曽慶館は、中館とも言い、葛西氏の家臣曽慶岩渕氏の歴代の居城である。曽慶岩渕氏の出自には諸説あり、葛西清重の次男清成が1189年の奥州合戦の軍功により、源頼朝から曽慶郷を拝領し、母方の姓を称して岩渕氏を称したとも、或いは藤沢城主岩渕忠経の次男長門守忠春が分封されたとも言われる。いずれにしても、入部後に曽慶館を築いて居城とした。1568年4月、曽慶新蔵人信時は、東山の下折壁城主千葉遠江守茂成と争ったが、近隣諸楯主に仲裁された。曽慶岩渕氏は大原城主大原千葉氏の家臣格で、最後の城主岩淵兵庫守元秀は1590年の葛西大崎一揆に参陣し、翌91年の桃生郡深谷の役で自刃したと伝えられる。後裔は曽慶氏を名乗って仙台藩士となったと言う。
曽慶館は、南西に向かって突き出た半島状の丘陵に築かれている。全域薮に覆われ、主郭・二ノ郭は竹林となっているが、歩けないほどの薮ではない。登道が見つからなかったので、西側の車道脇から斜面を直登した。頂部に広い主郭を置き、その南に舌状の腰曲輪を築き、その南から主郭南東にかけて二ノ郭がある。更に主郭の東側には幅広の東郭が置かれている。そして、二ノ郭前面から西側を通り、主郭の西まで伸びる腰曲輪を配置している。また東郭の周囲にも帯曲輪を廻らしている。これが城の基本的な構造となる。主郭は中央がくびれた形をしており、これを境に前後2郭に分かれている。前郭の方が広くやや高い位置にあり、後郭は三角形に近い形状で後部に土塁を築いている。土塁の背後には堀切があったと想像されるが、現在は耕地化で切り開かれてしまっており、実際どうだったのかははっきりしない。主郭中央のくびれ部分は左右ともに下の腰曲輪・東郭に通じる虎口を形成していたようである。この虎口は、東は薮がひどくて形状が追えないが、西は1段の小郭を経由して腰曲輪に繋がっている。また主郭の内、前郭の前面には虎口があって舌状腰曲輪に通じ、更に舌状腰曲輪の左側方に虎口があって、下の二ノ郭に繋がっている。二ノ郭の前面にも虎口があり、その手前の腰曲輪の南側には堀切が穿たれ、中央に土橋が架かっている。この堀切の南にも平場があり、その先にもう1本堀切が穿たれている。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』によれば、南の堀切群は全部で3本と書かれているが、現認できたのは2本だけで、その南にももう1本あったかもしれないが、薮が酷かったので踏査しなかった。この他、東郭の南西部に枡形虎口らしい地形があったが、この辺も竹薮がひどくて遺構があまりはっきりとはわからなかった。以上が曽慶館の遺構で、薮で少々わかりにくいのが残念である。
二ノ郭虎口→
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.992141/141.382044/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1