上尾城は、滋野系望月氏の子孫布施氏の一族平林氏の歴代の居城である。布施庄地頭職を相伝した布施氏は、応仁年間(1467~69年)に入ると更級郡西山地方に勢力を伸ばし、左衛門尉正直は山平林の上尾山上に居住して平林氏を称した。父の布施冠者直頼は、山布施城に居住したが、若くして隠遁生活に入り、長子正直が若年のため、弟直長に家督を譲り、正直が成人した暁には家督を譲るよう決めた。しかし、正直および弟正頼(平林蔵人佑)が成人しても家督は譲られなかったため、内訌が生じ、結局直長は敗れて出奔した。その頃、正直は上尾城、弟は有旅城にいたが、正直に子がないため、弟の正頼が上尾城に入って家を継いだ。その後平林氏は東信の雄村上氏に属し、村上氏が甲斐武田氏に逐われると、その後は武田氏に属して活躍した。政頼の孫正家は武田信玄の命で要衝牧之島城の副将となり、1569年の北条氏との戦いでは先鋒となって討死した。その子正恒は、当初上尾城に居住していたが、武田勝頼の命令で牧之島城に移り住んだ。1582年3月、織田信長の武田征伐で織田勢が進撃してくると、正恒は一旦上尾城に退いた。しかし同年6月、本能寺の変で信長が横死すると、武田遺領を制圧していた織田勢は瓦解し、森長可は本領の美濃金山城に逃れた。北信4郡には越後の上杉景勝が入って制圧し、平林氏は上杉勢の援助で牧之島城を奪還し、その後は上杉氏に仕えた。1598年に上杉氏が会津に移封となると、平林氏は2000石を給され、白河小峰城に移った。
上尾城は、犀川東岸の段丘の上の高台に築かれている。犀川沿いの道路から見ると、まるで隠れ里のような集落の奥にある。その集落背後の高台の北端に城がある。台形状の主郭と、その北のやや丸みを帯びた形状の二ノ郭、先端に物見台らしき小郭を配置した縄張りとなっている。それぞれの曲輪は堀切で分断され、主郭の南辺と西辺、二ノ郭の南辺には土塁が築かれている。また主郭の南側中央には虎口がある。主郭背後には殿屋敷・蔵屋敷などの地名が残る平場があるが、廃屋があるだけで薮に埋もれている。ただ北東端に堀切の名残と思われる堀城地形が残っている。以上が主城部であるが、南東の丘陵部を登った先にも、遠堀と思われる空堀が2本確認できる。以上が上尾城の遺構で、一部耕作で改変されている部分もあるが、ほとんどの遺構は良く残っている。しかし現在はほとんどが耕作放棄地らしく、全体的に薮に覆われてしまっていて遺構の確認がしづらくなっているのは惜しい。
先端の堀切と物見台→
↓MPI赤色立体図で見た上尾城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.582500/138.059014/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優
ラベル:中世平山城

