広島城は、豊臣大名毛利輝元が新造した近世城郭である。西国の雄毛利氏は安芸郡山城を居城としていたが、豊臣秀吉の聚楽第や大坂城を見物した輝元は、城下町と一体化して政治・経済の中心として機能する城の必要性を痛感し、瀬戸内海に面する太田川河口の三角州に新城を建設した。叔父の穂田元清・側近の二宮就辰を普請奉行として1589年4月15日に鍬入れ式を行い、翌90年末には一応の完成を見て91年に輝元は入城を果たした。しかしその後も城の整備は続けられた。また秀吉の朝鮮戦役においては、広島城下は兵員・物資の中継地として重要な役割を果たした。1600年、関ヶ原合戦で徳川家康率いる東軍に敗北した西軍主将の輝元は、大減封されて萩に追われ、代わって福島正則が芸備2ヶ国40万石の領主として広島城に入った。正則は外堀や外郭を整備して広島城を完成させ、更に城下町の拡充を図った。1516年、豊臣恩顧の外様の雄藩であった正則は、1619年に城の石垣の無断修理を理由に改易され、代わって紀州藩主浅野長晟が42万国に加増されて芸備の大名として入城した。以後、幕末まで浅野家の歴代の居城として続いた。
広島城は、前述の通り河口のデルタ地帯の中洲に築かれた平城である。今年の3月をもって老朽化と耐震性の問題で天守が閉鎖されるというので、その前に訪城した。中心に長方形の本丸を置き、その南に実質的な馬出しである二ノ丸、そして本丸の北以外の三方を囲むように三ノ丸が置かれ、更に南に大手郭が、東・北・西に外郭が配置された広大な城であった。しかし現在残っているのは本丸・二ノ丸だけで、それ以外は市街化で遺構は残っていない。三重の水堀も、内堀以外は姿を消している。また広島に原爆が投下された際、残っていた天守などの建築物は吹き飛んだか、消失して灰燼に帰しており、現在の天守や二ノ丸の櫓などは全て復元されたものである。ただ、本丸と二ノ丸の石垣は往時のまま残っていて、中心部は総石垣の城であった。本丸内は2段の平場に分かれていて、上段平場の周囲にも石垣が築かれている。この内、上段平場の北側の石垣は途中で石垣が途切れているが、これは福島正則が幕府から無断修築を咎められてその部分の石垣の取り壊しを命じられた際に、指示されたのとは別の場所の石垣を壊した跡なのだとされる。本丸・二ノ丸以外については、街中の各所に標柱や解説板が立っているが、すべての門跡が明示されているわけではなく、一部に留まっている。以上が広島城の遺構で、他の近世城郭のように中堀・外堀が水路として部分的にでも残っていれば、より城の壮大さがわかりやすかったのにと惜しまれる。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.401620/132.459603/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

萩藩閥閲録の世界-戦国期毛利氏の実像- - 布引 敏雄
ラベル:近世平城
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