2024年02月28日

黒崎城(福岡県北九州市)

DSCN3545.JPG←二ノ丸北側の腰曲輪と石積み
 黒崎城は、福岡藩主黒田長政が築いた筑前六端城の一である。六端城は、東隣の豊前細川家に備えるために築いた城砦群であった。長政は、父官兵衛孝高以来の重臣井上周防守之房に2万石を与えて黒崎城代とした。1615年に元和の一国一城令で破却された。

 黒崎城は、独立丘陵である道伯山に築かれている。「道伯」は、井上之房の号「道柏」に由来する。県の史跡に指定されており、公園化されているので、盛夏でも訪城可能であるが、遺構の残存状況はあまり良くない。それというのも、江戸時代中期に石垣の石材が新田開発のために転用され、その後も幕末に砲台が置かれたり、近代には耕地化されていたからである。現地解説板に書かれている江戸後期の絵図によれば、ほぼ正方形の本丸があり、西以外の三方を幅広の二ノ丸で囲み、北に伸びる尾根に縦長の三ノ丸を置いていたらしい。また本丸西側には3段の腰曲輪が築かれていた様である。現在本丸は高台になっているが、二ノ丸との間の切岸は緩やかな斜面に変わってしまっている。城内には一部に石積みが残るが、改変が多い上、近代の積み直しもあり、どこまで往時の遺構かはわからない。見所が少なく、非常に残念な状況である。
本丸跡の原っぱ→DSCN3584.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.870442/130.773547/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新書703黒田官兵衛 (平凡社新書 703)

新書703黒田官兵衛 (平凡社新書 703)

  • 作者: 小和田 哲男
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2013/11/15
  • メディア: 新書
ラベル:中世平山城
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2024年02月26日

若松城(福岡県北九州市)

DSCN3529.JPG←城跡付近の現況
 若松城は、福岡藩主黒田長政が築いた筑前六端城の一である。六端城は、東隣の豊前細川家に備えるために築いた城砦群であった。長政は、若松城に三宅若狭家義を置いて守らせた。元々、永正年間(1504~21年)頃に竹内治部という武士の居城であったと伝えられる。1615年に元和の一国一城令で破却された。幕末には福岡藩がここに砲台を築いた。

 若松城は、洞海湾内に浮かぶ中島という孤島に築かれていたが、明治14年に港湾整備工事の一環で全面的に削平され、その姿を消してしまっている。現在の若戸大橋の付近にあったらしいが、その正確な位置も現況ではわからない。しかし今でも若松と戸畑とを結ぶ若戸渡船があり、江戸中期の正徳年間(1711~16年)には西岸に福岡藩によって洲口番所が設けられて人・物流の監視をするなど、交通の要地であったことがわかる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:(推定)https://maps.gsi.go.jp/#16/33.902452/130.817084/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ラベル:近世海城
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2024年02月24日

板櫃川古戦場(福岡県北九州市)

DSCN3525.JPG←古戦場付近の現況
 板櫃川の戦いは、大宰少弐・藤原広嗣の乱の時に広嗣軍と朝廷軍が激突した戦いである。『続日本紀』によると、740年、太宰府に左遷されていた広嗣は、全国で相次ぐ伝染病の流行や天災の発生を朝廷の失政が原因であるとして、政敵の僧玄昉・吉備真備を朝廷から排斥するため挙兵した。朝廷は、大野東人を大将軍に任命し追討軍1万7千人を派遣した。両軍は板櫃川で対峙し、広嗣軍は舟筏で渡河しようとしたが、朝廷軍から弓を激しく射掛けられ、渡河に失敗した。更に朝廷軍からの呼びかけで広嗣軍から投降者が相次ぎ、戦列が崩壊、広嗣軍は大敗した。敗走した広嗣は後に肥前で捕らえられて処刑されたと言う。この乱により、朝廷は政治・軍事が集中した太宰府のあり方を再考することとなり、一時大宰府は廃止された。

 板櫃川古戦場は、小倉市街地の南西方にある。古戦場付近は市街化されており、かつての古戦場の雰囲気は全く残っていない。わずかに八幡橋の袂に解説板が立っているだけである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.876874/130.855021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

  • 作者: 宇治谷 孟
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1992/06/05
  • メディア: 文庫
ラベル:古戦場
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2024年02月22日

小倉城(福岡県北九州市)

DSCN3345.JPG←北の丸の水堀・石垣
 小倉城は、江戸時代に細川氏、次いで小笠原氏の居城となった近世城郭である。しかしこの地は関門海峡を押さえる交通の要衝であり、古くから記録に現れる要地であった。奈良時代の740年には大宰少弐藤原広嗣の反乱に際して、この付近に軍団が置かれていた。鎌倉中期の文永年間(1264~74年)頃には、緒方大膳惟重が居城したとされるが、それが現在の小倉城の地であったかどうかは定かではない。現在の小倉城の直接の前身は戦国後期の1569年に、大友氏と毛利氏の抗争の中で毛利氏によって築かれ、高橋鑑種が城主となった。1586年、島津氏の侵攻を受けていた大友宗麟は、豊臣秀吉に支援を求め、これを契機として秀吉の九州征伐が始まった。この時、小倉城主高橋元種(鑑種の養子)は秀吉に降り、秀吉は大軍を率いて小倉城に入城した。九州平定後、小倉城には毛利勝信が置かれた。1600年の関ヶ原の役の際、勝信は西軍に属したため黒田官兵衛孝高によって小倉城を占領され、関ヶ原合戦後に改易されて土佐配流となった。同年の毛利氏改易後、細川忠興は豊後国39万9千石を与えられ、当初は中津城を居城とした。小倉城には弟興元を置いたが、1601年12月に忠興と不和となって出奔した。忠興は小倉城に居城を移し、1602年から7年かけて小倉城を改修して現在の規模とした。1632年に肥後熊本城主加藤忠広が改易となると、2代藩主忠利は熊本54万石に移封となり、譜代大名で明石城主小笠原忠真が15万石で入城した。以後、幕末まで小倉藩小笠原家歴代の居城となった。幕末の1866年、第二次長州征伐の際、小倉藩は長州藩の攻勢の前に敗退し、小倉城を焼いて撤退した。これにより、小倉城は昔日の姿を失った。

 小倉城は、平地の高台を利用した近世城郭で、北九州市の中心街となっている。本丸を中心に、南に松の丸、北に北の丸を配し、それらの外周に二の丸、三の丸、外郭が築かれていた。城の中心部は概ね逆三角形をしており、周囲を石垣・水堀で囲んでいたが、水堀は北半分しか残っておらず、南や東は埋められてしまっている。近世城郭らしく、枡形城門や横矢掛りを多用した縄張りであるが、地形の高低差が小さい上、南側は水堀が失われてしまっているため、縄張りに緊張感が感じられない。模擬天守・着見櫓が再建されて威容を誇っているが、天守は元のものにはなかった破風が設けられているなど、史実を無視した昭和再建の代物で歴史的価値はない。なんでこれが続100名城に選ばれるのか、選定基準がよくわからない。幕末に焼亡していなければ城門の一つや二つが残されていたかと思うと、それも無く石垣だけが残り、侘しい限りである。また外郭も西側の三の丸土塁が断片的に残っているだけで、遺構の湮滅が進んでいる。そんな中、北の丸にある八坂神社だけは櫓風に建物が建てられており、城の雰囲気を感じさせる。
多聞口門の枡形虎口→DSCN3430.JPG
DSCN3365.JPG←三ノ丸土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.884302/130.873754/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ)

続日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ)

  • 作者: 日本城郭協会
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2020/09/14
  • メディア: ムック
ラベル:近世平城
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2024年02月20日

木曽氏定勝寺館(長野県大桑村)

DSCN3205.JPG←台地上の館跡
 木曽氏定勝寺館は、木曽氏の一時期の居館である。木曽氏は三留野から木曽福島までの間を南から北へ度々居所を移しており変転が激しいが、その中の一つが定勝寺館である。

 木曽氏定勝寺館は、現在は定勝寺の境内となっている。須原宿の西端にあり、街道を眼下に収める台地上に築かれている。前述の通り寺の境内となっているため、明確な遺構は残っていない。しかし定勝寺は名刹で、1598年に建てられたという山門・本堂・庫裡は国の重要文化財に指定されている立派なものである。また墓地には木曽氏歴代の内4人の墓がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.694833/137.688528/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城

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  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/08/26
  • メディア: 単行本
ラベル:居館
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2024年02月19日

上松蔵人屋敷(長野県上松町)

DSCN3087.JPG←居館跡の平場
 上松蔵人屋敷は、現地解説板では「天神山 木曽氏館跡」と記載され、木曽氏19代義昌の弟上松蔵人義豊の居館である。義豊は上松に分封されて上松氏を称した。1582年1月、木曽義昌は頽勢に陥っていた武田勝頼を見限り、織田信長の調略に応じて実弟義豊を人質に差し出し、武田氏から離反した。これが契機となって信長の武田征伐が開始され、瞬く間に武田領国は崩壊し、同年3月に武田氏は滅亡した。同年6月、信長が本能寺で横死すると、権力の空白地帯となった甲斐・信濃の武田遺領争奪戦、天正壬午の乱が生起した。その経過の中で、木曽氏は徳川家康に帰属し、同年9月に義豊は遠州浜松に移ったと言う。義豊が遠州に去った後は、地士塚本氏が入り、駅亭長・問屋職を務めた。尚、義豊は後に兄義昌の跡を継いだ義利と折り合いが悪く、義利に殺された。この事件によって阿知戸(網戸)藩木曽家は改易された。

 上松蔵人屋敷は、玉林院背後の台地、天神山に居館を構えていたと伝えられる。玉林和尚は木曽氏17代義在の弟で、義豊の大叔父に当たるのでこの地を義豊に与えたと伝えられる。天神山の先端部にはその名の通り天満宮のお堂が建ち、その背後は一段高い平場となっている。台地上は草むらに覆われた平場があるだけで、他に明確な遺構は見られないが、玉林院裏の登り口に解説板が建っており、その歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.786218/137.696811/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
ラベル:居館
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2024年02月17日

王滝城(長野県王滝村)

DSCN3053.JPG←王滝城跡地の現況
 王滝城は、木曽左京大夫義元が飛騨勢や美濃勢の侵攻に備えて築いた城である。1504年7月、飛騨の三木重頼が兵数百で木曽に侵攻し、義元の部将上野肥後が守る上島砦を攻め落とした。義元は自ら兵を率いて王滝城に入り、三木勢を迎撃しようとしたが、態勢が整わないうちに三木勢の攻撃を受けて王滝城は落城し、義元は退却中に追撃を受け、この時に受けた傷が元で没した。1555年8月に武田信玄が木曽に侵入した際、木曽義康(義元の孫)は飛騨勢と戦うために王滝城に在城し、その子義昌は福島城を守っていた。武田勢が軍勢を分けて両城を攻撃すると、義康は抗しきれず信玄と和睦して服属した。

 王滝城は、ダム湖である御岳湖の南岸にある突出した段丘上にあったらしい。ダム建設以前は王滝川に臨む断崖上の段丘であった。現在はグラウンドや空き地となって改変されており、明確な遺構は残っていない。『信濃の山城と館』の縄張図では、この段丘の北西端が一段高くなっていて社が祀られていたらしいが、この高台も湮滅してしまっている。背後の比高100mの山の峰に主郭があったとも言われるが、CS立体図で見ても曲輪らしい遺構は残っていないようである。王滝城は木曽防衛のための重要な城であったが、解説板はおろか標柱すらなく、全く往時の姿を知ることはできない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.810287/137.588975/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


いざ登る信濃の山城 絵地図で案内する戦国の舞台

いざ登る信濃の山城 絵地図で案内する戦国の舞台

  • 作者: 中嶋豊
  • 出版社/メーカー: 信濃毎日新聞社
  • 発売日: 2020/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
ラベル:中世崖端城
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2024年02月16日

西野城(長野県木曽町)

DSCN3021.JPG←主郭
 西野城は、木曽氏中興の祖とされる木曽讃岐守家村が築いたとされる砦である。家村は、足利尊氏に従って軍功を上げ、1338年に恩賞として信濃国木曽・高遠・向・洗馬等を賜り、妻籠城の他、馬籠・田立・西野に砦を構え、贄川に関所を設けたと伝えられる。木曽の防衛網の重要拠点であり、『日本城郭大系』によれば戦国期には木曽義康・義昌の家臣西野右馬允友重が守っていたと言う。

 西野城は、標高1422m、比高250mの城山に築かれている。城山の北の尾根には旧飛騨街道が通る西野峠があり、交通の要地を押さえる城であったことがわかる。現在城跡は町の史跡となり、展望台となっているので、登山道が整備され真夏でも薮漕ぎせずに登ることができる。ほぼ単郭の城で、山頂の主郭の北側にはわずかに土塁が築かれている。主郭の北東と北西に小郭を築き、北西尾根の少し下の方に堀切を穿っているが、かなり浅い堀切でほとんど段曲輪に近い形状となっている。遺構はこれだけであるが、周囲の眺望に優れ、ここに城砦を築いていた重要性はよく分かる。
北西尾根の堀切→DSCN3033.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.948994/137.588761/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新装改訂版 信州の城と古戦場

新装改訂版 信州の城と古戦場

  • 作者: 南原公平
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2009/06/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
ラベル:中世山城
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2024年02月15日

古畑十右衛門屋敷(長野県木祖村)

DSCN2975.JPG←屋敷のあった段丘崖
 古畑十右衛門屋敷は、薮原殿屋敷とも言い、木曽氏の庶流でその家臣であった古畑氏の居館である。1800年に奉行所に提出した家筋の書上げによると、古畑十右衛門家は木曽讃岐守家教の後裔古畑伯耆守家重の分流で、薮原に居住し、村民は尊称して薮原殿と言った。初代十右衛門、2代勘右衛門は木曽義昌に仕えた。1590年に徳川氏が関東に移封となると、義昌も下総国海上郡阿知戸(網戸)に移封となったが、古畑氏は下総には行かずにこの地で帰農し、江戸時代には薮原宿の本陣・問屋・庄屋を務めた。6代目より寺島に改姓した。

 古畑十右衛門屋敷は、江戸時代には本陣にあったが、それ以前は東の段丘崖の上の台地に上屋敷・下屋敷があったらしい。明治初年の町村誌では、屋敷跡は皆畑となっているが、堀跡は残っていたらしい。屋敷跡と見られる東の台地上は、西向きの緩傾斜地で、現在は宅地と畑になっている。めぼしい遺構は無い上、車を停める場所も近くにないので、行くのはやめて薮原宿から遠望するだけにした。
本陣跡→DSCN2955.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.938205/137.786461/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
ラベル:居館
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2024年02月14日

奈良井城(長野県塩尻市)

DSCN2920.JPG←主郭周囲の空堀
 奈良井城は、現地標柱では奈良井治部少輔義高居館と書かれ、木曽氏の一族奈良井義高の居城である。義高は、福島城主木曽義康の弟で、奈良井に居住して奈良井治部少輔を称した。1555年4月、武田信玄の木曽侵攻の際に義高は敗死し、城も陥落したとされるが、異説もある。

 奈良井城は、木曽路の観光で有名な奈良井宿の北の段丘辺縁部に築かれている。西のカツ沢を天然の堀とし、北と東に空堀を穿って台地と分断して主郭を形成している。ほぼ単郭の城であるが、南や西にわずかな段差で腰曲輪が構築され、特に南西に向って下り勾配となる部分には腰曲輪が3段形成されている。城とは言うものの、居館的色彩の濃い館城である。尚、近くの大宝寺の裏手には奈良井義高の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.967196/137.811749/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/04/01
  • メディア: 単行本
ラベル:中世崖端城
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2024年02月13日

太田道灌陣屋(埼玉県川島町)

DSCN2493.JPG←陣屋跡の石碑、奥に水路
 太田道灌は、扇谷上杉氏の家宰で、戦国初期の関東争乱の中で獅子奮迅の活躍をした名将である。殊に山内上杉氏の重臣長尾景春が大規模な反乱「長尾景春の乱」を起こした時には、関東各地を転戦してほぼ独力で乱を鎮圧した。また築城家としても有名で、江戸城河越城岩付城など名だたる関東の名城の原型を築いたと言われる(道灌の父太田道真が築城したとの説もある)。

 川島町にある養竹院は、そんな活躍をした道灌の陣屋跡に建てられたとの伝承がある。養竹院は、道灌の甥叔悦禅師が、同じく道灌の甥で養子となった資家(岩付城主)の菩提を弔う為に開山した寺である。寺には明確な遺構はないが、周辺には水路が流れ、堀跡であった可能性がある。また境内には「太田道灌の陣屋跡」と書かれた石碑がある。太田資家夫妻の墓もある他、岩付太田氏にまつわる遺品が多く残されており、太田氏との深い繋がりを今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.979196/139.500918/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太田道灌と長尾景春 (中世武士選書43)

太田道灌と長尾景春 (中世武士選書43)

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/12/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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2024年02月12日

玉川陣屋(埼玉県ときがわ町)

DSCN2366.JPG←陣屋跡の現況
 玉川陣屋は、『日本城郭大系』では代官屋敷と記載され、関東に入部した徳川氏が築いた陣屋である。元々この地には、天文年間(1532~55年)に松山城主上田朝直が築いた出城があり、森兵庫頭・家老小澤肥前・澤田五右衛門・樅澤三右衛門ら多数の将士を置いて、近郷を管轄させたと言う。1590年の小田原の役後に徳川家康が関東に移封となると、玉川領は徳川氏の直轄地となり、代官頭大久保長安に支配を命じた。長安は、家臣平岡帯刀を玉川へ派遣し、建物が残っていた出城跡をそのまま陣屋として使い、近郷50ヶ村を支配させた。『新編武蔵国風土記稿』では、文禄年間(1592~96年)頃に陣屋が設営され、その頃は中川某が代官として支配していたとする。6代将軍徳川家宣の治世の1710年に、玉川陣屋は廃された。

 玉川陣屋は、現在は畑や宅地に変貌し、明確な遺構は残っていない。しかし町の史跡に指定され、立派な石碑が建てられている。明確な遺構が残っていればと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.012233/139.294238/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


小藩大名の家臣団と陣屋町 3 南関東・中部(新装改訂版)

小藩大名の家臣団と陣屋町 3 南関東・中部(新装改訂版)

  • 作者: 米田藤博
  • 出版社/メーカー: クレス出版
  • 発売日: 2021/03/25
  • メディア: 単行本
ラベル:陣屋
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2024年02月11日

須賀谷原古戦場(埼玉県嵐山町)

DSCN2343.JPG←出土した五輪塔群の覆屋
 須賀谷原古戦場は、山内・扇谷両上杉氏が戦った長享の乱の際の古戦場である。1486年に声望の高かった扇谷上杉氏の家宰太田道灌は、主君扇谷上杉定正の糟屋館で謀殺され、道灌死後の翌年、関東管領山内上杉氏と扇谷両上杉氏との間に対立が生じ、長享の乱と呼ばれる動乱となった。1488年2月、扇谷上杉定正の本拠糟谷館を襲撃しようとして実蒔原で敗北した山内上杉顕定は、同年6月に定正の重要拠点河越城を攻撃しようと出陣した。しかし定正は、顕定に反逆していた長尾景春と古河公方足利成氏の子政氏の援軍と共に須賀谷原で迎え撃った。この須賀谷原の合戦で扇谷上杉氏は再び勝利した。この後、11月には高見原で三度目の合戦があり、これにも定正は勝利し、山内上杉氏は3タテを食うこととなった。これら3つの合戦を総称して、俗に長享三戦と言う。

 須賀谷原の合戦は、菅谷館北東の丘陵地で行われたらしい。埼玉の古城巡りで有名なブログ「そこに城があるから」の記事を参考に古戦場推定地を訪問した。住宅団地の只中にある空き地(公園?)の丘の上に覆屋があり、五輪塔数基が建っている。ここでは平成12年に行われた発掘調査の結果、戦国時代の塚や墓壙群が発見され、15世紀後半から16世紀前半にかけての遺跡と考えられており、遺跡の年代と位置関係から須賀谷原合戦と関係する遺跡と推測されているらしい。五輪塔はこの時出土したものという。残念ながら、現地には遺跡についての解説板や石碑はなく、あるのは土地区画整理組合の石碑だけである。歴史を後世に伝えるために、遺跡についての解説板などを是非設置してもらいたいものである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.038802/139.327809/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


もうひとつの応仁の乱 享徳の乱・長享の乱 関東の戦国動乱を読む

もうひとつの応仁の乱 享徳の乱・長享の乱 関東の戦国動乱を読む

  • 作者: 水野大樹
  • 出版社/メーカー: 徳間書店
  • 発売日: 2018/05/18
  • メディア: Kindle版
ラベル:古戦場
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2024年02月09日

奈良梨館(埼玉県小川町)

DSCN2308.JPG←館跡の民家
 奈良梨館は、小田原北条氏の家臣で松山衆であった鈴木氏の居館である。鈴木氏は、鈴木民部重直が伊豆から松山衆の寄騎として奈良梨に移住したとされる。伊豆の鈴木氏といえば、伊豆水軍の将の一人であった江梨鈴木氏が知られているので、重直もその一族であった可能性がある。北条氏滅亡後は、奈良梨村の名主となったと言う。

 奈良梨館は、現在ご子孫とされる鈴木家の宅地となっている。宅地の北側に土塁が残るようだが、訪城したのが夏場だったので、わずかに道路際から見ることしかできなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.083537/139.287586/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北条氏康の家臣団 (歴史新書y)

北条氏康の家臣団 (歴史新書y)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2018/12/04
  • メディア: 新書
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2024年02月08日

奈良梨陣屋(埼玉県小川町)

DSCN2301.JPG←東側の土塁と堀跡
 奈良梨陣屋は、信濃の名族諏訪頼忠の陣屋である。1582年、甲斐武田氏・織田信長の相次ぐ滅亡後に生起した北条・徳川・上杉諸氏の抗争「天正壬午の乱」の中で、頼忠は諏訪氏旧臣達に擁立されて諏訪氏の家督を継ぎ、旧領を奪還して北条方に付いた。天正壬午の乱終結後は徳川家康と和睦し、徳川氏に服属した。1590年の小田原の役の後、徳川家康が関東に移封となると、諏訪頼忠も武蔵国奈良梨・羽生・蛭川等1万2千石を拝領し、奈良梨に陣屋を構えた。諏訪氏の陣屋期間は、1592年に諏訪頼水が上野国総社に移封となるまでの3年間であった。

 奈良梨陣屋は、現在の八和田神社(旧諏訪神社)境内を含む一帯にあったらしい。社殿の北と東には土塁と堀跡が残っている。町指定史跡でもあり、土塁北東に解説板が立っているが、それによると「戦国時代から江戸時代にかけて」の頃に「鎌倉街道上道の宿駅として栄えた奈良梨において、(中略)なんらかの施設がおかれていた可能性がある」と書かれており、諏訪氏について触れられていないことから、諏訪氏の陣屋とは断定できなかったらしい。しかし奈良梨は、戦国時代には小田原北条氏の伝馬が置かれていた戦略的要地であったと言うので、ここに諏訪氏が陣屋を置いた可能性は十分考えられるだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.082306/139.288445/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/05/01
  • メディア: 単行本
ラベル:陣屋
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2024年02月06日

広木吉原城(埼玉県美里町)

DSCN2277.JPG←城跡付近にある大興寺
 広木吉原城は、南北朝初期に一色大興寺入道源範行の居城であったと伝えられるが、実在したかどうかが明確ではない。一色氏といえば足利氏の一族で、室町幕府の四職家に名を連ねる名族である。多くの足利一門・重臣と同様に一色氏も、京都や西国で活躍した一族と、鎌倉府ができた際に鎌倉公方に従った東国の一族とに分かれたが、関東の一色氏としては幸手一色氏が知られる。しかし幸手一色氏は「直」字が名乗りの通字であり、「範行」が実在するとすれば九州探題を務めた一色範氏の系統とも考えられる。一方、入道名にも出てくる大興寺の所伝では、南北朝末期の1387年に小倉左中将元英と言う人が廃絶していた寺を再興したとあり、一色氏の名は出てこない。従って、一色範行の伝承には様々な疑問があるのが実態である。その後、戦国後期には、1579年に「広木大仏の合戦」が武田・北条間で行われたと『甲陽軍鑑』などに記載されているが、城の存在は明確ではないらしい。

 広木吉原城は、以上のように実在したかもわからない謎の城であるが、大興寺の北西付近にあったとされているらしい。そこには丘陵地が広がっているものの、明確な遺構は無いようである。ただ大興寺自体が寺院城郭のような立派な構えであり、目を見張らされる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【推定地】
https://maps.gsi.go.jp/#16/36.168446/139.158540/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東公方足利氏四代―基氏・氏満・満兼・持氏

関東公方足利氏四代―基氏・氏満・満兼・持氏

  • 作者: 田辺 久子
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2002/08/01
  • メディア: 単行本
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2024年02月05日

岡部藩陣屋(埼玉県深谷市)

DSCN2265.JPG←陣屋跡の現況
 岡部藩陣屋は、安倍(あんべ)摂津守陣屋とも言い、徳川家康の家臣安倍弥一郎信勝が築いた陣屋である。信勝の父安倍大蔵元真の時、今川氏滅亡後に徳川氏に仕えて軍功を上げた。1590年に徳川氏が関東に移封となると、元真の子信勝は武蔵国榛沢郡・下野国梁田郡に5250石を与えられて、岡部に陣屋を構えた。信勝の嫡男信盛は、上杉景勝討伐や大坂の陣で功を挙げ、大番役などを務めた。1636年に三河国内4千石、1649年に摂津国内1万石を加増され、信盛は大名となった。その後、所領高20250石となった岡部藩は、岡部を本拠とし続けた。幕末の1868年、最期の藩主信発は、三河国半原へ本拠移転を願い出て半原藩となり、岡部藩は廃藩となった。

 岡部藩陣屋は、岡部東郵便局を含めた西側一帯にあったらしい。現在は敷地の大部分が一面の畑に変貌し、昭和初期まであったという深い堀も湮滅している。陣屋跡の片隅の道路脇に陣屋跡の解説板が立っているが、それより立派なのが隣に立っている「高島秋帆幽囚の地」の石碑である。高島秋帆は幕末の西洋式兵術・砲術家で、一時期讒言によりこの地に囚われていた。いずれにしても、遺構は全く無く、残念な状態である。尚、近くの源勝院に岡部藩主安倍家歴代の墓がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.201889/139.251430/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸三百藩大全 全藩藩主変遷表付 (廣済堂ベストムック287号)

江戸三百藩大全 全藩藩主変遷表付 (廣済堂ベストムック287号)

  • 出版社/メーカー: 廣済堂出版
  • 発売日: 2015/03/02
  • メディア: ムック
ラベル:陣屋
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2024年02月04日

中尾城(群馬県高崎市)

DSCN2088.JPG←主郭東の塁線跡
 中尾城は、歴史不詳の城である。場所的に推測すると、箕輪城主長野氏の支城か、或いは和田城主和田氏の支城と考えるのが妥当な線であろう。

 中尾城は、観窓という寺の北東にあったらしい。市街化・耕地化で遺構の湮滅が進んでいるが、主郭部は民家裏の空き地となって方形区画が残り、その周囲に塁線跡らしい段差が見られる。また周辺の住宅地を縫うように水路が巡っており、堀跡であったらしい。主郭北側には竹藪が密生していて、ここには土塁ぐらい残っていそうであるが、近づく術がなく遠巻きに眺めるだけしかできない。いつの日か、遺構があらわになることを望みたい。
主郭北辺の竹藪→DSCN2105.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.368421/139.028324/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本
ラベル:中世平城
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2024年02月02日

菅谷城(群馬県高崎市)

DSCN2064.JPG←土塁跡らしき土盛り
 菅谷城は、箕輪城主長野業政の長子吉業が城主であった城である。善龍寺にある墓碑・解説板によれば、吉業は左京亮の官途名を有し、1556年に実弟業盛に箕輪城を譲って、自身は菅谷城主となった。吉業は、1563年に西上州に侵攻した甲斐武田氏の重臣内藤修理亮昌豊と戦い、高崎の豊岡で討死した。時に36歳とも38歳とも伝わる。その後菅谷城は、家老宇喜氏が城代を務めたが、1566年に箕輪城とともに落城した。しかし別説では、吉業は河越夜戦の戦傷が元で16歳で没したとも言われ、どちらが正かはわからない。

 菅谷城は、浄眼寺の南東にあったらしい。市街化で遺構は壊滅状態であるが、主郭と思われる民家の敷地の入口脇に土塁の残欠らしい土盛りがわずかに残っている。また周辺には水路がいくつかあり、これらも堀跡であったと推測される。いずれにしても城の痕跡は殆ど失われており、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.378649/139.014752/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野業政と箕輪城 (シリーズ・実像に迫る3)

長野業政と箕輪城 (シリーズ・実像に迫る3)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/12/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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2024年02月01日

浦賀奉行所(神奈川県横須賀市)

DSCN2006.JPG←周囲に残る石垣と水路
 浦賀奉行所は、江戸中期の1720年10月に伊豆の下田奉行所を移転し、新たに開設された奉行所である。全国各地から江戸に様々な物資が船で運搬されていたため、江戸に近く、検査をほぼ完ぺきにできる場所として浦賀が選ばれたとされている。浦賀奉行所では、船の積み荷と乗組員の検査をする「船改め」を行う「船番所」が開設され、江戸を往来する全ての船は浦賀で検査を受けることが義務付けられた。船改めは廻船問屋105軒に委託され、生活必需品11品目について3ヶ月毎に集計された数字が江戸町奉行へ報告された。また現在で言う税務署・裁判所・警察署・海上保安庁などの仕事も行っていた。浦賀奉行所開設から100年を過ぎた頃から江戸近海に異国船が来航するようになると、江戸を異国船から守る最前線の基地の役目も持つようになった。1853年6月にアメリカ合衆国のペリー艦隊が浦賀に来航すると、中島三郎助や香山栄左衛門らの浦賀奉行所の役人達が交渉などに大いに活躍した。1859年6月に神奈川奉行所が開設されると、異国船関係の仕事は神奈川奉行所に移されたが、浦賀奉行所は1868年閏4月に新政府に接収されるまで続き、更に船改めの業務だけは、1872年(明治5)3月まで続けられた。

 浦賀奉行所は、浦賀港西方の山に挟まれた平地の奥に築かれている。以前は会社の社宅が建っていたが、現在は跡地が横須賀市に寄贈され、更地となっている。しかし周囲には低い石垣が残り、水路が廻らされている。また2021年設置の真新しい解説板も立っている。2020年に奉行所開設300周年を迎えたが、ちょうど新型コロナのパンデミックと重なってしまい、話題になることはほとんどなかったようだ。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.236497/139.719186/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


開国への布石: 評伝・老中首座阿部正弘

開国への布石: 評伝・老中首座阿部正弘

  • 作者: 土居 良三
  • 出版社/メーカー: 未来社
  • 発売日: 2000/08/18
  • メディア: ハードカバー
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