2025年02月27日

曽慶館(岩手県一関市)

DSCN0645.JPG←南1本目の堀切
 曽慶館は、中館とも言い、葛西氏の家臣曽慶岩渕氏の歴代の居城である。曽慶岩渕氏の出自には諸説あり、葛西清重の次男清成が1189年の奥州合戦の軍功により、源頼朝から曽慶郷を拝領し、母方の姓を称して岩渕氏を称したとも、或いは藤沢城主岩渕忠経の次男長門守忠春が分封されたとも言われる。いずれにしても、入部後に曽慶館を築いて居城とした。1568年4月、曽慶新蔵人信時は、東山の下折壁城主千葉遠江守茂成と争ったが、近隣諸楯主に仲裁された。曽慶岩渕氏は大原城主大原千葉氏の家臣格で、最後の城主岩淵兵庫守元秀は1590年の葛西大崎一揆に参陣し、翌91年の桃生郡深谷の役で自刃したと伝えられる。後裔は曽慶氏を名乗って仙台藩士となったと言う。

 曽慶館は、南西に向かって突き出た半島状の丘陵に築かれている。全域薮に覆われ、主郭・二ノ郭は竹林となっているが、歩けないほどの薮ではない。登道が見つからなかったので、西側の車道脇から斜面を直登した。頂部に広い主郭を置き、その南に舌状の腰曲輪を築き、その南から主郭南東にかけて二ノ郭がある。更に主郭の東側には幅広の東郭が置かれている。そして、二ノ郭前面から西側を通り、主郭の西まで伸びる腰曲輪を配置している。また東郭の周囲にも帯曲輪を廻らしている。これが城の基本的な構造となる。主郭は中央がくびれた形をしており、これを境に前後2郭に分かれている。前郭の方が広くやや高い位置にあり、後郭は三角形に近い形状で後部に土塁を築いている。土塁の背後には堀切があったと想像されるが、現在は耕地化で切り開かれてしまっており、実際どうだったのかははっきりしない。主郭中央のくびれ部分は左右ともに下の腰曲輪・東郭に通じる虎口を形成していたようである。この虎口は、東は薮がひどくて形状が追えないが、西は1段の小郭を経由して腰曲輪に繋がっている。また主郭の内、前郭の前面には虎口があって舌状腰曲輪に通じ、更に舌状腰曲輪の左側方に虎口があって、下の二ノ郭に繋がっている。二ノ郭の前面にも虎口があり、その手前の腰曲輪の南側には堀切が穿たれ、中央に土橋が架かっている。この堀切の南にも平場があり、その先にもう1本堀切が穿たれている。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』によれば、南の堀切群は全部で3本と書かれているが、現認できたのは2本だけで、その南にももう1本あったかもしれないが、薮が酷かったので踏査しなかった。この他、東郭の南西部に枡形虎口らしい地形があったが、この辺も竹薮がひどくて遺構があまりはっきりとはわからなかった。以上が曽慶館の遺構で、薮で少々わかりにくいのが残念である。
二ノ郭虎口→DSCN0663.JPG
DSCN0708.JPG←主郭の内の後郭
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.992141/141.382044/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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2025年02月25日

中釘陣屋(埼玉県さいたま市)

DSCN0498.JPG←陣屋付近の現況
 中釘陣屋は、指扇領主であった旗本山内氏が築いた陣屋である。初代豊前守一唯は、土佐藩初代藩主山内一豊の甥で、兄の忠義は1605年に一豊の跡を継いで土佐藩主となった。即ち一唯の家系は、土佐藩主の実弟の家系ということになる。大阪冬の陣の際、兄忠義が江戸から出陣したため、一唯は土佐藩士を率いて将軍徳川秀忠の麾下に属した。1616年に幕臣となり、以後は将軍の上洛や日光社参にしばしば供奉した。そして1623年に将軍秀忠から指扇領18ヶ村3,000石を拝領し、中釘に陣屋を構えた。以後、一輝、一俊、豊房と4代67年間にわたって続いたが、豊房が土佐藩山内宗家の豊昌の養子となったため、その采地は上知となった。

 中釘陣屋は、往時は低湿地に半島状に突き出た台地上にあったらしい。しかし現在は耕地化で周辺一帯は改変され、遺構も全く無くなっている。陣屋があった付近には2軒の民家があるが、『日本城郭大系』によれば、「陣屋」「堀の内」の屋号が残っているという。従って、2軒とも陣屋跡地の中にあるのだろう。遺構は全く無いが、北東にある妙玖寺には山内一唯一族の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.930889/139.563133/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:陣屋
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2025年02月23日

川崎平右衛門陣屋(埼玉県鶴ヶ島市)

DSCN0316.JPG←陣屋跡に立つ川嵜大明神
 川崎平右衛門定孝は、この地域の新田開発に功績を挙げた人物で、その際に拠点として陣屋を設けた。平右衛門は、元々1694年に武蔵国多摩郡押立村の名主の家に生まれたが、各種振興事業や窮民救済を行った篤農家として知られ、武蔵野の新田開発に抜擢されて新田世話役となり、後には代官に取り立てられた。当時は、8代將軍徳川吉宗の号令で新田開発が進められたが、武士の指導による開発では農民の実情に合わなかったため、入植者の困窮が甚だしく、無惨な結果となった。そこで、農民出身の平右衛門を南北武蔵野新田世話役に登用し、新田開発事業を推進させた。平右衛門と農民の努力の結果、多摩郡・高麗郡・入間郡・新座郡にわたって約500ヘクタールの新田が開墾され、1743年に平右衛門は代官に任ぜられた。この後、平右衛門は美濃国に任地替えとなって河川工事等を行い、更に石見国銀山奉行を歴任し、1767年には幕府の要職・勘定吟味役兼諸国銀山奉行にまで登ったが、同年6月に74歳で没したと言う。

 川崎平右衛門陣屋は、日光街道となっている市道近くの平地にあった。現在は一面の空き地で、解説板が立つほか、空き地の真ん中に「川嵜大明神」という農民が平右衛門の遺徳を偲んで建てた小祠が立っている。土塁らしいものも見られるが、解説板によれば遺構ではなく、開墾による破壊後に新たに作られたものらしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.934211/139.387504/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:陣屋
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2025年02月21日

中山陣屋(埼玉県川島町)

DSCN0302.JPG←陣屋跡の現況
 中山陣屋は、川越藩主であった秋元但馬守凉朝が1767年に出羽山形藩に転封された際に、川島領5千石を統治するために造営した陣屋である。秋元氏は、戦国時代には深谷上杉氏の宿老であったが、後には小田原北条氏の家臣となった。その事跡は秋元氏館の項に記す。1590年に北条氏が滅びると浪人となったが、後に井伊直政の推挙により徳川家康に仕えた。以後は上野総社藩→甲斐谷村藩→武蔵川越藩と加増転封を重ね、凉朝に至っては度々幕府老中を務める重臣となった。中山陣屋は、1841年に川島領が川越藩主松平大和守の封地となると廃された。

 中山陣屋は、現在の中山小学校の校地にあった。現在は中山営址碑と刻まれた大きな石碑が立っているだけで、遺構は全く残っていない。戦後まもなくの昭和20年代前半の航空写真を見ても、既に学校が建っているので、早くに遺構が失われてしまったのだろう。残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.990317/139.447922/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:陣屋
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2025年02月19日

松山陣屋(埼玉県東松山市)

DSCN0278.JPG←陣屋跡の石碑
 松山陣屋は、前橋藩主松平大和守直克によって江戸最末期の1867年2月に完成した陣屋である。これより先、前橋藩の居城であった前橋城は利根川の度重なる氾濫によって破壊が進んだため、1767年松平朝矩の時に川越城に本拠を移し、前橋は川越藩の分領とされた。それから約100年後、領民が藩主の前橋帰還を願い出たため、藩主松平直克は、前橋城の再建と帰城を幕府に願い出て許され、前橋城は1863年に着工され、3年8ヵ月後の1867年に完成し、前橋藩が再立藩した。藩主が前橋に戻ると、武蔵国には比企郡を中心に約6万2千石の領地が飛び地として残ったため、これを管理するために1867年に松山陣屋が造営された。国内有数の規模を持つ陣屋であったが、1871年(明治4年)の廃藩置県により、わずか4年でその役目を終えた。

 松山陣屋は、幕末の動乱期に築かれたため堀と土塁に囲まれた堅牢な構えであったらしいが、現在は東松山市役所や松山第一小学校などの敷地に変貌し、遺構は全く残っていない。しかし昭和後期になって松山陣屋研究会の調査によって陣屋の縄張りや構造が解明された。現在は市役所敷地の東端に陣屋跡の石碑と解説板が立つほか、そこから南西の八幡神社前に松山陣屋鉄砲場跡の石碑が立っている。往時の面影は微塵もないが、研究会の成果によって石碑が立っているだけでも素晴らしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.042086/139.400387/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:陣屋
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2025年02月17日

城ヶ谷〔比企能員館〕(埼玉県東松山市)

DSCN0256.JPG←城ヶ谷
 城ヶ谷と呼ばれる地には、鎌倉幕府初期の御家人、比企能員の館があったと伝わっている。比企氏は、比企能員の母・比企尼が源頼朝の乳母であった関係から鎌倉幕府開創後に重用され、頼朝の長男頼家に娘(若狭局)を嫁がせ、外戚として権勢を振るった。しかし頼朝の妻、北条政子を擁する北条時政から敵視され、頼家が病気で危篤となった際、時政によって一族は鎌倉の比企ヶ谷の館で悉く謀殺された(比企の乱)。

 城ヶ谷は、今のところ館跡は見つかっていないが、この周辺には比丘尼山・串引沼・宗悟寺・梅が谷・須加谷など、比企氏の伝承が残る地が散在している。また宗悟寺には、江戸時代の旗本森川家の累代墓もある。下記に、現地解説板に基づく伝承を記載する。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.077418/139.390444/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<比丘尼山>
DSCN0222.JPG

 比丘尼山は、比企遠宗の妻比企尼が夫遠宗亡き後、尼となって草庵を結んだところと伝えられている。また源頼家が伊豆修善寺で謀殺された後、若狭局はその遺骨をこの地に頬無って庵を結んだとも伝わっている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.082246/139.381672/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<串引沼>
DSCN0225.JPG
 『郡村誌』では「奇比企沼」と記されている沼で、夫頼家を殺された若狭局がこの地に逃れ来て、祖母比企尼の勧めで、深い悲しみを断つために頼家形見の鎌倉彫の櫛を投げ込んだ沼という伝説がある。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.083772/139.384332/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<宗悟寺>
DSCN0234.JPG

 若狭局が持参したと伝わる「頼家公のご位牌」と、若狭局が体をヘビに巻き付かれたような苦しみから逃れるために祈願した「蛇苦止観音」が祀られた寺。現在は地元有志により、境内の片隅に「比企一族顕彰碑」が建てられている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.078111/139.387560/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

DSCN0268.JPG←中央の小山の右が梅が谷、左が須加谷
<梅が谷>
 若狭局が隠棲し、余生を送った場所と伝わる。しかし若狭局は比企の乱で一族とともに滅んだとの説が有力である。この谷は、汲んでも尽きない清水が湧く、温かい陽だまりの地で、昔から梅の古木の多い花園であったらしい。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.074823/139.385225/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<須加谷>
 須加谷には、かつて菅谷堂という観音堂があり、若狭局が祈願していた「蛇苦止観音」が祀られていたという。蛇苦止観音は、現在は宗悟寺に移されている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.074088/139.386495/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:居館
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2025年02月15日

常安寺館(埼玉県熊谷市)

DSCN0212.JPG←土塁跡
 常安寺館は、歴史不詳の城館である。現在はその名の通り常安寺の境内となっており、本堂の西と北にL字型の土塁が残っているだけである。この場所は、南に向かって降った傾斜地の上端に当たり、すぐ後ろには街道が東西に通っている。要地を押さえていたと思われるが、どの様な城館だったのかは現況からでは想像するのも困難である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.103333/139.320365/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
ラベル:居館
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2025年02月13日

高見原古戦場(埼玉県寄居町)

DSCN0199.JPG←古戦場にある首塚稲荷
 高見原合戦は、山内・扇谷両上杉氏が戦った長享の乱の際の古戦場である。1486年に声望の高かった扇谷上杉氏の家宰太田道灌は、主君扇谷上杉定正の糟屋館で謀殺され、道灌死後の翌年、関東管領山内上杉氏と扇谷両上杉氏との間に対立が生じ、長享の乱と呼ばれる動乱となった。1488年2月、扇谷上杉定正の本拠糟谷館を襲撃しようとして実蒔原で敗北した山内上杉顕定は、同年6月に定正の重要拠点河越城を攻撃しようと出陣した。しかし定正は、顕定に反逆していた長尾景春と古河公方足利成氏の子政氏の援軍と共に須賀谷原で迎え撃った。この須賀谷原の合戦で扇谷上杉氏は再び勝利した。11月には高見原で三度目の合戦があり、これにも定正は勝利し、山内上杉氏は3タテを食うこととなった。これら3つの合戦を総称して、俗に長享三戦と言う。尚、ここから南方1.5kmの位置にある高見城は、高見原合戦の際に山内上杉方の陣の背後を守る城として機能したと推測されている。

 高見原古戦場は、現在、県道296号線の今市地区に首塚稲荷が祀られている。以前は古戦場の標柱が立っていたらしいが、現在はなくなっている。この付近には鎌倉街道上道が通っており、南北朝期以後の合戦に多い、街道沿いで両軍が激突した戦いである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.103864/139.266862/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:古戦場
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2025年02月07日

真々部氏館(長野県安曇野市)

DSCN0160.JPG←主郭の土塁跡
 真々部氏館は、真々部城館とも言い、武田信玄が北進の拠点として整備した城館と言われる。真々部氏は、生坂の日岐丸山氏の一族で、仁科氏の配下であった。武田氏は天文年間(1532~55年)末頃に、安曇野への経略と上杉勢への防備のため、千国道(武田の棒道)を新たに開削し、軍略拠点としてこの館と町並みを作った。この地は交通の要衝で物資の集散に都合が良く、軍団の武具・馬・食糧等の準備をする北進の拠点とした。館主は、真々部尾張守真光・同伊予守・同内蔵助等がいたが、尾張守真光は仁科盛政と共に上杉氏に通じたために武田氏に成敗された。1580年には真々部氏は仁科盛信に属していたことが知られる。1582年の武田氏滅亡後は、府中を奪還した小笠原貞慶の配下となったらしいが、小笠原氏が徳川家康に属したことで徳川氏の配下となり、内蔵助は家康の旗本級の武将で、騎馬武者7人・徒士7~80人ほどの軍団を有していた。1590年、徳川氏の関東移封に伴って小笠原貞政が古河に国替えになった時には、真々部氏はこの地に残留したらしい。

 真々部氏館は、主郭の周りを二ノ郭が取り巻いた環郭式の二重の城館であったらしい。現在は市街化でほとんどの遺構が湮滅しているが、わずかに主郭南西部の土塁が金龍寺の墓地の裏手に高台となって残っている。また二ノ郭の南辺の土塁も、金龍寺前の参道脇にわずかな土盛りとして残っていて、石造物群が建っている。武田氏の拠点城郭としてはかなり残念な現況であるが、わずかに残った遺構は市の史跡になっていて、標柱・解説板も整備されているのは救いである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.263515/137.911828/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世平城
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2025年02月05日

飯田砦(長野県安曇野市)

DSCN0135.JPG←土塁
 飯田砦は、戦国時代に甲斐武田氏の信濃進出に備えて築かれた砦と言われる。明確な歴史は不明だが、筑摩郡から安曇郡に入る要衝の地にあり、真々部館・吉野町館の前衛的な位置にあるとされる。

 飯田砦は、小規模な城砦であるが、方形の土塁がよく残っている。土塁内側の郭内は薮に覆われ、盛夏だと見通しがきかず、さすがに内部探索はできなかった。土塁の周りに北から東に水路(勘左衛門堰)が通っているが、江戸中期にこの堰が築かれた時、砦の堀を利用して開削したものの様である。方形の土塁以外にめぼしい遺構はないが、西の畑の中に小道があり、大手道の標柱が立っている。また北側の土塁上にも城址標柱と立派な石碑が立っている。長く残したい遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.269155/137.927105/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世平城
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2025年02月03日

鳥羽館(長野県安曇野市)

DSCN0129.JPG←わずかに残る水堀
 鳥羽館は、生坂の日岐丸山を出自とする丸山氏の一族、丸山肥後・丸山将監の居館と伝えられている。丸山氏は元々平瀬城主平瀬氏の配下で、初代の丸山将監は1550年の小笠原長時と武田信玄による桔梗ヶ原合戦で負傷し、一族の真々部尾張守真光に介抱されたが落命した。2代丸山肥後は、天正年間(1573~92年)にはこの地に移って鳥羽館に住したとされる。その後、丸山将監(2代目)は大町城主仁科盛信に属し、1582年の武田氏滅亡後は、府中を奪還した小笠原貞慶に従い、川中島への出陣や千見城番を勤めたと言う。

 鳥羽館は、現在民家となっており、敷地の北西角にL字型に水堀と土塁が残っている。ただ訪城したのが盛夏だったので、ほとんど薮に埋もれてしまっていた。遺構はわずかであるが、市の史跡となっていて、1993年には旧豊科町によって発掘調査も行われている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.269951/137.916677/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:居館
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2025年02月01日

吉野町館(長野県安曇野市)

DSCN0118.JPG←史跡標柱が立つ土塁跡
 吉野町館は、戦国末期の武田氏滅亡後、府中の所領を回復した小笠原貞慶から吉野の本領を安堵された丸山日岐丹波守盛武が築いた館である。西方には真々部に代わる戦略拠点として、松本街道沿いに町家が建設され、家臣の居住地となったという。1590年、盛武は小笠原貞政に従って小笠原の役に出陣し、役後の小笠原氏の関東古河移封に従ってこの地を離れた。

 吉野町館は、元屋敷の地名が残る方形区画の水田になっている。遺構はほとんど湮滅しているが、わずかに南西部に土塁と堀跡が残っている。一応、市の史跡に指定されており、土塁上に標柱が立っている。安曇野市は、この様なわずかな遺構も史跡に指定して標柱を立てており、史跡保存への頑張りを感じる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.286903/137.917213/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:居館
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