田峯城は、山家三方衆と呼ばれる奥三河の土豪の一、田峯菅沼氏の歴代の居城である。菅沼氏は美濃守護土岐氏の庶流と言われ、三河国額田郡菅沼郷に移り住んで菅沼氏を称した。嘉吉年間(1441~44年)頃、菅沼伊賀守定成の時に田峯に移り、その子信濃守定信が1470年に田峯城を築いて居城とした。以後、菅沼氏は田峯城を本拠として、島田菅沼氏・長篠菅沼氏・野田菅沼氏などを輩出し、奥三河一帯に勢力を扶植した。定信の子定忠は、子定広と共に今川氏に属した。今川氏親が1526年に没すると、定広の子定継は1529年に安祥の松平清康に従った。1535年、尾張攻略を目指した清康が守山城で家臣に殺されると(守山崩れ)、織田氏が三河に侵攻し、定継は亀山城主奥平貞勝と共に織田氏に気脈を通じた。しかし弟定直(布里城主)・定氏(大野城主)・定仙(井代城主)らは今川方に残ったため、一族相克の状況となった。1556年、定継は定直と戦ってこれを破ったが、同年8月に今川義元の援軍に攻撃され、弟の島田菅沼定俊・野田菅沼定村の弟定円と共に討死した。これ以後田峯城は、一族の田内城主菅沼定勝・定清父子によって占拠されたが、後に布里城主定直が入城して兄定継の遺子定忠を補佐した。1561年、定忠は徳川家康より遺領を安堵され、田峯城主となった。甲斐の武田信玄が奥三河への攻勢を強めると、定忠は1571年に武田氏の誘いに応じて武田氏に従い、以後長篠合戦まで武田方として活躍した。1575年、定忠は家老城所道寿と共に長篠合戦に出陣したが、武田勢が織田・徳川連合軍に大敗すると、留守居役の叔父定直と家老今泉道善らが謀反を起こし、武田勝頼一行を先導して田峯城に入ろうとした定忠は入城できず、山を越えて武節城に入った。ここで勝頼一行を甲斐に見送った定忠は武節城に立て籠もったが、奥平氏に攻められて信濃に逃れた。復讐を誓った定忠は翌76年7月、田峯城を夜襲して叔父定直ら謀反の一族老若男女96人を惨殺し、首謀格の今泉道善を鋸引きの刑に処して、信濃に引き上げた。その後武田氏滅亡後の1582年5月、定忠は信濃国知久平において牛久保城主牧野康成の軍勢と戦って討死し、田峯菅沼氏は断絶した。その後家康は、終始徳川方であった道目記城主菅沼小大膳定利(定直の嫡子)に田峯の遺領を継がせた。1583年、定利は伊那郡司に任命され、知久平城に入った。その後田峯城は廃城になったと思われる。
田峯城は、豊川西岸の丘陵上にある田峯集落南東の小山に築かれている。この田峯集落自体が、山間地の中にぽつんと離れ小島のように存在していて、こんなところに集落があるのかと思うぐらい、隠れ里のような場所にある。城はほぼ全域に散策路と標柱が設置されていて、主郭には模擬の主殿・大手門・物見台などが復元されている。山頂に主郭を置き、北西斜面に段状に曲輪群を築き、主郭背後の東側にも腰曲輪数段と堀切、東出曲輪が築かれていて、そのすぐ東の斜面には敵兵の回り込みを防ぐためと思われる竪堀が落ちている。また裏曲輪と呼称される腰曲輪は、北側をグルっと回って東の堀切まで通じている。南斜面下方にも帯曲輪群が築かれている。城の入口は現在木橋が架かっている城域西端部で、ここには虎口郭が設けられ、空堀が穿たれている。城は高低差の大きな縄張りで、曲輪群はいずれもしっかりした切岸で区画されている。一部の腰曲輪は墓地となっている。城内の曲輪にはほとんど土塁が築かれていない。以上が田峯城の遺構で、遺構がよく残り、整備されていて見やすい。
尚、行ったのが正月だったので、主郭は休城中で立ち入りできなかった。
スーパー地形で見た田峯城↓
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.054834/137.534771/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世平山城

