窪寺城は、この地を支配した土豪窪寺氏の詰城である。1400年に新守護小笠原長秀に信濃国人衆が反抗して生起した大塔合戦の時、大文字一揆が集まって相談したのがこの城であったと伝えられる。後に小田切氏に属したが、甲越両軍が川中島の領有を巡って争った際に、武田軍に攻められて落城したと言う。
窪寺城は、富士ノ塔山の南東に伸びた尾根先端部の高台を利用して築かれている。背後に当たる北西の丘陵とは自然地形に手を加えた大空堀で分断されており、先端の高台に南西から北東に向かって曲輪群を展開した縄張りとなっている。主郭は南西の最高所にあり、長方形に近い形状の曲輪で、前後に前郭・後郭を伴っている。主郭とこれら前後の曲輪は、一応切岸と思しき斜面で区画されているが、緩い斜面になっていて、あまりしっかりした構築ではない。前郭の前面には堀切が穿たれ、城域を大きく2つに分断している。堀切の北にあるのが二ノ郭で、上下の平場に分かれているが、平場自体も傾斜しているし、間を区画する斜面も緩やかで明確な段差にはなっておらず、普請が不徹底な印象である。この他、二ノ郭の前面に3段、主郭後郭の後方に2段の腰曲輪が築かれている。窪寺城は、遺構はよく残っているが、全体的に普請が荒く、戦国期にはあまり積極的な活用はされていなかったように見受けられる。
背後の丘陵と分断する空堀→
↓MPI赤色立体図で見た窪寺城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕) お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.637346/138.164826/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

検証 川中島の戦い (588) (歴史文化ライブラリー 588) - 村石 正行
ラベル:中世平山城

