新高山城は、毛利両川の一人で智将として知られた小早川隆景が築いた山城である。小早川氏は元々沼田川を挟んで対岸にある高山城を居城としていたが、1552年、隆景は対岸の砦に過ぎなかったこの城を大改修して居城を移した。それは、小早川氏の有力庶家であった竹原小早川氏を継いでいた隆景が、本家の沼田小早川家を継いで間もなくのことであった。以後隆景の居城となり、1561年には父元就や兄隆元もこの城を訪れて、山上の居館で茶会や能舞を楽しんだと伝えられる。隆景は1567年から前進基地として三原城を築いたが、引き続き新高山城を居城とした。1582年の本能寺の変後、賤ケ岳の戦いを経て豊臣秀吉が天下の権を握ると、隆景は毛利本家を支えて秀吉に服属した。豊臣政権下で秀吉から暑い信任を得ていた隆景は、伊予や筑前に移封され、伊予湯築城・筑前名島城へと居城を移したが、この間も新高山城は小早川氏の本拠の城として確保された。1595年、養子の秀秋に家督を譲り、三原城を隠居城とした。1596年、本格的な三原城の築城を開始し、新高山城を壊し、その石垣の大石を残らず三原城へ移したと言われる。
新高山城は、沼田川西岸にそびえる標高197mの山上に築かれている。国の史跡に指定されており、登山道が整備されている。山上にある東西に伸びる尾根を主城部とし、南中央と南西尾根に出曲輪群を配置した縄張りとなっている。本丸は山上尾根の東端部にあり、南西部に、西にある中の丸から通じる枡形虎口を築き、中央下段の平場には建物の礎石群がはっきりと残っている。本丸東端部は高くなった岩山で、詰の丸となっている。詰の丸からは対岸の高山城や南の沼田川流域が一望でき、物見として絶好の位置にある。本丸の西側から北側にかけての斜面に石垣の跡が残っている。三原城に石を運び出したという伝承の通り、石垣はかなり崩れている。本丸の北側にはU字型に張り出した曲輪群があり、その中央の窪地状の所には釣井の段と呼ばれる井戸曲輪があり、内部には複数の石組み井戸が残り、その内の一つは今でも水を湛えている。そして周囲の切岸や曲輪群には石垣が多数散在している。中の丸は西端が高台となった曲輪で、本丸との間の鞍部の平場の中央南には虎口がある。その下には虎口郭が置かれている。中の丸の西尾根には西の丸があり、その北西に北の丸、南西に紫竹丸という曲輪がある。北の丸下方から紫竹丸に通じる武者走りの脇には畝状竪堀が穿たれている。紫竹丸の下にはシンゾウス郭という曲輪群があるが、戦国時代に「御新造」とは主君嫡男の正室のことを指すので、隆景かその養子となっていた秀包の正室が住んでいた曲輪であろうか?一方、中の丸の南斜面には大手道が伸びているが、谷間の大手道の東側には番所跡とされる3段の曲輪、谷間の大手道を登りきった所には隆景が建立した匡真寺があった曲輪がある。匡真寺の南にはY字型の尾根が突き出ており、鐘の段という出丸が築かれている。以上が新高山城の遺構であるが、腰曲輪まで含めて広大な城のほぼ全域が整備されて歩きやすくなっている。遺構の維持のために、すごい努力をしていることがよく分かる。また城跡には井戸や礎石が数多く残り、生活感が強く残る山城である。中世城郭から近世城郭への過渡期の姿が色濃く残っており、貴重である。
釣井の段付近の石垣→
↓MPI赤色立体図で見た新高山城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.419903/132.975662/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

小早川隆景: 史料で読みとく生涯 - 本多 博之

