板沢楯(板沢館)は、大洞館とも言い、横田城主遠野阿曽沼氏の家臣板沢平蔵の居城と伝えられている。1592年、南部氏が豊臣秀吉の命で領内諸城を破却した際に廃城となった。
板沢楯は、曹源寺北西にある比高60m程の山上に築かれている。この山は、西の山地と沢で隔絶された小さな独立丘となっており、この小山全体を城砦化している。尾根上は東に向かってやや扇形に開いたコの字形をしている。城の南東麓の川沿いにある民家の南に山へと入っていく道があるので、これを辿ると、コの字の中央の谷戸が現れる。ここは傾斜がそれほどきつくなかったので、ここを登った。この谷戸に面した東斜面には腰曲輪群(一部は畑跡か?)があり、中段には木戸口と思われる土塁がはっきり残っている。この上の斜面は明確な腰曲輪群となっている。尾根上の城は、中央に主郭、その北東に二ノ郭、主郭南東に三ノ郭を配置している。これら3つの曲輪の外周には、いずれも帯曲輪が付随している。また主郭の北西には、段曲輪が突き出ている。主郭と二ノ郭の間は浅い堀切状を呈しているが、ここから二ノ郭北側の帯曲輪に城道が繋がっている。二ノ郭の北東角の先には、帯曲輪の下に2段の腰曲輪が築かれ、上段の方には巨石がいくつも転がっている。この腰曲輪の下方には、この城の特徴である、最大3重の横堀群が構築されている。横堀群の内、上の2段は二ノ郭の東から北まで弧を描いて伸びている。この横堀群に通じる道は、二ノ郭北側の帯曲輪から降っており、途中1段帯曲輪を経由して、竪堀状の城道で三重横堀の上段の堀に降りている。上段の堀は、東端で降っていき、中段の横堀と合流している。中段の横堀は南にずーっと降ってっているので、どうも大手の城道となっていたと思われる。下段の横堀は短く、北の沢沿いの曲輪から中段横堀に接近するのを阻むための障壁となっていたようである。なお、北の沢には北の帯曲輪から降っていく竪堀道があるので、城の水の手であり、竪堀道は水汲み通路だったようである。一方、三ノ郭は、主郭と斜面だけで隔てられていて、やや削平の甘い曲輪である。三ノ郭の東端には、1段の帯曲輪の下に小堀切と土塁が築かれていて、下方からの接近を阻止している。以上が板沢楯の遺構で、戦国末期まで存続した城にしてはそれほど技巧的とは言えないが、北東下方の横堀群が異彩を放っている。
谷戸中段の木戸口土塁→
主郭~二ノ郭間の浅い堀切状地形→
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.295507/141.565794/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文