寺脇城は、鎌倉末期に後藤弾正の居城であったと言われるが定かではない。城の歴史が明確なのは戦国時代以降で、山家三方衆と呼ばれる奥三河の土豪の一、亀山城主作手奥平氏の庶流、名倉奥平氏の居城であった。名倉奥平氏は、作手奥平氏2代貞久の6男貞次が1532年頃にこの地に分封されたことに始まる。2代喜八郎信光(後の戸田加賀守信光)は、宗家作手奥平氏と共に今川氏に属し、1558年に岩村城主遠山景任の軍勢が奥三河に侵攻した際には、名倉の船渡橋で宗家奥平定勝と共に激戦を展開し、遠山勢を退けた。この軍功により今川義元から感状を受けた。1560年に桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、今川氏から離反して徳川家康に服属した。しかしその後、武田信玄が奥三河への攻勢を強めると、他の奥三河の国衆とともに武田氏に従った。1573年に信玄が病没すると、同年8月、宗家の奥平定能・信昌父子は徳川氏に帰順し、信光もこれに従ったらしい。以後、徳川氏の配下となり、武田氏と戦った。後に4男松平忠吉に属してその重臣となった。1590年に徳川氏が関東に移封となると、信光もこの地を離れたと思われる。1600年の関ヶ原の戦いの後、忠吉が尾張清洲城に転封となると、信光も清洲城に移ったと言う。
寺脇城は、標高700m、比高35m程の丘陵上に築かれている。背後の山上には詰城として浜城が築かれている。半月形をした主郭を頂部に置き、南東から南西斜面にかけて腰曲輪群を築いた縄張りとなっている。主郭は、コの字型に土塁を築いて背後を防御し、その裏には空堀を穿っている。主郭の大手虎口は南にあり、搦手虎口が東側に開かれている。南西の腰曲輪群の南面には登城路を兼ねた大空堀があり、その南端には枡形を経由して大手門に至る。また南東の腰曲輪群の北側には竪堀が穿たれ、その上部は主郭の北の尾根まで貫通している。この城の縄張りで不思議なのは、南東から南西斜面にかけてはしっかりした防御構造が構築されているのに、主郭裏の北から西斜面にかけては自然地形のままで、なんらの防御施設も構築されていないことである。名倉奥平氏の本城である割には、普請が中途半端で、不思議な印象を持つ城である。
大空堀→
↓スーパー地形で見た寺脇城お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.153498/137.548483/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世平山城

