2025年06月05日

亀山城(愛知県新城市)

DSCN4679.JPG←本丸の西虎口
 亀山城は、山家三方衆と呼ばれる奥三河の土豪の一、作手奥平氏の歴代の居城である。作手奥平氏は、14世紀末頃に奥平八郎左衛門貞俊が上野奥平城から母方の親戚・川手領主山崎三郎左衛門高元を頼って三河国設楽郡作手に移り住んだことに始まる。貞俊は1424年に川尻城を築いて居城としたが、その後新たに亀山城を築いて居城を移し、以後貞能までの5代166年間の居城となったと言われる。その後、東三河に勢力を伸ばしてきた駿河今川氏に従属したが、1560年に桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、今川氏から離反して徳川家康に服属した。しかしその後、武田信玄が奥三河への攻勢を強めると、他の奥三河の国衆とともに武田氏に従った。1573年に信玄が病没すると、同年8月、貞能は一族郎党の大半を率いて亀山城を退去し、徳川氏に帰順した。奥平氏の離反を聞いた武田勝頼は大いに怒り、人質であった貞能の次男仙千代ら3人を処刑した。貞能は、家康との盟約によって家康の長女亀姫を娶ることになっていた長男貞昌(後の信昌)に家督を譲って隠居した。その後1575年2月に貞昌は要衝長篠城の城将となり、5月に城に押し寄せた武田の大軍の猛攻をしのぎ切り、長篠合戦の大勝に繋げる大功を挙げた。織田信長は、戦いの後貞昌の軍功を称賛して偏諱を与え、以後奥平信昌と改名した。1576年、信昌は新城城を築いて移り、更に1590年には徳川氏の関東移封に伴って上野宮崎城に移った。1602年、信昌の4男松平忠明は三河作手藩主(1万7000石)に封じられ、亀山城を復興したが、1610年に伊勢亀山城に移封となり、亀山城は廃城となった。

 亀山城は、道の駅つくで手作り村の東に隣接する比高25m程の低丘陵に築かれている。城内には散策路が整備されているので、全域の遺構がよく確認できる。土塁で囲んだ長円形の本丸を中心に、北東に二ノ丸を築き、これらの外周に腰曲輪群を築いた縄張りとなっている。本丸の東西には虎口が開かれ、二ノ丸の北側には更に枡形虎口が築かれている。本丸の南側には横堀が穿たれ、南西側に対する防備を固めている。また本丸西虎口の外に築かれた腰曲輪は土塁を伴った半月型の曲輪で、両側に虎口を築いており、本丸との間には堀こそ無いものの、その形態は丸馬出そのものである。この他、腰曲輪外側の西斜面には竪堀・竪土塁も築かれている。近世初頭に再興された城なのでどこまで戦国期の形態を留めているかはよくわからないが、現在残る遺構を見る限り武田氏、または武田氏の築城技術を吸収していった徳川氏による戦国期城郭の様相を色濃く残している。
本丸南側の横堀→DSCN4806.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.963901/137.423391/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

おもしろすぎる家康の城図鑑 - 栗原 響大, 千田 嘉博
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ラベル:中世平山城
posted by アテンザ23Z at 02:00| Comment(0) | 古城めぐり(愛知) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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