長篠城は、戦国史に名高い長篠の合戦のきっかけとなった城である。1508年、駿河の今川氏親に属していた岩古屋城主菅沼元成は長篠城を築いて本拠を移し、奥三河に割拠する山家三方衆の一、長篠菅沼氏となった。この地は、三河・遠江の国境に近く、信濃・美濃へも通じる交通の要衝であったため、1560年の今川義元討死後、今川・武田・徳川3氏による争奪の場となった。義元死後の1561年、菅沼貞景は松平元康(徳川家康)に降り、貞景が1569年の遠江掛川城攻めの先鋒となって討死すると、その子正貞は1571年に武田氏の重臣秋山虎繁(信友)・犬居城主天野景貫に攻撃されて武田氏に降った。1573年、武田信玄が病没すると、徳川家康は長篠城を奪回した。正貞は信濃へ逃れたが、徳川方への内通を疑われ、小諸城に幽閉された。その後、家康は松平家忠・奥平景忠らを城番として長篠城に入れたが、1575年2月に武田氏から離反した奥平信昌を長篠城主とした。同年5月、武田勝頼は1万5千の大軍を率いて長篠城を攻撃した。しかし若い信昌は寡兵で以って城を堅守し、鳥居強右衛門を徳川家康のもとに走らせ、救援を要請した。織田・徳川連合軍が後詰めのため設楽ヶ原に布陣し、ここに長篠合戦の火蓋が切られ、武田勢は大敗した。1576年、信昌は新城城を築いて移り、長篠城は廃城となった。
長篠城は、豊川と宇連川の合流点に突き出た段丘上に築かれている。現在国の史跡として整備されているが、主郭のすぐ東側をJR飯田線が貫通し、二ノ郭以下の外郭部は住宅地となるなど、主郭以外の改変が進んでいる。しかし公園化された主郭には横矢掛りのクランクを持った大土塁と空堀が残り、しっかりした遺構を留めている。また線路を挟んで東側には野牛曲輪があり、土塁や櫓台跡、井戸跡が残っている。野牛曲輪の突端にも野牛門跡の小道と側方の櫓台がある。ちなみに野牛曲輪には廃屋があり、立ち入るのがためらわれたが、郭内の遺構には標柱が建っているので、半ば公開されているのだろうか?この他、残っている遺構としては、主郭から沢を挟んで西側に築かれた弾正曲輪外周の土塁だが、弾正曲輪は宅地であり、外から眺めることしかできない。その他、遺構はないが、各所に大手門跡・搦手門跡・家老屋敷跡などの標柱が立っている。周囲には、武田勢が布陣した砦群・陣跡が遠望できる。以上が長篠城の遺構で、歴史の重要な転換点となった城である。
野牛門に通じる小道→
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.922601/137.559787/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

長篠合戦と武田勝頼 (敗者の日本史 9) - 平山 優

