屋敷を黒羽城下に移し木須館は廃された。

 木須館は、羽田氏の柿木内館の北の丘陵地にあったらしい。山裾に正観音堂があり、その背後の丘陵であるらしいが、ただの自然地形の山林で遺構は確認できない。堀跡のような溝地形もあるにはあるが、明瞭さに欠け遺構とは見做し難い。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.912422/140.087099/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

  • 出版社/メーカー: 西東社
  • 発売日: 2022/11/07
  • メディア: 単行本
ラベル:居館
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月20日

柿木内館(栃木県大田原市)

DSCN2889.JPG←丘陵上の山林
 柿木内館は、羽田城とも言い、下野の名族那須氏の庶流羽田(はんだ)氏の江戸時代以降の居館である。羽田氏は、那須資氏の3男資茂が応永年間(1394~1428年)にこの地に分封されて羽田氏を称したことに始まる。羽田氏の室町・戦国期の居館は藤形輪館であった。1563年に片府田城主福原資孝が佐久山城主佐久山義隆を攻撃した際、福原氏に付いた武士の中に「半田」の名が見え、また1561年に那須資胤が大関高増を討とうとした際、大関氏に付いた武士の中に「飯田(はんだ)」の名がある。この頃には既に大関氏に属していたらしい。時代は下って江戸前期の1646年、羽田勘左衛門貞和は黒羽藩の財政改革によって禄を減らされ、新たに柿木内館を築いて藤形輪館から居館を移したと伝わる。

 柿木内館は、『那須の戦国時代』の地図によれば、白鳥飛来地として有名な羽田沼の東南東にある丘陵地にあったらしい。しかし『栃木県の中世城館跡』によれば、第2次大戦後の開田で全壊してしまったらしい。一応、『那須の戦国時代』が指し示す場所を探索してみたが、山林となっていて遺構らしいものは見られなかった。踏査した場所が間違っているのかもしれないが、いずれにしても失われた城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.910003/140.088837/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城館と南奥戦国史

中世城館と南奥戦国史

  • 作者: 垣内 和孝
  • 出版社/メーカー: 東京堂出版
  • 発売日: 2024/05/14
  • メディア: 単行本
ラベル:居館
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月19日

矢組館(栃木県大田原市)

DSCN2876.JPG←土塁と標柱
 矢組館は、那須氏に属する土豪矢組五郎の居館と伝えられる。年代は鎌倉時代とも室町時代とも言われるが、詳細は不明である。

 矢組館は、那珂川西岸の段丘辺縁部に築かれている。現在は民家の敷地及び畑となっているので、内部探索はできないが、外周からの確認はできる。敷地の入口右手にはしっかりした土塁が残っており、その脇に小型の城址標柱が立っている。土塁は西から南にかけてL字型に残っている。南側の土塁はわずかに折れを持っており、虎口らしい跡も見られる。周囲には空堀もあったと思われるが、畑地に変貌してすべて埋まってしまっている。また郭内にもわずかに土塁らしい土盛りが遠目に見え、内郭・外郭を持った二重構造の居館であった可能性がある。尚、近くには矢組氏の墓があるとのことだが、探しても見つからなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.927742/140.107291/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書「地域の中世」 19)

中世の下野那須氏 (岩田選書「地域の中世」 19)

  • 作者: 那須 義定
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月16日

二岐ヶ峰城(栃木県那須町)

DSCN2727.JPG←南東の腰曲輪群
 二岐ヶ峰城は、戦国末期に伊王野城主伊王野氏の家臣簑沢(三野沢)氏の要害であったと推測されている。創築には2説あり、南北朝期に上野国新田氏の支族が築城して、以後その子孫が拠点としたととも、或いは鎌倉時代に芳賀高俊の次男重広が那須頼資に仕えて、大田原の地を領し、その子重行が簑沢郷に住んだとも言われるが、いずれが正しいかは不明である。いずれにしても城の東には古の東山道が通り、下野国最奥の城であって奥州との境にも近く、那須領北辺の防衛拠点であったものだろう。

 二岐ヶ峰城は、旧東山道に当たる県道76号線の脇にそびえる、標高372m、比高80m程の要害山に築かれている。余湖さん・富岡武蔵さんといった先達のHPを参照して東の峰を越えて訪城したが、後でわかったのは西の谷戸を登っていく道があり、これを登った方が簡単に城の直下まで行くことができる。山頂に小さな主郭と、その南東に長方形の二ノ郭を配置している。これらの周囲に腰曲輪が廻らされている。主郭からは、二ノ郭に向かっては坂土橋状の尾根が伸び、北の腰曲輪に向かっては西の尾根が坂土橋状に繋がっている。外周の腰曲輪は二ノ郭の南東斜面にだけ、4段築かれており、街道に面したこの方面に重厚な防御構造を構築している。しかもこの腰曲輪群を経由する城道はジグザグに屈曲している。この腰曲輪群の北東には舌状曲輪が張り出している。内部は2段に分かれ、南東と北東にL字型に腰曲輪が築かれ、舌状曲輪の付け根から南東に向かって竪堀が落ちて、腰曲輪と連絡している。またこの腰曲輪の北西端にも竪堀が落ちている。更にその北東の尾根の先にやや離れて、半月型の曲輪が築かれている。南東腰曲輪群の南西にも舌状曲輪があり、やはり付け根に南東に落ちる竪堀がある。舌状曲輪の外周には腰曲輪が1段廻らされ、先端部は更に2段の小郭が置かれている。この他、主郭北の腰曲輪の東尾根と北西尾根にはそれぞれ小堀切が穿たれ、この腰曲輪の西端から竪堀が落ちている。以上が二岐ヶ峰城の遺構で、竪堀の多用やジグザグの動線など、なかなか巧妙に作られており、位置的に考えて関ヶ原合戦時に会津の上杉勢に備えるために徳川氏が改修の手を加えた可能性も考えられる。
北東曲輪付け根の竪堀→DSCN2766.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.981498/140.201683/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m


図説 栃木の城郭

図説 栃木の城郭

  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2024/04/27
  • メディア: 単行本
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月14日

三ツ谷館(栃木県壬生町)

DSCN2677.JPG←山林内の堀っぽい地形
 三ツ谷館は、歴史不詳の城館である。『壬生町史』によれば、天神沼の南西にある山林にあったらしい。谷戸に面した台地の縁に当たるが、明確な遺構は残っていない。堀っぽく見える地形もあるにはあるが、はっきりしない。CS立体図でも遺構らしいものは確認できなかったので、既に失われた城館の様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.477300/139.800403/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
ラベル:居館
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月13日

上稲葉館(栃木県壬生町)

DSCN2663.JPG←円宗寺に残る土塁の北西角部
 上稲葉館は、歴史不詳の城館である。現在、円宗寺の境内となっているが、『壬生町史』によれば古屋敷の地名があり、15世紀初頭(室町前期)には既に円宗寺がこの地に建っていたらしいので、そこから推測すると、鎌倉期~南北朝期頃にあった古い城館であった可能性がある。

 上稲葉館は、前述の通り円宗寺の境内となっているが、西と北に土塁が残り、堀跡も湮滅が進んではいるものの一部が残存している。東と南は改変されていてどこまでが館域なのか不明瞭だが、東の車道脇に水路があり、これも堀跡の可能性がある。遺構の湮滅が進んでいるものの、土塁が見事に残っている館跡である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.452744/139.771339/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世武士団 (講談社学術文庫)

中世武士団 (講談社学術文庫)

  • 作者: 石井進
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2020/09/25
  • メディア: Kindle版
ラベル:居館
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月11日

富士山城(栃木県栃木市)

DSCN2610.JPG←主郭の上段平場
 富士山城は、戦国末期に藤岡城主藤岡佐渡守清房の弟茂呂弾正久重が居城したと伝えられる。尚、藤岡城の歴史によれば、久重は佐野氏の家臣で、清房が佐野氏に滅ぼされた後に藤岡城主となったとある。小田原北条氏の勢力拡張に伴って、佐野氏の家中は北条方に付くか反北条方として抵抗を続けるかで二分されており、清房・久重の兄弟はこの厳しい選択の中で袂を分かったのであろう。尚、北西900mの至近距離には馬宿城があり、その詰城であった可能性もある。

 富士山城は、岩船山南方に広がる平地の中の独立丘である、標高93.7mの富士山に築かれている。現在、主郭と思われる平場には茂呂浅間神社が立っており、参道が整備されているので簡単に登ることができる。山頂の主郭は、細長く上下2段に分かれていて、社殿があるのが下段平場で、社殿裏は一段高い上段曲輪となっている。上段曲輪は小さく、いかにも物見台という雰囲気である。上段曲輪の北東に腰曲輪らしい小郭が見られるが、確認できる遺構はその程度である。『栃木県の中世城館跡』によれば、他にも南東麓にも遺構があったらしいが、現在は宅地と畑に変貌し確認困難とのことだったので、踏査していない。富士山は独立丘で周りに視界を遮るものがないので、眺望に優れている。小田原北条氏と佐竹・宇都宮連合軍が対峙した沼尻合戦の主戦場が眼下に広がっているので、沼尻合戦の際には使われなかったのだろうかと不思議に感じた。
眼下の眺望→DSCN2604.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.317952/139.666851/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一 (中公新書)

戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一 (中公新書)

  • 作者: 齋藤慎一
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2014/07/11
  • メディア: Kindle版
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月10日

牛ヶ城(栃木県佐野市)

DSCN2525.JPG←城跡付近の現況
 牛ヶ城は、佐野氏の庶流で岩崎城主であった岩崎義基が築城したと伝えられる。彦間川西岸の丘陵上に築かれていたらしいが、採土によって丘陵自体が消滅しており、遺構は全く残っていない。丘陵自体がないので、その正確な場所も今となっては明確ではないが、県道175号線が彦間川を渡る前日橋の西側付近であったらしい。高度経済成長期に姿を消した城の一つである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.374295/139.540057/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    (推定地)


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月08日

小日向砦(栃木県佐野市)

DSCN2481.JPG←主郭手前の段曲輪群
 小日向砦は、佐野氏が築いた蓬山城の出城と伝えられている。最小限の普請しかされていない砦なので、奥地にある蓬山城に対して前衛の物見または狼煙台として機能したのではないかと思われる。

 小日向砦は、旗川東岸にそびえる標高330mの山上に築かれている。文化財総覧WebGISでは、尾根伝いにもっと登った先にある山を砦の位置としているが、CS立体図から正確な位置を特定した。南麓に、東の谷戸に入っていく林道があり、その脇から斜面に取り付き、尾根筋を登って訪城した。小郭群だけで構成された城で、山頂に小規模な主郭を置き、その前面の尾根に数段の段曲輪群を築いている。小さな主郭内には、石の塚の様なものがあるが、山岳信仰の遺構なのか、狼煙台の遺構なのか、よくわからない。主郭の背後には堀切らしい地形があり、西側に竪堀が落ちている。その先には尾根の鞍部があり、その先に平場がある。自然地形に近いが主城部の細尾根と比べると幅があり、西側斜面にL字型の堀状地形があるので、小屋掛けなどがあった外郭と推測される。『田沼町史』では井戸跡があると書かれているが、現認した限りでは井戸跡は確認できなかった。以上が小日向砦の遺構で、小規模な城砦である。
竪堀→DSCN2488.JPG
DSCN2500.JPG←外郭らしき平場

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.474557/139.509866/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月05日

大沢御殿(栃木県日光市)

DSCN1628.JPG←東側の土塁
 大沢御殿は、江戸時代の寛永年間(1624~44年)に日光社参の途中で休憩するために築かれた御殿で、3代将軍家光の命によって安西長左衛門が築いた。安西家がそのまま大沢御殿番という役目を負って管理していたが、使われたのは4代家綱の代までだったと言う。尚、ここには戦国末期の天正年間(1573~92年)に塩谷氏の家臣大沢隼人という武士が築いた館があったとも言われるが、確証はない。

 大沢御殿は、日光街道大沢バイパス(国道119号線)の東側に築かれている。現在は屋敷林の中に遺構が残っている。かつては四周を囲む土塁が残っていたが、昭和35年頃に北半分が切り開かれて水田となった。しかし昭和20年代前半の航空写真を確認すると、北東部の土塁はこの時点で既に失われていた様である。現在は南半分の土塁と、西側中央にあった枡形虎口の一部が残っているだけである。徳川家康が各地に築いた御殿と比べると、土塁の規模も曲輪の面積も小さく、かなり小型の御殿であったらしい。東を通る市道脇に「御殿開田之碑」が立っている。また以前は国道脇に解説板が立っていたらしいが、現在はなくなっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.702619/139.752553/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


徳川家光 (人物叢書 新装版)

徳川家光 (人物叢書 新装版)

  • 作者: 藤井 讓治
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 1997/06/01
  • メディア: 単行本
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月04日

寅巳城(栃木県宇都宮市)

DSCN1560.JPG←主郭北西尾根の堀切
 寅巳城は、歴史不詳の城である。伝承では、寅より巳の年まで4年間、源三位頼政或いは神山監物の城であったと言うが、事実は皆目不明である。

 寅巳城は、標高445.8mの寅巳山に築かれている。西麓の住宅団地最上部から登山道があり、これを辿って登ることができる。しかし登山道とは名ばかりで、踏み跡とロープがある以外はただの斜面直登の道である。三角点のある山頂に小さな主郭を置き、三方に伸びる尾根に曲輪と堀切を配している。まず主郭の北東の尾根には先端付近にわずかな平場があり、西側下方に小堀切が穿たれている。次に南の尾根には、やはり尾根の先端付近にほとんど自然地形に近いようなわずかな平場があり、東下方に円弧状の横堀、南の尾根を下った先に小堀切が穿たれている。最後に北西の尾根には、主郭との間に小堀切が穿たれ、その先の尾根の中程にわずかな平場がある。更にその先の自然地形の尾根の両側には明確な帯曲輪が築かれている。その先の尾根の北端には主郭以外で最も明確な曲輪があり、先端に土塁が築かれている。またこの北西尾根の中程から南西に分岐する支尾根には、尾根付け根に小堀切が穿たれている。西麓からの登山道は、この小堀切から少し下った尾根のところに登ってきている。寅巳城は、全体的に普請はわずかである上、曲輪が各尾根に分散した求心性のない縄張りである。物見的な役割の城だったように想像される。
北西尾根北端の曲輪と土塁→DSCN1548.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.691711/139.785876/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


難攻不落の城郭に迫る! 『山城』の不思議と謎 (じっぴコンパクト新書)

難攻不落の城郭に迫る! 『山城』の不思議と謎 (じっぴコンパクト新書)

  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2017/03/01
  • メディア: 新書
ラベル:中世山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月02日

小山城(栃木県日光市)

DSCN1459.JPG←堀切と主郭虎口
 小山城は、古山城とも書かれ、歴史不詳の城である。口碑では、鎌倉幕府侍所別当の和田義盛の3男朝比奈義秀は、和田合戦で敗れた後、所領があった安房国に逃げのび、一族の再興をうかがっていたが、執権北条氏の追求が激しく、下野国日光山の轟城に立て籠もる畠山重慶(畠山重忠の子)を頼ってこの地に至り、小山城に居を構えたと伝えられる。しかし各地によくある朝比奈義秀伝説の一つであろう。

 小山城は、鬼怒川南方の平地にある標高300m、比高50mの独立丘に築かれている。北に向かって開いたU字型の尾根に曲輪群を配置している。西側は断崖絶壁となっているが、東から南にかけては傾斜が緩い斜面となっているので、防御線はこの方面に集中して築かれている。U字の西尾値にあるのが主郭と思われ、最高所に位置し、東斜面からだと最奥に位置している。主郭は縦長の曲輪で、北端が細くなっていて、先端に段曲輪群があり、主郭東には帯曲輪も付随している。主郭内は削平が甘く、陣城的な作りである。主郭南西部には竪堀が落ち、その脇に小郭が置かれている。主郭の南東には堀切を挟んで二ノ郭があり、この堀切から主郭の虎口と二ノ郭虎口が繋がっている。堀切はU字尾根の真ん中の谷に向かって落ちている。二ノ郭は長方形の曲輪で、郭内が段差で区画されて北東に向かって下がっている。二ノ郭の南西辺と南東辺にかけてL字型に土塁が築かれ、二ノ郭外周にはU字型に横堀が廻らされている。この横堀の南端から竪堀状城道が下り、下の横堀に繋がっている。更にその下方にも横堀があり、二ノ郭南斜面だけ三重の横堀で防御している。二ノ郭直下の横堀の内、北東の堀は三ノ郭との間を区画する堀切を兼ねている。三ノ郭は前方後円墳のような形をした曲輪で、郭内が段差で多数の平場に区画されている。二ノ郭との間の堀に沿って土塁が築かれている。また三ノ郭の東辺には祠や不動明王像などが祀られている。三ノ郭の北東には堀切を介して四ノ郭がある。四ノ郭も主郭同様に北端が細くなっている。三ノ郭から四ノ郭の東側には一部が横堀となった帯曲輪2段が延々と築かれていて、東側の防御線を形成している。下段の帯曲輪は、二ノ郭南の三重竪堀の下段と繋がっている。以上が小山城の遺構で、主郭以外は郭内に段差が多く、削平も少々粗い。一方で、堀切・竪堀は中規模でしっかり構築されている。いかにも陣城的な作りであり、歴史が伝わっていないことも考えると、作戦上の都合で野戦築城された城だった可能性がある。
二ノ郭外周の横堀→DSCN1439.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.728661/139.808857/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 栃木の城郭

図説 栃木の城郭

  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2024/04/27
  • メディア: 単行本
ラベル:中世平山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月01日

倉ヶ崎城(栃木県日光市)

DSCN1185.JPG←主城部の二ノ郭・主郭
 倉ヶ崎城は、佐竹義重と同盟を結ぶ宇都宮氏と、小田原北条氏に服属した壬生氏・日光山勢力とが鋭く対立していた中で、佐竹・宇都宮連合軍が構えた城と伝えられている。城主は、鹿沼城主壬生氏の庶流大門氏の一族大門(壬生)弥二郎で、宇都宮氏に従ってこの城を守っていたらしい。この頃は前述の通り鹿沼城主壬生義雄は北条方に付いて、宇都宮氏と激しい攻防を繰り広げていた。一方、大門氏は、1562年に義雄の父綱雄がを謀殺された後、鹿沼城に入って壬生氏の実権を奪った叔父周長の重臣であり、親宇都宮派であった。そのため、1579年に義雄が周長を倒して鹿沼城に入ると、大門資忠・弥二郎父子は本拠の村井城を離れて宇都宮氏のもとに寄寓していたらしい。1584年の沼尻合戦の後、北条氏の北関東攻略は激しさを増し、佐竹・宇都宮勢は次第に追い詰められていた。1587年10月(9月説あり)、壬生義雄は北条氏直に援軍を要請し、氏直は北条勢の下野攻略の軍団長であった北条氏照を大将とする軍勢を派遣した。対する宇都宮氏も倉ヶ崎城救援のため、近隣の大宮城の在番衆を派遣したが衆寡敵せず、北条方の日光山僧兵が佐竹・宇都宮勢の拠る倉ヶ崎城を10月20日に攻め落とし、城主大門弥二郎を生け捕って斬り捨てたと言う。佐竹・宇都宮連合軍は反撃に転じて、同月25日に小倉城を攻め落としたが、当日の内に北条方の壬生氏・日光山勢によって奪還され、宇都宮方の守将今泉・戸祭両氏は討死した。尚、倉ヶ崎城から平地を挟んで西の愛宕山には瀬尾愛宕山城があり、位置関係から推測して日光山勢力が倉ヶ崎城攻撃のために築いた向城(付城)だったのではないかと私は考えている。

 倉ヶ崎城は、茶臼山の南東の尾根筋に築かれている。茶臼山にはハイキングコースが整備されており、南東麓の倉ヶ崎登山口から迷うことなく登ることができる。城は2つの峰に分かれて築かれており、防御構造から考えて南の495m峰(見晴台)が主城、北の506m峰が詰城と考えられる。斜度のある登山路を西に向かって登っていくと、10分程で尾根道に至る。尾根に着いて、すぐの東支尾根には2つの小郭が築かれているのがわかる。尾根をそのまま暫く進むと堀切があり、この堀切から北に向かって山腹を横断するように横堀が伸びている。この横堀は少し先で帯曲輪となって主郭の東尾根曲輪群に繋がっている。東尾根曲輪群については後述する。堀切の上に小郭があり、その背後に片堀切が穿たれて、上の三ノ郭に至る。三ノ郭はやや幅のある尾根先端部に築かれている。更に登っていくと三角形の二ノ郭があり、その上に主郭がある。主郭は小規模な長円形の曲輪で、眺望に優れており見晴台と書かれた表示板がある。主郭の北には2段の腰曲輪があり、その先に2本の堀切が穿たれている。2本目は西側の竪堀が下方に長く伸びている。また堀切は両方ともS字型に湾曲した土橋を架けている。一方、主郭の東尾根には、前述の通り東尾根曲輪群が築かれている。上から数えると4段の曲輪の先に堀切が穿たれている。4段の内の一番下の曲輪だけ土塁が築かれ、坂土橋状に上段の曲輪と繋がっている。またここに穿たれた堀切は、前述の通り南東尾根の堀切から伸びる帯曲輪と繋がっていて、側方に縦堀を落としている。堀切の前面には物見台の土壇が築かれ、更に2段の曲輪がある。その先に堀切が穿たれ、更に2段の曲輪が築かれている。
 ここまでが主城部で、前述の北尾根の堀切2本の先に詰城部がある。上り尾根の途中に2段の段曲輪があり、山頂に詰城の主郭がある。主郭は南端がやや幅の広い南北に長い曲輪であるが削平が甘い。東側に2段の腰曲輪を伴っている。北には細尾根の曲輪が続くが、わずかな段差で区切られているだけで、主郭との境はあまり明瞭ではない。その先に小堀切が穿たれている。主郭の東の支尾根には、段曲輪と堀切があり、その下には竪堀状のみちが尾根に沿って降っている。北の堀切と東の堀切の間は、作業林道で繋がっているが、それ以前から武者走りで繋がっていた可能性がある。
 以上が倉ヶ崎城の遺構で、戦国末期に戦場となった城にしては遺構の規模が小さい。宇都宮氏としては、北条勢による南からの攻撃に備える必要があり、領国北西の境目に避ける兵力は限定的だったのだろう。
東尾根曲輪群の堀切→DSCN1302.JPG
DSCN1210.JPG←主上部北尾根の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.740526/139.695218/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月30日

天狗沢城(栃木県鹿沼市)

DSCN0897.JPG←主郭と櫓台
 天狗沢城は、HP「下野戦国争乱記」の上澤光綱さんが2017年に確認した城である。「発見」ではなく「確認」としたのは、地元では古くから見晴らし台として知られていたらしいからである。竜貝城の項でも書いたが、上澤さん、郷土史家の資料や地元での丹念な聞き込みなど、すごい調査力だと感心する。北西1kmの位置には大塚城があり、大塚城からは死角となっている東方の粟野城方面への監視と防衛を主任務とした、大塚城の出城であった可能性がある。粟野城を攻略した皆川氏に対する備えだろうか?

 天狗沢城は、思川の南岸、大越路トンネルに向かう県道の東に南から突き出た、標高220mの尾根上に築かれている。思川南岸の車道の脇に、城のある尾根の北東麓に作業道があって、そこから獣避け柵を開けられる。そこから小道が尾根上までつづら折れに伸びており、これを登って行けば城に至る。細長い尾根上に連郭式に曲輪を連ねた縄張りがこの城の基本形である。以下便宜上、上澤さんの縄張図の呼称に従って概説する。小道を登った先に到達するのはⅢ郭で、実質的な二ノ郭と思われる。三角形に北西に突き出た曲輪で、先端下方には堀切が穿たれている。小道がⅢ郭に至る手前に竪堀を越えるが、これは上のⅡ郭から落ちる大竪堀である。Ⅱ郭は主郭に付随する腰曲輪で、U字型に主郭の周囲を取り巻いている。その上にあるのがⅠ郭(主郭)で、前面に堀切状の虎口と土壇を築いて、郭内への進入路を防衛している。主郭は城内最大の曲輪で、後部には櫓台がそびえ立つ様に築かれ、その裏には堀切が穿たれている。その後ろにⅣ郭・堀切・Ⅴ郭・堀切と連なっている。Ⅳ郭、Ⅴ郭共に小さな曲輪であるが、Ⅳ郭にはL字型に土塁が築かれ、後部の土塁はやや幅があって物見台状になっていて、物見台に登る虎口の様な地形も見られる。Ⅴ郭も後部に物見台が築かれ、これを迂回するように城道が背後の堀切に繋がっている。この最後部の堀切の先には上り勾配の尾根が続き、いくつかの小郭が築かれ、2ヶ所に切岸がそびえて後方尾根を遮断している。2つ目の切岸の西側には、わずかな三重竪堀が穿たれている。以上が天狗沢城の遺構で、曲輪は小さいものが多いが堀切はいずれも鋭い薬研堀で、後方に固い守りを備えた要害である。
腰曲輪から落ちる大竪堀→DSCN0877.JPG
DSCN0905.JPG←主郭後部の堀切
CS立体図→z天狗沢城CS立体図.jpg
      (提供:栃木県森林整備課)

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.503988/139.621768/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 栃木の城郭

図説 栃木の城郭

  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2024/04/27
  • メディア: 単行本
ラベル:中世山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月29日

竜貝城(栃木県鹿沼市)

DSCN0739.JPG←虎口
 竜貝城は、龍ヶ谷城とも書き、伝承では文明年間(1469~87年)に長島某が築城し、永正・大永年間(1504~28年)頃に毛野塚大膳太夫が、また1546年以降天正年間(1573~92年)まで伊藤右馬之助・植竹備後・高瀬某・大久保某が居城したと言われる。しかし城があるのは永野という地区であり、南北朝期に生起した小山義政の乱で、義政が山中で最初に立て籠もった長野要害とは、この城のことだったのではないかと推測されている。
 以下、小山義政の乱の概略の経過を記載する。1380年5月16日、小山義政は宇都宮領に侵攻し、裳原の戦いで宇都宮基綱を敗死させた。第2代鎌倉公方足利氏満は、これを違乱と見なして小山氏討伐を開始した(小山義政の乱)。祇園城や義政屋敷(神鳥谷曲輪か?)を主戦場とした第1次合戦が8月から9月にかけて行われ、一旦義政は氏満に降伏を申し入れた。しかし義政は謝罪に赴かったため、氏満は幕府の許可を得て翌年4月、小山氏再討伐を開始した。この第2次合戦では、鷲城や新城(長福城か?)が主戦場となり、激戦の末、12月8日に義政は再び氏満に降伏し、武蔵の氏満陣所に赴いて謝罪した。そして家督を嫡男若犬丸に譲り、自身は出家した。しかし氏満は軍陣を解かず、あくまで小山氏討滅を企図した。そのため翌82年3月22日、義政は祇園城を焼いて逃亡し、粕尾山中に長野要害・寺窪城(粕尾城)・櫃ノ沢城を築いて立て籠もった。4月5日に長野要害で合戦が開始され、8日に焼亡した。義政は、寺窪に移って立て籠もり、同月11日に合戦があり、即日落城した。更に即日櫃ノ沢城に戦場が移り、翌12日に義政は没落し、13日に山中で鎌倉府軍に囲まれ、自刃した。嫡男若犬丸は逃亡した。

 竜貝城は、永野川南岸に連なる山塊の内、北東に向かって突き出た標高292mの山上に築かれている。以前から場所が特定できず探していた城だったのだが、CS立体図を使ってようやく位置が特定できた。しかし私が位置を特定するより一足先にHP「下野戦国争乱記」の上澤光綱さんが訪城していたことがわかった(上澤さんはCS立体図も見ないで城の位置を特定しているようなので、すごい調査力だと感心します!)。城へは、永野川南岸の林道を川沿いに進み、山頂から東に伸びる尾根を伝って訪城した。明確な道はなかったが、城の構造から推測してこの尾根が大手であったと考えられる。尾根を登っていき山頂近くまで来ると、最初の堀切が現れる。浅い堀切であるが形状は明瞭である。その上に小郭があり、その後部に土塁と堀切が穿たれている。この堀切の南側は南側最下段の帯曲輪に繋がっている。堀切の上には3つ程の段があり、その上に主郭がある。途中の段には動線が屈曲した虎口らしい構造があり、原初的な枡形虎口であったと思われる。主郭は頂部の平場を中心に、外周に2~3段の帯曲輪を廻らした多段式の曲輪となっている。後部にT字型の土塁を築き、背後に堀切を穿っている。堀切を挟んで西には二ノ郭が置かれている。二ノ郭はやや削平が甘いが、主郭同様に左右両翼に2段程の帯曲輪を築き、後部にT字型土塁と堀切を穿って城域が終わっている。気になったのは二ノ郭のすぐそばまで山林伐採が行われていることで、遺構の破壊が心配である。この他、二ノ郭の南帯曲輪から竪堀が落ち、また主郭との間の堀切から落ちる竪堀は、主郭・二ノ郭の帯曲輪を貫通して落ちている。主郭の北尾根にも2段の段曲輪があるが、上段郭の両側から竪堀が下段郭に向って落ちている。段曲輪間の動線構造の様だ。以上が竜貝(龍ヶ谷)城の遺構で、素朴な形態から察するに戦国期以前の城と推測され、小山義政の乱の長野要害とは、まさしくこの城のことではなかったかと思う。戦国期にはほとんど使われなかったのではないだろうか。尚、粕尾城と比べると臨時築城の色彩がかなり強く、粕尾城構築の時間稼ぎのためにこの城に立て籠もったのではないかと想像される。しかしせっかく築いた粕尾城が1日で落城したのは、城の広さに対して守備兵の数が足りなかったためだろう。
東尾根の土塁と堀切→DSCN0728.JPG
DSCN0746.JPG←主郭
主郭背後の堀切→DSCN0778.JPG
DSCN0835.JPG←帯曲輪から落ちる竪堀
CS立体図→z竜貝城CS立体図.jpg
       (提供:栃木県森林整備課)

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.491120/139.599924/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


南北朝武将列伝 北朝編

南北朝武将列伝 北朝編

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/05/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月27日

不摩城南砦(栃木県栃木市)

DSCN0686.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 不摩城南砦は、長塁などとも呼ばれ、不摩城のある尾根から谷を一つ挟んで南にある尾根に築かれた出砦である。『栃木県の中世城館跡』に記載があったのは知っていたが、大した遺構ではなさそうだったのでこれまで見過ごしていた。しかしCS立体図で調べたら、2本の堀切などかなりしっかりした遺構があることが判明したので、今回訪城した。

 不摩城南砦へは、不摩城本城への登道から山麓を東に分岐する道に入り、そこから高台にある神社に登り、神社裏から尾根筋を登って行けばよい。神社裏は薮が多いが高台の平坦な平場となっていて、山麓部の曲輪であったと考えられる。ここから背後を登る尾根に取り付くと、山上まで延々と竪堀と土塁のような地形が尾根上に伸びている。これを長塁としている人もいるが、昔の参道か何かであった可能性もあり、遺構とは即断できない。山上に至ると先端に小郭があり、その上に二ノ郭がある。一応曲輪として機能したのだろうが、二ノ郭は自然地形の尾根で、ほとんど曲輪の体を成していない。しかし後方には土塁が築かれ、しっかりした堀切が穿たれている。その後方に主郭がある。主郭は、二ノ郭よりは削平が明確で、後方にはコの字型に低土塁が築かれ、堀切で後方の尾根と区画している。以上が不摩城南砦で、堀切だけ厳重に構築された小さな城砦である。
後方から見た主郭→DSCN0699.JPG
z不摩城南砦CS立体図.jpg←CS立体図(左上は不摩城)
                            (提供:栃木県森林整備課)

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.447825/139.637915/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月26日

泉城(栃木県塩谷町)

DSCN0324.JPG←高低差を付けて屈曲する横堀
 泉城は、永禄年間(1558~70年)に川崎城主塩谷義綱の家臣泉五郎直任の居城であったと伝えられる。直任は、1585年の宇都宮氏と那須氏の激戦、薄葉ヶ原の戦いで那須資晴の軍勢と戦っている。

 泉城は、松川西岸の比高60m程の山上に築かれている。南北2郭から成る城で、北が二ノ郭、南が主郭となっており、城周辺は比較的斜度のある斜面で囲まれている。明確な登道はない様なので、北側斜面を直登して訪城した。二ノ郭は内部に鉄塔が建っているが、鉄塔周辺以外は薮で覆われている。南北に長い曲輪で、内部の削平は甘く傾斜している。東西両側に横堀を穿ち、東側の横堀からは竪堀が1本落ち、横堀の北半は腰曲輪に変化している。この腰曲輪は二ノ郭北斜面にそのまま回り込んで、西の横堀と接続している。二ノ郭背後は主郭との間を堀切で分断しており、堀切はそれぞれ二ノ郭左右の横堀と接続し、西側では更に竪堀となって落ちて、主郭西側下方の腰曲輪と繋がっている。主郭も内部が傾斜したほぼ方形の曲輪で、西角が一番高く、東角が一番低くなっている。主郭の周囲も、二ノ郭左右からそのまま繋がる形で横堀が穿たれて全周している。主郭の北西から南西にかけては空堀がL字型に囲み、南西の空堀(堀切)は東のやや低い位置にある横堀に向かって落ちている。主郭南東側の横堀には、横矢掛かりの屈曲があり、しかも屈曲部で前後の横堀に高低差を付けている。クランクの下の角から竪堀が落ちている。主郭後部の尾根は、傾斜した地山のままだが、最後部に堀切が穿たれている。この堀切も、主郭南東の横堀、及び主郭西側下方の腰曲輪と接続し、南東ではそのまま竪堀となって落ちている。また、この最後部の堀切の手前には帯曲輪があって、堀への防御陣地となっている。全体的なイメージとしては玉生城と似た感じであるが、郭内が傾斜している分、泉城の方が居住性がなく、有事の際の詰城という色彩が強い。全体がコンパクトに纏められた、山上の詰城である。
最後部の堀切→DSCN0369.JPG

z泉城CS立体図.jpg←CS立体図
                            (提供:栃木県森林整備課)

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.749192/139.855678/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学 (角川ソフィア文庫)

「城取り」の軍事学 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/09/22
  • メディア: 文庫
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月24日

風見城出城(栃木県塩谷町)

DSCN0273.JPG←主郭背後の堀切
 風見城は、宇都宮氏の家臣風見氏の城であるが、この城の北西の丘陵上に出城がある。いつも参考にしているHP「栃木県の中世城郭」の管理人masakiさんが、寄せられた情報を元に確認した城で、そちらが真の風見城ではないかとしている。しかし風見城については不明点も多いため、ここではとりあえず『日本城郭大系』の記述通り明神山を風見城の本城とし、北西の城は「出城」としておく。

 風見城出城は、比高わずか25m程の尾根上にある。東麓から途中まで林道があり、途中から適当な斜面に取り付いて訪城した。単郭の小規模な城で、切岸で囲まれた長円形の主郭を中心に置き、外周に腰曲輪を1段廻らしただけの簡素な構造である。それでも、主郭後部には低土塁を築き、背後に堀切を穿って後方を遮断しているなど、一応の防御構造は備わっている。出城とも一時的な陣城とも言える様な構造で、どのような役目を負っていた城だったのか、今後の考究が待たれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.736812/139.857931/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


地域別 × 武将だからおもしろい 戦国史 (だからわかるシリーズ)

地域別 × 武将だからおもしろい 戦国史 (だからわかるシリーズ)

  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2021/04/20
  • メディア: 単行本
ラベル:中世平山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月23日

馬宿城(栃木県栃木市)

DSCN2571.JPG←城内最大の空堀(外郭西辺)
 馬宿城は、歴史不詳の城である。平将門関係の伝承や唐沢山城の支城説などがあるらしいが、明確なことはわかっていない。この城は東山道が通る交通の要地であり、北には岩船山がそびえ、南東約900mには富士山城があり、これらを詰城とし街道を押さえる平城であった可能性も考えられる。

 馬宿城は、馬宿東公民館の北に広がる林の中に遺構が眠っている。『栃木県の中世城館跡』などによれば、内郭・外郭から成る複郭の城とされるが、実態はもう少し複雑なようである。南側は宅地化などによって遺構が湮滅しているため、全容が把握できない部分はあるが、公民館から空き地を越えて北西の林の中に入っていくと小さな方形らしい曲輪があり、北と西にL字型の空堀が廻らされている。南と東は堀が消えてしまっている。この曲輪の北に細長い帯曲輪が東西に伸び、帯曲輪の北にはもっと大きな空堀が東西に走っている。この空堀も西端で折れ曲がってL字に南に走っている。空堀の内側には土塁が築かれ、北西角には櫓台も築かれている。また北の堀のやや西寄りに土橋が架かっている。西の空堀は南の宅地裏まで伸びたところで、南と西にT字型に分岐しており、この分岐部付近にも土橋が西に向かって架かっている。南の堀は住宅裏で消えてしまっているが、西の堀は少し先で北に向かって折れている。ここから北は薮が少々ひどくて内部の遺構はわかりにくいが、林の外にある西の宅地裏に、南北に一直線に伸びる空堀が見える。ここの空堀が、現在残る遺構の中で一番規模が大きい。北に伸びた空堀はそのさきで埋まってしまっているが、空堀に沿って築かれた土塁があるため、塁線を追うことができる。北の宅地の手前で塁線は東に折れ、そのまま東に向かって一直線に土塁が伸びている。北東部は遺構が湮滅しており、塁線を追うことができない。しかし東側には南北に走る土塁・空堀が部分的に残っている。ただこの辺りも薮がひどく、遺構を追うのが大変である。以上が馬宿城の遺構で、湮滅している遺構があるため全体的な縄張りはよくわからないが、住宅地の中にあって内郭・外郭と思われる曲輪の土塁・空堀が奇跡的なほどよく残っている。
空堀・土塁(外郭南西部)→DSCN2560.JPG
スクリーンショット 2024-07-16 232536.png←色彩強調したCS立体図
(出典:栃木県森林整備課提供CS立体図)

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.322758/139.658160/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


描かれた中世城郭: 城絵図・屏風・絵巻物

描かれた中世城郭: 城絵図・屏風・絵巻物

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2023/12/04
  • メディア: 単行本
ラベル:中世平城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月21日

多田木砦(栃木県足利市)

DSCN0098.JPG←腰曲輪群
 多田木砦は、『日本城郭大系』では只木城と記載され、享徳の乱の序盤戦で現れる城砦である。1454年12月27日夜、鎌倉公方足利成氏はかねてより対立していた関東管領山内上杉憲忠やその家宰長尾実景・景住父子らを西御門御所で謀殺し、享徳の乱と呼ばれる関東全域を巻き込む大乱が発生した。実景の前任者であった白井城主長尾昌賢(景仲)が家宰に返り咲き、山内上杉方は直ちに軍事行動を開始した。対する成氏も直ちに上杉勢討伐を開始した。自ら出陣した成氏は、翌55年1月21・22日に武蔵国高幡・分倍河原で上杉勢主力を迎え撃って大勝。敗れた昌賢らは残兵を率いて逃亡し、3月に常陸小栗城に立て籠もった。追撃戦を展開した成氏は結城城まで進軍し、外様衆の軍勢を指揮して小栗城を攻撃した。5月中旬に小栗城を攻略された昌賢らは、下野天明・只木山(多田木砦)に立て籠もった。成氏は下野へ転戦したが、これらと同時並行して上野国一帯でも両軍の戦いが展開され、また室町幕府を味方につけた上杉勢では、在京奉公していた上杉房顕(憲忠の弟)が新たな山内上杉氏当主・関東管領職に幕府より任じられ、房顕は越後経由で東国に下向した。房顕・越後上杉房定らの軍勢は上野中部に進軍し、成氏方と数度の合戦を行い勝利したが成氏方の勢力圏を突破できず、昌賢らの拠る天明・只木山救援は困難な状況であった。その後、成氏方は両所の攻略を進め、ようやく12月11日に攻略した。昌賢らはその後武蔵に逃れ、騎西城を築いて立て籠もった。その後の多田木砦の歴史は明確ではないが、戦国時代に足利長尾氏の家臣只木氏がこの城に拠り、佐野氏に備えたとも言われる。

 多田木砦は、只木山の東斜面に築かれている。この山はたくさんの古墳が築かれた山で、CS立体図で見るとたくさんの古墳がイボの様に点在しているのがわかる。砦の中にも古墳が1つある。多田木砦は、かなり特殊な形状の砦で、東斜面に築かれた多数の腰曲輪群だけで構成されている。明らかに東方の足利成氏の本軍に備える布陣である。この東斜面は、中央部に谷が入り込み、この谷の南北に分かれて腰曲輪群が展開している。一部の腰曲輪では塁線に折れが見られ、下段の曲輪に対して横矢を掛けている。北側の腰曲輪群の最上部には古墳があり、物見台となっていた可能性がある。また谷の上部には『栃木県の中世城館跡』では井戸があったとされ、水は確認できなかったものの穴がある部分で湿っている所があった。以上が多田木砦の遺構で、山内上杉勢が半年も立て籠もった城砦にしては普請が少々中途半端で、当時陣城がどのような使われ方をしたのか、気になる遺構である。
最上部にある古墳→DSCN0077.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.312298/139.531174/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 享徳の乱

図説 享徳の乱

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/03/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
ラベル:陣城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月20日

本覚山城(栃木県足利市)

DSCN0025.JPG←主郭
 本覚山城は、足利尊氏の執事高師直の一族、南宗継が築いたとも、また足利長尾顕長の家臣窪田図書が守った城と伝えられるが詳細は不明。佐野氏領の須花城に対する長尾氏側の押さえの城と推測されている。

 本覚山城は、標高178mの山上に築かれている。明確な登山道はなく、南東麓のソーラー発電所の裏から斜面に取り付いた。薮の中を登っていくと、山頂近くに山道が現れたのでこれを辿っていくと、外周の腰曲輪の西端部に到達した。腰曲輪は城の中心部を西から南を通って北東までぐるりと廻らされている。この腰曲輪の上に主郭がある。主郭は削平の甘い平場で、周囲がやや低く腰曲輪状になっている。主郭中央部には、「足利百名山 第50座 本覚山」と書かれたプレートが木に掛けられていた。主郭の北側はダラダラとした斜面で、明確な区画はない。北に伸びる尾根には、わずかに堀切らしい窪みが見られる。その先は平坦な尾根となっているが、明確な普請の跡はなく自然地形らしい。また外周腰曲輪から、東に伸びる尾根があり、その付け根に小さい腰曲輪があり、その脇にはっきりしないが竪堀っぽい地形がある。その先の東尾根は自然地形であるが、なだらかな幅広の尾根なので、一応曲輪として機能した可能性がある。遺構としては以上で、外周の腰曲輪以外は明確な遺構の少ない、小規模な城砦である。
外周の腰曲輪→DSCN0055.JPG
DSCN0050.JPG←堀切っぽい窪み

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.382777/139.486713/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月18日

長氏居館(栃木県足利市)

DSCN9987.JPG←西の堀跡
 長氏居館は、足利長尾氏の家臣長氏の屋敷と言い伝えられている。長氏は、坂東八平氏の一で相模有数の豪族であった三浦義明の5男義季を祖とすると言われる。義季は長河内守五郎義季を称し、源姓足利氏2代義兼と何らかの関係があり、下野国樺崎村に土着したと見られる(但し別説では、義季は相模国三浦の長井郷を領して長井城を築き、長井義季と名乗ったとも言う)。戦国時代には、長左近義秀が樺崎村に在住して足利長尾氏に仕えていたと言う。

 長氏居館は、樺崎の谷の奥、樺崎川西岸の山麓を削って平らにした台地に築かれている。平成7年度に行われた発掘調査の結果では、川に面しない三方に穿たれた堀や、滝・池のある庭園が検出されている。現地を確認すると、居館跡とされる平場の半分ほどは笹薮に埋もれてしまっている。西側に高さ2~3m程の崖があり、これを登って西側に行くと、そこも広い平坦な段丘となっている。この段丘の東辺縁部には堀が穿たれ、居館側に土塁が築かれている。発掘で確認された三方の堀の内、表面観察上確認できるのは、この段丘上の堀だけで、これが居館の西側の堀に当たる。土塁の裾で浅い谷筋を形成している個所でに滝が検出されたらしいが、今は荒れていてよくわからなかった。滝の下は玉石敷があり、その周りに池が広がっていたらしいが、現状ではわずかに窪んで池っぽい感じはするものの、はっきりとはわからなかった。この他、発掘調査報告には書かれてないが、川沿いには腰曲輪が1段築かれている。居館跡の平場はそのまま南に繋がっているが、虎口らしい構造などはなく明確な区画がないのが非常に不自然である。16世紀代の出土遺物が少なく、戦国時代の長氏に直接結びつくか明確にできなかったらしいが、現地の状況を見ても防御性に乏しく、戦国武士の居館本体とは考えにくく、どちらかと言うと接待で使った客間のような空間であったように想像される。
玉石敷と池付近の現況→DSCN9974.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.375193/139.497592/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世武士の城 (歴史文化ライブラリー 218)

中世武士の城 (歴史文化ライブラリー 218)

  • 作者: 齋藤 慎一
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2006/09/01
  • メディア: 単行本
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(栃木) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする