2025年07月19日

祢津上の城(長野県東御市)

DSCN7203.JPG←主郭
 祢津上の城は、祢津城(下の城)と共にこの地の豪族禰津氏の要害である。本城の祢津城と比べると簡素な構造のため、一時的な逃げ込み場所と考えられている。

 祢津上の城は、根津城の北東約920mの位置にある、標高930mの山上に築かれている。西中腹の林道脇から登道が整備されている。曲輪の規模的には祢津城より大きいが、普請はかなり大味である。頂部に東西に細長い長方形の主郭を置き、西側にわずかな段差で区画された半月型の二ノ郭を築いている。二ノ郭は主郭北側まで帯曲輪となって伸びている。更にその西から北面にかけて帯曲輪を廻らしている。主郭内部は数段の平場に分かれるようだが、切岸が不明瞭ではっきりせず郭内が傾斜しているように見える。西端部の土塁だけははっきりしている。二ノ郭も半月部の外周を取り巻く土塁ははっきりしている。二ノ郭の北側やや西寄りに、下の帯曲輪から登る虎口が見られる。以上が祢津上の城の遺構で、曲輪は大きいが普請が中途半端で、あまり普請に力を入れてない感じの城である。逃げ込み城という見解も もっともである。
外周の帯曲輪と二ノ郭切岸→DSCN7176.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.384248/138.356289/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

甲信越の名城を歩く 長野編 - 中澤 克昭, 河西 克造
甲信越の名城を歩く 長野編 - 中澤 克昭, 河西 克造
ラベル:中世山城
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2025年07月17日

祢津城(長野県東御市)

DSCN7138.JPG←長大な二重竪堀
 祢津城は、祢津下の城とも言い、この地の古くからの豪族禰津(祢津)氏の本城である。禰津氏は信濃の名族滋野氏の一族で、海野太郎則重の孫道直が禰津小次郎を称し、その子貞直は諏訪大祝貞光の猶子となって神(みわ)氏となり禰津神平を称した。その名は平安末期の保元の乱で、源義朝に従う信濃武士の中に見える。禰津氏は滋野氏一族の中で、海野氏・望月氏と並んで滋野三家と呼ばれ、平安末期以後、信濃国小県郡から上野国吾妻郡まで広大な勢力を有していた。1180年6月の木曽義仲の挙兵の際には、禰津次郎貞行・同三郎信貞が参陣し、1190年の源頼朝の上洛の際には禰津次郎が随兵に加わり、1221年の承久の乱では禰津三郎が幕府軍に加わった。その後しばらく禰津氏の名は史料上に見えなくなるが、南北朝期に至って再び現れる。即ち『太平記』によれば、1338年の新田義貞の北陸越前での戦いにおいて、禰津(太平記では禰智と記される)掃部助・同越中守が、新田勢に属して戦った。1351年の武蔵野合戦の際には、笛吹峠に陣を敷いた宗良親王・新田義宗の軍勢に禰津小次郎・舎弟修理亮が参陣した。しかし南朝方が敗退すると、やがて北朝方に帰順したらしく、1359年4月、四条隆俊率いる紀州南朝方を畠山義深を大将とする北朝軍が攻撃した紀州龍門山の戦いでは、禰津小次郎は北朝方として戦った。以後も大塔合戦、結城合戦などにその名が現れており、信濃の有力氏族として活動してきたことがわかる。戦国中期の1541年、甲斐の武田信虎が諏訪頼重・村上義清とともに海野平に侵攻すると、禰津元直は武田氏に降り、以後武田氏に仕えた。元直の娘が信虎の嫡男晴信(後の信玄)の側室となり、元直の嫡男政直(松鴎軒常安)に信虎の娘を娶るなど、武田氏との紐帯を強め、信玄の代に武田氏が周辺諸国へ勢力を拡大するとその一翼を担って活躍した。政直の子月直が長篠の戦いで討死すると、甥の宮内大輔昌綱が家督を継いだ。1582年、武田氏・織田信長が相次いで滅亡し、北条・徳川・上杉三氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が生起すると、昌綱は最初北条方に付き、北条氏から離反した真田昌幸の攻撃を受け、後に真田氏に降伏した。第一次上田合戦の前哨戦で徳川勢が祢津城を攻撃するため城に迫ると、禰津氏は城を放棄して上田方面に逃れた。その後、上杉氏を介して真田氏の重臣となって続いた。一方、昌綱の伯父常安・信政父子は徳川氏に仕え、上野国豊岡で1万石を領し、大名に列した。

 祢津城は、上信越自動車道の東部湯の丸SAのすぐ北にそびえる標高825m、比高140m程の城山に築かれている。目立つ山なので以前から気になっていたが、今回ようやく行くことができた。祢津下の城と呼ばれる通り、北東約920mの山上に祢津上の城がある。南東中腹から登山道が整備されているので、迷うことなく登ることができる。山頂には南が膨らんだ長円形の主郭を置き、その北に腰曲輪1段と堀切を挟んで舌状の二ノ郭、二ノ郭の北に腰曲輪状の三ノ郭を置き、その北の尾根には3つの堀切を間隔をおいて穿っている。主郭は周囲に土塁を廻らし、南側に虎口を築いている。虎口の下には主郭外周を廻る腰曲輪があり、南東角に大手虎口が築かれ、石積が残っている。更に南斜面に数段の帯曲輪があり、最下方の帯曲輪は、南から西面を城全体を覆うように築かれていて、南側部分は横堀状を呈し、中央に虎口を築いている。この城で面白いのは、主郭の北に築かれた腰曲輪で、普通は主郭からいきなりズドンと大堀切を穿っているが、ここではわざわざ1段曲輪を築いている。この方が防御性が増すという縄張り設計者の見解なのだろうか。この大堀切は東西に竪堀となって長く落ち、竪土塁を伴っている。三ノ郭は北西部を除いて土塁を築いており、西端部から竪堀を落とし、東下方には二ノ郭東側まで続く腰曲輪を築いている。三ノ郭の切岸には石積が見られる。三ノ郭北側の堀切は、西は竪堀となって落ち、東側は円弧状となり、その先で鋭角に北東に向かって折れ、竪堀となって3本堀切の2本目から落ちる竪堀と合流している。ちなみに3本堀切の2本目は、尾根上には掘られておらず、両側方に落ちているだけである。2本目の先の尾根は窪地になっており、『信濃の山城と館』では池としている。その北に3本堀切の3本目が穿たれている。3本目の西側はもう1本竪堀を伴い、下方でY字合流している。東側は長い竪堀となって落ちている。ここで注目すべきなのが東側の長い竪堀で、前述の3本堀切の1本目・2本目が合流して落ちる竪堀と並行して、長大な二重竪堀となっているのである。しかも中間土塁には所々に石積も残っている。以上が祢津城の遺構で、コンパクトな城であるが、なかなか創意工夫された縄張りとなっている。
主郭→DSCN7066.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.378916/138.348446/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

信濃の山城と館: 縄張図・断面図・鳥瞰図で見る (第3巻(上田・小県編)) - 宮坂 武男
信濃の山城と館: 縄張図・断面図・鳥瞰図で見る (第3巻(上田・小県編)) - 宮坂 武男
ラベル:中世山城
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2025年07月14日

堀之内城(長野県小諸市)

DSCN6802.JPG←外側の三日月堀
 堀之内城は、天文年間(1532~55年)に布下仁兵衛雅朝の詰城であったと伝えられている。布下氏の居館は西麓の布下にあったらしい。布下氏は望月氏に属していた。近くの釈尊寺の僧坊の一つ、楽巌寺の荒僧、楽巌寺入道雅方が僧坊を要塞化して楽巌寺城と為し、釈尊寺の防衛に当たっていたのと同盟関係にあった。1548年、甲斐武田氏に攻められて釈尊寺本坊以下六坊(楽巌寺等)は悉く兵火にあって焼失落城した。望月氏は武田氏に降ったが、雅朝と楽巌寺氏は村上義清の元に走った。この年の2月には武田信玄が一敗地にまみれた上田原合戦があったので、その前哨戦であったと推測される。上田原合戦で勝利を得た村上義清は、4月に佐久の武田方拠点内山城を攻略するなど反撃を始めた。このため同年5月17日、佐久方面の防衛強化のため、武田氏が楽巌寺城・堀之内城(両城をまとめて「布引ノ城」と呼んでいる)の改修に着手(鍬立)したことが『高白斎記』によって知られる。以後の布引城の城主は望月新六・諏訪刑部左衛門頼角が知られる。この後、村上氏が武田氏に敗れて信濃から逐われると、布下・楽巌寺両氏は武田氏に降った。

 堀之内城は、千曲川に臨む御牧ヶ原台地北端の断崖上に築かれている。すぐ東隣には楽巌寺城がある。中田正光氏は、堀之内・楽巌寺両城をまとめて「堀の内城塞群」と呼称している。堀之内城は楽巌寺城とは異なり、細尾根城郭という形態ではなく、千曲川に臨む断崖上に広がる広大な平坦地を主城域としている。そしてこの平坦地と御牧ヶ原台地との間は細長い尾根で繋がっているが、尾根南端の付け根の部分に二重の三日月堀で防御された丸馬出が構築されている。この部分は他の武田氏の城との共通性から、明らかに武田氏による改修の跡と考えられる。しかも二重堀の間は土塁ではなく幅のある帯曲輪となり、南北と西辺に土塁を築いて武者隠しの空間としている。馬出し郭には現在諏訪神社が祀られている。ここから北に伸びる尾根は、車道や古いコテージの建設で破壊を受けているが、側方に堀切の名残が残っている。先に進むと大手道を防衛していた高台となった3郭がある。3郭も西側は破壊されているが、東半分は遺構が残っていて、土塁で囲まれた曲輪となっていて、南側に堀切も残っている。3郭の北には一段低く2郭が伸びている。2郭の一部は墓地となっているが、その北側に堀切跡が残っている。その北に広がるのが広大な主郭である。現在はかなりの部分が耕作放棄地で、冬場でも枯れ薮が多く、踏査に苦労する。どこまで主郭と見るかは判断に悩むが、途中に大きな傾斜地が東西に連なっていて、それを境に大まかに南北2つの平場に分かれることから、『信濃の山城と館』の呼称に倣って上の方を主郭、低い北側の平場を4郭としておく。4郭の北辺部には土塁が築かれ、北西角には西尾根に通じる虎口が築かれている。また4郭の東に伸びる尾根の先には物見台と思われる高台が残っている。この他、主郭と前述の傾斜地の西側には腰曲輪があり、主郭の西に伸びる支尾根には堀切も穿たれている。以上が堀之内城の遺構で、二重の三日月堀が出色の城である。
4郭東尾根の物見台→DSCN6953.JPG
DSCN6917.JPG←主郭西尾根の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.331563/138.378468/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

信濃の山城と館1 佐久編 縄張図・断面図・鳥瞰図で見る - 宮坂 武男
信濃の山城と館1 佐久編 縄張図・断面図・鳥瞰図で見る - 宮坂 武男
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2025年07月12日

楽巌寺城(長野県小諸市)

DSCN6700.JPG←北尾根付け根の2郭を隔つ空堀
 楽巌寺城は、天文年間(1532~55年)に楽巌寺の住僧ながら武勇に優れた楽巌寺雅方が、望月遠江守信雅の旗本としてこの城砦を築いて一山の防衛に当たっていたと伝えられる。1548年、甲斐武田氏に攻められて釈尊寺本坊以下六坊(楽巌寺等)は悉く兵火にあって焼失落城した。望月氏は武田氏に降ったが、楽巌寺氏と堀之内城主布下仁兵衛雅朝は村上義清の元に走った。この年の2月には武田信玄が一敗地にまみれた上田原合戦があったので、その前哨戦であったと推測される。上田原合戦で勝利を得た村上義清は、4月に佐久の武田方拠点内山城を攻略するなど反撃を始めた。このため同年5月17日、佐久方面の防衛強化のため、武田氏が楽巌寺城・堀之内城(両城をまとめて「布引ノ城」と呼んでいる)の改修に着手(鍬立)したことが『高白斎記』によって知られる。この後、村上氏が武田氏に敗れて信濃から逐われると、楽巌寺・布下両氏は武田氏に降ったが、後に疑われて成敗されたと言う。

 楽巌寺城は、千曲川に臨む御牧ヶ原台地北端の断崖上に築かれている。布引観音として知られる釈尊寺の後背部に当たり、すぐ西隣には堀之内城がある。中田正光氏は、楽巌寺・堀之内両城をまとめて「堀の内城塞群」と呼称している。楽巌寺城は、台地北端部に東西長さ180m程にわたって空堀を穿ち、その北東と北に伸びる2方向の尾根に曲輪群を展開している。空堀は車道建設で一部損壊しているが、かなり良好に残っており、西側では横矢掛りのクランクもはっきりしている。空堀に沿って残る土塁もしっかり残っている。北東尾根の付け根では、この空堀の北側にもう1本、L字型に空堀が穿たれて南北に曲輪を区画している。その先は細尾根城郭の作りで、平場群を尾根筋に沿って展開し、北端近くの高台に砦を築き、その後ろには堀切を穿って防衛している。また北尾根の方では、前述の長い空堀の北側にもう1本大きな空堀と土塁を築いて、こちらも南北2郭に分けている。北の曲輪は背後を土塁で防御した三角形の平場で、先端に小堀切を穿っている。北尾根は、その先の尾根筋に曲輪群を展開している。途中のピークに砦を築き、更にそこから北東に向かって突き出た尾根に曲輪群が築かれている。途中に大きな堀切が穿たれ、その上に曲輪があり、先端には腰曲輪2段を伴った砦を築いている。以上が楽巌寺城の遺構で、曲輪群の構築はやや散発的で、途中には自然地形が多い。南の台地側に対する防御を意識した縄張りの城である。
北東尾根の砦の堀切→DSCN6745.JPG
DSCN6770.JPG←北尾根先端の砦の曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【北東尾根の付け根曲輪群】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.326843/138.383493/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【北東尾根の砦】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.329651/138.386304/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【北尾根の付け根曲輪群】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.327563/138.382332/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【北尾根先端の砦】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.331753/138.386194/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田三代の城 - 岩本 誠城
武田三代の城 - 岩本 誠城
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2025年07月09日

霧久保城(長野県小諸市)

DSCN6547.JPG←主郭外周の石積み
 霧久保城は、歴史不詳の城である。伝承では、何某越中という武士が居城していたと言うが、明証はない。手城塚城の西の備えとして重要な位置にあり、富士見城と結んで千曲川沿いを押さえる要衝であったと推測されている。

 霧久保城は、千曲川北岸の段丘上にある標高607m、比高30m程の小山に築かれている。東側の車道脇に解説板が立ち、登道が付いている。しかし登道沿いの東斜面は薮がひどく、曲輪の切岸は確認できるが、曲輪の形状はほとんど把握することができない。しかし途中には石積みのある枡形空間などが見られ、城郭遺構の可能性がある。山頂に主郭があり、その西側に1段低く二ノ郭がある。二ノ郭の西側は比較的斜度のきつい斜面となっており、二ノ郭南西部の虎口から城道が斜面を下っている。この西側斜面だけは腰曲輪がないが、それ以外の三方の斜面には多数の腰曲輪群が築かれている。主郭・二ノ郭を始め、腰曲輪群の切岸には多数の石積みが見られる。しかし以前は全山耕地化されていたと思われ、その際の土留の石積みも含まれているので、どこからどこまでが遺構の石積みなのかは判別が困難である。ただ主郭・二ノ郭周辺の石積みなどはかなり大きな石も積まれており、遺構と見てよいのではないかと思う。また北東に伸びる舌状の腰曲輪群周囲の石積みも、遺構と見て良さそうである。城のある小山は北側に堀状の低地があって、段丘と切り離されている。以上が霧久保城の遺構で、もし全山に広がる石積みのほとんどが遺構であるならば、その縄張りも含めて富士見城とよく似ており、同じ築城主体が築いた城と考えられる。
北東の腰曲輪群の石積み→DSCN6499.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.335241/138.395413/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

信濃の山城と館1 佐久編 縄張図・断面図・鳥瞰図で見る - 宮坂 武男
信濃の山城と館1 佐久編 縄張図・断面図・鳥瞰図で見る - 宮坂 武男
ラベル:中世平山城
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2025年07月07日

武節城(愛知県豊田市)

DSCN6279.JPG←多数の腰曲輪群
 武節城は、山家三方衆の一、田峯城主菅沼氏の支城である。永正年間(1504~21年)に菅沼定信が築城した。三河・信濃・美濃の3国の国境に近く、三河防衛の最前線基地となり、菅沼氏は街道防衛のため一族を城代として置いたと言われる。当初、田峯菅沼氏は今川氏に属していたため、1556年には信州下伊那の下城信氏の侵攻を受けて武節城は落城したが、また今川方に復したらしい。1571年3月、武田信玄が大軍で三河へ侵攻すると、武節城は戦うことなく落城し、田峯菅沼氏も戦うことなくその軍門に下った。以後、武田氏の先手衆として活動した。1575年5月、長篠の戦いで武田勝頼が大敗すると、菅沼定忠は敗走する勝頼を自身の居城田峯城に案内したが、留守居役の家老今泉道善らの叛逆により城に入れず、やむを得ず段戸の山中で夜を明かし、武節城に入って休息を取り、一夜を明かした。翌日勝頼は信濃を経由して甲斐に戻った。その後、武節城は酒井忠次が攻略し、長篠城籠城戦で大功を上げた奥平信昌の領するところとなった。1590年に徳川家康の関東移封に伴って信昌が関東に移ると、武節城は廃城となった。

 武節城は、道の駅「どんぐりの里いなぶ」のすぐ東側にそびえる比高40m程の小山に築かれている。城内は公園化されている他、耕地化や墓地造成でかなり改変を受けている。大空堀で城域を大きく二分した一城別郭の縄張りとなっている。大型の櫓台が後部に築かれた主郭を中心に置き、北東に向かって階段状に二ノ郭・三ノ郭を配置している。これらの外周には数段の腰曲輪が築かれているが、傾斜がゆるい北西斜面に、より多く、より広い曲輪群が構築されている。主郭後部の櫓台には城山神社が建っているが、社伝によれば天正年間(1573~92年)の城主菅沼定広が城の鎮守のために祀ったのが始まりであるらしい。櫓台の背後には前述の大空堀が穿たれている。大空堀は、東側は腰曲輪群を分断しながら急峻な斜面を落ち、西側は北西に向かって腰曲輪群の間を下っている。大空堀の南には三角形状の外曲輪が築かれ、その周囲にも幾重にも腰曲輪群が築かれている。城域南端には車道が貫通しているが、これも改変されているが堀切が穿たれていた跡らしい。以上が武節城の遺構で、城の主要部は改変が多いが、大空堀の南にある外郭遺構は改変が少なく、ほぼ完存している。多数の将兵を失った後、苦心の末にこの城にたどり着いた勝頼の心中は、如何ばかりであったろうか?
主郭後部の櫓台→DSCN6340.JPG
DSCN6372.JPG←櫓台背後の大空堀
スーパー地形で見た武節城↓
Screenshot_2025-06-24-00-00-37-681_com.kashmir3d.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.214234/137.505312/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

武田三代の城 - 岩本 誠城
武田三代の城 - 岩本 誠城
ラベル:中世平山城
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2025年07月05日

清水城(愛知県設楽町)

DSCN6204.JPG←二ノ郭から見た主郭虎口
 清水城は、南北朝時代に足助氏の代官であった菜倉左近蔵人の居城と伝えられる。1334年頃に在任し、近隣28ヶ村を支配したと言う。菜倉氏は足助氏と共に南朝方に付いて戦った。2代右衛門佐伊武は跡継ぎがなく、新田氏から孫六兼氏を養子に迎え、一時新田氏を称した。

 清水城は、比高20m程の小山に築かれている。頂部に弓形に曲がった形の主郭を置き、その西に虎口を築き、前面に1段低く二ノ郭を配置している。二ノ郭は小さいので、実質的に虎口郭と思われる。主郭・二ノ郭の東から南にかけて、円弧状に帯曲輪が廻らされている。二ノ郭の西側下方には2段の平場が見られるが、耕地化で改変されているらしいので、曲輪としての名称が付いていない。しかし帯曲輪と接続していること、二ノ郭下方を押さえる場所であることから、原型を留めていないかもしれないが三ノ郭があったと推測される。この平場の付け根の北側には竪堀が落ちている。主郭北側下方には円弧状に堀切が穿たれ、そのまま西側に斜めの竪堀となって落ちている。堀切の北には尾根が続くが、西側が採土で削られているなどかなり改変されているので、土塁や堀状地形が見られるが、構造がはっきりとは捉えられない。以上が清水城の遺構で、小土豪が構築した小規模な城砦である。
堀切から落ちる竪堀→DSCN6227.JPG
↓スーパー地形で見た清水城
Screenshot_清水城.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.177485/137.530482/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

東海の名城を歩く 愛知・三重編 - 中井 均, 鈴木 正貴, 竹田 憲治
東海の名城を歩く 愛知・三重編 - 中井 均, 鈴木 正貴, 竹田 憲治
ラベル:中世平山城
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2025年07月03日

奥平館(愛知県設楽町)

DSCN6142.JPG←東側の空堀(竪堀)
 奥平館は、作手奥平氏の庶流、名倉奥平氏に関連する居館である。名倉奥平氏2代喜八郎信光(後の戸田加賀守信光)の居館と伝承されるが、名倉奥平氏の本拠は寺脇城であり、この奥平館との関係は不明。信光が家督を継ぐ以前に、この地に居住したものであろうか?

 奥平館は、現在民家の敷地となっている。丘陵を背後に控えており、背後の斜面の山林内に空堀と土塁が残っている。空堀と土塁は、南に向かって末広がりに開いたコの字形をしているが、東側の空堀(竪堀)が尾根先端まで掘り切っているのに対して、詳細地形図を見ると西側の空堀南端は途中で西に向かって折れている様である。土塁の南東端の上には、「戸田喜八郎信光之碑」と刻まれた石碑が立っている。
スーパー地形で見た奥平館↓
Screenshot_奥平館.superdem.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.171430/137.545262/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編 - 宮坂武男
信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編 - 宮坂武男
ラベル:居館
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2025年07月01日

湯谷城(愛知県設楽町)

DSCN6080.JPG←空堀先端部の二重空堀
 湯谷城は、歴史不詳の城である。名倉奥平氏の居城寺脇城から1.5kmしか離れていないので、名倉奥平氏の支城であった可能性がある。

 湯谷城は、名倉川西方の丘陵中腹に築かれている。主郭の一部は墓地となっていて、そこまで通じる車道があるので訪城は容易である。城のある丘陵の麓には寺屋敷川が流れていて、天然の外堀となっている。城跡は、前述の通り墓地や車道建設で改変を受けているが、それ以外の部分は遺構がよく残っている。主郭は扇形をした曲輪で、東に向かって傾斜しており、北から西にかけて1/4円弧状の土塁・空堀が構築されている。空堀の東端は幅が広くなり、中央に土塁を築いて二重空堀の形状としている。その先は車道建設で削られてしまっている。またこの二重空堀の内側は、主郭北辺の堀となっている。もしかしたら大手虎口とそれに続く城道の跡だったのかもしれないが、これも車道建設で先端部が削られているので、勝手に想像することしかできない。墓地の東の山林内にも三角形の平場があり、これも曲輪であったと思われる。以上が湯谷城の遺構で、主郭外周を廻る空堀・土塁だけが城跡らしさを残している。
主郭土塁と空堀→DSCN6101.JPG
↓スーパー地形で見た湯谷城
Screenshot_湯谷城.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.155249/137.531619/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世崖端城
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2025年06月29日

鍬塚城(愛知県設楽町)

DSCN6002.JPG←大手郭上方の小郭と石積み跡
 鍬塚城は、名倉奥平氏の支城である。城主は戸田加賀守と伝えられるが、これは名倉奥平氏2代奥平信光の異称で、要は寺脇城主名倉奥平氏の持ち城であったと言うことであろう。信光は武田信玄の没後に徳川氏に服属し、1575年の長篠合戦でも鳶ヶ巣山砦の奇襲隊に参加しており、1581年には織田信長の命により三信国境の城を固守するよう命じられている。『信濃をめぐる境目の山城と館』では、鍬塚城はこの頃に修築を受けた可能性が高いと推測している。

 鍬塚城は、集落から離れて奥まった、標高795mの城山に築かれている。北・東・南の三方を急崖で囲まれ、西の尾根筋だけが唯一の接近ルートであるという要害の地にある。北西の大野山方面から林道があり、更に山中に入り、斜面をトラバースする小道を抜けると尾根に至り、そこから尾根道を辿る道がある。最初の林道は荒れていて、普通の車では通行は難しいので、林道に入ってすぐに曲輪を脇に止めて、歩いて訪城した。山中に入る登り口からでも遠い城だが、登り口や尾根道入口など要所に城への案内杭が立っているので安心である。大手に当たる西尾根から接近すると、両側方を竪堀で穿っており、その先に大手郭と思われる平場がある。その上に2段の小郭があって、大手の防衛をしている。上の小郭の切岸にはわずかな石積みが残っている。その上に長円形の主郭が築かれている。主郭は北から西にかけて土塁が廻らされ、南と東に虎口が開かれている。主郭の南には南1郭・南2郭の2段の段曲輪、北には2段の小郭の下に北郭が築かれている。大きさと構造から見て、この北郭が実質的な二ノ郭と見て間違いない。北郭の西辺にも土塁が築かれており、このため北郭から主郭西側に伸びる帯曲輪は横堀に近い形状となっている。主郭・北郭の土塁上や段曲輪の切岸には、石が散乱しており、石積み跡であった可能性がある。以上が鍬塚城の遺構で、小規模な城だが防御思想が明確に読み取れ、東方への監視と防衛を担い、少人数で守りを固められる城だったと思われる。
北郭→DSCN6050.JPG
↓スーパー地形で見た鍬塚城
Screenshot_鍬塚城.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.135370/137.573777/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世山城
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