2026年05月28日

広島城(広島県広島市)

DSCN7998.JPG←実質的な馬出しである二ノ丸
 広島城は、豊臣大名毛利輝元が新造した近世城郭である。西国の雄毛利氏は安芸郡山城を居城としていたが、豊臣秀吉の聚楽第や大坂城を見物した輝元は、城下町と一体化して政治・経済の中心として機能する城の必要性を痛感し、瀬戸内海に面する太田川河口の三角州に新城を建設した。叔父の穂田元清・側近の二宮就辰を普請奉行として1589年4月15日に鍬入れ式を行い、翌90年末には一応の完成を見て91年に輝元は入城を果たした。しかしその後も城の整備は続けられた。また秀吉の朝鮮戦役においては、広島城下は兵員・物資の中継地として重要な役割を果たした。1600年、関ヶ原合戦で徳川家康率いる東軍に敗北した西軍主将の輝元は、大減封されて萩に追われ、代わって福島正則が芸備2ヶ国40万石の領主として広島城に入った。正則は外堀や外郭を整備して広島城を完成させ、更に城下町の拡充を図った。1516年、豊臣恩顧の外様の雄藩であった正則は、1619年に城の石垣の無断修理を理由に改易され、代わって紀州藩主浅野長晟が42万国に加増されて芸備の大名として入城した。以後、幕末まで浅野家の歴代の居城として続いた。

 広島城は、前述の通り河口のデルタ地帯の中洲に築かれた平城である。今年の3月をもって老朽化と耐震性の問題で天守が閉鎖されるというので、その前に訪城した。中心に長方形の本丸を置き、その南に実質的な馬出しである二ノ丸、そして本丸の北以外の三方を囲むように三ノ丸が置かれ、更に南に大手郭が、東・北・西に外郭が配置された広大な城であった。しかし現在残っているのは本丸・二ノ丸だけで、それ以外は市街化で遺構は残っていない。三重の水堀も、内堀以外は姿を消している。また広島に原爆が投下された際、残っていた天守などの建築物は吹き飛んだか、消失して灰燼に帰しており、現在の天守や二ノ丸の櫓などは全て復元されたものである。ただ、本丸と二ノ丸の石垣は往時のまま残っていて、中心部は総石垣の城であった。本丸内は2段の平場に分かれていて、上段平場の周囲にも石垣が築かれている。この内、上段平場の北側の石垣は途中で石垣が途切れているが、これは福島正則が幕府から無断修築を咎められてその部分の石垣の取り壊しを命じられた際に、指示されたのとは別の場所の石垣を壊した跡なのだとされる。本丸・二ノ丸以外については、街中の各所に標柱や解説板が立っているが、すべての門跡が明示されているわけではなく、一部に留まっている。以上が広島城の遺構で、他の近世城郭のように中堀・外堀が水路として部分的にでも残っていれば、より城の壮大さがわかりやすかったのにと惜しまれる。
正則が石垣を壊した跡→DSCN8082.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.401620/132.459603/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

萩藩閥閲録の世界-戦国期毛利氏の実像- - 布引 敏雄
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ラベル:近世平城
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2026年05月26日

窪寺城(長野県長野市)

DSCN7907.JPG←城域を2分する堀切
 窪寺城は、この地を支配した土豪窪寺氏の詰城である。1400年に新守護小笠原長秀に信濃国人衆が反抗して生起した大塔合戦の時、大文字一揆が集まって相談したのがこの城であったと伝えられる。後に小田切氏に属したが、甲越両軍が川中島の領有を巡って争った際に、武田軍に攻められて落城したと言う。

 窪寺城は、富士ノ塔山の南東に伸びた尾根先端部の高台を利用して築かれている。背後に当たる北西の丘陵とは自然地形に手を加えた大空堀で分断されており、先端の高台に南西から北東に向かって曲輪群を展開した縄張りとなっている。主郭は南西の最高所にあり、長方形に近い形状の曲輪で、前後に前郭・後郭を伴っている。主郭とこれら前後の曲輪は、一応切岸と思しき斜面で区画されているが、緩い斜面になっていて、あまりしっかりした構築ではない。前郭の前面には堀切が穿たれ、城域を大きく2つに分断している。堀切の北にあるのが二ノ郭で、上下の平場に分かれているが、平場自体も傾斜しているし、間を区画する斜面も緩やかで明確な段差にはなっておらず、普請が不徹底な印象である。この他、二ノ郭の前面に3段、主郭後郭の後方に2段の腰曲輪が築かれている。窪寺城は、遺構はよく残っているが、全体的に普請が荒く、戦国期にはあまり積極的な活用はされていなかったように見受けられる。
背後の丘陵と分断する空堀→DSCN7918.JPG
↓MPI赤色立体図で見た窪寺城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-05-19 203929.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.637346/138.164826/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

検証 川中島の戦い (588) (歴史文化ライブラリー 588) - 村石 正行
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ラベル:中世平山城
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2026年05月24日

吉窪城(長野県長野市)

DSCN7755.JPG←主郭~二ノ郭間の仕切り土塁
 吉窪城は、この地の豪族小田切氏の城と推測されている。現地解説板によれば、小田切氏は元々佐久郡臼田小田切郷を本拠としていたが、鎌倉時代に小市の地頭となって移住し、小市今里等に居館を構え、背後に詰城の小市城を築いたと伝えられる。小市城とは、この吉窪城のこととする説がある。戦国時代には、小田切駿河守幸長は当初東信の雄村上義清に属し、甲斐武田氏の侵攻を受けると、村上氏と共に越後上杉方に加わった。1557年3月15日、武田信玄が葛山城を攻撃した際、幸長は春日・朝日・長嶺・久保寺・平林・布施・横山等組下七騎衆を率いて城を守ったが、武田方の火攻めによって上杉軍の援軍到着寸前に落城し、幸長は討死した。数度の川中島合戦の結果、川中島地域は武田氏の制圧するところとなり、幸長の子民部少輔は一時武田氏に仕えて400貫の知行を受けた。しかし後に衰微し流転を重ね、末裔は高井郡に移ったと言う。

 吉窪城は、犀川北岸にそびえる標高620mの山上に築かれている。犀川が川中島平へ抜ける喉元を扼する要衝で、しかも川中島平を一望できる場所にある。山頂に紡錘形をした曲輪があり、郭内西寄りに曲輪を東西に仕切る一直線の長い土塁が築かれている。土塁の東が主郭と思われるが、郭内にいくつかの段差があり、しかも傾斜している平場もあって遺構なのか後世の改変なのか、よくわからない。また土塁西側の平場が二ノ郭と思われるが、石積みを伴った窪地が散在し、これもどういう構造であったのか判断が難しい。虎口を形成していたと思われる石積みも見られるが、そこから郭内に入った窪地の形状が虎口のようには見えないので、これも後世の改変の可能性がある。『信濃の山城と館』ではこれらを「竪穴式の小屋の遺構」としているが、採石場跡とか炭焼きの跡とか、城郭関連でない感じがする。二ノ郭の北西部は大きな段差で一段低くなっているが、ここにも郭内に段があり、北辺に空堀らしい地形も見られる。主郭・二ノ郭の外周には土塁が数ヶ所築かれ、特に主郭の北側から東面にかけては土塁が明瞭である。この他、主郭の南北に腰曲輪が築かれているが、北側の腰曲輪に対しては、主郭塁線が数ヶ所折れて横矢を掛けており、その内の1ヶ所は虎口を形成している。北の腰曲輪の北東部から2本の竪堀が落ちており、城に接近しやすいこの方面に防御構造が集中している。一方、南の腰曲輪の南端部にはL字型の土塁が築かれ、この部分だけ腰曲輪が空堀状を呈している。城の東西にも小型の段曲輪が築かれている。以上が吉窪城の遺構で、城の縄張りがはっきりしている所と不明瞭な所が混在している感じで、掴みどころのない城という印象を受けた。
南腰曲輪のL字型土塁→DSCN7821.JPG
↓MPI赤色立体図で見た吉窪城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-05-18 214546.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.625327/138.122791/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3) - 宮坂武男
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ラベル:中世山城
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2026年05月22日

上尾城(長野県長野市)

DSCN7620.JPG←主郭背後の堀切
 上尾城は、滋野系望月氏の子孫布施氏の一族平林氏の歴代の居城である。布施庄地頭職を相伝した布施氏は、応仁年間(1467~69年)に入ると更級郡西山地方に勢力を伸ばし、左衛門尉正直は山平林の上尾山上に居住して平林氏を称した。父の布施冠者直頼は、山布施城に居住したが、若くして隠遁生活に入り、長子正直が若年のため、弟直長に家督を譲り、正直が成人した暁には家督を譲るよう決めた。しかし、正直および弟正頼(平林蔵人佑)が成人しても家督は譲られなかったため、内訌が生じ、結局直長は敗れて出奔した。その頃、正直は上尾城、弟は有旅城にいたが、正直に子がないため、弟の正頼が上尾城に入って家を継いだ。その後平林氏は東信の雄村上氏に属し、村上氏が甲斐武田氏に逐われると、その後は武田氏に属して活躍した。政頼の孫正家は武田信玄の命で要衝牧之島城の副将となり、1569年の北条氏との戦いでは先鋒となって討死した。その子正恒は、当初上尾城に居住していたが、武田勝頼の命令で牧之島城に移り住んだ。1582年3月、織田信長の武田征伐で織田勢が進撃してくると、正恒は一旦上尾城に退いた。しかし同年6月、本能寺の変で信長が横死すると、武田遺領を制圧していた織田勢は瓦解し、森長可は本領の美濃金山城に逃れた。北信4郡には越後の上杉景勝が入って制圧し、平林氏は上杉勢の援助で牧之島城を奪還し、その後は上杉氏に仕えた。1598年に上杉氏が会津に移封となると、平林氏は2000石を給され、白河小峰城に移った。

 上尾城は、犀川東岸の段丘の上の高台に築かれている。犀川沿いの道路から見ると、まるで隠れ里のような集落の奥にある。その集落背後の高台の北端に城がある。台形状の主郭と、その北のやや丸みを帯びた形状の二ノ郭、先端に物見台らしき小郭を配置した縄張りとなっている。それぞれの曲輪は堀切で分断され、主郭の南辺と西辺、二ノ郭の南辺には土塁が築かれている。また主郭の南側中央には虎口がある。主郭背後には殿屋敷・蔵屋敷などの地名が残る平場があるが、廃屋があるだけで薮に埋もれている。ただ北東端に堀切の名残と思われる堀城地形が残っている。以上が主城部であるが、南東の丘陵部を登った先にも、遠堀と思われる空堀が2本確認できる。以上が上尾城の遺構で、一部耕作で改変されている部分もあるが、ほとんどの遺構は良く残っている。しかし現在はほとんどが耕作放棄地らしく、全体的に薮に覆われてしまっていて遺構の確認がしづらくなっているのは惜しい。
先端の堀切と物見台→DSCN7657.JPG
DSCN7694.JPG←南東の丘陵部にある遠堀
↓MPI赤色立体図で見た上尾城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
z上尾城MPI赤色立体図.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.582500/138.059014/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優
武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優
ラベル:中世平山城
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2026年05月20日

牧之島城(長野県長野市)

DSCN7494.JPG←丸馬出しと三日月堀
 牧之島城は、甲斐武田氏が築いた更級郡の拠点城郭である。元々この地には香坂氏が勢力を張り、牧之島城の前身となる居城・牧城があった。1561年、武田信玄によって香坂氏は誅殺され、その名跡は同氏の娘婿春日弾正虎綱が継いだ。牧之島城の築城には諸説あり、1562年8月28日、信玄が馬場美濃守信房に命じて築かせたとも、1566年10月に信房が城代になったとも言われる。いずれにしても、1566年8月27日に牧之島城のある御供平にいた人々の屋敷を、新しい縄張りで築城するにあたり屋敷替えを命じた文書があるので、この頃まで継続して築城されていたと推測される。牧之島城は、深志城から川中島に進出する交通の要地であり、拠点として重視された。1575年、長篠合戦で馬場信房が討死すると、翌年、信房の子昌房が牧之島城の城将となり、地侍平林正恒も武田勝頼の命令で在城した。1582年3月、織田信長の武田征伐により深志城を守っていた昌房は殺され、平林正恒らは上尾城にいったん退き、更級郡を含む北信4郡は森長可が統治することとなった。しかし同年6月、本能寺の変で信長が横死すると、武田遺領を制圧していた織田勢は瓦解し、森長可は本領の美濃金山城に逃れた。北信4郡には越後の上杉景勝が入って制圧し、平林氏は上杉勢の援助で牧之島城を奪還した。北条・徳川・上杉3氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」とその後の信濃の抗争の中で、深志城を本拠として信濃北部への侵攻を図る小笠原貞慶に対抗するため、境目の城である牧之島城には芋川親正を置き、荒砥城と共に北信濃衆を集中配備して守らせた。1598年に豊臣秀吉の命で上杉氏が会津に移封となると、牧野島の地侍たちも会津に移転した。その後は、松代の領主が牧之島城を預かって城番を置いたらしい。1603年、徳川家康の6男松平忠輝が松代に入ると、牧之島城に家老を置いて統治した。1616年、忠輝が不行跡によって改易されると、元和の一国一城令によって牧之島城もまもなく廃城になったものと思われる。

 牧之島城は、犀川曲流部に東から突き出たスプーンのような形状の台地の括れて細くなった部分に築かれている。一部が道路建設や民家となって損壊しているが、概ねの遺構は良く残っている。大きな空堀を穿ち、枡形虎口と丸馬出しを設けた武田流築城法がよくわかる城である。近世初頭まで存続しているが、ほとんど武田氏時代のままの縄張りが維持されたようである。本丸は長方形に近い形状であるが、北西部に入隅があり、北中央と東中央に枡形虎口を築いている。枡形の形状は、躑躅ヶ崎館新府城のものと同形状のものである。本丸は断崖に面した南以外の三方に高土塁を築いて防御している。本丸北側に水堀を挟んで二ノ丸が置かれている。二ノ丸は道路が貫通しているので改変を受けているが、東側に本丸土塁と繋がる高土塁があり、稲荷社が建っている。この高土塁は本丸塁線より東に張り出していて、東側虎口に対する横矢掛りを意図している。本丸・二ノ丸の東西には深い空堀が穿たれている。西には帯曲輪を挟んでもう1本空堀がある。東側は、空堀の外にきれいな丸馬出しと三日月堀が残っている。古絵図を見ると、往時は2連の丸馬出しがあり、さらにその東側に大手枡形があったらしいが、北側の丸馬出しと大手枡形は湮滅している。以上が牧之島城の遺構で、集落のすぐそばによくこれだけの遺構が残ったものだと感心する。
本丸北側の枡形→DSCN7539.JPG
DSCN7584.JPG←本丸・二ノ丸西の空堀
↓MPI赤色立体図で見た牧之島城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-05-11 235822.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.561756/137.998748/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

天正壬午の乱 増補改訂版 - 平山 優
天正壬午の乱 増補改訂版 - 平山 優
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2026年05月18日

蟻ヶ城(長野県長野市)

DSCN7420.JPG
↑南斜面の畝状竪堀

 蟻ヶ城は、歴史不詳の城である。『日本城郭大系』では拠点城郭・牧之島城に属する物見砦と推測している。

 蟻ヶ城は、標高1028mの山上に築かれている。南麓の四阿山社の奥宮の石祠が城内にあるので、参道がついている。 ただこの参道、斜面直登のストレートの一本道でなかなかきつい。逃げ場のない一本道の登城路は女神岳城を思い出す。山頂に堀切で区画された主郭と二ノ郭を並べている。主郭は土塁のない小規模な曲輪で、南側半周に帯曲輪を廻らしている。二ノ郭は細長い曲輪で、東側に帯曲輪を伴い、北端に土壇を築いている。その北側は二重堀切で尾根筋を分断している。この城の最大の特徴は、主郭帯曲輪の下方に穿たれた畝状竪堀である。かなり浅いものだが、形状は割とはっきりわかった。主郭と二ノ郭を区画する堀切は、南東側に長い竪堀となって落ち、この畝状竪堀の東端を画している。また主郭の西尾根側方にも竪堀数本が確認できる。これらの他、二ノ郭の東尾根にも2本の堀切とその間に連なる段曲輪群がある。

 以上が蟻ヶ城の縄張りで、単なる物見砦にしてはかなりしっかりした普請がされている。この城を築いた勢力を推定する有力な手がかりが畝状竪堀である。実は武田系城郭では畝状竪堀の例は意外に少なく、武田の城で多いのは放射状竪堀群なのである。従って、蟻ヶ城を築いたのは上杉勢力ではないか、というのが私の見立ててである。稲荷山城の項でも記載したが、天正壬午の乱終結後の北信をめぐる抗争の中で、北信濃4郡を押さえた上杉景勝が、深志城を押さえて安曇・更級方面への侵攻を図る徳川方の小笠原貞慶に備えて各所の守りを固めている。更級郡の要衝牧之島城には芋川親正を城将として配置しており、この地方の防備の一環でこの蟻ヶ城を築いたのではないかと思われる。ただ、街道から少し奥まった山に築かれているのは、高所を利用した狼煙伝達を主任務としつつ、侵攻を受けた時には少数の兵で小笠原勢を足止めすることを企図した城だったのではないだろうか。
北尾根の二重堀切の内堀→DSCN7451.JPG

↓MPI赤色立体図で見た蟻ヶ城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-05-11 235604.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.523701/138.015992/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優
武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優
ラベル:中世山城
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2026年05月16日

砦山城(長野県長野市)

DSCN7312.JPG←北東の丸馬出しの土橋と堀
 砦山城は、古文書に現れる大岡城のことと考えられている。1558年、武田信玄が上杉謙信の川中島への進攻に備えて北信諸城の番手を決めた際、大岡籠城衆の中に市川梅隠斎・青柳近江守清長らを置いた。また天正壬午の乱終結後の北信をめぐる抗争の中で、1584年8月に小笠原貞慶は家臣の日岐盛武・細萱河内守に大岡城の仕置きを堅固にして上杉勢に備えることを命じている。

 砦山城は、天宗寺の南西の丘陵上に築かれている。1辺約40mの正方形の曲輪を空堀で囲繞した単郭の小城砦であるが、特徴的なのは三方に築かれた虎口で、北東と南西に丸馬出しを設け、南東には出枡形を築いている。特に南西の丸馬出しは斜面に向かって突き出た、城内最大の馬出しで外周の三日月堀と両側の土橋など、武田流築城術の特徴的な形態がはっきりと見て取れる。主郭とは空堀で分断され、木橋で連結していたと思われる。それに対して北東の丸馬出しは、主郭後部の土塁の外側に出枡形のように突き出ており、前面に三日月堀を穿ち、両側に土橋を架けて外部と連絡している。主郭後部に当たる北東辺には土塁が築かれ、北西辺と南東角付近にも土塁が築かれている。郭内は南西に向かって傾斜している。以上が砦山城の遺構で、武田氏系城郭の特徴的な構造がよく分かる好例である。
南西の丸馬出しに架かる土橋→DSCN7368.JPG
↓MPI赤色立体図で見た砦山城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-05-11 235345.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.501923/137.985951/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田三代の城 - 岩本 誠城
武田三代の城 - 岩本 誠城
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2026年05月14日

船山守護所(長野県千曲市)

DSCN7305.JPG←南側の堀跡と思われる道
 船山守護所は、建武の新政期に信濃守護職に補せられた小笠原貞宗が、埴科郡船山郷内に置いた守護所(守護館)である。後に守護所は平芝に移転した。尚、鎌倉後期に執権北条氏の一族北条基時(後に13代執権を務めた)が信濃守護に補せられた折り、船山郷の中心地に館(守護所)を置いていた可能性があり、小笠原氏の船山守護所はその跡地に置かれた可能性も指摘されている。

 船山守護所は、その正確な所在地も不明であるが、現在の小船山地区にあったと考えられている。現在は完全に住宅地化していて遺構は完全に湮滅している。しかし『信濃の山城と館』では、堀跡が道路跡として残っている可能性を指摘している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.513546/138.122638/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

南北朝武将列伝 北朝編 - 亀田俊和, 杉山一弥
南北朝武将列伝 北朝編 - 亀田俊和, 杉山一弥
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2026年05月12日

稲荷山城(長野県千曲市)

DSCN7269.JPG←鉦山に残る城址碑
 稲荷山城は、上杉景勝が小笠原貞慶に備えて築いた城である。1582年3月に甲斐武田氏を滅ぼした織田信長であったが、わずか3ヶ月後に本能寺の変で横死し、織田領に併合されたばかりの旧武田領の甲斐・信濃両国は、権力の巨大な空白地帯となった。この機に乗じて北条・徳川・上杉が三方から甲斐・信濃に進撃し、周辺大名の草刈り場と化した(天正壬午の乱)。この直前、越後の上杉景勝は織田勢に三方から侵攻され、滅亡寸前の状況であったが、信長横死の報とともに織田勢が潮が引くように上杉領国から退いていったため息を吹き返し、北信濃4郡の経略に取り掛かった。景勝は、要衝の海津城に村上景国を配し、副将として屋代秀正を置いた。その翌年、深志城を押さえて徳川家康に与した小笠原貞慶が上杉方に付いた青柳城麻績城を攻撃していたため、景勝は松田民部助盛直(日岐盛直)・保科(綿内)豊後守に小笠原勢の川中島侵攻を阻む前線基地として、千曲川西岸に稲荷山城の築城を命じた。天正壬午の乱終結後も上杉氏は稲荷山城に城将を置いたらしく、1594年の上杉氏の目録には、稲荷山留守役衆として保科佐左衛門・小田切備前守・同金千代丸・須崎彦兵衛・同権助らの名が見える。1598年に上杉氏が会津に移封となると廃城になったとも、1615年の元和の一国一城令で廃城になったとも言われる。

 稲荷山城は、江戸時代には宿場町となり、現在は市街地となっている。移行はほとんど湮滅しているが、天正年間(1573~92年)の櫓台の跡と伝えられる鉦(どら)山がわずかに残っている。また城小路の井戸も車道脇に残っている。明確なのはこれぐらいで、その他は水路と道の配置とで城の痕跡を想像するしかない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.535442/138.105369/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優
武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで - 平山 優
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2026年05月10日

和田城(長野県長野市)

DSCN7208.JPG←二ノ郭西側の二重空堀
 和田城は、地侍田野口氏の要害と伝えられている。戦国期には、田野口氏は上尾城主平林氏に属していたらしい。それ以外の詳細は不明である。

 和田城は、密蔵寺背後の丘陵南端部に築かれている。南端に菱形をした主郭を置き、その北から西にかけて二ノ郭をめぐらし、二ノ郭の北に三ノ郭を配置した縄張りとなっている。主郭の後部2辺には土類が築かれ、背後には幅のあるL字型の空堀が穿たれている。二ノ郭は北半の3辺に土塁が築かれている。二ノ郭の幅は一定ではなく、主郭北西角部が曲輪の奥まで入り込み、曲輪の幅が狭くなっている。これはおそらく当初は主郭から二ノ郭までのひろい範囲を旧主郭としていたものを、後から内部に堀を穿って2つの曲輪に分けて、防御性を増す改修をしたことによるのだろう。二ノ郭の北側には空堀が穿たれて三ノ郭と分断されている。見事なのは二ノ郭の西側の堀で、美しい二重空堀が穿たれている。途中で三ノ郭との間の空堀と直交しながら北側まで掘り切っている。この二重空堀は、三ノ郭の北側で東に向かって湾曲している。また三ノ郭の西側部分だけ、外堀の外にも土塁が築かれている。三ノ郭は、ほとんど地山のままで明確な普請の跡は見られない。この他、主郭の南斜面に2段の腰曲輪が築かれ、主郭先端から伸びる東尾根には小堀切と小郭がある。以上が和田城の遺構で、美しい二重空堀が特徴の城である。
主郭の空堀と切岸→DSCN7226.JPG
↓MPI赤色立体図で見た和田城(出典:全国Q地図〔国土地理院測量成果〕)
スクリーンショット 2026-05-08 003631.png.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.566843/138.078335/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3) - 宮坂武男
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ラベル:中世崖端城
posted by アテンザ23Z at 22:15| Comment(0) | 古城めぐり(長野) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする