2026年05月12日

稲荷山城(長野県千曲市)

DSCN7269.JPG←鉦山に残る城址碑
 稲荷山城は、上杉景勝が小笠原貞慶に備えて築いた城である。1582年3月に甲斐武田氏を滅ぼした織田信長であったが、わずか3ヶ月後に本能寺の変で横死し、織田領に併合されたばかりの旧武田領の甲斐・信濃両国は、権力の巨大な空白地帯となった。この機に乗じて北条・徳川・上杉が三方から甲斐・信濃に進撃し、周辺大名の草刈り場と化した(天正壬午の乱)。この直前、越後の上杉景勝は織田勢に三方から侵攻され、滅亡寸前の状況であったが、信長横死の報とともに織田勢が潮が引くように上杉領国から退いていったため息を吹き返し、北信濃4郡の経略に取り掛かった。景勝は、要衝の海津城に村上景国を配し、副将として屋代秀正を置いた。その翌年、深志城を押さえて徳川家康に与した小笠原貞慶が上杉方に付いた青柳城麻績城を攻撃していたため、景勝は松田民部助盛直(日岐盛直)・保科(綿内)豊後守に小笠原勢の川中島侵攻を阻む前線基地として、千曲川西岸に稲荷山城の築城を命じた。天正壬午の乱終結後も上杉氏は稲荷山城に城将を置いたらしく、1594年の上杉氏の目録には、稲荷山留守役衆として保科佐左衛門・小田切備前守・同金千代丸・須崎彦兵衛・同権助らの名が見える。1598年に上杉氏が会津に移封となると廃城になったとも、1615年の元和の一国一城令で廃城になったとも言われる。

 稲荷山城は、江戸時代には宿場町となり、現在は市街地となっている。移行はほとんど湮滅しているが、天正年間(1573~92年)の櫓台の跡と伝えられる鉦(どら)山がわずかに残っている。また城小路の井戸も車道脇に残っている。明確なのはこれぐらいで、その他は水路と道の配置とで城の痕跡を想像するしかない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.535442/138.105369/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優
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posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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