中沢楯(中沢館)は、阿曽沼氏の家臣中沢外記の城であったとの説があるが詳細は不明である。
中沢楯は、標高490m、比高90m程の山上に築かれている。南西麓に牛舎があり、その脇から奥に通じる林道があり、獣除けの柵を開けて入る。柵を入ってすぐ左手斜面に竪堀のような地形が見えるが、実はこれが城の最西端の空堀の遺構で、主城部から谷地形を一つ挟んで西の外れに構築された、外郭線を為す二重横堀の南端に当たる。この二重横堀は、下段の堀は谷地形に向かって落ちた所で浅くなって消失しているが、上段の堀は下方で東側に折れて、尾根を掘り切って落ちている。主城部の前面にも長い横堀が1本穿たれ、南斜面を降って前述の林道脇まで竪堀となって落ちている。この竪堀から東側に横堀が分岐して、山麓に対する前衛線を構築している。横堀の上方には腰曲輪群が数段築かれ、その上に二ノ郭、主郭が築かれている。二ノ郭には神社が建っている。主郭は3段の平場に分かれているが、いずれも小規模で大した居住性を有していない。主郭最上段の曲輪の後部には土塁が築かれ、背後に小郭を築き、後ろの尾根に二重堀切を穿って分断している。二重堀切の内堀からは大きな竪堀が両側に落ち、西側の竪堀からは左右に横堀が伸び、主郭下の横堀は先端がL字に折れて竪堀となって落ちている。背後の尾根側に伸びた横堀はそのまま帯曲輪となっている。二重堀切の外堀は、東側にだけ竪堀が落ちている。二重堀切の後ろには細尾根上の小曲輪があり、その西には帯曲輪、東には横堀が構築されている。小曲輪の先にもう1本、小堀切が穿たれ、ここからも東側に竪堀が長く落ちている。城域は基本的にはここまでだが、尾根東側の横堀は堀切を越えて伸びており、搦手の城道となっていたようである。背後の防衛線は以上だが、前面の防衛線として、二ノ郭南東に伸びる支尾根に舌状の三ノ郭が築かれている。三ノ郭の外周には帯曲輪が築かれ、東側のものからは竪堀が2本落ちている。三ノ郭の先にも小郭群が築かれ、西斜面に2本の竪堀、更に南下方に2段の小郭と竪堀、その東側に小堀切と土塁が築かれている。この他、主郭南東に張り出した腰曲輪の下に、短い二重横堀が穿たれ、南側の竪堀に繋がって落ちている。以上が中沢楯の遺構で、花楯よりも曲輪が小さく、詰城的な構築であるが、堀切群・竪堀群は中規模でしっかりしており、竪堀横に横堀を派生させるなどの技巧性もある。遠野地域の山城は、背後の尾根に穿った多重堀切から落ちる竪堀を多重横堀に変化させて、城域外周の防御線とする特徴があるが、中沢楯の構造は花楯と共にこれらとは異なった様相を示している。
主上部前面の長い横堀→
三ノ郭の切岸→
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.305858/141.602030/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
ラベル:中世山城