
←外側の三日月堀
堀之内城は、天文年間(1532~55年)に布下仁兵衛雅朝の詰城であったと伝えられている。布下氏の居館は西麓の布下にあったらしい。布下氏は望月氏に属していた。近くの釈尊寺の僧坊の一つ、楽巌寺の荒僧、楽巌寺入道雅方が僧坊を要塞化して
楽巌寺城と為し、釈尊寺の防衛に当たっていたのと同盟関係にあった。1548年、甲斐武田氏に攻められて釈尊寺本坊以下六坊(楽巌寺等)は悉く兵火にあって焼失落城した。望月氏は武田氏に降ったが、雅朝と楽巌寺氏は村上義清の元に走った。この年の2月には武田信玄が一敗地にまみれた
上田原合戦があったので、その前哨戦であったと推測される。上田原合戦で勝利を得た村上義清は、4月に佐久の武田方拠点内山城を攻略するなど反撃を始めた。このため同年5月17日、佐久方面の防衛強化のため、武田氏が楽巌寺城・堀之内城(両城をまとめて「布引ノ城」と呼んでいる)の改修に着手(鍬立)したことが『高白斎記』によって知られる。以後の布引城の城主は望月新六・諏訪刑部左衛門頼角が知られる。この後、村上氏が武田氏に敗れて信濃から逐われると、布下・楽巌寺両氏は武田氏に降った。
堀之内城は、千曲川に臨む御牧ヶ原台地北端の断崖上に築かれている。すぐ東隣には楽巌寺城がある。中田正光氏は、堀之内・楽巌寺両城をまとめて「堀の内城塞群」と呼称している。堀之内城は楽巌寺城とは異なり、細尾根城郭という形態ではなく、千曲川に臨む断崖上に広がる広大な平坦地を主城域としている。そしてこの平坦地と御牧ヶ原台地との間は細長い尾根で繋がっているが、尾根南端の付け根の部分に二重の三日月堀で防御された丸馬出が構築されている。この部分は他の武田氏の城との共通性から、明らかに武田氏による改修の跡と考えられる。しかも二重堀の間は土塁ではなく幅のある帯曲輪となり、南北と西辺に土塁を築いて武者隠しの空間としている。馬出し郭には現在諏訪神社が祀られている。ここから北に伸びる尾根は、車道や古いコテージの建設で破壊を受けているが、側方に堀切の名残が残っている。先に進むと大手道を防衛していた高台となった3郭がある。3郭も西側は破壊されているが、東半分は遺構が残っていて、土塁で囲まれた曲輪となっていて、南側に堀切も残っている。3郭の北には一段低く2郭が伸びている。2郭の一部は墓地となっているが、その北側に堀切跡が残っている。その北に広がるのが広大な主郭である。現在はかなりの部分が耕作放棄地で、冬場でも枯れ薮が多く、踏査に苦労する。どこまで主郭と見るかは判断に悩むが、途中に大きな傾斜地が東西に連なっていて、それを境に大まかに南北2つの平場に分かれることから、『信濃の山城と館』の呼称に倣って上の方を主郭、低い北側の平場を4郭としておく。4郭の北辺部には土塁が築かれ、北西角には西尾根に通じる虎口が築かれている。また4郭の東に伸びる尾根の先には物見台と思われる高台が残っている。この他、主郭と前述の傾斜地の西側には腰曲輪があり、主郭の西に伸びる支尾根には堀切も穿たれている。以上が堀之内城の遺構で、二重の三日月堀が出色の城である。
4郭東尾根の物見台→


←主郭西尾根の堀切
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:
https://maps.gsi.go.jp/#16/36.331563/138.378468/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
信濃の山城と館1 佐久編 縄張図・断面図・鳥瞰図で見る - 宮坂 武男
posted by アテンザ23Z at 02:00|
Comment(0)
|
古城めぐり(長野)
|

|