2026年05月24日

吉窪城(長野県長野市)

DSCN7755.JPG←主郭~二ノ郭間の仕切り土塁
 吉窪城は、この地の豪族小田切氏の城と推測されている。現地解説板によれば、小田切氏は元々佐久郡臼田小田切郷を本拠としていたが、鎌倉時代に小市の地頭となって移住し、小市今里等に居館を構え、背後に詰城の小市城を築いたと伝えられる。小市城とは、この吉窪城のこととする説がある。戦国時代には、小田切駿河守幸長は当初東信の雄村上義清に属し、甲斐武田氏の侵攻を受けると、村上氏と共に越後上杉方に加わった。1557年3月15日、武田信玄が葛山城を攻撃した際、幸長は春日・朝日・長嶺・久保寺・平林・布施・横山等組下七騎衆を率いて城を守ったが、武田方の火攻めによって上杉軍の援軍到着寸前に落城し、幸長は討死した。数度の川中島合戦の結果、川中島地域は武田氏の制圧するところとなり、幸長の子民部少輔は一時武田氏に仕えて400貫の知行を受けた。しかし後に衰微し流転を重ね、末裔は高井郡に移ったと言う。

 吉窪城は、犀川北岸にそびえる標高620mの山上に築かれている。犀川が川中島平へ抜ける喉元を扼する要衝で、しかも川中島平を一望できる場所にある。山頂に紡錘形をした曲輪があり、郭内西寄りに曲輪を東西に仕切る一直線の長い土塁が築かれている。土塁の東が主郭と思われるが、郭内にいくつかの段差があり、しかも傾斜している平場もあって遺構なのか後世の改変なのか、よくわからない。また土塁西側の平場が二ノ郭と思われるが、石積みを伴った窪地が散在し、これもどういう構造であったのか判断が難しい。虎口を形成していたと思われる石積みも見られるが、そこから郭内に入った窪地の形状が虎口のようには見えないので、これも後世の改変の可能性がある。『信濃の山城と館』ではこれらを「竪穴式の小屋の遺構」としているが、採石場跡とか炭焼きの跡とか、城郭関連でない感じがする。二ノ郭の北西部は大きな段差で一段低くなっているが、ここにも郭内に段があり、北辺に空堀らしい地形も見られる。主郭・二ノ郭の外周には土塁が数ヶ所築かれ、特に主郭の北側から東面にかけては土塁が明瞭である。この他、主郭の南北に腰曲輪が築かれているが、北側の腰曲輪に対しては、主郭塁線が数ヶ所折れて横矢を掛けており、その内の1ヶ所は虎口を形成している。北の腰曲輪の北東部から2本の竪堀が落ちており、城に接近しやすいこの方面に防御構造が集中している。一方、南の腰曲輪の南端部にはL字型の土塁が築かれ、この部分だけ腰曲輪が空堀状を呈している。城の東西にも小型の段曲輪が築かれている。以上が吉窪城の遺構で、城の縄張りがはっきりしている所と不明瞭な所が混在している感じで、掴みどころのない城という印象を受けた。
南腰曲輪のL字型土塁→DSCN7821.JPG
↓MPI赤色立体図で見た吉窪城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-05-18 214546.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.625327/138.122791/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3) - 宮坂武男
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ラベル:中世山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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