頭崎城は、この地の国人領主平賀氏の居城である。平賀氏の出自には諸説あるが、源平合戦における軍功によって、出羽国平鹿郡・安芸国高屋保等を拝領し、鎌倉初期に平鹿郡に下向して平鹿氏を称した。鎌倉後期の文永の役の際、惟長は安芸国高屋保に下向したままその地に留まり、平鹿を平賀に改めて安芸平賀氏の祖となった。平賀氏の当初の居城は御薗宇城であったが、戦国時代に入って戦乱が激化すると1503年に平賀弘保は要害性の高い白山城を築いて居城を移し、更に1523年に高屋保全域を掌握できる峻険な山城として頭崎城を築き、子の興貞に守らせた。その後、大内・尼子の両勢力に挟まれ、白山城の弘保は大内方に、頭崎城の興貞は尼子方に付き、親子で対峙することもあった。1540年、頭崎城は大内義隆の命を受けた毛利元就に攻められて落城し、義隆に押されて弘保の養子となった隆保が城主となった。1551年、陶晴賢の謀反によって大内義隆が討たれると、晴賢の命を受けた元就の攻撃を受け、隆保は城を開いて自害した。その後、元就の周旋で興貞の子広相が平賀氏の家督を継いだ。以後平賀氏は毛利氏の重臣として活躍し、1567年に広相が没すると子の元相が継いだ。元相の時に織田信長の毛利攻め・本能寺の変・豊臣秀吉の全国統一があり、豊臣政権下で毛利氏に属して軍功を重ね、元相は従五位下に叙位され豊臣姓を下賜されたほか、1万8千余石を領する毛利氏家中における大身の一人となった。 1600年の関ヶ原合戦で西軍が敗れ、毛利氏が防長二国に減封されると平賀氏も萩に移ってこの地を去った。
頭崎城は、標高504mの頭崎山に築かれている。広島県内の中世城郭では毛利氏の本城郡山城に次ぐ広大な城域を持つとされる。実際にスーパー地形の詳細地形図で見ると、主城部の北東と北西の尾根のかなり離れた所まで多数の段が見える。ただあまりに広域過ぎるのと、各段が小さく、位置的にも拡散しているので、どこまでが城郭遺構でどこからが近世以降の耕地化による段なのか、判断がつかない。また限られた時間ではとても全域を踏査することはできないので、主城部だけを見て回った。
山頂に本丸(甲の丸)を置き、その南から西にかけて腰曲輪を廻らしている。主郭の虎口脇には石垣の一部が残存している。腰曲輪の南には舌状の二ノ丸があり、その東下方に腰曲輪状の三ノ丸があって頭崎神社が建っている。三ノ丸の南には一段高くなった曲輪があり、太鼓の段と呼ばれている。一方、二ノ丸の南西には舌状の煙硝の段という曲輪があり、ここの中央部には巨石があり明治神宮が祀られている。また本丸の北側下方には北郭があり、その東側に4段程の曲輪群が続き、堀切を挟んで東尾根の2段の曲輪がある。北郭の北東部には横堀が穿たれ、その東端部から東に連なる斜面には畝状竪堀が穿たれている。畝状竪堀は、本丸南東尾根ある3段の段曲輪群の下方にも穿たれている。この他、北郭横堀の外側の土塁上には堀状地形が数カ所見られる。土塁の北の方にも平場群や堀状地形が見られるが、山道の開削などで改変されている可能性があり、遺構かどうか判断が難しい。以上が頭崎城の中心部の遺構で、主要な曲輪は整備されているが、それ以外は薮に埋もれている部分も多く、畝状竪堀なども確認がしづらい。鏡山城もそうだったが、頭崎城も県史跡なのだからもう少し整備に力を入れてくれたらと惜しまれる。
本丸虎口の石垣→
↓スーパー地形で見た頭崎城
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.479615/132.823179/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

毛利元就 知将の戦略・戦術―――忍従の果て、ついに元就は決起した! (知的生きかた文庫) - 小和田 哲男

