山手銀山城は、木梨杉原氏の一族山手杉原氏の城である。応永年間(1394~1428年)に木梨杉原氏の一族山手銀山城を築いて居城とし、以後山手杉原氏となったと言われる。一説には杉原播磨守匡信が山手銀山城を築いたとも言われるが、匡信は戦国前期の武将なので、そうすると銀山城の築城も戦国前期まで時代が下ることになる。いずれにしても山手杉原氏の足跡が顕れるのは匡信の頃からである。山手杉原氏で有名なのは、匡信の次男とされる杉原播磨守盛重で、山手銀山城の3代目城主とされ、毛利氏の傘下の神辺城主山名理興の家老を務め、1557年に理興が没するとその武勇と統率力を高く評価していた吉川元春の推挙により神辺城主となった。この頃盛重は毛利元就の兄興元の娘(即ち吉川元春の従姉妹)を妻とし、以後、毛利氏の尼子氏攻略で山陰方面の総司令官となった吉川元春配下の中心武将となって、元春と共に山陰地方の制覇戦で活躍し、1562年からは毛利氏の戦評定にも参画。1564年には西伯耆の要衝尾高城主となり西伯耆の支配を担った。その後、盛重は東伯耆の要衝八橋城を与えられた。織田方の中国方面軍の総大将羽柴秀吉との戦いが続く1581年12月、盛重は死去した。盛重の死後、跡を継いだ子の元盛・景盛兄弟の相続争いによって、1584年8月に毛利氏に討滅された。毛利輝元は盛重の功を惜しみ、一族にあたる高洲元士の子元勝にその遺領の一部を継がせたと伝えられる。山手銀山城はこうした山手杉原氏の盛衰の中で整備され、1600年の関ヶ原合戦で敗れた毛利氏が防長2国に減封されると廃城となったと思われる。
山手銀山城は、標高247mの山上に築かれている。山腹に車道が通っており、そこからだと比高わずか50m程しかないので、明確な登道はないが割と簡単に登ることができる。途中に鞍部があるY字型の尾根に曲輪群を展開した城である。主城部は南にある南北に長い尾根で、段差で区画された主郭・二ノ郭・三ノ郭が連なっている。主郭は広く、中央西寄りに井戸跡らしい窪みがある。主郭の後部東側と中央西側に小さな腰曲輪が付随している。主郭と二ノ郭の段差部分には石積みがわずかに残存している。先端の三ノ郭の付け根東側に虎口があり、外側に虎口郭が築かれている。また三ノ郭の南西には、堀切を介して2段の段曲輪がある。一方、主郭の東に張り出した支尾根にも段状に東曲輪群が築かれている。尾根に沿って南向きに湾曲した曲輪群で、曲輪群の付け根に堀切が穿たれ、曲輪群の切岸の一部に石積みがよく残っている。主城部と東曲輪群の間にある南東の谷部には畝状竪堀が穿たれているが、倒木が覆いかぶさっていて確認しにくくなっている。この城には畝状竪堀が多く、ここ以外にも東曲輪群の北東斜面、主郭の北東下方、二ノ郭の西斜面にも穿たれており、一応の形状は確認できる。主郭の北側には大きな鞍部があり、ここに2本ほど堀切が穿たれている。鞍部の北には北郭があり、東に腰曲輪を伴っている。北郭の北端には堀切が穿たれ、ここから長い竪堀が東に下っている。以上が山手銀山城の遺構で、畝状竪堀群で防備を強化した山城である。
三ノ郭下方の堀切→
↓スーパー地形で見た山手銀山城
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.502585/133.317345/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

毛利・織田戦争と城郭 - 高橋成計

