2025年03月18日

中沢楯(岩手県遠野市)

DSCN1620.JPG←二重堀切から落ちる竪堀
 中沢楯(中沢館)は、阿曽沼氏の家臣中沢外記の城であったとの説があるが詳細は不明である。

 中沢楯は、標高490m、比高90m程の山上に築かれている。南西麓に牛舎があり、その脇から奥に通じる林道があり、獣除けの柵を開けて入る。柵を入ってすぐ左手斜面に竪堀のような地形が見えるが、実はこれが城の最西端の空堀の遺構で、主城部から谷地形を一つ挟んで西の外れに構築された、外郭線を為す二重横堀の南端に当たる。この二重横堀は、下段の堀は谷地形に向かって落ちた所で浅くなって消失しているが、上段の堀は下方で東側に折れて、尾根を掘り切って落ちている。主城部の前面にも長い横堀が1本穿たれ、南斜面を降って前述の林道脇まで竪堀となって落ちている。この竪堀から東側に横堀が分岐して、山麓に対する前衛線を構築している。横堀の上方には腰曲輪群が数段築かれ、その上に二ノ郭、主郭が築かれている。二ノ郭には神社が建っている。主郭は3段の平場に分かれているが、いずれも小規模で大した居住性を有していない。主郭最上段の曲輪の後部には土塁が築かれ、背後に小郭を築き、後ろの尾根に二重堀切を穿って分断している。二重堀切の内堀からは大きな竪堀が両側に落ち、西側の竪堀からは左右に横堀が伸び、主郭下の横堀は先端がL字に折れて竪堀となって落ちている。背後の尾根側に伸びた横堀はそのまま帯曲輪となっている。二重堀切の外堀は、東側にだけ竪堀が落ちている。二重堀切の後ろには細尾根上の小曲輪があり、その西には帯曲輪、東には横堀が構築されている。小曲輪の先にもう1本、小堀切が穿たれ、ここからも東側に竪堀が長く落ちている。城域は基本的にはここまでだが、尾根東側の横堀は堀切を越えて伸びており、搦手の城道となっていたようである。背後の防衛線は以上だが、前面の防衛線として、二ノ郭南東に伸びる支尾根に舌状の三ノ郭が築かれている。三ノ郭の外周には帯曲輪が築かれ、東側のものからは竪堀が2本落ちている。三ノ郭の先にも小郭群が築かれ、西斜面に2本の竪堀、更に南下方に2段の小郭と竪堀、その東側に小堀切と土塁が築かれている。この他、主郭南東に張り出した腰曲輪の下に、短い二重横堀が穿たれ、南側の竪堀に繋がって落ちている。以上が中沢楯の遺構で、花楯よりも曲輪が小さく、詰城的な構築であるが、堀切群・竪堀群は中規模でしっかりしており、竪堀横に横堀を派生させるなどの技巧性もある。遠野地域の山城は、背後の尾根に穿った多重堀切から落ちる竪堀を多重横堀に変化させて、城域外周の防御線とする特徴があるが、中沢楯の構造は花楯と共にこれらとは異なった様相を示している。
主上部前面の長い横堀→DSCN1728.JPG
DSCN1526.JPG←主郭の平場群
三ノ郭の切岸→DSCN1665.JPG
DSCN1628.JPG←南東部の短い二重横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.305858/141.602030/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
ラベル:中世山城
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2025年03月11日

三関城(岩手県一関市)

DSCN1350.JPG←主郭
 三関城は、現地標柱では白崎城と書かれ、歴史不詳の城である。城主についても、千葉内膳・千葉五郎三郎・二ノ関平蔵などの名が伝わるが、事績は不明である。

 三関城は、比高50m程の山上に築かれている。西の曲輪(二ノ郭)に白山神社が建っており、神社参道が西麓から整備されているので、訪城はたやすい。中心に主郭を置き、主郭から北・西・南に伸びる三方の尾根に曲輪群を配した縄張りとなっている。主郭は最も広い曲輪で、現在は果樹園となっている。土塁はないが、しっかり削平され、東西に腰曲輪が付随している。主郭の北には、舌状曲輪があり、その先に堀切が穿たれ、更に北1郭・北2郭の2つの曲輪が置かれているが、この尾根だけは未整備の薮に覆われている。主郭の西には、鞍部に構築された三ノ郭があり、その先に堀切を挟んで二ノ郭が高台となってそびえている。二ノ郭の周囲には数段の腰曲輪が築かれ、前述の参道沿いにも数段の平場が確認できる。主郭の南には段差で区画された不定形の南郭があり、その先に堀切を穿って背後の尾根を遮断している。背後の尾根にも古道が通じており、その脇に土塁が築かれているので、搦手が整備されていたようである。この他、三ノ郭の北側下方にも2段の腰曲輪が構築されている。以上が三関城の遺構で、堀切が効果的に配置されている。北尾根以外は薮払いされているので、整然とした姿を留めている。
三ノ郭堀切と二ノ郭切岸→DSCN1342.JPG
DSCN1384.JPG←北尾根の堀切
南尾根の堀切→DSCN1414.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.925065/141.153078/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田 - 飯村 均, 室野 秀文
ラベル:中世山城
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2025年03月09日

根城館(岩手県一関市)

DSCN1254.JPG←南の高台となった出丸
 根城館は、歴史不詳の城である。伝承では、及川遠江守の居城で、後の天正年間(1573~92年)には千葉安房が城主であったと言うが、いずれの城主の事績もよくわからない。

 根城館は、砂鉄川沿いの比高40m程の丘陵上にある。国道343号線の舘下トンネルの真上の山である。登道が見つからなかったので、南西の車道脇から薮を突っ切って斜面を直登した。大型で長い主郭の周りに、腰曲輪状に二ノ郭を廻らし、更に西と東の尾根に西郭・東郭を突き出させた縄張りとなっている。主郭は高さ5m程の切岸で囲まれ、南辺に低土塁を築き、西辺中央に虎口らしい箇所がある。主郭内には古びた神社社殿がぽつんと建っている。二ノ郭は、主郭を全周しており、南に向かって突き出た部分があり、ここに方形の高台になった出丸がある。櫓台とする見解もあるようだが、櫓台ほどの規模ではない。二ノ郭から北東に東郭が張り出し、その先端は堀切で尾根を分断しているが、堀切は薮ひどく切岸だけしか確認できない。また二ノ郭の北角部分は側方に物見台らしい土壇を築いた下りのスロープとなっていて、登城口になっていたようである。西郭は二ノ郭と切岸で区画され、北西に向かって細長く舌状に突き出ている。また西郭の西斜面には帯曲輪が1段築かれている。以上が根城館の遺構で、一部薮がひどい部分もあるが、比較的遺構の確認がしやすい。
主郭切岸→DSCN1235.JPG
DSCN1205.JPG←スロープ脇の物見台らしい土壇

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.015403/141.361829/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世平山城
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2025年03月07日

新山城(岩手県一関市)

DSCN1001.JPG←主郭東側の空堀
 新山城は、烏崎楯(烏崎館)とも言い、奥州千葉氏の一流、大原亀卦川氏の居城である。1192年の築城と言われる。亀卦川氏には、米谷城主米谷亀卦川氏と新山城主大原亀卦川氏の2流があったらしいが、詳細は不明。1550年、新山城主亀卦川師兼の嫡男師秀・師重兄弟は弓術に長け、長坂城(唐梅楯)主千葉石見守・母躰の千葉伊賀守と大弓のことで口論となり、これを恨んだ長坂・母躰両千葉氏は師秀・師重兄弟のことを葛西氏に讒言し、葛西高信(のちの晴胤)によって誅殺されたと伝えられる。兄弟の父師兼は長坂・母躰両千葉氏を仇敵とし、合戦して両者を誅滅したが、葛西高信より私闘として咎められ、居城新山城を攻められて落城し、大原新山亀卦川氏は一旦断絶したと言われる。新山城は、師兼の舅で葛西氏家老であった大原城主大原飛騨守信茂に与えられた。大原亀卦川氏の家督は、先に師兼によって廃嫡にされた信秀が大原氏の後押しで継承し、大原氏より新山城を与えられて亀卦川氏を再興した。1559年、東山の及川一族が主家葛西氏に反抗して武力蜂起した及川騒動(柏木合戦)が鎮定された後、新山城主亀卦川師康は及川美濃頼家の長子を匿って密かに養育したという理由で、葛西氏に討伐された。その後、大原亀卦川氏は三郎左衛門信秀が再興し、大原氏の家臣となったが、1590年の葛西大崎一揆の際に大原飛騨守胤重(重光?)に従って出陣し、翌91年に桃生郡深谷で大原氏と共に謀殺されたと伝えられる。

 新山城は、大原城の東方約1.2kmの位置にあり、比高50m程の丘陵上に築かれている。西麓に大原八幡神社があり、その裏が城跡である。神社脇を東に登っていく山道があり、これを登っていくと主郭と三ノ郭の間の堀切に通じている。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』では南北2郭の城としているが、『日本城郭大系』では「東西に3つの郭が連なり、更に西側に腰郭をめぐらした一郭が付随する」としており、記述が大きく異なっている。結果的には大系の方が正しく、調査報告書の縄張図よりはるか東まで城域とした、巨大山城である。ここでは西から順に、三ノ郭・主郭・二ノ郭・四ノ郭と呼称する。神社社殿のすぐ裏に大きなL字型の空堀があり、その上にそびえているのが城域西端にある三ノ郭である。三ノ郭は、北から西面にかけて腰曲輪を廻らし、西辺に土塁を築いた南北に長い長方形の曲輪で、4郭の中では最も小さい曲輪だが、この三ノ郭だけでも普通の山城の主郭に相当する規模がある。三ノ郭の東には堀切を挟んで主郭が置かれている。主郭は、西の堀切に向かって虎口を築き、卵型をした広い曲輪である。主郭は薮がひどく、内部の確認が容易ではないが、北辺に低土塁が築かれている。主郭の東から北側には幅広の空堀が穿たれている。この空堀の外側に広がっているのが二ノ郭である。二ノ郭は、東側中央部に一段高い方形の平場が配置され、西北西に向かって曲輪が伸びている。二ノ郭も主郭同様に、東から北側には空堀が穿たれている。ただこの空堀は一部埋もれている。また湧水で湿っており、水堀であった可能性がある。二ノ郭の北辺には、この空堀に沿って土塁が築かれているが、近代に耕地化されていた関係で一部土塁が消滅していて、往時の形状が正確にはわからなくなっている。二ノ郭の東にあるのが四ノ郭で、内部に起伏のある曲輪で、東端に堀切を穿って尾根筋を分断している。四ノ郭の北面は、ややはっきりしない切岸だけで区画されている。これらの他、二ノ郭の北側にも、緩斜面の平場が北西に向かって広がっており、その先端部の下方に、もう一つの神社の社殿が山林の中に建っている。以上が新山城の遺構で、かなり大型の山城である。なぜ巨大山城大原城の近くにもう一つ巨城を築いたのか、その意図がよくわからないのが正直なところである。
 尚、城の南の車道脇の山林内に、新山城主の墓が残っている。
神社裏の三ノ郭外周の空堀→DSCN0944.JPG
DSCN0982.JPG←主郭虎口
二ノ郭東側の空堀→DSCN1054.JPG
DSCN1130.JPG←三ノ郭東側の堀切
新山城主の墓→DSCN0936.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.016380/141.408711/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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2025年03月01日

曽慶新館(岩手県一関市)

DSCN0788.JPG←大手口の枡形虎口の土塁
 曽慶新館は、新城館・西館などとも呼ばれる。手元に文献がないため歴史がわからないが、曽慶館のすぐ隣りにあるので曽慶館主岩渕氏が新たに築いた城ではないかと推測している。尚、本来は単に「新館」と呼ばれるが、それではどこにでもある名称で、どこの新館だかさっぱりわからないので、ここでは曽慶新館と表記する。

 曽慶新館は、前述の通り曽慶館から車道を挟んで直ぐ西に隣接する丘陵上に築かれている。北に緩やかな傾斜の尾根が伸びており、ここから登城したが、どうもこれが大手であったらしい。北尾根には幅広い竪堀状になった大きな登城路があり、大手道があったと思われる。それを辿っていくと上に枡形虎口があり、その少し先には堀切も穿たれている。堀切の先には、腰曲輪で囲まれた主郭がある。主郭は、曽慶館の主郭より広く、南側中央部が内側に窪んだ形状をしており、南東と南西に塁線が張り出している。主郭の南側中央部は急峻な斜面となっているが、それ以外の部分には前述の通り腰曲輪が取り巻いている。南東と南西には更に段曲輪群が築かれている。南西の曲輪群にも枡形に屈曲した通路が見られ、途中の段曲輪には西辺に坂土橋となった土塁も築かれている。この他、西尾根にも曲輪群があるが、なぜかこの曲輪群の北面だけは切岸が構築されず、ダラダラした斜面となっている。築城途中であろうか?以上が曽慶新館の遺構で、枡形虎口の形成や大手道の構築など、曽慶館より設計も新しく、主郭も大きいことから、岩渕氏が戦国末期に新たな居城として構築したものかもしれない。
西の腰曲輪と主郭切岸→DSCN0902.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.991861/141.378857/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:中世平山城
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2025年02月27日

曽慶館(岩手県一関市)

DSCN0645.JPG←南1本目の堀切
 曽慶館は、中館とも言い、葛西氏の家臣曽慶岩渕氏の歴代の居城である。曽慶岩渕氏の出自には諸説あり、葛西清重の次男清成が1189年の奥州合戦の軍功により、源頼朝から曽慶郷を拝領し、母方の姓を称して岩渕氏を称したとも、或いは藤沢城主岩渕忠経の次男長門守忠春が分封されたとも言われる。いずれにしても、入部後に曽慶館を築いて居城とした。1568年4月、曽慶新蔵人信時は、東山の下折壁城主千葉遠江守茂成と争ったが、近隣諸楯主に仲裁された。曽慶岩渕氏は大原城主大原千葉氏の家臣格で、最後の城主岩淵兵庫守元秀は1590年の葛西大崎一揆に参陣し、翌91年の桃生郡深谷の役で自刃したと伝えられる。後裔は曽慶氏を名乗って仙台藩士となったと言う。

 曽慶館は、南西に向かって突き出た半島状の丘陵に築かれている。全域薮に覆われ、主郭・二ノ郭は竹林となっているが、歩けないほどの薮ではない。登道が見つからなかったので、西側の車道脇から斜面を直登した。頂部に広い主郭を置き、その南に舌状の腰曲輪を築き、その南から主郭南東にかけて二ノ郭がある。更に主郭の東側には幅広の東郭が置かれている。そして、二ノ郭前面から西側を通り、主郭の西まで伸びる腰曲輪を配置している。また東郭の周囲にも帯曲輪を廻らしている。これが城の基本的な構造となる。主郭は中央がくびれた形をしており、これを境に前後2郭に分かれている。前郭の方が広くやや高い位置にあり、後郭は三角形に近い形状で後部に土塁を築いている。土塁の背後には堀切があったと想像されるが、現在は耕地化で切り開かれてしまっており、実際どうだったのかははっきりしない。主郭中央のくびれ部分は左右ともに下の腰曲輪・東郭に通じる虎口を形成していたようである。この虎口は、東は薮がひどくて形状が追えないが、西は1段の小郭を経由して腰曲輪に繋がっている。また主郭の内、前郭の前面には虎口があって舌状腰曲輪に通じ、更に舌状腰曲輪の左側方に虎口があって、下の二ノ郭に繋がっている。二ノ郭の前面にも虎口があり、その手前の腰曲輪の南側には堀切が穿たれ、中央に土橋が架かっている。この堀切の南にも平場があり、その先にもう1本堀切が穿たれている。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』によれば、南の堀切群は全部で3本と書かれているが、現認できたのは2本だけで、その南にももう1本あったかもしれないが、薮が酷かったので踏査しなかった。この他、東郭の南西部に枡形虎口らしい地形があったが、この辺も竹薮がひどくて遺構があまりはっきりとはわからなかった。以上が曽慶館の遺構で、薮で少々わかりにくいのが残念である。
二ノ郭虎口→DSCN0663.JPG
DSCN0708.JPG←主郭の内の後郭
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.992141/141.382044/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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2025年02月25日

中釘陣屋(埼玉県さいたま市)

DSCN0498.JPG←陣屋付近の現況
 中釘陣屋は、指扇領主であった旗本山内氏が築いた陣屋である。初代豊前守一唯は、土佐藩初代藩主山内一豊の甥で、兄の忠義は1605年に一豊の跡を継いで土佐藩主となった。即ち一唯の家系は、土佐藩主の実弟の家系ということになる。大阪冬の陣の際、兄忠義が江戸から出陣したため、一唯は土佐藩士を率いて将軍徳川秀忠の麾下に属した。1616年に幕臣となり、以後は将軍の上洛や日光社参にしばしば供奉した。そして1623年に将軍秀忠から指扇領18ヶ村3,000石を拝領し、中釘に陣屋を構えた。以後、一輝、一俊、豊房と4代67年間にわたって続いたが、豊房が土佐藩山内宗家の豊昌の養子となったため、その采地は上知となった。

 中釘陣屋は、往時は低湿地に半島状に突き出た台地上にあったらしい。しかし現在は耕地化で周辺一帯は改変され、遺構も全く無くなっている。陣屋があった付近には2軒の民家があるが、『日本城郭大系』によれば、「陣屋」「堀の内」の屋号が残っているという。従って、2軒とも陣屋跡地の中にあるのだろう。遺構は全く無いが、北東にある妙玖寺には山内一唯一族の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.930889/139.563133/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:陣屋
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2025年02月23日

川崎平右衛門陣屋(埼玉県鶴ヶ島市)

DSCN0316.JPG←陣屋跡に立つ川嵜大明神
 川崎平右衛門定孝は、この地域の新田開発に功績を挙げた人物で、その際に拠点として陣屋を設けた。平右衛門は、元々1694年に武蔵国多摩郡押立村の名主の家に生まれたが、各種振興事業や窮民救済を行った篤農家として知られ、武蔵野の新田開発に抜擢されて新田世話役となり、後には代官に取り立てられた。当時は、8代將軍徳川吉宗の号令で新田開発が進められたが、武士の指導による開発では農民の実情に合わなかったため、入植者の困窮が甚だしく、無惨な結果となった。そこで、農民出身の平右衛門を南北武蔵野新田世話役に登用し、新田開発事業を推進させた。平右衛門と農民の努力の結果、多摩郡・高麗郡・入間郡・新座郡にわたって約500ヘクタールの新田が開墾され、1743年に平右衛門は代官に任ぜられた。この後、平右衛門は美濃国に任地替えとなって河川工事等を行い、更に石見国銀山奉行を歴任し、1767年には幕府の要職・勘定吟味役兼諸国銀山奉行にまで登ったが、同年6月に74歳で没したと言う。

 川崎平右衛門陣屋は、日光街道となっている市道近くの平地にあった。現在は一面の空き地で、解説板が立つほか、空き地の真ん中に「川嵜大明神」という農民が平右衛門の遺徳を偲んで建てた小祠が立っている。土塁らしいものも見られるが、解説板によれば遺構ではなく、開墾による破壊後に新たに作られたものらしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.934211/139.387504/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:陣屋
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2025年02月21日

中山陣屋(埼玉県川島町)

DSCN0302.JPG←陣屋跡の現況
 中山陣屋は、川越藩主であった秋元但馬守凉朝が1767年に出羽山形藩に転封された際に、川島領5千石を統治するために造営した陣屋である。秋元氏は、戦国時代には深谷上杉氏の宿老であったが、後には小田原北条氏の家臣となった。その事跡は秋元氏館の項に記す。1590年に北条氏が滅びると浪人となったが、後に井伊直政の推挙により徳川家康に仕えた。以後は上野総社藩→甲斐谷村藩→武蔵川越藩と加増転封を重ね、凉朝に至っては度々幕府老中を務める重臣となった。中山陣屋は、1841年に川島領が川越藩主松平大和守の封地となると廃された。

 中山陣屋は、現在の中山小学校の校地にあった。現在は中山営址碑と刻まれた大きな石碑が立っているだけで、遺構は全く残っていない。戦後まもなくの昭和20年代前半の航空写真を見ても、既に学校が建っているので、早くに遺構が失われてしまったのだろう。残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.990317/139.447922/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:陣屋
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2025年02月19日

松山陣屋(埼玉県東松山市)

DSCN0278.JPG←陣屋跡の石碑
 松山陣屋は、前橋藩主松平大和守直克によって江戸最末期の1867年2月に完成した陣屋である。これより先、前橋藩の居城であった前橋城は利根川の度重なる氾濫によって破壊が進んだため、1767年松平朝矩の時に川越城に本拠を移し、前橋は川越藩の分領とされた。それから約100年後、領民が藩主の前橋帰還を願い出たため、藩主松平直克は、前橋城の再建と帰城を幕府に願い出て許され、前橋城は1863年に着工され、3年8ヵ月後の1867年に完成し、前橋藩が再立藩した。藩主が前橋に戻ると、武蔵国には比企郡を中心に約6万2千石の領地が飛び地として残ったため、これを管理するために1867年に松山陣屋が造営された。国内有数の規模を持つ陣屋であったが、1871年(明治4年)の廃藩置県により、わずか4年でその役目を終えた。

 松山陣屋は、幕末の動乱期に築かれたため堀と土塁に囲まれた堅牢な構えであったらしいが、現在は東松山市役所や松山第一小学校などの敷地に変貌し、遺構は全く残っていない。しかし昭和後期になって松山陣屋研究会の調査によって陣屋の縄張りや構造が解明された。現在は市役所敷地の東端に陣屋跡の石碑と解説板が立つほか、そこから南西の八幡神社前に松山陣屋鉄砲場跡の石碑が立っている。往時の面影は微塵もないが、研究会の成果によって石碑が立っているだけでも素晴らしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.042086/139.400387/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ラベル:陣屋
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