牧之島城は、甲斐武田氏が築いた更級郡の拠点城郭である。元々この地には香坂氏が勢力を張り、牧之島城の前身となる居城・牧城があった。1561年、武田信玄によって香坂氏は誅殺され、その名跡は同氏の娘婿春日弾正虎綱が継いだ。牧之島城の築城には諸説あり、1562年8月28日、信玄が馬場美濃守信房に命じて築かせたとも、1566年10月に信房が城代になったとも言われる。いずれにしても、1566年8月27日に牧之島城のある御供平にいた人々の屋敷を、新しい縄張りで築城するにあたり屋敷替えを命じた文書があるので、この頃まで継続して築城されていたと推測される。牧之島城は、深志城から川中島に進出する交通の要地であり、拠点として重視された。1575年、長篠合戦で馬場信房が討死すると、翌年、信房の子昌房が牧之島城の城将となり、地侍平林正恒も武田勝頼の命令で在城した。1582年3月、織田信長の武田征伐により深志城を守っていた昌房は殺され、平林正恒らは上尾城にいったん退き、更級郡を含む北信4郡は森長可が統治することとなった。しかし同年6月、本能寺の変で信長が横死すると、武田遺領を制圧していた織田勢は瓦解し、森長可は本領の美濃金山城に逃れた。北信4郡には越後の上杉景勝が入って制圧し、平林氏は上杉勢の援助で牧之島城を奪還した。北条・徳川・上杉3氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」とその後の信濃の抗争の中で、深志城を本拠として信濃北部への侵攻を図る小笠原貞慶に対抗するため、境目の城である牧之島城には芋川親正を置き、荒砥城と共に北信濃衆を集中配備して守らせた。1598年に豊臣秀吉の命で上杉氏が会津に移封となると、牧野島の地侍たちも会津に移転した。その後は、松代の領主が牧之島城を預かって城番を置いたらしい。1603年、徳川家康の6男松平忠輝が松代に入ると、牧之島城に家老を置いて統治した。1616年、忠輝が不行跡によって改易されると、元和の一国一城令によって牧之島城もまもなく廃城になったものと思われる。
牧之島城は、犀川曲流部に東から突き出たスプーンのような形状の台地の括れて細くなった部分に築かれている。一部が道路建設や民家となって損壊しているが、概ねの遺構は良く残っている。大きな空堀を穿ち、枡形虎口と丸馬出しを設けた武田流築城法がよくわかる城である。近世初頭まで存続しているが、ほとんど武田氏時代のままの縄張りが維持されたようである。本丸は長方形に近い形状であるが、北西部に入隅があり、北中央と東中央に枡形虎口を築いている。枡形の形状は、躑躅ヶ崎館や新府城のものと同形状のものである。本丸は断崖に面した南以外の三方に高土塁を築いて防御している。本丸北側に水堀を挟んで二ノ丸が置かれている。二ノ丸は道路が貫通しているので改変を受けているが、東側に本丸土塁と繋がる高土塁があり、稲荷社が建っている。この高土塁は本丸塁線より東に張り出していて、東側虎口に対する横矢掛りを意図している。本丸・二ノ丸の東西には深い空堀が穿たれている。西には帯曲輪を挟んでもう1本空堀がある。東側は、空堀の外にきれいな丸馬出しと三日月堀が残っている。古絵図を見ると、往時は2連の丸馬出しがあり、さらにその東側に大手枡形があったらしいが、北側の丸馬出しと大手枡形は湮滅している。以上が牧之島城の遺構で、集落のすぐそばによくこれだけの遺構が残ったものだと感心する。
本丸北側の枡形→
↓MPI赤色立体図で見た牧之島城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.561756/137.998748/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

天正壬午の乱 増補改訂版 - 平山 優

