2025年07月07日

武節城(愛知県豊田市)

DSCN6279.JPG←多数の腰曲輪群
 武節城は、山家三方衆の一、田峯城主菅沼氏の支城である。永正年間(1504~21年)に菅沼定信が築城した。三河・信濃・美濃の3国の国境に近く、三河防衛の最前線基地となり、菅沼氏は街道防衛のため一族を城代として置いたと言われる。当初、田峯菅沼氏は今川氏に属していたため、1556年には信州下伊那の下条信氏の侵攻を受けて武節城は落城したが、また今川方に復したらしい。1571年3月、武田信玄が大軍で三河へ侵攻すると、武節城は戦うことなく落城し、田峯菅沼氏も戦うことなくその軍門に下った。以後、武田氏の先手衆として活動した。1575年5月、長篠の戦いで武田勝頼が大敗すると、菅沼定忠は敗走する勝頼を自身の居城田峯城に案内したが、留守居役の家老今泉道善らの叛逆により城に入れず、やむを得ず段戸の山中で夜を明かし、武節城に入って休息を取り、一夜を明かした。翌日勝頼は信濃を経由して甲斐に戻った。その後、武節城は酒井忠次が攻略し、長篠城籠城戦で大功を上げた奥平信昌の領するところとなった。1590年に徳川家康の関東移封に伴って信昌が関東に移ると、武節城は廃城となった。

 武節城は、道の駅「どんぐりの里いなぶ」のすぐ東側にそびえる比高40m程の小山に築かれている。城内は公園化されている他、耕地化や墓地造成でかなり改変を受けている。大空堀で城域を大きく二分した一城別郭の縄張りとなっている。大型の櫓台が後部に築かれた主郭を中心に置き、北東に向かって階段状に二ノ郭・三ノ郭を配置している。これらの外周には数段の腰曲輪が築かれているが、傾斜がゆるい北西斜面に、より多く、より広い曲輪群が構築されている。主郭後部の櫓台には城山神社が建っているが、社伝によれば天正年間(1573~92年)の城主菅沼定広が城の鎮守のために祀ったのが始まりであるらしい。櫓台の背後には前述の大空堀が穿たれている。大空堀は、東側は腰曲輪群を分断しながら急峻な斜面を落ち、西側は北西に向かって腰曲輪群の間を下っている。大空堀の南には三角形状の外曲輪が築かれ、その周囲にも幾重にも腰曲輪群が築かれている。城域南端には車道が貫通しているが、これも改変されているが堀切が穿たれていた跡らしい。以上が武節城の遺構で、城の主要部は改変が多いが、大空堀の南にある外郭遺構は改変が少なく、ほぼ完存している。多数の将兵を失った後、苦心の末にこの城にたどり着いた勝頼の心中は、如何ばかりであったろうか?
主郭後部の櫓台→DSCN6340.JPG
DSCN6372.JPG←櫓台背後の大空堀
スーパー地形で見た武節城↓
Screenshot_2025-06-24-00-00-37-681_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.214234/137.505312/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田三代の城 - 岩本 誠城
武田三代の城 - 岩本 誠城
ラベル:中世平山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(愛知) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください