↑南斜面の畝状竪堀
蟻ヶ城は、歴史不詳の城である。『日本城郭大系』では拠点城郭・牧之島城に属する物見砦と推測している。
蟻ヶ城は、標高1028mの山上に築かれている。南麓の四阿山社の奥宮の石祠が城内にあるので、参道がついている。 ただこの参道、斜面直登のストレートの一本道でなかなかきつい。逃げ場のない一本道の登城路は女神岳城を思い出す。山頂に堀切で区画された主郭と二ノ郭を並べている。主郭は土塁のない小規模な曲輪で、南側半周に帯曲輪を廻らしている。二ノ郭は細長い曲輪で、東側に帯曲輪を伴い、北端に土壇を築いている。その北側は二重堀切で尾根筋を分断している。この城の最大の特徴は、主郭帯曲輪の下方に穿たれた畝状竪堀である。かなり浅いものだが、形状は割とはっきりわかった。主郭と二ノ郭を区画する堀切は、南東側に長い竪堀となって落ち、この畝状竪堀の東端を画している。また主郭の西尾根側方にも竪堀数本が確認できる。これらの他、二ノ郭の東尾根にも2本の堀切とその間に連なる段曲輪群がある。
以上が蟻ヶ城の縄張りで、単なる物見砦にしてはかなりしっかりした普請がされている。この城を築いた勢力を推定する有力な手がかりが畝状竪堀である。実は武田系城郭では畝状竪堀の例は意外に少なく、武田の城で多いのは放射状竪堀群なのである。従って、蟻ヶ城を築いたのは上杉勢力ではないか、というのが私の見立ててである。稲荷山城の項でも記載したが、天正壬午の乱終結後の北信をめぐる抗争の中で、北信濃4郡を押さえた上杉景勝が、深志城を押さえて安曇・更級方面への侵攻を図る徳川方の小笠原貞慶に備えて各所の守りを固めている。更級郡の要衝牧之島城には芋川親正を城将として配置しており、この地方の防備の一環でこの蟻ヶ城を築いたのではないかと思われる。ただ、街道から少し奥まった山に築かれているのは、高所を利用した狼煙伝達を主任務としつつ、侵攻を受けた時には少数の兵で小笠原勢を足止めすることを企図した城だったのではないだろうか。
北尾根の二重堀切の内堀→
↓MPI赤色立体図で見た蟻ヶ城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.523701/138.015992/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優
ラベル:中世山城

