青陰城は、因島村上氏の戦国期の居城と考えられている。伝承では、南北朝期に村上義弘が青陰城を築いたと言われる。安芸の北朝方の主力は小早川氏で、南朝勢力との抗争の中で芸予諸島にその勢力を拡大していったが、これに対する南朝軍は伊予衆が主力で、村上義弘も南朝方として活躍し、因島を東西に走る山稜に青陰城や堂崎山城を築いて南下する北朝勢力の阻止を図っていたと推測されている。特に1343年には堂崎山城で南北両軍の激しい戦いが繰り広げられており、この戦いに関連して青陰城が築かれた可能性もある。一方、因島村上氏の居城は、最初は長崎城であったと考えられており、その後向島の余崎城、青木城、そして青陰城へと移したと考えられている。
青陰城は、標高275mの青影山に築かれている。長崎城と同様、県の史跡、及び日本遺産「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島」の構成文化財となっている。登山道が整備され、城跡も綺麗に整備されている。最高の眺望を持った城で、特に南方には瀬戸内に浮かぶ島々が広く見渡せる。城の縄張りは、東西に長く伸びた尾根の両端に長円形の主郭・二ノ郭を配置し、その間を鞍部の細尾根の曲輪で連結した構造となっている。登山道を登っていくと、最初に到達するのは二ノ郭の腰曲輪で、その上に二ノ郭がある。またこの腰曲輪の北東下方にももう1段腰曲輪が築かれている。二ノ郭から西に下ると前述の鞍部の曲輪があるが、その付け根にはわずかに堀切っぽい地形が見られるがあまり明瞭ではない。主郭は、東側に虎口を構築し、その脇に櫓台の様な張り出しがある。主郭の西側に腰曲輪が1段ある。いずれの曲輪も土塁はない。曲輪の規模も大したことはなく、あまり居住性はないので、物見と周辺諸城との連絡を主とした詰城であったと思われる。尚、南麓からの登山道の途中に、石積みのある2段ほどの平場が見られる。普通に考えれば後世の耕地の跡であろうが、往時の番所の跡の可能性も捨てきれない。
主郭→
↓MPI赤色立体図で見た青陰城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.311759/133.166498/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

瀬戸内の海賊 (新潮選書) - 山内 譲

