砦山城は、古文書に現れる大岡城のことと考えられている。1558年、武田信玄が上杉謙信の川中島への進攻に備えて北信諸城の番手を決めた際、大岡籠城衆の中に市川梅隠斎・青柳近江守清長らを置いた。また天正壬午の乱終結後の北信をめぐる抗争の中で、1584年8月に小笠原貞慶は家臣の日岐盛武・細萱河内守に大岡城の仕置きを堅固にして上杉勢に備えることを命じている。
砦山城は、天宗寺の南西の丘陵上に築かれている。1辺約40mの正方形の曲輪を空堀で囲繞した単郭の小城砦であるが、特徴的なのは三方に築かれた虎口で、北東と南西に丸馬出しを設け、南東には出枡形を築いている。特に南西の丸馬出しは斜面に向かって突き出た、城内最大の馬出しで外周の三日月堀と両側の土橋など、武田流築城術の特徴的な形態がはっきりと見て取れる。主郭とは空堀で分断され、木橋で連結していたと思われる。それに対して北東の丸馬出しは、主郭後部の土塁の外側に出枡形のように突き出ており、前面に三日月堀を穿ち、両側に土橋を架けて外部と連絡している。主郭後部に当たる北東辺には土塁が築かれ、北西辺と南東角付近にも土塁が築かれている。郭内は南西に向かって傾斜している。以上が砦山城の遺構で、武田氏系城郭の特徴的な構造がよく分かる好例である。
南西の丸馬出しに架かる土橋→
↓MPI赤色立体図で見た砦山城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.501923/137.985951/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田三代の城 - 岩本 誠城

