2025年03月31日

板沢楯(岩手県遠野市)

DSCN1872.JPG←横堀
 板沢楯(板沢館)は、大洞館とも言い、横田城主遠野阿曽沼氏の家臣板沢平蔵の居城と伝えられている。1592年、南部氏が豊臣秀吉の命で領内諸城を破却した際に廃城となった。

 板沢楯は、曹源寺北西にある比高60m程の山上に築かれている。この山は、西の山地と沢で隔絶された小さな独立丘となっており、この小山全体を城砦化している。尾根上は東に向かってやや扇形に開いたコの字形をしている。城の南東麓の川沿いにある民家の南に山へと入っていく道があるので、これを辿ると、コの字の中央の谷戸が現れる。ここは傾斜がそれほどきつくなかったので、ここを登った。この谷戸に面した東斜面には腰曲輪群(一部は畑跡か?)があり、中段には木戸口と思われる土塁がはっきり残っている。この上の斜面は明確な腰曲輪群となっている。尾根上の城は、中央に主郭、その北東に二ノ郭、主郭南東に三ノ郭を配置している。これら3つの曲輪の外周には、いずれも帯曲輪が付随している。また主郭の北西には、段曲輪が突き出ている。主郭と二ノ郭の間は浅い堀切状を呈しているが、ここから二ノ郭北側の帯曲輪に城道が繋がっている。二ノ郭の北東角の先には、帯曲輪の下に2段の腰曲輪が築かれ、上段の方には巨石がいくつも転がっている。この腰曲輪の下方には、この城の特徴である、最大3重の横堀群が構築されている。横堀群の内、上の2段は二ノ郭の東から北まで弧を描いて伸びている。この横堀群に通じる道は、二ノ郭北側の帯曲輪から降っており、途中1段帯曲輪を経由して、竪堀状の城道で三重横堀の上段の堀に降りている。上段の堀は、東端で降っていき、中段の横堀と合流している。中段の横堀は南にずーっと降ってっているので、どうも大手の城道となっていたと思われる。下段の横堀は短く、北の沢沿いの曲輪から中段横堀に接近するのを阻むための障壁となっていたようである。なお、北の沢には北の帯曲輪から降っていく竪堀道があるので、城の水の手であり、竪堀道は水汲み通路だったようである。一方、三ノ郭は、主郭と斜面だけで隔てられていて、やや削平の甘い曲輪である。三ノ郭の東端には、1段の帯曲輪の下に小堀切と土塁が築かれていて、下方からの接近を阻止している。以上が板沢楯の遺構で、戦国末期まで存続した城にしてはそれほど技巧的とは言えないが、北東下方の横堀群が異彩を放っている。
谷戸中段の木戸口土塁→DSCN1774.JPG
DSCN1805.JPG←主郭
主郭~二ノ郭間の浅い堀切状地形→DSCN1828.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.295507/141.565794/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
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2025年03月25日

不覚!

つい数日前、不覚にも人生始めてのぎっくり腰になってしまいました・・・orz

きっかけはなんてこともない、ただ単に鞄の中のものを取り出そうと
かがんだだけでした。
かがんだ瞬間、まさに「魔女の一撃」と言われる刺すような激痛が腰に走り、
そのまますぐ側にあったベッドに座ったら、もうその後は痛みで立てなくなりました。

そのまま初日はほぼ全く立つことができず寝たきりで、トイレに行くのも四苦八苦でした。
幸い妻が一緒にいたので、妻がいろいろと身の回りの世話をしてくれて助かりました。
しかしちょっと動くと痛みが酷く、この先どうなることかと末恐ろしい感じでしたが、
幸いにも翌日以降、徐々に症状が快方に向かいました。

しかしまだ、前かがみになったり、しゃがんだり立ち上がったりが自力でできないので、
急遽杖を買って、杖の助けを借りながらなんとか動けるようになってきました。

これがもし城巡りの最中に、人気のない山中での単独行動の時に起きたらと、
想像するだけでも恐ろしいです。
今後の城巡りにあたって、心配事がまた一つ増えてしまいました。
posted by アテンザ23Z at 00:02| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年03月18日

中沢楯(岩手県遠野市)

DSCN1620.JPG←二重堀切から落ちる竪堀
 中沢楯(中沢館)は、横田城主遠野阿曽沼氏の家臣中沢外記の城であったとの説があるが詳細は不明である。

 中沢楯は、標高490m、比高90m程の山上に築かれている。南西麓に牛舎があり、その脇から奥に通じる林道があり、獣除けの柵を開けて入る。柵を入ってすぐ左手斜面に竪堀のような地形が見えるが、実はこれが城の最西端の空堀の遺構で、主城部から谷地形を一つ挟んで西の外れに構築された、外郭線を為す二重横堀の南端に当たる。この二重横堀は、下段の堀は谷地形に向かって落ちた所で浅くなって消失しているが、上段の堀は下方で東側に折れて、尾根を掘り切って落ちている。主城部の前面にも長い横堀が1本穿たれ、南斜面を降って前述の林道脇まで竪堀となって落ちている。この竪堀から東側に横堀が分岐して、山麓に対する前衛線を構築している。横堀の上方には腰曲輪群が数段築かれ、その上に二ノ郭、主郭が築かれている。二ノ郭には神社が建っている。主郭は3段の平場に分かれているが、いずれも小規模で大した居住性を有していない。主郭最上段の曲輪の後部には土塁が築かれ、背後に小郭を築き、後ろの尾根に二重堀切を穿って分断している。二重堀切の内堀からは大きな竪堀が両側に落ち、西側の竪堀からは左右に横堀が伸び、主郭下の横堀は先端がL字に折れて竪堀となって落ちている。背後の尾根側に伸びた横堀はそのまま帯曲輪となっている。二重堀切の外堀は、東側にだけ竪堀が落ちている。二重堀切の後ろには細尾根上の小曲輪があり、その西には帯曲輪、東には横堀が構築されている。小曲輪の先にもう1本、小堀切が穿たれ、ここからも東側に竪堀が長く落ちている。城域は基本的にはここまでだが、尾根東側の横堀は堀切を越えて伸びており、搦手の城道となっていたようである。背後の防衛線は以上だが、前面の防衛線として、二ノ郭南東に伸びる支尾根に舌状の三ノ郭が築かれている。三ノ郭の外周には帯曲輪が築かれ、東側のものからは竪堀が2本落ちている。三ノ郭の先にも小郭群が築かれ、西斜面に2本の竪堀、更に南下方に2段の小郭と竪堀、その東側に小堀切と土塁が築かれている。この他、主郭南東に張り出した腰曲輪の下に、短い二重横堀が穿たれ、南側の竪堀に繋がって落ちている。以上が中沢楯の遺構で、花楯よりも曲輪が小さく、詰城的な構築であるが、堀切群・竪堀群は中規模でしっかりしており、竪堀横に横堀を派生させるなどの技巧性もある。遠野地域の山城は、背後の尾根に穿った多重堀切から落ちる竪堀を多重横堀に変化させて、城域外周の防御線とする特徴があるが、中沢楯の構造は花楯と共にこれらとは異なった様相を示している。
主上部前面の長い横堀→DSCN1728.JPG
DSCN1526.JPG←主郭の平場群
三ノ郭の切岸→DSCN1665.JPG
DSCN1628.JPG←南東部の短い二重横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.305858/141.602030/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
ラベル:中世山城
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2025年03月11日

三関城(岩手県一関市)

DSCN1350.JPG←主郭
 三関城は、現地標柱では白崎城と書かれ、歴史不詳の城である。城主についても、千葉内膳・千葉五郎三郎・二ノ関平蔵などの名が伝わるが、事績は不明である。

 三関城は、比高50m程の山上に築かれている。西の曲輪(二ノ郭)に白山神社が建っており、神社参道が西麓から整備されているので、訪城はたやすい。中心に主郭を置き、主郭から北・西・南に伸びる三方の尾根に曲輪群を配した縄張りとなっている。主郭は最も広い曲輪で、現在は果樹園となっている。土塁はないが、しっかり削平され、東西に腰曲輪が付随している。主郭の北には、舌状曲輪があり、その先に堀切が穿たれ、更に北1郭・北2郭の2つの曲輪が置かれているが、この尾根だけは未整備の薮に覆われている。主郭の西には、鞍部に構築された三ノ郭があり、その先に堀切を挟んで二ノ郭が高台となってそびえている。二ノ郭の周囲には数段の腰曲輪が築かれ、前述の参道沿いにも数段の平場が確認できる。主郭の南には段差で区画された不定形の南郭があり、その先に堀切を穿って背後の尾根を遮断している。背後の尾根にも古道が通じており、その脇に土塁が築かれているので、搦手が整備されていたようである。この他、三ノ郭の北側下方にも2段の腰曲輪が構築されている。以上が三関城の遺構で、堀切が効果的に配置されている。北尾根以外は薮払いされているので、整然とした姿を留めている。
三ノ郭堀切と二ノ郭切岸→DSCN1342.JPG
DSCN1384.JPG←北尾根の堀切
南尾根の堀切→DSCN1414.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.925065/141.153078/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
ラベル:中世山城
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2025年03月09日

根城館(岩手県一関市)

DSCN1254.JPG←南の高台となった出丸
 根城館は、歴史不詳の城である。伝承では、及川遠江守の居城で、後の天正年間(1573~92年)には千葉安房が城主であったと言うが、いずれの城主の事績もよくわからない。

 根城館は、砂鉄川沿いの比高40m程の丘陵上にある。国道343号線の舘下トンネルの真上の山である。登道が見つからなかったので、南西の車道脇から薮を突っ切って斜面を直登した。大型で長い主郭の周りに、腰曲輪状に二ノ郭を廻らし、更に西と東の尾根に西郭・東郭を突き出させた縄張りとなっている。主郭は高さ5m程の切岸で囲まれ、南辺に低土塁を築き、西辺中央に虎口らしい箇所がある。主郭内には古びた神社社殿がぽつんと建っている。二ノ郭は、主郭を全周しており、南に向かって突き出た部分があり、ここに方形の高台になった出丸がある。櫓台とする見解もあるようだが、櫓台ほどの規模ではない。二ノ郭から北東に東郭が張り出し、その先端は堀切で尾根を分断しているが、堀切は薮ひどく切岸だけしか確認できない。また二ノ郭の北角部分は側方に物見台らしい土壇を築いた下りのスロープとなっていて、登城口になっていたようである。西郭は二ノ郭と切岸で区画され、北西に向かって細長く舌状に突き出ている。また西郭の西斜面には帯曲輪が1段築かれている。以上が根城館の遺構で、一部薮がひどい部分もあるが、比較的遺構の確認がしやすい。
主郭切岸→DSCN1235.JPG
DSCN1205.JPG←スロープ脇の物見台らしい土壇

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.015403/141.361829/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世平山城
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2025年03月07日

新山城(岩手県一関市)

DSCN1001.JPG←主郭東側の空堀
 新山城は、烏崎楯(烏崎館)とも言い、奥州千葉氏の一流、大原亀卦川氏の居城である。1192年の築城と言われる。亀卦川氏には、米谷城主米谷亀卦川氏と新山城主大原亀卦川氏の2流があったらしいが、詳細は不明。1550年、新山城主亀卦川師兼の嫡男師秀・師重兄弟は弓術に長け、長坂城(唐梅楯)主千葉石見守・母躰の千葉伊賀守と大弓のことで口論となり、これを恨んだ長坂・母躰両千葉氏は師秀・師重兄弟のことを葛西氏に讒言し、葛西高信(のちの晴胤)によって誅殺されたと伝えられる。兄弟の父師兼は長坂・母躰両千葉氏を仇敵とし、合戦して両者を誅滅したが、葛西高信より私闘として咎められ、居城新山城を攻められて落城し、大原新山亀卦川氏は一旦断絶したと言われる。新山城は、師兼の舅で葛西氏家老であった大原城主大原飛騨守信茂に与えられた。大原亀卦川氏の家督は、先に師兼によって廃嫡にされた信秀が大原氏の後押しで継承し、大原氏より新山城を与えられて亀卦川氏を再興した。1559年、東山の及川一族が主家葛西氏に反抗して武力蜂起した及川騒動(柏木合戦)が鎮定された後、新山城主亀卦川師康は及川美濃頼家の長子を匿って密かに養育したという理由で、葛西氏に討伐された。その後、大原亀卦川氏は三郎左衛門信秀が再興し、大原氏の家臣となったが、1590年の葛西大崎一揆の際に大原飛騨守胤重(重光?)に従って出陣し、翌91年に桃生郡深谷で大原氏と共に謀殺されたと伝えられる。

 新山城は、大原城の東方約1.2kmの位置にあり、比高50m程の丘陵上に築かれている。西麓に大原八幡神社があり、その裏が城跡である。神社脇を東に登っていく山道があり、これを登っていくと主郭と三ノ郭の間の堀切に通じている。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』では南北2郭の城としているが、『日本城郭大系』では「東西に3つの郭が連なり、更に西側に腰郭をめぐらした一郭が付随する」としており、記述が大きく異なっている。結果的には大系の方が正しく、調査報告書の縄張図よりはるか東まで城域とした、巨大山城である。ここでは西から順に、三ノ郭・主郭・二ノ郭・四ノ郭と呼称する。神社社殿のすぐ裏に大きなL字型の空堀があり、その上にそびえているのが城域西端にある三ノ郭である。三ノ郭は、北から西面にかけて腰曲輪を廻らし、西辺に土塁を築いた南北に長い長方形の曲輪で、4郭の中では最も小さい曲輪だが、この三ノ郭だけでも普通の山城の主郭に相当する規模がある。三ノ郭の東には堀切を挟んで主郭が置かれている。主郭は、西の堀切に向かって虎口を築き、卵型をした広い曲輪である。主郭は薮がひどく、内部の確認が容易ではないが、北辺に低土塁が築かれている。主郭の東から北側には幅広の空堀が穿たれている。この空堀の外側に広がっているのが二ノ郭である。二ノ郭は、東側中央部に一段高い方形の平場が配置され、西北西に向かって曲輪が伸びている。二ノ郭も主郭同様に、東から北側には空堀が穿たれている。ただこの空堀は一部埋もれている。また湧水で湿っており、水堀であった可能性がある。二ノ郭の北辺には、この空堀に沿って土塁が築かれているが、近代に耕地化されていた関係で一部土塁が消滅していて、往時の形状が正確にはわからなくなっている。二ノ郭の東にあるのが四ノ郭で、内部に起伏のある曲輪で、東端に堀切を穿って尾根筋を分断している。四ノ郭の北面は、ややはっきりしない切岸だけで区画されている。これらの他、二ノ郭の北側にも、緩斜面の平場が北西に向かって広がっており、その先端部の下方に、もう一つの神社の社殿が山林の中に建っている。以上が新山城の遺構で、かなり大型の山城である。なぜ巨大山城大原城の近くにもう一つ巨城を築いたのか、その意図がよくわからないのが正直なところである。
 尚、城の南の車道脇の山林内に、新山城主の墓が残っている。
神社裏の三ノ郭外周の空堀→DSCN0944.JPG
DSCN0982.JPG←主郭虎口
二ノ郭東側の空堀→DSCN1054.JPG
DSCN1130.JPG←三ノ郭東側の堀切
新山城主の墓→DSCN0936.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.016380/141.408711/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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2025年03月01日

曽慶新館(岩手県一関市)

DSCN0788.JPG←大手口の枡形虎口の土塁
 曽慶新館は、新城館・西館などとも呼ばれる。手元に文献がないため歴史がわからないが、曽慶館のすぐ隣りにあるので曽慶館主岩渕氏が新たに築いた城ではないかと推測している。尚、本来は単に「新館」と呼ばれるが、それではどこにでもある名称で、どこの新館だかさっぱりわからないので、ここでは曽慶新館と表記する。

 曽慶新館は、前述の通り曽慶館から車道を挟んで直ぐ西に隣接する丘陵上に築かれている。北に緩やかな傾斜の尾根が伸びており、ここから登城したが、どうもこれが大手であったらしい。北尾根には幅広い竪堀状になった大きな登城路があり、大手道があったと思われる。それを辿っていくと上に枡形虎口があり、その少し先には堀切も穿たれている。堀切の先には、腰曲輪で囲まれた主郭がある。主郭は、曽慶館の主郭より広く、南側中央部が内側に窪んだ形状をしており、南東と南西に塁線が張り出している。主郭の南側中央部は急峻な斜面となっているが、それ以外の部分には前述の通り腰曲輪が取り巻いている。南東と南西には更に段曲輪群が築かれている。南西の曲輪群にも枡形に屈曲した通路が見られ、途中の段曲輪には西辺に坂土橋となった土塁も築かれている。この他、西尾根にも曲輪群があるが、なぜかこの曲輪群の北面だけは切岸が構築されず、ダラダラした斜面となっている。築城途中であろうか?以上が曽慶新館の遺構で、枡形虎口の形成や大手道の構築など、曽慶館より設計も新しく、主郭も大きいことから、岩渕氏が戦国末期に新たな居城として構築したものかもしれない。
西の腰曲輪と主郭切岸→DSCN0902.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.991861/141.378857/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世平山城
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